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京都府について

京都府の人口は、2010年の総務省統計局の国勢調査によると、2,636,704人であり、13番目に人口が多い都道府県です。
総務省統計局の国勢調査によると、2005年までは人口が増え続けていましたが、2010年には減少しています。
京都府には、政令指定都市である京都市があります。
京都市の人口は140万人以上おり、府内の半分以上が集中しております。
このように、府庁所在地に過半数が集中しているところは、東京23区を除いて、他にはありません。

京都府は観光地としても有名な土地です。
観光名所とされる場所そのものは京都市に多く存在していますが、天橋立や平等院など、京都市外にも数多くの有名な観光地があります。
そんな京都府ではありますが、京都市内に目をやると有名なものから無名なものまで、非常に多くの寺社仏閣があります。
清水寺や金閣寺などは定番の観光名所といえるでしょう。
そのほか、南禅寺のように寺社でありながらその敷地内に琵琶湖疏水が走っているなど、歴史ある施設に現代文明の加工があるケースもあり、非常に趣のある観光地となっています。

京都の方言というと京言葉(京都弁)が知られているが、京言葉と呼ばれる方言が話されるのは京都市とその周辺であり、それ以外の地域では京言葉とは異なる方言が話されている。また、京言葉と言っても、地域や社会階層・年齢層によって違いがある。

旧山城国の方言は京都市内の方言とあまり違いがなく、旧丹波国のうち亀岡市などの南丹(口丹波)地方も京都市内と大きく変わらない。しかし、福知山市・綾部市から舞鶴市にかけての中丹地方では、京阪式アクセントではなく垂井式アクセントであり、「はる」敬語よりも「てや」敬語を用いるなど、京都市内と異なる点が多くなる(丹波方言参照)。

舞鶴市以外の旧丹後国の方言(丹後弁)は、東京式アクセントであり、断定の助動詞に「や」ではなく「だ」を使用するなど、舞鶴市以南と大きな違いがある。舞鶴市以南の諸方言は近畿方言(いわゆる関西弁)に分類されるのに対し、丹後弁は兵庫県但馬地方や鳥取県などと同じ中国方言東山陰方言に分類される。

また、京都府には寺社仏閣だけでなく、歴史にまつわる土地や建物があったりもします。
その好例がいわゆる幕末に関連した場所でしょう。
池田屋事件の舞台となった池田屋には小さな石碑が建てられており、跡地には現在は居酒屋があります。
また、新撰組の壬生屯所があった場所にも石碑が建てられています。
このようなちょっとした歴史縁のものを探すのもひとつの楽しみ方といえるでしょう。
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画家について

・池大雅
享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれる。父を早くに亡くし経済的に苦しい中、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。

柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。

川端康成の蒐集品として著名な「十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜(便利さ、よろしさ)を画題に大雅と蕪村が共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。小品ながら、文人の理想とする俗塵を離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめな色彩で活写している。

大雅は董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に従ったためか、旅と登山を好んだ。ある日京都の庵で仲間と富士山の話をしていて盛り上がり、「ならば登ろうではないか」と、いきなり旅支度を始め、富士山に行き旅巡りをして一か月以上して帰って来た。人々はこれを雅談だと讃えた、というエピソードが残っている。こうした旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされる事になった。

・伊藤若冲
1716年(正徳6年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常あるいは月海元照(売茶翁)から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若沖(沖は「虚しい、空っぽ」の意、冲は沖の俗字)」から採られた。意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る。ただし、この逸話は後述する錦市場に起こった事件と共通する記述が多いことから、事件を元に後世に作り変えられた話だと考えられる。

齢40となった1755年(宝暦5年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。1758年(宝暦8年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌59年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、1764年(明和元年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。(1765年(明和2年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。

隠居後の若冲は、作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説であった。ところが、1771年(明和8年)、枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っており、更に錦高倉市場の危機に際して市場再開に奔走していた事が分かった。

事の発端は、1771年(明和8年)12月、京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来たことに始まる。奉行所に赴くと(若冲は同町の者に代役させている)、奉行所から市場の営業を認められた時期や、「棒銭」の使い道、百姓たちの商売許可の有無、などを返答するよう命じられる。早速書類を作成し提出したが、免許状は1755年(宝暦5年)の大火で焼失してしまっては証拠にならないとして、翌72年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される。若冲は奉行所と交渉を続けるなか、商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知る。そんな折、五条問屋町の明石家半次郎なる人物から「錦市場は五条から役人達に残らず根回しされているから、再開は無理だろう。それでは余りに気の毒だから、帯屋町だけは五条から借り請ける形で営業するなら、私が世話をしよう」と持ちかけられる。明らかな抱き込み工作だが、若冲は帯屋町だけが市立てするような行為は他町に対して不実の至りである、という理由で拒否する。その後の交渉で、2月末に冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開されるものの、五条問屋町が冥加金銀30枚を上納する代わりに錦高倉市場を差し止めて欲しいと請願したことを受けて、7月に再び営業停止になってしまう。東町奉行所に内意を尋ねると、帯屋町一町だけなら許可されるかもしれないと、先の明石屋と同じ内容だった。

しかし、若冲はあくまで四町での錦市場存続を模索する。そんな折、病気を患った若冲が医名の高い原洲菴という人物に薬を買いに行った時、「このまま市場を止められたままでは、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の人々が難儀する」等と胸の内を打ち明けると、江戸勘定所の役人・中井清太郎に知恵を仰ぐのを薦められる。諸方に内々に承合うと確かに適任らしいという感触を掴んだため、中井に仲介を依頼する。中井の打開策は、市場に関わる農民たちに市場が営業停止になると年貢が納められず、生活も苦しくなると御上に訴えさせる、そして御蔵がある壬生村に出訴するようまず説得したら良い、というものだった。若冲はその助言通りに壬生村の庄屋に趣旨を話すと、庄屋も五条では商売が難しいからと賛成する一方、壬生村は100石ほどの小村だからもっと大きな村からも出訴すれば効果があるのではないか、と助言した。中井もこの意見に賛成したため、若冲は更に中堂寺や西九条村にも掛け合って市場存続の嘆願運動を起こさせた。しかし事態は好転せず、同8月若冲は町年寄を辞任する。これは、いざという時は農民に天領の住人が含まれているのを口実に幕府評定所への出願も覚悟し、町全体まで連座しないように「ヒラ」の町人になって活動するためだった。その後も周辺の村々に参加を呼びかけ、京都町奉行所や近隣の天領を支配する小堀数馬役所らと交渉を重ねる。途中四町の中でも、若冲の帯屋町と弟が町年寄を勤める中魚屋町の2町と、貝屋町・西魚屋町の間では、農民の売立が占める割合が前者に比べ後者では大きくなかったらしく市場再開への対応に微妙な違いがあり、内外とも調整に難儀する一幕もあった。最終的に1774年(安永3年)に、銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認された。こうした事情のためか、確実にこの時期に描かれたことが解る作品は殆ど無い。

1788年(天明8年)の天明の大火で、自宅を焼失する。大火で窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけ、相国寺との永代供養の契約を解除する。晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁、義妹(末弟宗寂の妻)心寂と暮らした[13]。そのため若冲の墓は、上京相国寺の生前墓の寿蔵と、石峯寺の2箇所にある。若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの作品を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢。cf.)や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に土葬された。のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。

・入江波光
本名幾治郎。京都市上京区に生まれる。1913年(大正2年)京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校研究科で竹内栖鳳らに師事し修了。1915年(大正4年)同窓生であった岡本神草、甲斐荘楠音や玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」の結成に参加。 1918年(大正7年)母校絵画専門学校の助教授に就任し古画の模写にあたる。この年国画創作協会展に『降魔』を出品して国画賞を受賞、翌年同人に推された。1922年に京都府の命で菊池契月らとともに外遊。1928年(昭和3年)国画創作協会日本画部解散後は画壇を離れ、後進の育成と再び模写に打ち込んだ。晩年は盛んに古画を模写し、1939年(昭和14年)以降は法隆寺金堂壁画の模写に従事した。晩年は水墨画で佳作を残している。 胃癌のため死去。

・尾形乾山
京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。6歳年上の兄は尾形光琳である。貞享4年(1687年)、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)、50歳のとき、京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。享保16年(1731年)、69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。辞世は「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」。

乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。ただし、それは血縁や師弟関係に基づき襲名されるのではなく、各々が自称したに過ぎない。

・尾形光琳
尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。

光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。光琳30歳の時、父宗謙が死去し、光琳の兄が家督を継いだ。その頃、雁金屋の経営は破綻していたが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。

放埓で無責任な性格ながら、貴族的・高踏的また都会的な芸術家としてのプライドは生涯忘れずにいた。40代になって画業に身を入れ始めたのは経済的困窮と、恋人たちや妻への見栄が一因であったと考えられている。形態による音楽を明確に意識した大画面の装飾的な屏風絵を得意とし、瀟洒な水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都市的な感覚と意匠があふれている。

近代の富岡鉄斎のように、絵を描ける平面であれば紙・絹・板・着物・硯箱・焼き物など何でも自身の領分であると考えいたようであり、彼独特の雅かつ明快なセンスが発揮されたものが多く残されている。弟の乾山も、兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、仁清と光琳が自分の師であると書き残している。

尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。伊春の子・尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人の江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。宗柏の末子で、雁金屋の後継ぎとなったのが光琳・乾山兄弟の父である尾形宗謙(1621年 - 1687年)だった。この宗謙も光悦流の書をよくし、絵も描くという多趣味な人物だった。光琳は宗謙の次男として万治元年(1658年)に生まれた。宗謙の38歳の時の子である。初名を惟富(これとみ)、通称を市之丞といった。5歳下の弟・権平が後に画家、陶芸家として知られるようになる乾山である。当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。絵はもともとは趣味として狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。

雁金屋の経営は、年間5000両以上も発注し最大の得意先だった東福門院の崩御(延宝6年(1678年))を期に傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。こうした中で光琳30歳の貞享4年(1687年)、宗謙が死去し雁金屋は兄・藤三郎が継いだが、光琳が画業に傾注したのはこのような家業の経営難で激減した収入を絵で補うという面が大きかった。追い詰められるところまで追い詰められた後の最後の選択肢として絵の道を志したわけであった。

光琳は30歳代前半に光琳と改名。「光琳」の名が史料上確認できるのは35歳の元禄5年(1692年)が初見である。44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ている(「法橋」は本来は高僧に与えられる僧位のひとつだが、後に絵師、仏師などにも与えられるようになった)。光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間だと推定されている。光琳の代表作のひとつ『燕子花図』(かきつばた ず)屏風は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。この屏風には「法橋光琳」の落款があるが、「法橋」の2字は別人による書き入れとする説が有力で、この説にしたがえば、『燕子花図』は光琳の法橋位受領以前の作品となる。

光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助(1669年 - 1730年)とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。

光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704年)頃、江戸へ下った。この頃の光琳は相変わらず経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主・酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあった。現存する「冬木小袖」(東京国立博物館収蔵)は、光琳が手描きで秋草文様を描いた小袖で、冬木家に伝来したものであり、『紅白梅図』屏風(MOA美術館収蔵)は津軽家に伝来したものである。

光琳は5年ほど江戸に滞在した後、宝永6年(1709年)に京都へ戻っている。正徳元年(1711年)には京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)に新居を構え、ここで制作した。この屋敷については建築当時の図面等の資料が残されており、静岡県熱海市のMOA美術館構内に「光琳屋敷」として復元されている。光琳の代表作のひとつである『紅白梅図』屏風は晩年の作とされ、この屋敷の2階の画室で描かれたと推定される。

死の3年前の正徳3年(1713年)には、長男の寿市郎に宛てて今日の遺言書に相当する書を書いているが、その文中に光琳は「相究タル家業モ之レ無ク」と書いている。このことから、光琳が画業を「家業」と見なしておらず、しっかりした家業がないため、息子の寿市郎を他家へ養子に出す決心をしたことがわかる。

光琳の長男・寿市郎の養子先の小西家には、光琳および雁金屋に関する文書・史料がまとまって保管されていた。これらは「尾形光琳関係資料」として重要文化財に指定されている(大阪市立美術館と京都国立博物館に分かれて所蔵)。この中には光琳の父・宗謙の遺書、光琳本人の遺書などの文書類のほか、『鳥獣写生帖』などの光琳の写生帖、画稿、意匠図案集などが多数含まれており、光琳の生涯および作品を研究するうえで貴重な資料である。画稿の中には光琳の作品としては唯一のものとされる美人図が含まれる。

・狩野永徳
永徳は狩野松栄の息子で、狩野元信の孫にあたる。永徳は法号で名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。

狩野派の棟梁として織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を制作した。永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『本朝画史』)。現存する代表作の1つである上杉本『洛中洛外図』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。

天文12年(1543年)、松栄の長男として京都で生まれる。最初に永徳の事績が記録に現れるのは山科言継の日記『言継卿記』の天文21年1月29日(1552年2月23日)の条で、この日に狩野法眼(元信)が孫を連れて将軍・足利義輝に拝謁したことが記録されており、この「孫」が当時10歳(数え年)の永徳と推定されている。

また、五摂家の筆頭である近衞家とも関係が深く、永禄10-11年(1567-1568年)には近衛前久(さきひさ)邸の障壁画を描いている(『言継卿記』)。元亀2年(1571年)大友宗麟の招きで久我晴通、怡雲宗悦、後藤徳乗、吉田牧庵らと共に土佐国を経由し豊後国に下向(『中江周琳宛宗固書状』)し、臼杵丹生島城の障壁画を描いた(『大友興廃記』)。

天正4-7年(1576-1579年)には、弟の狩野宗秀に家屋敷を譲った後に、安土城に障壁画を描き(『信長公記』)、天正11年(1583年)には大坂城、天正14年(1586年)には聚楽第の障壁画を担当するなど織田信長や豊臣秀吉をはじめとする権力者に重く用いられた。

天正17年(1589年)には後陽成天皇の内裏の障壁画を担当し、天正18年(1590年)には八条宮家の障壁画を描いた。同年9月、永徳は東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に病気になり、ほどなく死去した。享年48(満47歳没)。戒名は聴受院殿永徳法眼高信日意大居士。墓所は京都妙覚寺。死因は、現代風に言えば過労死かともいわれている。なお、東福寺法堂の天井画は、永徳の下絵を元に弟子の狩野山楽が完成させたが現存しない。

子に狩野光信、狩野孝信がいる。

・狩野探幽
慶長7年(1602年)、狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都で生まれる。母は、佐々成政の娘。

慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い。

元和9年(1623年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、50歳を過ぎてから実子・守政と探雪が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、6代後の子孫である狩野探信守道とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった。

探幽の作品は制作年代(署名の形式の変化)により、誕生から34歳までの「宰相・釆女(うねめ)時代」、34歳から60歳までの「斎書き時代」、60歳から死没までの「行年(こうねん)時代」の三期に分けられる。

延宝2年(1674年)、死去。享年73(満72歳没)。戒名は玄徳院殿前法眼守信日道。墓所は池上本門寺。墓の形は、瓢箪を象っている。弟子も多く、久隅守景、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義ら探幽四天王に加え、京都で鶴澤派をおこした鶴澤探山、会津藩御用絵師となった加藤遠澤など。

・狩野正信
正信の出自については、伊豆の人狩野宗茂の末裔との伝承があり、江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている。その中で景信は、足利義教が永享4年(1432年)富士を見物した際、その命で富士図を制作、その縁で義教に仕えたとされる。後の正信と幕府要人の繋がりを説明するのに都合がよい内容だが、信憑性の高い資料に景信の名が出ていないことから、一つの伝承や逸話の域を出る物ではない。また、(1)正信やその子・元信の縁者が下野(しもつけ、現栃木県)方面に見られること、(2)栃木県足利市の長林寺に正信の初期作品である『観瀑図』が残ること、(3)前記『観瀑図』に「長尾景長公寄進」との外題があることなどから、狩野正信は下野方面の出身で、足利長尾氏と何らかの関係があったとする説もある。近年は、江戸時代の法華宗関係史料『本化別頭仏祖統紀』に上総狩野家の叡昌の孫行蓮と正信は同一人物とあることから、上総(かずさ、現千葉県)出身説が有力である。叡昌の娘理哲尼は長尾実景に嫁いでおり、長林寺は足利長尾氏の菩提寺であることから、下野説の論拠とも矛盾はない。

京では幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したものと思われる。また、『尋尊大僧正記』には、「土佐弟子」と記されており土佐派との繋がりを想像させるが、大和絵を描いた遺品、または描いたとされる史料は皆無であることから、土佐家との何らかの関係を持ちつつも、正信が傍流的な立場であったことを示唆している。正信に関する最初の記録は、季瓊真蘂が筆録した『蔭凉軒日録』の寛正4年(1463年)7月相国寺雲頂院の昭堂に十六羅漢を描いたという記事である。以後20年間記録は途絶えるが、文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。明応5年(1496年)には日野富子の肖像を描いた(『実隆公記』)。

現存する作品中では、中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』(しゅうもしゅく あいれんず)が、それまでの室町水墨画と異なり全てのモチーフが平明にわかりやすく描かれており、正信自身のみならず後の狩野派の進むべき方向をも決定づけた代表作と見なされている。他に九州国立博物館蔵の『山水図』双幅、個人蔵の水墨の『山水図』、文化庁蔵の『崖下布袋図』(景徐周麟賛)などが古来著名である。大徳寺塔頭真珠庵の『竹石白鶴図』(六曲屏風1隻)も印章等はないが、古くから正信作とされている。

画風は、現存作品から見る限りでは漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法によるものが多いが、なかで『周茂叔愛蓮図』は画面上半分に余白を大きく取り、近景の柳の大木の緑が印象的な平明な画面で、他の作品とはやや異質な感がある。また、『文殊菩薩図』(群馬県立近代美術館)のような仏画の遺品や、扇面画も5点ほどあり、職業絵師として多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。

・狩野元信
10才の時、将軍足利義尚の近侍となり、足利義澄にも仕えたとされる。

絵師として製作年が明らかな最初の作例は、永正4年(1507年)細川澄元の出陣影の制作である。記録上の初見は永正10年(1513年)で、細川高国の命で『鞍馬寺縁起絵』を制作している。現存する大徳寺大仙院の障壁画は、同院創建時の永正10年(1513年)の制作とするのが通説であったが、大仙院方丈の改築が行われた天文4年(1535年)の作とする見方もある。元信は60歳代にあたる天文年間に以下のような大きな仕事に携わっている。まず、天文8年(1539年)から約15年間、石山本願寺の障壁画制作に携わった。この間、天文12年(1543年)には内裏小御所、同じ頃には妙心寺霊雲院の障壁画を描き、天文14年(1545年)頃に法眼(僧の位の一つ)を与えられている。

こうした権力者の需要に応える一方で、町衆には絵付けした扇を積極的に販売し、当時の扇座の中心人物であった。『古画備考』所載の幕府への起請文には、扇絵制作の権利を持たないものが勝手に扇を作るのは違反なので、即刻その停止を命じて欲しいと記されており、元信の画工というより有能な事業主としての姿と、狩野派の民間工房的性格を垣間見られる。元信は、幕府、朝廷、石山本願寺、有力町衆など、時の有力者より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜いた絵師である。

・川端玉章
京都高倉二条瓦町で、蒔絵師左兵衛の子として生まれる。父は三井家に出入りしていたため、同家へ丁稚奉公に出る。11歳の時、三井高喜(出水家)や三井高弘(南家)らに絵の巧さを認められ、高喜の紹介で中島来章に入門。一方で、画論を小田海僊に学ぶ。

1867年(慶応3年)江戸に移住。1872年(明治5年)高橋由一に油絵を学ぶ。同年三井家の依頼で、三囲神社に「狐の嫁入り」扁額を描く。この絵は現存しないが、これが玉章の出世作となる。しかし、その頃は生活が苦しく、版下絵や新聞の付録画まで描いたという。1877年(明治10年)第一回内国勧業博覧会で褒状。1878年(明治11年)に画塾天真堂を創設、1879年(明治12年)龍池会設立に関与。1882年(明治15年)第一回内国絵画共進会、1884年(明治17年)第二回で共に銅賞を受け頭角を現していく。

1890年(明治23年)岡倉覚三(天心)によって東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、1912年(大正元年)まで22年間主に写生を受け持った。逸話として、採用のきっかけとなった両国の大きな書画会において、一番達者に描いたのは河鍋暁斎だったが、玉章は図柄がみな異なっていたことから、天心は採用を決めたという。学校に出勤する前に、10枚、15枚と絵を描いてくることを自慢の種にしており、実際玉章の遺作は数多い。手は馬鈴薯のように丸々と太り、顔にはあばたや大きな斑点があったから「がんもどき」などと学生に渾名つけられていた。円山派において巧みな筆技をもっていた玉章は「腕の画家」であり、絵画を一種の技術と考えていた。この点、同時期に日本画の指導をしていた橋本雅邦とは全く逆の立場にいたと言える。これを証明する事実として、玉章はある展覧会に出品する壁画の柳を学生達の前で描いた。その時筆に墨をつけ一間ばかり飛びながら線を引き、何かぽんぽん付け加えると青柳がすぐでき上がってしまい、まるで「曲芸」を見ているようだと学生達は述べている。

1881年(明治14年)頃、深川に画塾「天眞舎」を開く。

1891年(明治24年)玉章より一世代若い画家たちによる日本青年絵画協会設立の際にはこれを援助、事務所は玉章邸に置かれた。1896年(明治29年)6月30日帝室技芸員[2]、1897年(明治30年)古社寺保存会委員、1898年(明治31年)日本美術院会員、文展開設以来審査員を務める。1909年(明治42年)小石川下富坂町に川端画学校を開設。

1913年(大正2年)2月10日朝、令息茂章宅で発作、同14日午後4時15分に長く患っていた中風のため死去。葬儀は17日午前11時、駒込宅を出棺し川端画学校前を経て眞盛寺にて午後2時に仏式にて執り行われた。

東京都港区高輪2丁目の路端(墓所のある正源寺の脇)と、東京芸術大学の中庭に、顕彰碑が建てられている。なお、孫の川端実は洋画家。

・佐藤太清
1913年(大正2年)11月10日 - 京都府福知山市字岡ノ上に生まれる。天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男。本名實(みのる)。出生直後に、両親が病没したため、梶原家にて養育される。
1921年(大正10年) - 福知山惇明尋常高等小学校入学。
1927年(昭和2年) - 福知山惇明尋常高等小学校卒業。4月、福知山実践商業学校入学。
1931年(昭和6年) - 福知山実践商業学校を卒業。上京。
1933年(昭和8年) - 児玉希望塾に内弟子(1936年まで)として入門。当時の門下生には、奥田元宋等がいた。雅号を「太清」とする。
1943年(昭和18年) - 第6回新文展にて『かすみ網』が初入選。
1945年(昭和20年) - 第1回現代美術展覧会(朝日新聞社主催)に『迎春』招待出品。
1946年(昭和21年) - 第2回日展に『篁』出品。第2回現代美術展覧会に『早春』招待出品。第1回晨泉社展に『山吹』出品。第1回大同展に『マコチャン』出品。
1947年(昭和22年) - 第3回日展に『清韻』出品。特選受賞。第2回美術協会展に『椿』出品、買上。
1948年(昭和23年) - 第4回日展に『幽韻』無鑑査出品。
1949年(昭和24年) - 第5回日展に『竹林』出品。
1950年(昭和25年) - 第6回日展に『朝顔』出品。第1回日月社展に『玄冬』出品。
1951年(昭和26年) - 第7回日展に『竹窗細雨』出品。第4回美術協会展に『朝顔』出品、佳作賞受賞。
1952年(昭和27年) - 第8回日展に『睡蓮』『罌粟』出品。前者は特選、朝倉賞を受賞。第3回日月社展に『雨の日』出品、奨励賞受賞。
1953年(昭和28年) - 第9回日展に『初秋』委嘱出品。第4回日月社展の審査員をつとめ、『阿修羅』出品。
1954年(昭和29年) - 第10回日展に『ダリヤ』出品。第5回日月社展に『猫』出品。
1955年(昭和30年) - 武蔵野美術大学参与となる。第11回日展に『冬池』出品。第6回日月社展に『芝園所見』出品。第4回日月社小品展に『暮冬』出品。枇杷会展に『鯉』出品。蓁心会日本画展(髙島屋美術部画廊)に『早春』出品。
1956年(昭和31年) - 第12回日展に『樹』出品。第7回日月社展に『鉄線花』出品。第5回日月社小品展に『苺』出品。第5回五都展に『瓶花』出品。枇杷会展に『首夏』出品。蓁心会日本画展に『レモン』出品。
1957年(昭和32年) - 第13回日展に『鯉』出品。第8回日月社展に『梅』出品。第6回五都展に『萠春』出品。枇杷会展に『閑庭』出品。
1958年(昭和33年) - 「尾山幟・佐藤太清二人展」を東洋美術館画廊(東京都・銀座)で開催。第1回新日展に『立葵』を出品。第9回日月社展に『庭』出品。第6回日月社小品展に『パンジー』出品。第7回五都展に『鯛』出品。枇杷会展に『ピース』出品。蓁心会日本画展に『長春』出品。
1959年(昭和34年) - 第2回新日展の審査員をつとめ、『寂』出品、東京都美術館買上。第10回日月社展に『藤』出品。第8回五都展に『鉄線花』出品。枇杷会展に『花』出品。
1960年(昭和35年) - 新日展会員となる。第3回新日展に『石楠花』出品。第11回日月社展に『池辺』出品。第9回五都展に『桜』出品。第3回柘榴会(上野松坂屋)に『雉子』出品。
1961年(昭和36年) - 第4回新日展に『孔雀』出品。第12回日月社展に『篁』出品(日月社はこの回をもって解散)。第10回五都展に『君子蘭』出品。
1962年(昭和37年) - 第5回新日展の審査員をつとめ、『冬日』出品。第11回五都展に『孔雀』出品。
1963年(昭和38年) - 第6回新日展に『水芭蕉』出品。第12回五都展に『菊花』出品。
1964年(昭和39年) - 第7回新日展に『花』出品。第13回五都展に『牡丹』出品。
1965年(昭和40年) - 日展評議員に就任。第8回新日展に『潮騒』出品。日春会の委員となる。第14回五都展に『桃花』出品。
1966年(昭和41年) - 第9回新日展に『風騒』出品、文部大臣賞受賞。第1回日春展審査員となり『尾瀬』出品。第15回五都展に『花』出品。上野公園(東京都・台東区)弁天堂の格天井絵に『朝顔』、杉戸絵に『桜』を制作。
1967年(昭和42年) - 前年に出品した『風騒』で、日本芸術院賞受賞[1]。第10回新日展に『?』出品。第16回五都展に『静物』出品。
1968年(昭和43年) - 第11回新日展の審査員をつとめ、『洪』出品。外務省の委嘱により国連本部(米国・ニューヨーク)に納める『白鷺』を制作。第3回日春展に『君子蘭』出品。第17回五都展に『鶴』出品。
1969年(昭和44年) - 第1回改組日展に『暎』出品。第4回日春展に『花』を出品。第18回五都展に『白鷺』出品。
1970年(昭和45年) - 日春展運営委員となり第5回展の審査をつとめる。第2回日展(改組日展、以下同)に『緑雨』出品、文化庁買上。第19回五都展に『尚武』出品。
1971年(昭和46年) - 日展理事に就任。第3回日展の審査員をつとめ、『無』出品。第6回日春展に『鯉』出品。第20回五都展に『瓶花』出品。
1972年(昭和47年) - 外務省の委嘱により在中国日本国大使館(中国・北京)に『孔雀』(昭和36年日展出品)を納める。第4回日展に『夢殿』出品。第7回日春展に『極楽鳥花』出品。第21回五都展に『緑雨』出品。社団法人日本美術家連盟委員に就任(昭和48年まで、また同51~52年、同55~56年、同59~60年を歴任)。
1973年(昭和48年) - 第5回日展の審査員をつとめ、『清韻』出品。第8回日春展の審査員をつとめ、『水辺』出品。東京都美術館後援会理事に就任。「日本画の系譜、先生と弟子展」(東京セントラル美術館)に『瓶花』出品。第22回五都展に『鯉』出品。
1974年(昭和49年) - 第6回日展に『昏』出品。第23回五都展に『椿寿』出品。
1975年(昭和50年) - 日展監事に就任。第7回日展に『東大寺暮雪』出品。日本美術家連盟委員に就任。第10回日春展に『山鳥』を出品。第24回五都展に『紅白梅』出品。
1976年(昭和51年) - 第8回日展に『磨崖仏(弥勒)』出品。第8回日春展の審査員をつとめ、『孟春』(たげり)出品。「日本の四季展」(読売新聞社主催)に『抄春』『篁』『佳日』『漾』出品。第25回五都展に『浜木綿咲く』出品。
1977年(昭和52年) - 日展理事に就任。第9回日展の審査員をつとめ、『蓮』出品。第8回日春展の審査員をつとめ、『パンジー』出品。外務省買上。第26回五都展に『牡丹』出品。
1978年(昭和53年) - 第10回日展の審査員をつとめ、『朝霧』出品。日中友好条約締結に際し外務省の委嘱により『花』(第13回日春展出品)買上、華国鋒主席に贈呈される。東京国立美術展覧会会場建設委員に就任。日本美術家連盟委員に就任。第27回五都展に『鶴』出品。
1979年(昭和54年) - 現代日本絵画展開催に際し文化使節として中国訪問。第11回日展に『雨の天壇』出品。第14回日春展の審査員をつとめ、『鴫』出品。外務省の委嘱によりリオデジャネイロ近代美術館に納める『牡丹』を制作。日展理事新作展に『鯉』出品。第28回五都展に『桜』出品。
1980年(昭和55年) - 昭和55年度日本芸術院会員となる。第12回日展に『旅の朝』出品。第15回日春展に『春韻』出品。第29回五都展に『寒牡丹』出品。
1981年(昭和56年) - 日展常務理事に就任。渡欧。フランス、イタリア、バチカン等を訪れる。第13回日展審査員をつとめ、『旅の夕暮』出品。第16回日春展審査員をつとめ『梅』出品。「外務省展」に『牡丹』出品。第3回秀作美術展(読売新聞社主催)に『旅の朝』(第12回日展出品)選抜出品。第30回五都展に『早春』出品。
1982年(昭和57年) - メキシコ マヤ遺跡を訪れる。第14回日展に『草原の旅(マヤの遺跡を訪ねて)』出品。第17回日春展に『閑日』出品。第5回現代日本画の10人展(山種美術館主催)に『雨の天壇』『旅の朝』『梅』選抜出品。「日中友好10周年記念中国を描く現代日本画展」(読売新聞社主催)に『雲崗石仏』等、5点出品。板橋区の委嘱により、板橋区立文化会館緞帳『晨光』制作。第31回五都展に『富貴花』出品。
1983年(昭和58年) - 日展事務局長に就任。第15回日展の第1科(日本画)審査主任をつとめ、『最果ての旅』出品。「大山忠作、加倉井和夫、加藤東一、佐藤太清四人展」を相模屋美術店(東京都・銀座)にて開催。第18回日春展に『春雪』出品。第32回五都展に『雪の朝』出品。
1984年(昭和59年) - 「佐藤太清展」(読売新聞社主催)を松屋銀座、大阪大丸にて開催。新作8点を含む60点を出品。第16回日展に『釧路湿原冬の旅』出品。第19回日春展に『雲雀』出品。第6回日本秀作美術展に『草原の旅(マヤの遺跡を訪ねて)』(第14回日展出品)選抜出品。「現代日本画名画家展」中国美術館(中国・北京)にて開催。『?』『蓮』『雲崗石仏』出品。「日本の四季展」に『竹窗細雨』(第7回日展出品)出品。
1985年(昭和60年) - 勲三等瑞宝章を受章。日展理事長に就任。第17回日展に『旅鳥』出品。第20回日春展に『花と小雀』出品。「日本画壇巨匠自選展」(東急百貨店主催)に『旅の朝』(第12回日展出品)、『旅の夕暮れ』(第13回日展出品)出品。第7回日本秀作美術展に『最果ての旅』(第15回日展出品)選抜出品。最高裁判所(東京都・千代田区)に『富貴花』を納める。第34回五都展に『瑞鶴』出品。
1986年(昭和61年) - 第18回日展に『旅愁』出品。第21回日春展に『晨雪』出品。第8回日本秀作美術展に『釧路湿原冬の旅』(第16回日展出品)選抜出品。総理大臣官邸に『富貴花』[第1回現代作家美術展(元・五都展)出品]を納める。(以下、現美展と略称)
1987年(昭和62年) - 第19回日展に『旅立ち』出品。第22回日春展に『八重桜』出品。第9回日本秀作美術展に『旅鳥』(第17回日展出品)選抜出品。「現代作家デッサン・シリーズI 佐藤太清展」(朝日新聞社主催)を松屋銀座(東京都・銀座)にて開催。
1988年(昭和63年) - 文化功労者に列せられる。日中文化交流協会常任理事に就任。第20回日展に『旅途』出品。第23回日春展に『篁鷺』出品。第10回日本秀作美術展に『旅愁』(第18回日展出品)選抜出品。第3回現美展に『雪原の鶴』出品。
1989年(平成元年) - 第21回日展に『旅雁』出品。第24回日春展に『雪紅梅』出品。第11回日本秀作美術展に『旅立ち』(第19回日展出品)選抜出品。第4回現美展に『瓶花』出品。
1990年(平成2年) - 第22回日展に『丹頂の旅』出品。第25回日春展に『椿寿』出品。第12回日本秀作美術展に『旅途』(第20回日展出品)選抜出品。国際花と緑の博覧会「花と緑、日本画美術館展」(佐藤美術館 / 東京都・新宿区)に『薔薇』出品。第5回現美展に『暁の富士』出品。
1991年(平成3年) - 第23回日展に『雨あがり』出品。第26回日春展に『夏苑』出品。第6回現美展に『双鶴』出品。
1992年(平成4年) - 文化勲章を受章。第24回日展に『行雲帰鳥』出品。第27回日春展に『佳日』出品。式年遷宮記念神宮美術館(平成5年開館)創設に際し『冨貴花』を神宮(三重県・伊勢市)に献納する。第7回現美展に『富士』出品。
1993年(平成5年) - 皇太子徳仁親王成婚に際し、『瑞鶴』を宮内庁に納める。福知山市名誉市民となる。福知山市美術館にて、「文化勲章記念 佐藤太清展」開催。第25回日展に『佐田岬行』出品。第28回日春展に『瓶花』出品。第14回日本秀作美術展に『雨あがり』(第23回日展出品)選抜出品。第8回現美展に『富貴花』出品。
1994年(平成6年) - 第26回日展に『雪つばき』出品。(1943年初入選から一度も休むことなく続けられた日展での発表はこの作品で最後となった。)第29回日春展に『薔薇』出品。板橋区立美術館にて「文化勲章受章記念展 佐藤太清 瞬間の生命と永久の時」開催。代表作36点を出品。第9回現美展に『富貴花』出品。
1995年(平成7年) - 第30回日春展に『尚武』出品。第10回現美展に『牡丹』出品。式年遷宮記念神宮美術館特別展「日本の心に薫る桜と菊」に『喜久』を出品し、神宮(三重県・伊勢市)に献納する。腹部大動脈瘤の手術を受ける。
1996年(平成8年) - 第17回日本秀作美術展に『雪つばき』(第26回日展出品)選抜出品。第8回現美展に『富貴花』出品。若い世代への美術奨励のために板橋区に「佐藤青少年美術奨励基金」が創設される。
1997年(平成9年) - 兼素堂50周年記念展に『早春』を出品。
2000年(平成12年) - 福知山市美術館開館十周年記念特別展「終わりのない旅 佐藤太清展」開催。代表作17点と素描を出品。
2002年(平成14年) - 「第1回福知山市佐藤太清賞公募美術展」(全国公募 福知山市主催)が開催され、京都、東京、神奈川、愛知を巡回。(以降、毎年開催)「佐藤太清記念中学生絵画展」(全国公募 板橋区主催)が開催される。(以降、毎年開催)「花博・花と緑の日本画展」(佐藤美術館)に『薔薇』展示。
2003年(平成15年) - 「館蔵日本画名品展」(高島屋史料館)に『紅白梅』出品。「山種美術館所蔵品展 いのちの輝き」(東京都・千代田区)に『清韻』展示。「文化勲章作家 館蔵巨匠名品展」(高島屋史料館 大阪府・大阪市)に『瑞鶴』出品。
2004年(平成16年) - 11月6日、多器臓不全のため死去。従三位に叙せられる。平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られる。
2005年(平成17年) - 第37回日展に『雪つばき』(第26回日展出品)遺作出品。「日本芸術院所蔵 芸術院の日本画展」(読売新聞社主催)に『雨の天壇』『風騒』展示。福知山市美術館が福知山市佐藤太清記念美術館に名称変更される。福知山市佐藤太清記念美術館へ自宅に所蔵していた出品画27点、素描、スケッチブックの全てを寄贈する。
2006年(平成18年) - 板橋区立美術館にて「佐藤太清回顧展-終わりのない旅-」開催。日本画44点・素描13点を展示。
2007年(平成19年) - 福知山市佐藤太清記念美術館改修記念特別展「終わりのない旅II 原点 佐藤太清の世界」開催。初期の作品を中心に18点と素描を展示。
2008年(平成20年) - 「東大寺御物・昭和大納経展」(社団法人日本書芸院・読売新聞社他主催)に『華厳経巻第四十三・見返し絵』展示。「風雅の彩り 大熊家コレクション」(埼玉県立近代美術館)に『宿雪』展示。「花博・花と緑の日本画展」(佐藤美術館)に『薔薇』展示。「いきもの集合!-描かれた動物たち-」(山種美術館)に『清韻』展示。10月18日から12月25日まで、奈良県立万葉文化館にて「佐藤太清日本画回顧展 うたごころをえがく」開催。
2009年(平成21年) - 明石市市制90周年春季特別展「日本画 描かれた日本の心-文化勲章受章の巨匠38人による-」(明石市立文化博物館)に『行雲帰鳥』展示。
2010年(平成22年)‐ 札幌芸術の森美術館開館20周年記念「神獣」展に『最果の旅』展示。
2011年(平成23年)‐「WEDGEひととき」6月号(ウェッジ刊)にて「旅途」が中西進のエッセイにおいて紹介される。
2013年(平成25年)‐生誕100年佐藤太清展が開催される。富山県水墨美術館、板橋区立美術館、京都文化博物館、茨城県天心記念五浦美術館、新見美術館、福知山市佐藤太清記念美術館を巡回。板橋区立美術館開催時は天皇皇后両陛下がご鑑賞された。

・曾我蕭白
享保15年(1730年)、京都に生まれる。蕭白の生涯については資料が少なく不明な点が多い。伊勢地方に多くの作品が残ることから、かつては伊勢の出身とされたこともあった。しかし、近年の研究の進展により、「丹波屋」と号する京都の商家の子として生まれ、本姓を三浦と称したことなどが明らかになっている。京都市上京区の興聖寺には、蕭白の代表作『寒山拾得(かんざんじっとく)図』が残るほか、蕭白とその一族の墓もある。兄と妹がおり、兄は蕭白が11歳の時(元文5年、1740年)江戸で亡くなっていることから、丹波屋は江戸に支店を置ける程度の商家であったようだ。菩提寺の興聖寺の所在地が西陣に近いことなどから、丹波屋は紺屋だった可能性がある。寛保3年(1743年)2月に父・吉右衛門が亡くなる。この頃の蕭白は、伊勢の久居の米屋で奉公していたという伝承が残る。さらに永享3年(1746年)1月、母ヨツが亡くなり、丹波屋も潰れてしまったようだ。そして蕭白は孤独のうちに生きることを強いられることとなる。

蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからあるが、敬輔の弟子らによって編纂された『敬輔画譜』にある門人録には蕭白の名がなく、証明する文献が無いことから、直接の弟子であったかどうかについては否定的な意見もある。ただ、高田敬輔とその門人たちに特徴的な技法を用いていることなどから、少なくとも高田敬輔の画風を学んだことは間違いないだろうと、高田敬輔研究の第一人者である國賀由美子(滋賀県立近代美術館主任学芸員)は述べている。

また、白井華陽は『画乗要略』(天保2年〈1831年〉)の中で、雲谷派を学んだことを指摘している。確かに蕭白の真体水墨画には、謹直な描線や垂直に切り立った崖の描写など、雲谷派との共通点が認められる。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。その頃曾我派の画系は絶えているが、濃墨を用い、荒々しい筆致で樹木や岩をデフォルメして描く作風を、蕭白は積極的に取り入れていったと思われる。他にも、太い墨線を用いる筆法から白隠の影響を受け、その無法の手法だけでなく、その気魄やユーモアも吸収していると見られる。

作品も制作時期のわかるものはきわめて少ないが、29歳前後と35歳前後の2回、伊勢地方に滞在したことがわかっている。1回目の伊勢滞在時には、その人柄と出生年を示す逸話が残る[3]。津から二里ほど離れた黒田村の浄光寺に1年ほど滞在していたが、絵を描こうともせず、毎日本堂に行っては昼寝ばかりしていた。ある日、蕭白は朝食もとらずに本堂に籠っていたが、いつものことと放っておいた。ところが、昼になっても夜になっても出てこないので不思議に思って本堂へ行ってみると、その内陣の左右の壁面に「十六羅漢」の図、欄間には「葡萄」の図が描いてあり、蕭白の姿はどこにもなかった。その画には「宝暦九曾我氏三十歳筆」と落款があり、宝暦9年(1759年)に30歳であることが確定した。なお、これらの作品は現存していない。『群仙図』、『旧永島家襖絵』などの代表作は2回目の伊勢滞在時に描かれたものと考えられている。また、33歳時と38歳時には、播磨に滞在していた。安永元年(1772年)頃から亡くなるまでは京都に居を構えた。7歳年上の南画家池大雅と親しく、蕎麦を食べに大雅の家を訪ねたが、話し合っているうちに蕎麦の事を忘れて夜になってしまった。帰る際、大雅が提灯を持たせてあげたいが、家にはそれが無いと済まなそうに言うと、蕭白は円灯に蝋燭を灯し平然と帰って行ったという逸話が残る[4]。反対に円山応挙には思うところがあったらしく、蕭白はある時戯れに「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と語ったという。

安永4年(1774年)刊行の『平安人物志』には、20人中15番目に載っており、住所は京都上京と記されている。安永6年(1777年)息子が夭折、蕭白も4年後に亡くなる。法名「一輝蕭白居士」。一族と同様に興聖寺に葬られたが、蕭白の絵を好んだ人々が建て、富岡鉄斎が銘を揮毫した墓も残っている。弟子に、画名と作風からその可能性が高い曾我蕭月。また、横山華山や世古鶴皐、神原鳳章斎のように蕭白の画風を慕った幾人かの絵師が知られている。

・円山応挙
本姓は藤原、後に源、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国南桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

20代の修行期の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。この頃、京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていた。そこでオランダ渡来の眼鏡絵を見て、宝暦9年(1759年)頃、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作した。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。応挙が見た眼鏡絵は、45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して眺める。そうすると、遠近が深く感じることが出来る。よって、この原画及び図上の文字は左右反対に描いてあった。作品は木版墨摺りで、手で着色したものであった。画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てるという工夫が見られた。

明和3年(1766年)から「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国宋末 - 元初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しているが、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。

この祐常や豪商三井家が応挙の主要なパトロンであった。代表作の『七難七福図』、『孔雀牡丹図』などは第二次大戦後まで三井寺円満院に伝来したものであり、『雪松図』は三井家に伝来したものである。また、兵庫の大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作に数えられる。応挙最晩年の作品に属する『見立江口の君図』や『四季遊戯図巻』などは、純然たる意味での肉筆浮世絵とは言えないまでも、浮世絵的雰囲気を持つ作品として、また上方風俗図として挙げることが出来る。享年63。墓所は京都市右京区太秦の悟真寺。法名は円誉無之一居士。円山派は長男の応瑞が継いだが、後述の弟子たちの方が有名である。

大本教祖の出口王仁三郎は応挙の家系から出ている。

宅址(四条通堺町東入ル南側)に石標が一本建てられている。

・呉春
京都の金座年寄役の家に六人兄弟の長男として京都堺町通四条下ルで生まれる。はじめは家業を継ぎ金座の平役を務めた。金座は平役でも月収入がおよそ百両あり、家は裕福だった。非常に手先が器用で、大判小判を数える時には、右手から左手へ金貨を投げ上げ、その一瞬の間に贋金を傍らに選り分けたという逸話が残る。

何時頃から絵を学び始めたかははっきりとは不明だが、明和7年(1770年)頃に大西酔月の門を叩いたとされる。数年後に酔月が亡くなると、安永2年(1773年)には与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。最初は趣味や余技として学び始めたが、安永4年(1775年)の『平安人物誌』の画家の項に早くも名前が載っている。この前後から安永末頃、何らかの事情で金座を辞すと、本格的に俳諧師や絵師として身を立てていく。

呉春は、金座に勤めていた時、嶋原の名妓・雛路を身請けし妻としていたが、天明元年(1781年)3月、単身里帰りの途中海難事故に遭い妻を、8月には父を相次いで失う。傷心を癒す為か剃髪し、蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人・川田田福を頼り、しばらく現在の大阪府池田市に転地療養する。翌年の正月、この地の古名である「呉服(くれは)の里」で新春を過ごした事に因み、呉春、伯望の画号を名乗るようになる(この縁で、池田市には今でも「呉春」と言う銘柄の地酒がある)。ただし、「月渓」の名は俳号としては終生用い続け、俳画や俳諧では「月渓」を名乗っている。これは、師蕪村が画号を「春星」「謝寅」、俳号を「蕪村」と使い分けていたことに倣っていると考えられる。この頃から天明6年5月の帰洛後円山派風の作品を描くまでを「池田時代」、または天明年間にほぼ重なる事から「天明時代」という。蕪村風の筆法で力強い画風の人物画や花鳥画を残し、俳画にも優れた作品が多い。呉春の俳画には、自句を記したものは少なく、蕪村ら先人の句に合わせて画を添えることが多い。この点、自画と自句を合わせて自己表現を試みていた蕪村とは対称的である。

天明3年(1783年)蕪村が重病に伏せると、呉春は京に戻る。兄弟子紀楳亭と共に献身的に看病するけれども、同年末に蕪村は亡くなってしまう。師の死後も、自ら挿図を描いて遺作句集『新花摘』を出版し、池田と京を往復し蕪村の家族の世話をする。しかし、この頃から次第に師匠とは対照的な画風である円山応挙に接近していく。天明7年(1787年)頃から、おそらく応挙の紹介で、真仁法親王のサロンに出入し始め、法親王側近の絵師となる。同年、応挙を棟梁とする6人の絵師の中に入り、一回目の但馬国大乗寺の襖絵制作に参加。この時の作「群山露頂図」は、蕪村の「峨嵋露頂図」に倣った作品で、関係文書にも「蕪村高弟月渓」と記されており、未だ蕪村を慕う呉春の心情を窺わせる。天明6年(1786年)から2年間10回にわたって、池田の酒造家が中心となって、蕪村の「屏風講」に倣ってか「掛物講」が催されている。これは講の参加者が1両ずつ出しあって代金を募り、くじ引きで呉春の絵を得る仕組みである。その中には後の写生派時代につながる作品が見られ、この講が画業転換期の呉春を支えたと言える。

天明8年(1788年)天明の大火で焼きだされた呉春は、避難所だった五条喜雲院で、偶然にも一時応挙と同居する。この時応挙は、「御所や門跡寺院に出入したいなら、漢画を捨てて狩野派や写生画を描かねば駄目だ」、と助言をした(『古画備考』)。呉春は師蕪村と異なり、俳諧と国文学には詳しかったが漢詩文の素養は無きに等しく、師亡き後も南画を描き続ける意欲や動機が薄かった。また、親しかった高井几董の死がきっかけとなったとする意見もある。いずれにしても呉春は、応挙の助言を取り入れ、文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転進していく。この時、呉春は応挙に弟子入りしようとしたが、蕪村と交流があり呉春の画才を認めていた応挙は、呉春を莫逆の友として遇し(『松村家略系』)、「ただ共に学び、共に励むのみ」と答えたという逸話が残る(『扶桑画人伝』)。数年後の寛政7年(1795年)、二回目の大乗寺障壁画「四季耕作図」では、円山派風の作風へと変化している。同年応挙が亡くなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。呉春は合作が多い絵師であり、翌年も岸駒と合作した「山水図」(東京芸術大学大学美術館)を描く。晩年の呉春は、放埒な生活が祟ってか病気がちで健康がすぐれず、大作を依頼されても断ったという(上田秋成『胆大小心録』)。

文化8年(1811年)7月自宅で没する。享年60。法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年(1889年)9月、四条派の絵師たちによって松村景文と共々、金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。

・俵屋宗達
宗達は尾形光琳と並び称せられる近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べその生涯には不明な点が多い。おそらく親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代、1570年代かその少し前の生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたと考えられている。同時代の仮名草子『竹斎』には、この頃京都で「俵屋」の扇がもてはやされたと記されている。

しかし、宗達は単なる扇絵職人ではなく、慶長7年(1602年)5月に福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いたとみられる(史料上確認できる宗達の事績の初見)。皇室からも作画の依頼があり、元和2年(1616年)、後水尾天皇が狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、参考の一つとして「俵屋絵」を見せたとの記録が残る。また、寛永7年(1630年)には、後水尾天皇から屏風3双の制作注文があった。

また、当代一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦らの書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したらしい。少なくとも寛永7年(1630年)には町の絵師としては異例の法橋の位が与えられていたことがわかっており、当時から一流の絵師とみなされていたことは疑いない。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようだ。宗達死後は、俵屋宗雪が工房の後を継いだ。宗雪は寛永19年(1642年)既に法橋に叙されていることから、宗達はこの少し前に亡くなったと考えられる。大正2年(1913年)春に石川県金沢市の宝円寺で発見された宗達のものとされる墓によって、寛永20年8月12日(1643年9月24日)没という説が唱えられたが、京都の頂妙寺にある墓が宗達のものであるという説もあり、本人の墓であるのかについては異論もある。そのため、最近の文献では記載されないことが多い。

・芝田米三
京都生まれ。1939年、京都商業学校入学、今井憲一に師事し油絵を学ぶが、戦時下入営、戦後、独立美術京都研究所で須田国太郎に師事する。1950年、独立展独立賞、サロン・ド・プランタン賞受賞、1963年、安井賞展安井賞受賞、1965年、1971年、1973年と渡欧。1974年安井賞選考委員、日伯美術連盟評議員、1975年、ブラジル・サンパウロ州議会より騎士賞授与、1978年、京都府芸術会館理事、1979年訪ソ、1989年、京都府文化功労賞、1993年、独立美術協会功労賞、1994年、京都市文化功労賞、「楽聖讃歌」で日本芸術院賞を受賞、日本芸術院会員。1999年勲三等瑞宝章受章[2]。没後、従四位授与される。

動物、人物が描かれた幻想的な作風で知られる。具象派。

朝日新聞編集委員であった美術評論家の池田弘は芝田米三について、その生活態度や環境においてもすべてに「愛」が介在する、常に本質を見つめ大切なことを見逃さない豊かで健康的な生き方から、愛に満ちた安らぎの世界が絵に表現されると評している。

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