大学別-芸術家

著名な芸術家-大学一覧

東京芸術大学 著名な卒業生

大矢十四彦
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1962年東京藝術大学日本画科卒業。
院展入選38回、日展入選2回、春の院展入選34回、院展奨励賞5回、春の院展奨励賞5回受賞。
現在、日本美術院特待。院展常務理事今野忠一門下。
代表作
富貴花
富士早春
紅白梅
椿 花
宵 桜
大山忠作
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1943年、学徒出陣の為、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)を繰り上げ卒業。1946年、復員し、その年の第2回日展『O先生』が初入選。翌年、高山辰雄らの日本画研究団体「一采社」に参加。山口蓬春に師事した。人物画、宗教的作品、花鳥、風景など高範な題材を得意とする。1961年、日展会員となり、事務局長、理事長などを歴任。1973年、日本芸術院賞受賞。1986年、日本芸術院会員。1996年、勲三等瑞宝章受章。1999年、文化功労者。2006年、文化勲章受章。2009年2月19日、敗血症による多臓器不全のため死去。86歳。
代表作
五百羅漢
池畔に立つ
加藤東一
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1916年(大正5年) 漆器商加藤梅太郎・ため夫妻の五男として、岐阜市美殿町で生まれる。兄は日本画家の加藤栄三。
1947年(昭和22年) 東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。第3回日展「白暮」初出品、初入選。
1948年(昭和23年) 山口蓬春に師事する。
1952年(昭和27年) 第8回日展「草原」特選受賞。
1955年(昭和30年) 第11回日展「砂丘」特選および白寿賞受賞。
1969年(昭和44年) 藤沢市鵠沼に居住。
1970年(昭和45年) 改組第2回日展「残照の浜」内閣総理大臣賞受賞。
1977年(昭和52年) 前年の日展出品作「女人」で日本芸術院賞受賞[1]。
1984年(昭和59年) 日本芸術院会員となる。
1989年(平成元年) 日展理事長となる。
1991年(平成3年) 第1回岐阜市民栄誉賞受賞。
1993年(平成5年) 鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画完成。
1995年(平成7年) 文化功労者。
1996年(平成8年) 岐阜市名誉市民となる。
1996年(平成8年) 肺炎のため没。享年80。勲二等瑞宝章を受ける。
1997年(平成9年) 藤沢市名誉市民となる。
代表作
草原
砂丘
残照の浜
女人
加山又造
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1927年、京都府京都市上京区相国寺東門前町に西陣織の図案家加山勝也の子として生まれる。京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校ならびに京都市立芸術大学)、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事。1950年、春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選、研究会賞を受賞。1966年多摩美術大学教授、1988年東京芸術大学教授に就任。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。1970年代末からは水墨画にも取り組んだ。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章。2004年、肺炎のため東京都の病院で死去した。
代表作
春秋波濤
墨龍
濤と鶴
雲龍図
黄山霖雨・黄山湧雲
横たわる裸婦
小泉淳作
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県鎌倉市生まれ。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。山本丘人に師事し、1952年東京藝術大学日本画科を卒業。その後デザイナーとして活動し、陶芸家としても注目された。その間も日本画を画き続けたが、日本画家として注目を浴びたのは1970年代半ばである。最近の重要な作品としては、建仁寺および建長寺の天井画がある。陸軍予備士官学校の経験からか戦争には強烈な嫌悪感をもつ。

2012年1月9日に肺炎のため死去
代表作
奥伊豆風景
山を切る道
新雪の鳥海山
後藤仁
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
兵庫県赤穂市坂越生まれ。小学校1年生の時に大阪府堺市に移る。15歳の時、大阪市立工芸高等学校美術科に入学して、高校2年生で日本画を専攻し、卒業する。同校の卒業生には、日本画家の稗田一穂らがいる。この子供時代に、岡本太郎が審査委員長をつとめる絵画コンクールで佳作受賞する等、各種絵画公募展での入選・受賞は14回に及ぶ。

高校卒業後は東京に上京し、美術予備校の立川美術学院日本画科で村上隆らに、デッサン・着彩を2年間学ぶ。21歳で東京藝術大学絵画科日本画専攻に入学。当時の学長は平山郁夫である。大学では教授の加山又造、後藤純男、福井爽人らに日本画を学ぶ。大学3年生より金唐革紙(きんからかわし。手製高級壁紙のこと)の復元製作を始め、以後約12年間に「入船山記念館(呉市)」、「移情閣 ・孫文記念館(神戸市)」、「旧岩崎邸(台東区)」等の重要文化財建造物の復元事業に携わり、この技術も日本画制作に取り入れる。(現在、金唐革紙製作の完全な知識・技術を保持しているのは後藤仁のみとなっている。)東京藝術大学の卒業制作は、インドネシアのボロブドゥール遺跡に取材した「昇殿」(F150号)。

大学卒業後は後藤純男に師事して、日本画家として活動をする。(つまり、後藤仁は後藤純男の弟子であり、山本丘人、田中青坪の孫弟子にあたる事になる。)活動初期は国内外の取材をもとに、プランバナン遺跡等の古代遺跡や阿蘇山・斜里岳等の自然をモチーフにした雄大な風景画や、野に咲く花々を多く描く。1998年頃より「アジアの美人画」をテーマに、アジアや日本の伝統文化・舞踊等に取材した人物画を中心に描く。

現在までに、「赤穂市立田淵記念館(赤穂市立美術工芸館 田淵記念館)」、「JR藤並駅ちいさな駅美術館」、「丸善丸の内本店」、「銀座教文館ナルニア国」、「ちばぎんアートギャラリー日本橋」等の美術館・画廊・大型書店で多くの日本画個展を開く他、後藤純男門下による「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」等のグループ展を全国の美術館・画廊・百貨店で多数開催する。絵画公募展での入選・受賞も多い。また、「紙の博物館(東京都王子)」、「呉市立美術館(広島県呉市)」、「大英博物館(イギリス)」等の金唐革紙展の製品を製作・展示する。


日本画作品の特長としては、鋭く繊細な鉄線描(てっせんびょう。法隆寺金堂壁画等に見られる技法)、幻想的・物語的な空間表現、中国の少数民族や各国の民族衣装の華麗な色彩表現、人物の清楚な美しさと人物の心を表出した目の描写の印象強さ等が挙げられる。また、アジア各国や日本各地での単独取材旅行を多く行う。

現在、千葉県松戸市にアトリエをかまえ、「アジアの美人画」を中心画題として描く他、風景画や花鳥画等の小品も描く。また、日本・アジアの民話を元にした絵本の原画制作等、日本画を軸とした様々な絵画表現を探求している。2014年には作画絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)が、Internationale Jugendbibliothek München/ミュンヘン国際児童図書館の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。国立大学法人 東京藝術大学・デザイン科 非常勤講師。学校法人桑沢学園 東京造形大学 絵本講師(2017年-2018年)。国選定保存技術 金唐革紙 製作技術保持者。一般社団法人 日本美術家連盟 会員(推薦者 中島千波)、一般財団法人 日本中国文化交流協会 会員、絵本学会 会員。

1968年 兵庫県赤穂市生まれ。伯父はからくり人形師の後藤大秀。祖父は指物大工。
1983年 「第1回全国都市緑化フェア図画・ポスターコンクール」大阪府知事賞(最高賞)。
1984年 「太陽の日記念絵画コンクール」(審査委員長は岡本太郎)佳作賞。「旺文社主催全国学芸科学コンクール デザイン部門」旺文社賞(銀賞)。
1986年 「児童生徒美術展」(ビクトリア国立美術館/オーストラリア)。
1988年 大阪市立工芸高等学校美術科を首席で卒業。美術予備校の立川美術学院にて村上隆に学ぶ。
1995年 国重要文化財建造物等「金唐革紙」復元製作。以降、入船山記念館(呉市)、移情閣(神戸市)、旧岩崎邸(台東区)等の復元を手がける。ジャワ島・バリ島写生旅行、中華人民共和国(北京・西安)写生旅行。
1996年 東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男に師事。後藤純男門下による「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)に参加、以後2010年まで毎年開催。
1997年 イタリア・バチカン市国写生旅行。
1998年 NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作。
2000年 千葉銀行2000年度カレンダー作品採用。「三渓日本画賞展2000」入選(横浜三渓園)。
2002年 「新生展」入選(新生堂/東京都南青山)。「北の大地展」佳作(北海道)。
2004年 個展(新樹画廊目白)にインド大使夫妻、バチカン市国大使を招待。インド(北部・東部・西部)写生旅行。
2005年 タイ王国・カンボジア写生旅行。「名士寄贈書画工芸作品展」(毎日新聞主催。心斎橋大丸、のち毎日新聞ビル)以後2011年まで毎年出品。
2006年 ちばテレビ「ニュースC-MASTER」にて個展(ギャラリーアートサロン)取材・特集放映。
2007年 ベトナム写生旅行。NHK「にっぽん心の仏像」アトリエ取材・放映。「金唐革紙展」(大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)。
2008年 中華人民共和国(貴州省・広西チワン族自治区)写生旅行。
2009年 ネパール・タイ王国写生旅行。「F展」大阪市立美術館館長奨励賞(大阪市立美術館)。
2010年 NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」取材協力・放映。
2011年 タイ王国・ラオス写生旅行。
2012年 中華人民共和国(チベット・四川省)写生旅行。
2013年 絵本「ながいかみのむすめ チャンファメイ」を福音館書店より出版。絵本「犬になった王子 チベットの民話」を岩波書店より出版。
2014年 ミャンマー(ビルマ)写生旅行。絵本『犬になった王子 チベットの民話』がミュンヘン国際児童図書館「The White Ravens 国際推薦児童図書目録2014」に選定。
2015年 イタリア・ボローニャブックフェア Bologna Children’s Book Fair 2015に絵本『犬になった王子 チベットの民話』展示。
2016年 挿絵本「おしゃかさま物語」を佼成出版社より出版。スリランカ写生旅行。千葉テレビ「NEWSチバ930」アトリエ取材・特集放映。
2017年 学校法人桑沢学園 東京造形大学「絵本A・B」非常勤講師 就任。絵本「わかがえりのみず」を鈴木出版より出版。国立大学法人 東京藝術大学「デザイン科 アートアンドデザイン」非常勤講師 就任。絵本「金色の鹿」を子供教育出版より出版。
2018年 台湾写生旅行。中国(上海)写生旅行。
2019年 中日国際書画学術研討会、煙台職業学院書画芸術研究院 掲牌儀式・展覧会(中国山東省)。中華人民共和国(南京・揚州・西寧・敦煌莫高窟・上海)写生旅行。
代表作
天国の扉─華洛(からく)─
天国の扉─日輪─
曙光さすアンコール・ワット
剣の舞(朝鮮舞踊)
舞姫シータ(インド舞踊)
妙なる国の少女(バリ島)
佐藤圀夫
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
岩手県出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年秋院展初入選。1948年に高山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加、山口蓬春に師事、1949年日展初入選。1954年日展特選。1963年日展審査員、1970年名古屋芸術大学絵画科教授、1976年日展評議員、1977年日展文部大臣賞受賞。1985年、1986年紺綬褒章連続受章、1987年金閣寺天井画復元制作、1989年日本芸術院賞受賞。1993年日展理事、1997年名古屋芸大を退職、名誉教授、勲四等旭日小綬章受章。1999年日本芸術院会員に任命される。日展常務理事、顧問。 2006年1月24日没。生前の功績に対し、政府より旭日中綬章、併せて叙位を賜る。

名古屋芸術大学の教授を長く務めた縁で名古屋日展日本画部門の実質的責任者、岩手県出身者ということで仙台で開催される河北展日本画部門審査責任者、山口蓬春主要門下生ということで山口蓬春記念館理事等も歴任。 母方の係累には帝国議会衆議院衆議院議員を務めた小田為綱がおり、佐藤圀夫の実兄には早稲田大学第二政経学部学部教授、学部長、名誉教授、参議院特別顧問、弁護士を歴任した佐藤立夫。また佐藤圀夫夫人の係累には洋画家の松本竣介につながる。
代表作
夕照
虹かゝる
津軽
椿
下村観山
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けととされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。1886年(明治19年)芳崖が制作で忙しくなると、親友である橋本雅邦に紹介して師事させる。1889年(明治22年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学。卒業後は同校で教えていたが、1898年に岡倉覚三(天心)が野に下ったときに行動を共にし横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。1903年2月21日、文部省留学生として渡英のため横浜を出航、12月10日帰国。

1906年、天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山とともに同地へ移住し画業を深めた。1917年6月11日、帝室技芸員となる。1930年 死去。
代表作
鷹図
辻説法
日蓮上人辻説法
熊野勧花
蒙古襲来
山田真巳
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
東京芸術大学美術学部日本画科修学中に日本美術院展に入選する。その後、日本画家として活動を続けながら世界各国を歴訪し、その国々においての作品を残している。現在も定期的に個展を開き活動を続けており、最近の活動では2006年2月に東京アメリカンクラブ、2014年9月には在日インド大使館にて個展を開催しており、後者には来日中のナレンドラ・モディ第十八代インド首相が訪れた。2016年10月にはインド文化交流評議会(I.C.C.R.)主催の国際会議にて「インドの画題と画材を用いた日本画の技術(The Technique of "Japanese Style Painting" with Indian Subjects and Pigments)」のテーマで特別講演(英語)をした。

妻は作家の山田真美。
代表作
極楽鳥屏風
エアーズロック屏風
カタカリ屏風
マチャプチャレ山
シヴァとパールヴァティ
杉山寧
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。1928年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年、帝展に出品、1931年、美校日本画科卒、結城素明に師事。1934年、第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学に学ぶ。だが1938年に肺結核を病む。1943年、朝鮮満洲支那へ取材旅行。その後は病のために長く創作活動が止まる。

1947年に日展特選、1950年、日展審査員。1951年に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1957年、日本芸術院賞受賞、1958年、日展評議員。1970年、日本芸術院会員。1974年、文化功労者、文化勲章受章。

1958年6月、長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三島を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った(媒酌人は川端康成夫妻)。

1969年に日展常務理事となり、1974年に日展理事長に就任。この間、1970年に娘婿の三島が割腹自殺。1976年、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年、東京国立近代美術館評議員。1991年に東京都名誉都民になる。 1956年から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年の誕生日の朝、心不全のため没した(生没同日)。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある。

戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また。エジプトやインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。
代表作
野(の)
穹(きゅう)
洸(こう)
鈴木空如
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
明治6年(1873年)、鈴木虎之助・フミの三男として、秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれる。

明治25年(1892年)に上京して、画工・長山蘭林に師事し日本画を習う。日清戦争に従軍後の明治31年(1898年)、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学。山名貫義に師事した。

卒業後、画壇には属さず、法隆寺金堂壁画の模写と仏教美術の研究に打ち込んだ。

大正7年(1918年)ナヲと結婚。2年後に長女豊子をもうける。

大正14年(1925年)豊子が喘息を悪化させ、死去。以後ますます金堂壁画の模写にのめり込む。

明治40年(1907年)から昭和7年(1932年)にかけて法隆寺に数十回出向き、金堂外陣(げじん)の土壁に描かれた十二面の壁画を独力で模写した。

昭和21年(1946年)死去。
代表作
法隆寺金堂壁画模写
童形地蔵菩薩
千住博
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、絵画制作にとどまらず、講演や著述など幅広い活動を行っている。自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。
大学卒業後の1980年代後半は、主として風景をモチーフにして絵を描く。「東京育ちのため、新潟の山並みに全部違う木が生えていたのを見て、初めは植えられたのだと思った。しかし人から自然に生えているということを教わり、本当に驚いた。必然的にそこでビルのテーマが終り、風景へと向かうようになりました。」と語っている[10]。

1993年に発表した『フラットウォーター』に至る経緯として、「(大学を卒業後)ビルじゃない何かを描かなければいけないと思いながらも、しかし、それが何なのか分からない。焦りを感じつつ、そんな状態が約10年ぐらい続いていました。奈良の古寺からパプアニューギニアまで、本当に手当たり次第、何でも描きました。その中で最終的にハワイのキラウエア火山の溶岩が海に流れ込む『フラットウォーター』へ至り、さらに『滝』に出合った。そこで時間表現という私のテーマが整理整頓された」と語っている[10]。『フラットウォーター』を発表した1993年6月、ニューヨークのマックスウェル・デビッドソン・ギャラリーでの個展が好評を博し、ニューヨークの美術誌『ギャラリーガイド』の表紙を飾る。

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品した『滝』は縦3.4メートル、横14メートルの大作で、題名は『THE FALL』だった。滝の意味ならば『THE FALLS』となる。『THE FALL』というのはアダムとイヴが楽園を追放されたという「墜落」の意味だと語っている[5]。日本館は隈研吾の会場設計のもと、館内全域に水を張り、すべての作品が水面に反射するという会場構成だった。床に水を張る工事を請け負った現地作業員の仕事が、ガスバーナーなどを作品のすぐそばで使用するにもかかわらず、かなり大雑把だったため、作業員の不注意によって溶けたコールタールが滝の絵に付着した。その場にいた千住は、画面に付着したコールタールをとっさに左の素手で取り払って大火傷を負い、救急病院で治療を受ける事態となった。幸いにも利き手の右手が無傷だっため、無事修復作業を終え、初日を迎えることが出来た。6月10日の授賞式では、手に白包帯の姿で名誉賞の金色の楯を受け取っている[5]。

1997年、大徳寺聚光院別院全襖絵の制作を大徳寺聚光院から依頼される。どんなに時間がかかってもいいから、と30代のまだ若い作家に依頼する聚光院の姿勢に恐れ入ったと語っている。また、自分を推薦した松井力に大変感謝しているという[1][11]。

2003年、大徳寺聚光院別院のために描いた襖絵が「大徳寺聚光院の襖絵展」として東京国立博物館で日本で公開された。制作の様子はNHKテレビで『77面の宇宙』として放映された。制作を通して自分の限界をたびたび思い知らされたが、これに打ち克つ方法は、自分の過信を正し、本当の実力が如何ほどかを認め、正面からこれに立ち向かうことだったと語っている[2]。

2003年、六本木のグランドハイアット東京の3階ホワイエに、幅25メートルの白黒の滝の作品を完成させる。オーナーである森ビルの森稔社長(当時)に「好きにしなさい」と言われ、「それでは」と言って本当に好きに制作させてもらった作品だと語っている。会場構成はインテリアデザイナーの杉本貴志[2]。

2003年秋、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の主任研究員を務めている小川盛弘から、1954年に戦後の日米友好関係の再構築を願う官民あげての努力により、日本からアメリカへの贈り物として、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の中庭に建造、展示された「松風荘」という日本建築の襖絵の制作を依頼される。「松風荘」は設計が吉村順三、第11代伊藤平左エ門により施工された書院造りの純日本建築。「松風荘」はMoMAの中庭で1954年から2年間で25万人が見学するほどの好評を博した後、フィラデルフィアのフェアモントパークに移転された。1976年、米国生誕200年祭を機に、フィラデルフィア市からの依頼に応じ、「松風荘」は日本からの基金によって修復工事が行われた。千住は20面に及ぶ全作品とその著作権を寄贈することを小川に伝え、襖絵の制作を引き受ける。

2004年、東京国際空港第2ターミナルの到着ロビーに幅14メートルの『朝の湖畔』、空港ショッピングモールの天井に畳60畳の天井画、空港エスカレーターホールの上には縦6メートル、横18メートルの和紙を用いた立体作品を制作する。建築家シーザー・ペリの信頼と日本空港ビルデングの門脇邦彦社長(当時)のバックアップの下、満足の行く仕事が出来たと語っている。この空港ターミナルのアートワークの仕事を依頼されたのは、ちょうど大徳寺聚光院別院の襖絵を終えたばかりの頃で、休む間もなくこの仕事に取り掛かることになったが、むしろそれで良かったと語っている。

2007年、「松風荘」の襖絵が完成する。これにちなみ、フィラデルフィア市が2007年4月27日をHiroshi Senju Dayと制定し、毎年フィラデルフィアでこの記念日の近辺に講演会が開催される。同年、京都造形芸術大学学長に就任する。2013年3月まで3期6年務める。

2009年、ベネッセアートサイト直島の「家プロジェクト」に参加、全長15メートルの「空(くう)の庭」という崖の作品を完成させる。崖の背景にはあえて銀を使用した。それは銀が経年変化で黒変していくためで、時間が作品を少しずつ変えていき、去年見た作品と今年見る作品では別の作品になっていくという「無常観を視覚化したもの」であると語っている。銀の使用については尾形光琳の「紅白梅図屏風」からヒントを得たと語っている。

2010年、APEC JAPAN 2010の会場構成を担当し、各国首脳が自分の絵の前で首脳会議を開き、その映像が広く世界に流れた。当時内閣総理大臣だった菅直人が、晩餐会のスピーチで全世界の首脳に自分を紹介してくれたことは、生涯忘れられない名誉なことだったと語っている[2]。同年、東京国際空港国際線ターミナルのアートディレクションの一環として『ウォーターシュライン』と題する全長18メートルの滝の作品を制作する。作品は国際線の検疫、入国審査前の壁面に設置されている。清く美しい水のイメージを通して日本を世界に伝えていこうとするものと考えている。

2011年、軽井沢千住博美術館がオープンする。同年、水戸岡鋭治とともにアートディレクションを担当したJR博多駅がオープンする。公募により集まった3万点にのぼる一般市民が描いた葉や花、鳥の作品を、千住が描く木の枝で一つにまとめ、陶板のタイルに焼き付けるという巨大なアートプロジェクトである。

2013年、大徳寺聚光院に新しく増築された大書院等に、襖28面と床の間2ヶ所にわたる障壁画を完成する。完成までに10年の月日を費やした。1979年に『モナリザ』がルーブル美術館から貸し出されて日本で公開された際、『モナリザ』と引き換えにルーブルに渡った狩野永徳の国宝『花鳥図』はどこからどう見ても完璧に近く、千住は自分が依頼された大書院の襖絵が、廊下一本隔てただけで狩野永徳の国宝作品と接することの重圧に長い間苦しんできたと語っている。

1958年1月7日 東京都杉並区に生まれる。
1964年 慶應義塾幼稚舎に入学。
1970年 慶應義塾普通部に入学。
1974年 慶應義塾高等学校に入学。
1978年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学。
1982年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。
1984年 東京藝術大学大学大学院修士課程修了。修了制作東京藝術大学買上。
1987年 東京藝術大学大学院博士課程単位取得満期退学。修了制作東京大学買上。
1988年 ガレリアフォルニ(ボローニャ・イタリア)にて個展
1989年 オーストラリア・シドニーにあるマンリー市立美術館で個展。「ジ・エンド・オブ・ザ・ドリーム」を発表。
1990年 神奈川県立近代美術館で「収蔵作品による近代日本画の歩み展」に参加。
1993年 ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙に選出される。ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーで個展。「Flatwater」を発表。
1994年 山中湖高村美術館で 個展「千住博1980−1994展」。「星のふる夜に」に対し第4回けんぶち絵本大賞を受賞。第7回MOA岡田茂吉賞絵画部門優秀賞受賞。
1995年 創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門にて名誉賞を東洋人として初めて受賞。台湾台北市美術館で開催された「千住博展」はピカソに次いで2人目の会期延長となった。
1996年 彫刻の森美術館で個展。「千住博 Waterfalls & Glasses」展。
1997年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかる。
1998年広島市現代美術館収蔵「八月の空と雲」に対し紺綬褒章受章。
2000年 「ライフ」に対し河北倫明賞受賞。
2002年第13回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞受賞。同年ニューヨークのジャパンソサエティーとアジアソサエティーで行われた「ニューウェイオブティー」展に参加[12]。同年韓国ソウル国立現代美術館で行われた「水墨の香り」展に参加。
2003年 大徳寺聚光院別院襖絵完成。東京国立博物館で一般公開。 グランドハイアット東京に高さ3メートル横幅25メートルの滝の壁画を制作。
2005年 第44回ミラノサローネ「レクサス・Lフィネス」にコラボレーションアーティストとして参加。アートディレクションと絵画を担当。福岡アジア美術館で個展「大徳寺聚光院別院襖絵七十七枚の全て」展を開催。
2006年 フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。光州ビエンナーレ出品。ジャガー・ルクルト「レベルソ」誕生75年を記念した特別限定モデルの文字盤をデザインする。
2009年 ベネッセアートサイト直島・家プロジェクト参加。
2010年 APEC2010首脳会議の会場構成担当。2011年成都ビエンナーレ出品。
2011年までに東京国際空港(羽田)第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。アートディレクションを担当したJR九州博多駅が完成。「軽井沢千住博美術館」開館。
2013年 大徳寺聚光院京都本院の襖絵全てが完成。
2014年 オペラ『夕鶴』の舞台美術を担当。
2015年 第56回ヴェネツィア・ビエンナーレ「Frontiers Reimagined」展出品。シャンパーニュ委員会日本事務局より第7回ジョワ・ド・ヴィーヴル賞を作曲家の千住明、ヴァイオリニストの千住真理子と共に兄妹で受賞。故宮博物院南院プロジェクト完成(中華民国 台湾)。高野山真言宗総本山金剛峯寺の主殿2部屋の襖絵の制作を手がけることが決定。
2016年 3月1日から大徳寺聚光院創建450年を記念して、奉納した襖絵を狩野永徳の国宝障壁画、重要文化財の茶室「閑隠席」とともに2017年3月26日まで特別公開。薬師寺東院堂にて予備校時代の師・武田成功のガラス作品と「水と光の幻想」展。平成28年度外務大臣表彰受賞。
2017年 第4回イサム・ノグチ賞受賞。
2018年 「高野山金剛峯寺 襖絵完成記念 千住博展 ―日本の美を極め、世界の美を拓く―」 を開催。2020年高野山金剛峯寺へ奉納する襖絵を、奉納に先駆けて展覧会で紹介。(巡回会場:富山県美術館、鶴岡アートフォーラム、秋田市立千秋美術館・秋田県立美術館、そごう美術館、北九州市立美術館分館、神戸ゆかりの美術館・神戸ファッション美術館、愛媛県美術館を巡回。)JCCIより日米特別功労賞(Eagle on the World Award)受賞。
現在、京都造形芸術大学大学院教授。2007年より2013年3月まで京都造形芸術大学学長を務めた。
代表作
ザ・フォール
大徳寺聚光院伊東別院襖絵
石橋
ザ・フォールズ
空(くう)の庭
高山辰雄
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。

高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。1949年(昭和24年)には日展に「少女」を出品し、再び特選となる。この頃から独自の幻想的な画風が定着する。

1960年(昭和35年)に「白翳」で日本芸術院賞、1964年(昭和39年)に「穹」で芸術選奨文部大臣賞、1970年(昭和45年)には日本芸術大賞を受賞。

1972年(昭和47年)日本芸術院会員。1975年から1977年まで(昭和50–52年)日展理事長を務め、任期満了後は日展常務理事、顧問となる。1979年(昭和54年)文化功労者として顕彰。1982年(昭和57年)70歳の時に文化勲章を受章している。1983年(昭和58年)に大分市名誉市民に推挙され、1987年(昭和62年)には世田谷区名誉区民として顕彰される。1985年(昭和60年)には東京はじめ日本の5都市で「日月星辰-高山辰雄展1985」を開催。屏風絵の大作をはじめとする意欲作を出品し、健在ぶりを示した。

2007年(平成19年)9月14日午後4時19分、肺炎のため自宅で死去。95歳没。

出身地の大分県には高山にちなんだ「高山辰雄賞ジュニア県美展」(通称「高山賞」「高山展」)という名称の賞がある。
代表作
砂丘
浴室
食べる
日(六曲屏風)
月(六曲屏風)
赤い服の少女
二人
草原の朝
田中一村
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1908年 - 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられる。大正また10代にして既に蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。
1920年 - 米邨の落款で描いた枝垂れ桜に四十雀の図が、ローマ東京間の長距離飛行を達成したイタリア人飛行士に贈られた書画集(東京市内の小学児童の一校一名の作品を選んで貼付)に載る。
1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1931年 - それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1938年 - 親戚の川村幾三氏を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
1947年 - 「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて一村と名乗る。
1948年 - 第20回青龍社展に「秋晴」「波」を出品。このうち「波」は入選するが、「秋晴」の落選に納得できず、「波」の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
1953年 - 第9回日展(審査員に東山魁夷が参加)に、「秋林」を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。(この年の12月25日、奄美大島が日本に返還される。)
1954年 - 第10回日展(審査員に加藤栄三、橋本明治が参加)に「杉」を出品するが落選。
1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
1957年 - 院展への出品を目指し、制作を開始する(この年、院展の監査台帳には出品の記録なし)。
1958年 - 第43回院展に「岩戸村」「竹」を出品するが落の選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。

1959年 -国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
1960年 -5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
1961年 -3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
1962年 -名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
1965年 -3月末、姉・喜美子の危篤を知らされ、千葉に帰る。5月16日、喜美子逝去(享年60)。遺骨を抱いて奄美に戻る。12月5日、川村幾三逝去。
1967年 -5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
1972年 -紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
1976年 -6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院する。その後名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリに励む。姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。
1977年 -春、体調やや回復する。9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。墓所は満福寺。戒名は真照孝道信士。
代表作
白梅
牡丹図
白い花
花と軍鶏
素描シリーズ
花と鳥
田渕俊夫
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
東京市江戸川区出身。1965年、東京藝術大学美術学部日本画科卒業。1967年、同大学大学院日本画専攻修了。師系は平山郁夫。

1968年、再興第53回日本美術院展覧会で初入選し、1982年と1985年に日本美術院賞(大観賞)受賞。その後も数々の受賞歴を重ねた。

1995年より東京藝術大学教授、1996年より日本美術院評議員となり、2005年に東京藝術大学理事・副学長、2006年に日本美術院理事に就任。現在は、日本美術院同人・代表理事(理事長)および東京藝術大学名誉教授を務める。

著作に「田渕俊夫 京都を描く―感動を表現する日本画の技法」(1997年)などがある。
代表作
濃尾三川
永倉江村人
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1881年、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、明治31年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学。学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。明治36年同科を卒業、同校研究科(現在の東京芸術大学大学院)に進むがすぐに退学し、同年に旧制福岡県立中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)図画教師に赴任。翌年同校教師を免じられ、一年志願兵として軍役に服務。明治38年からは京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に標本描画嘱託として解剖教室に勤務、人体解剖図を専門に写実した。一時兵役のため休職ののち、大正2年まで勤務。ついで九州日報社(現在の西日本新聞社)社友となり昭和の初めまで画筆をとる。その後西新町の自宅で画家、俳人、表具師などの文化人グループを結成。昭和26年1月25日、没。享年71。
代表作
鷹図
長谷川路可
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1897年7月9日 - 東京府に生まれる。本名・龍三。父=杉村清吉 母=たか
1904年 - 暁星小学校(東京・麹町)に入学。寄宿舎に入る。
1907年 - 両親の協議離婚により母方に入籍。長谷川姓になり、帰省先の神奈川県鵠沼には叔母ゑいの経営する東屋旅館があり、画家・岸田劉生のほか多くの文人を知る。
1910年 - 暁星中学校に進学。
1913年 - 暁星中学校在学中、夕刻から洋画家黒田清輝の研究所に通う。
1914年 - 函館のトラピスト修道院で夏を過ごし同宿の詩人・三木露風との交友が始まる。12月13日 - 暁星学校にてハンベルクロード神父により受洗しカトリックに入信。洗礼名:ルカ。(雅号の路可はこの洗礼名に因む)
1915年 - 暁星中学校を卒業。渡邊華石に師事し南画を習得。第二回院展に入選《工場の裏》(水彩)
1916年 - 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。松岡映丘に師事。第三回院展入選《石山(朝鮮スケッチ)》(水彩)
1920年 - 第二回帝展に入選《エロニモ次郎祐信》(日本画)。三木露風に《聖ドミニコ像》を贈る。

1921年 - 東京美術学校日本画科を卒業。卒業制作《流さるる教徒》(日本画)。5月、パリ・ヨーロッパへ遊学。欧州航路・賀茂丸の船中で徳川義親侯爵と知り合い、以降う親交を深めるう
パリに住みシャルル・ゲランの門下として洋画を修得、肖像画を専攻。
1922年〜1923年 - アンデパンダン展《サーカスの女》(油彩)、サロン・ナショナル展《靴下をはく女》(油彩)
サロン・ドートンヌ展《香壺》(油彩)→プラハ国立美術館、《或る朝》(油彩)、《ブルターニュ農夫の家族》(油彩)→リール美術館、と相次いで入選。
1924年 - 松本亦太郎東京帝國大学教授、澤村専太郎京都帝國大学助教授、結城素明東京美術学校教授らから西域壁画の模写を依頼される。
7月から大英博物館(ロンドン)、フェルケルクンデ(民族学)博術館(ベルリン)の西域壁画を模写。
1925年 - 5月まで フランスのルーヴル美術館(パリ)とギメ東洋美術館(パリ)における模写。続いて再びドイツとイギリスで摸写。パリで開催された
現代産業装飾芸術国際博覧会(通称・アール・デコ博)の日本館の展示に参与する。
ブリュッセル文化美術博覧会の日本美術館建設と陳列に参与し、シュバリエ・レオポール2世勲章を受ける。ベルリンの日本美術展開催に小室翆雲代表と参与。
1926年 - 2月、摸写作業の大方が完了しパリに戻る。
ポール・アルベール・ボードワンが主宰する国立高等美術学校のフレスコ研究所(フォンテーヌブロー研究所)でフレスコ画の技法を学ぶ。
また、西域壁画の模写の業績が評価され、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。

1927年 - 香取丸で帰国し、藤沢市鵠沼の旧居に住み、アトリエを構える。同年、第7回新興大和絵会展にフレスコ画《アンレブマン・エウロペ》などを出品。
カトリック長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師が日本人として初めて司教へ叙階されたことを表慶して《切支丹曼荼羅》(日本画)(バチカン美術館所蔵)を教皇ピオ11世に奉献。
1928年 1月15日 - 菊池登茂と結婚。同年、後にカトリック喜多見教会となる狛江の伊東家聖堂(東京)に日本で最初のフレスコ壁画
《聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》(現在、大和市聖セシリア・八角堂に移設)ならびに《天地創造》を制作する。
11月3日 - 長女・百世、誕生。
黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎らと「カトリック美術協会」を結成。
1929年 - 国民新聞に連載の小説家・大佛次郎『からす組』の挿絵を担当。大和学園高等女学校(現・聖セシリア女子中学校・高等学校)で図画を担当する。
1930年 - ローマで開催された日本美術展覧会に横山大観、松岡映丘、平福百穂などの随員として派遣、カヴァリエーレ・コローナ・デ・イタリア勲章を受賞。
この期に教皇ピウス11世に拝謁、欧州各地を周り映丘と共にアメリカ、ハワイ経由で帰国。
銀座・資生堂ギャラリーで周遊スケッチ展を挙行。《HYDE PARK LONDON》(日本画)《ナイアガラ瀑布展望》(日本画)などを発表。
1931年 - 「新興大和絵会」解散。
早稲田大学で講演。理工学部建築学科の研究室の壁にフレスコ画《アフロディーテ》を描く。壁は塗り込められたが再発見され、修復後、現在は早稲田大学文学部に展示。
1932年 - 第1回「カトリック美術協会展」に《街を往く教徒》(日本画)、《細川ガラシア夫人像》(日本画)、《ある殉教者》(日本画)などを出品。
ジャワ、バリ島など南方の島々を廻る。8月1日 - 次女・百合子、誕生。
1933年 - 徳川義親候邸(東京)に《狩猟図》《静物》などのフレスコ画を制作。
1935年 - 徳川生物学研究所(現・徳川黎明会本部)(東京・目白)玄関ホールに天井画(フレスコ)を制作。
台湾各地を廻り、台北教育会館にて個展。4月16日 三女・清子、誕生。松岡映丘を中心とする「国画院」結成に参加。

1937年 - 文化服装学院に出講し、服装美学・服装史を担当。鵠沼から前年にアトリエを建設した東京・目白へ転居。
1938年 - 狩野光雅、遠藤教三と「第一回三人展」を開催。《楢橋夫人の像》(日本画)、《聴く人》(日本画)などを出品。
尾張徳川家納骨堂(愛知県瀬戸市定光寺)にフレスコ壁画制作
1939年 - カトリック片瀬教会献堂。内部装飾および《ルルドの聖母》《エジプト避行》《十字架の道行き》等を制作。
日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)へ出講。日本画、フレスコ画を担当。共立女子専門学校(現・共立女子大学)に出講。
東京・白金台の藤山工業図書館にフレスコ壁画《啓示と創造》《科学と芸術》を、助手瀬島好正氏制作。
1940年 - 東京家政専門学校(現・東京家政学院大学)に出講。服飾史を担当。11月22日 - 妻・登茂、東京市療養所にて死去(享年34歳)。
1941年 - 《三人展》を《翔鳥会》と改称。《天国と地獄》(日本画)《肖像》(日本画)などを出品。日本大学江古田キャンパス講堂にフレスコ画を制作。
日大の学生達と「日本フレスコ画協会展」を銀座・日動画廊で開催。
1942年9月11日 - 金子ヨシノと結婚
1944年8月24日 - 長男・巌、誕生
1945年 - 山形の妻の実家に疎開
1946年 - 文化服装学院へ出講(再任)。11月 恵泉女学園高等部に出講。服飾史を担当
1948年 2月13日 - 次男・路夫、誕生
1949年 - 鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂に《臨終の聖フランシスコ・ザビエル》(日本画)《聖ザビエル日本布教図》(日本画)などを制作。第十回カトリック美術協会展に≪受胎告知≫≪細川ガラシア≫≪長崎のアンジェラス≫を出品。この作品は翌年、バチカンで開催された「布教美術展」に出展する。
1950年 - 徳川義親候を初代学長とする文化女子短期大学(現・文化学園大学短期大学部)の教授に就任。11月15日 - 聖年に際し横浜からフランス船マルセイエーズ号でイタリアに向かう。

1951年 - 教皇ピウス12世に拝謁、《切支丹絵巻》(日本画)を献呈。金山政英在バチカン代理公使宅で下絵を制作し、日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア市)の壁画制作に着手。
以後の制作過程については「日本聖殉教者教会」を参照
1954年 10月10日 - 祭壇画と天井画の完成を受けて、バチカンのチェルソ・コスタンティーニ枢機卿をはじめ各多くの教会関係者、国の大使夫妻を、チヴィタヴェッキアのレナート・プッチ市長らを招いた壁画完成の祝別式が行われ、フランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)の称号を与えられるとともに、チヴィタヴェッキア市名誉市民に推挙される。
日伊合作映画『マダム=バタフライ』のタイトルバックを描く。
1955年 - 後援者・石橋正二郎氏の依頼により、バチカン美術館所蔵のポンペイ発掘の壁画《アルドブランディーニ家婚礼図》や、ルネサンス期の洋画を模写する。現在はブリヂストン美術館が所蔵。
教皇庁立ウルバニアーナ大学(ローマ)神学部礼拝堂に、聖フランシスコ・ザビエルの生涯を描くスコ壁画の連作:《リスボンでの乗船》《聖イグナチオ・ロヨラとのパリ時代》《インドでの説教》《日本での僧侶への洗礼》《中国・上中島での臨終》 を制作。
1957年 - 8月、日本聖殉教者教会の側廊の小祭壇画、《聖ペテロと聖パウロ》《聖ヨゼフ》《アッシジの聖フランチェスコ》《聖処女マリアの像》《みこころのキリスト像》《パドヴァのアントニオ》六点を完成させて帰国。
文化女子短期大学へ復職。壁画資料・滞伊中のスケッチ等を積んだ英国船シロン号がスエズ運河で沈没[1]。

1958年 - 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)本科芸能デザイン科講師として出講する。
昭和女子大学短期大学部、日本女子大学へ出講し、服装史を担当。岩国市旧本庁舎にモザイク壁画《繁栄》制作。
11月、ブリヂストン美術館(東京)で個展、《山幸彦の物語》三部作(フレスコ)《イタリアの想い出》(フレスコ)などを発表。
1959年 - 古屋旅館(熱海市)温泉プール「宇宙風呂」にフレスコ壁画《星座の神話》を弟子の伊藤忠男、中山竹史、沼沢均作、本間洋一、佐久野正堂らと制作する。
第二回日展に《シニョリーナ・マヌカン》(フレスコ)を出品し、後に《ファッションモデル》と改題する。
1960年 - 第20回国民歌劇協会公演オペラ『細川ガラシア』の美術を担当。日本聖殉教者教会の壁画制作によって第8回菊池寛賞を受賞。
武蔵野美術学校の教え子を率いて壁画集団「F・M」を結成し、東京・銀座の文芸春秋画廊で毎年展覧会を開催するとともに、様々な公共的な場所での共同作業を展開する。
第三回日展に《天正少年使節》(フレスコ)を出品。千駄ヶ谷の京青年文化会館の竣工にあたり、フレスコ壁画≪希望の富士≫ 制作。を
1961年 - 早稲田大学文学部研究室棟1階エレベータホールに床モザイク画《杜のモザイク》を制作。
ソビエトにおける日本現代美術展に《考古的幻想》(フレスコ)を出品。
1962年 - 船橋ヘルスセンターホテル(船橋市)に《人魚》(フレスコ)、《四季のモザイク》を制作。
第一回国画人協会展に《孤洞》(フレスコ)《いかるがの春》(フレスコ)を出品。
アリタリア-イタリア航空の就航記念招待で渡伊。日本二十六聖人列聖百年祭に参列。教皇ヨハネ23世に拝謁。
1963年 - 東松山カントリークラブに壁モザイク《彩雲》を制作。
日生劇場(東京・日比谷)ピロティ床モザイクを他の作家と分担制作。日本美術家連盟理事となる。
1964年 - 文化女子大学教授に就任
旧国立霞ヶ丘陸上競技場玄関に床モザイク《悠久》、メインスタンド正面に壁モザイク《勝利》(野見宿禰像)、《栄光》(ギリシャの女神像)を制作する。
静岡市の旧シャンソンビルにフレスコ画《香の華》を制作。浜松市・鴨江寺の旧国際仏教会館にフレスコ画《寂光》を制作。
仙台・三越で個展、《山の上の街》(フレスコ)などを発表。
1965年 - 第24回カトリック美術協会展に、《耳をそがれた聖三木パウロ》(フレスコ)などを出品。
オペラ『細川ガラシア』の美術を担当
日本二十六聖人記念館(長崎市)に《聖フランシスコ・ザビエル像》(フレスコ)を制作
1966年 - 心臓病で東京女子医大病院へ入院
1967年 - 日本二十六聖人記念館に《長崎への道》(フレスコ)を制作。
6月24日 - 妻ヨシノを同道しイタリアへ渡り教皇パウロ6世に拝謁して《暁のマリア》(日本画)を献上。
6月30日 - ローマで脳溢血発病。7月3日 - 午前5時、脳溢血のため、メルチェ-デ病院(ローマ)にて死去。
7月7日 - チヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会において葬儀。7月11日 - 聖イグナチオ教会(東京・麹町)において葬儀。
没後、従五位勲四等に叙され、「旭日小綬章」追贈。
1968年 - 路可の下絵を基に「F・M」会員によってベネツィアの工房で制作された《華の聖母子像》がイスラエル・ナザレの受胎告知教会に献納される。
長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。

路可の父・杉村清吉は、東京・芝で糸組物を生業とし、洋風のカーテン地とともに、内閣府賞勲局の大給恒の下で勲章の布の部分である綬(じゅ)の製造販売に当たっていた。明確に美術に関心を持ち作品が残っているのは中学校時代からで、カトリック入信時の洗礼名が画家の守護聖人ルカ。この時代の作品は水彩、油絵が中心だが、暁星中学校卒業後、渡邊華石に師事し、南画を習得している。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学し、大和絵の松岡映丘に師事してからは、大和絵(国画)に専心する。卒業制作が《流さるる教徒》であることからも分かるように、路可はこのとき既に、日本画でキリスト教世界を描くという自らのスタイルを確立させている。

東京美術学校卒業直後には、一転して若き日の憧れを抱いて、大戦間のパリに遊学する。西洋絵画を学んですぐに頭角を現すことになるが、西域壁画を模写する仕事で日本画の源流といったものを肌で感じ、アール・デコ博覧会で美術の新しい潮流に触れたことを経て、自らの「青の時代」に終止符を打つように1926年に制作した《南仏海岸風景》は水墨画で、この作品はサロン・ドートンヌ展に入選している。南仏の海辺を訪れたとき故郷の湘南の海を思い出したのだろうか、異国の海岸の風景といったものを、これまでの日本画家の誰も題材にしたことはおそらくなかったろう。日本人の洋画家の多くが西洋の近代的な絵画に追従しようとしていたときに、路可は西洋の古典的なフレスコ画を学び、そして、まるで自分自身を新たに発見するように描いたのが《南仏海岸風景》で、この作品にある洋の東西を超えていく想像力は、路可の日本画の大きな特徴になっていく。

1927年、パリから帰国後は、師・松岡映丘らが結成していた「新興大和絵会」と行動を共にしたが、しばらくは主にフレスコ画を出品していた。1935年、「帝展」の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成すると、長谷川路可も結成メンバーの一員となった。1937年「国画院同人第一回展」に路可は《トレドに於ける映丘先生像》(日本画)を出品する。ただ、翌年の映丘の死去により活動が休止したこともあり、「新興大和絵会」の東京美術学校時代の仲間だった遠藤教三・狩野光雅と「三人展」(後に「翔鳥会」と改称)を組織したが、戦況の悪化もあって6年ほどで活動は終了した。

路可は自らを表現するという近代的な芸術家であるとともに、絵を描くことで風景を写し取り、絵を描くことで人に敬意を表し、絵を描くことで人を楽しませることのできた稀有な画家だった。1925年(大正14年)、ブリュッセルの日本大使館で行われた朝香宮鳩彦王のベルギー王室への答礼の晩餐会で、エリザベート王妃の「藤の花を」というご希望をその場で席画して、ものの数分間で描き上げてご覧にいれたという逸話が残っている。

日本画でキリスト教世界を描くというのは、東京美術学校時代から一貫したテーマであったが、中でも1949年に「第十回カトリック美術協会展」に出品し、翌年バチカンのサンピエトロで行われた「布教美術展」に多くの日本人画家とともに出品した二双一曲の屏風絵《受胎告知》(現・教皇庁立ウルバニアーナ大学所蔵)は、左隻に百合の花を捧げる少女のような大天使ガブリエル、右隻に青いガウンを着て書見台の前で腕を交差させてお告げを受け入れる聖母マリアというルネサンス期の巨匠が描いたスタイルを踏襲しながら、日本画らしいシンプルな表現で見事にキリスト教世界を描き出している。

路可の代表作であるチヴィタヴェッキア「日本聖殉教者教会」の天井画《聖母子像》もまた、フレスコ画ではあるものの、その線は日本画そのものである。室町時代の盛装をした聖母マリアと、お稚児さんのような身なりをしたイエス・キリスト。若い頃から修練した日本画の技術と、カトリック信者としての信仰、さらにはおそらく長崎の潜伏キリシタンが信仰したとされる「マリア観音」への共感もあって、この和装の《聖母子像》を作り上げたのに違いない。チヴィタヴェッキアの祭壇画《日本二十六聖人殉教図》にしても、長崎の「日本二十六聖人記念館」の《長崎への道》にしても、フレスコ画でありながら、その表現は日本画のスタイルを踏襲している。路可の日本画家としてのキャリアは、日本画の枠を越えて、フレスコ画の大作へと結実していった。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国の探検家・東洋学者たちが中央アジア・西域の遺跡を調査し、壁画をはじめ多くの遺物を持ち帰ったことがある。日本画の源泉とでもいうべき貴重な壁画の重要性を感じていた日本の美術史研究家、東京帝國大学の松本亦太郎教授、京都帝國大学の沢村専太郎助教授らは、これらの西域壁画を模写できないものかと考えていた。そこで白羽の矢が立ったのがパリ遊学中の長谷川路可である。その経緯については諸説がある。

路可の話によれば、1924年ブリュッセルで開かれた国際学術会議に松本教授が参加した際、路可が大使館から依頼されて通訳を務めたときにその仕事ぶりが信頼され、松本教授から模写を依頼されたという。路可は留学中の身だからと固辞したが、西域の壁画こそ日本画の源泉という指摘が路可を決断させた。また、路可がルーブル美術館でドラクロワの『タンジールの舞女』を模写をしていたところに東京美術学校教授の結城素明が現れて路可に西域壁画の模写を打診し、折から来仏していた沢村専太郎助教授を紹介したという話も伝わっている。沢村助教授は、路可の模写期間中、作業に付き添って交渉その他のマネージメントを引き受けた。

一般の画家が練習用に模写するのと違い、考古学的な資料として模写するのであるから、「重ね描き」といって直に作品に和紙を重ね、ときにめくって確かめながら写し取るという方法で正確に模写が行われた。足掛け3年、折衝期間などを除いた正味約1年8ヶ月の歳月をかけて、70数点に及ぶ模写が行われた。これらの模写作品は、現在東京国立博物館、東京大学、京都大学、東京芸術大学に分割所蔵されており、特に東京国立博物館では東洋館で定期的に架け替えながら常設展示されている。

路可が模写を行った場所は次の施設である。

フェルケルクンデ(民族学)博物館(ドイツ・ベルリン)アルベルト・グリュンヴェーデルおよびル・コックによるキジール石窟など。
大英博物館(イギリス・ロンドン) オーレル・スタインによる敦煌。
ルーブル美術館(フランス・パリ) ポール・ペリオによる敦煌。
ギメ東洋美術館(フランス・パリ) ポール・ペリオによる敦煌。
ベルリンのフェルケルクンデ博物館の収蔵品の多くが、第二次大戦の戦禍のために失われ、戦後に移管されたインド美術館を経てアジア美術館に継承されたものを除き、路可の模写のみが原寸大・彩色史料としては、世界唯一となったものが少なくない。

もう一つのケースは、路可がチヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会の壁画の制作を進めていたときに、ブリヂストンの創業者石橋正二郎の依頼によるものである。自分の使いたい絵の具のためには自らが負担しても構わないという路可の仕事ぶりに感銘した石橋は、バチカン美術館所蔵のポンペイ壁画やルネサンス期の名画のいくつかを模写することを条件に、多額の寄付を申し出た。これらの模写作品は、石橋美術館・ブリヂストン美術館に分けて収蔵され、ブリヂストン美術館の4作品は、館内のティールーム「ジョルジェット」に常掲されていた。

少年・長谷川龍三は1914年、17歳の暁星中学5年の夏休みに北海道函館郊外当別のトラピスト修道院で一夏を過ごした。午前4時に起床し、午後9時の祈りが終わると就寝するという生活。労働修道士にまじって牧草を刈ったり、厨房の仕事や掃除など献身的な生活を続けながら、中沢神父様からカトリックの教えを授かり、同宿した詩人の三木露風からは芸術の尊厳について話を聞かされていたという。そうした体験を経て、その年のクリスマスを前に暁星学校でハンベルクロード神父から受洗し、洗礼名は画家の守護聖人であるルカだった。

東京美術学校日本画科に入学すると、3年生のとき《南蛮寺》を制作、翌年第2回帝展に《エロニモ次郎祐信》を出品し、路可はカトリック画家としての歩みを始める。また、美校在学中、露風には《聖ドミニコ像》(日本画)を白陵号でを贈っている。卒業制作は細川ガラシアを描いた《流さるる教徒》で、この作品から路可という雅号を名乗るようになる。現在、上記《南蛮寺》と共に東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。

東京美術学校卒業後からまもなく、23歳で路可は欧州航路でフランスへと渡る。これは憧れのパリに行って、念願だった西洋絵画の技法を学ぶつもりで旅立ったのだろう。渡仏した1921年の冬、暁星中学校の先輩岩下壮一から、在欧中の戸塚文郷、小倉信太郎と共に呼び寄せられ、ロンドンで「ボンサマリタン」という修道会を設立する動きと行動を共にしたことがある。早朝からのミサ、労働、夕方の長いお祈りとともに日本への布教を考える毎日だったが、ラテン語の習得に悩む路可に対して、戸塚から「君は君の芸術をもって神様の光栄のために働きたまえ、フラ・アンジェリコのように。」と諭され、岩下からも「君は芸術家として立派に布教できるのだから、神父の職を得て布教につくすより、むしろ専門にカトリック美術を勉強し、芸術をもって生涯を送った方がよい。立体派、キュービズムに影響されずにイタリアの正統画風を学ぶべきだ。」と忠告され、パリへ帰り、芸術活動に専念することになる。

パリに戻った路可は洋画の作品を次々と発表し、サロン・ナショナルやサロン・ドートンヌに入選するほどに頭角を現すが、西域壁画の模写の仕事と「アール・デコ」という新しい美術の潮流に接したことで壁画への興味が生まれ、また岩下の「イタリアの正統画風学ぶべき」という言葉に従うかのように、フレスコ画をフォンテーヌブローの「フレスコ研究所」でポール・アルベール・ボードワンについて修得する[2]。

路可の帰国した1927年は、小田急小田原線の開通した年でもある。小田急電鉄創設者利光鶴松が、長女(伊東)静江の意を受けて東京府下狛江に私的聖堂(後にカトリック喜多見教会となる。)を建設した際、その壁画制作を路可が依頼された。会堂は1928年7月に竣工し、内陣および側壁に長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画《聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》と《天地創造》が壁面を飾った。この壁画のうち内陣の《聖母子ほか》の壁画だけが、1978年、聖堂の移転改築の際に路可の弟子の宮内淳吉の手によりストラッポされ、喜多見駅前の新しいカトリック喜多見教会小聖堂に10年後に復元された。壁画完成後、路可は大和絵画家らしく『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品している。このことがきっかけで、1929年、小田急江ノ島線開通に際して南林間駅前に伊東静江が開いたミッション・スクール大和学園高等女学校の図画担当講師に招聘された。2013年7月、カトリック喜多見教会の閉鎖に際し、《聖母子ほか》と《喜多見教会縁起絵巻》は学校法人大和学園聖セシリア(大和市)に寄贈され、現在同学園が所蔵している。

1928年に黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎とともに理事として「カトリック美術協会」を結成。1932年の第1回「カトリック美術協会展」より、渡伊前年の第10回展までほぼ連続して日本画を出品し、中心的な役割を果たした。鵠沼時代の路可は、鎌倉の天主公教会大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会)に在籍し、片瀬の山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。1937年、この地にカトリック片瀬教会が建設されることになった。聖堂の建物は純日本風の建築様式にすることになった。一見寺社風の聖堂が1939年の「聖ヨゼフの祝日(3月19日)」に献堂された。この時点で路可は既に目白へ移っていたが、聖壇両脇の床の間を飾る《エジプト避行》、《ルルドの聖母》(これは1946年路可筆の《聖家族》に架け替えられた)の掛け軸と、礼拝室両側に《十字架の道行き》の14面の色紙、さらに司教館玄関に飾られている扇面《宣教師》を描いている。この他、各地の教会のために描いた日本画の作品としては、名古屋市カトリック南山教会の《信徒》(1940年)、鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念絵画として描いた《臨終の聖フランシスコ・ザビエル》、《少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア》、《聖ザビエル日本布教図》(1949年)が知られている。

カトリック画家、長谷川路可の生涯最大の仕事はイタリアチヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会聖堂の内部装飾である。1950年、聖年に際してバチカンを訪れた路可は、同年の8月、既に金山政英駐バチカン代理公使の紹介で、松風誠人を介して、日本聖殉教者教会の壁画制作を依頼されており、翌年の年頭から下絵の制作に取りかかった。夏には現地入りし、フレスコ壁画制作に着手する。清貧を重んじる修道院の中の生活である。「朝は未明の鐘とともに起き、スパゲッティの繰り返される貧しい食卓に長い祈りの後のイタリア語の談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただ一人の日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。(朝日新聞昭和32年9月15日)」こうした環境の中で、足場組みなどは現地の職人に手伝わせたが、祭壇画、天井画の制作は独力で進められた。

こうして祭壇画《日本二十六聖人殉教図》と天井画《聖母子像》《アッシジの聖フランチェスカ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》などが出来上がったところで、1954年10月10日、コスタンティーニ枢機卿を迎えて、路可が後に「生涯最良の日」と記した壁画完成の祝別式が挙行された。そこに列席したのはイタリア側はチヴィタヴェッキア・タルクイニア教区長ジュリオ・ビアンコーニ司教、フランチェスコ・ダンジェリ修道院長、ジアチント・アウリッチ元駐日大使、宗教に否定的だったイタリア共産党のチヴィタヴェッキア市長レナート・プッチ、在外外交官など日本側からは原田健駐イタリア大使夫妻、井上孝治郎駐ヴァチカン公使夫妻、パリ美術家連盟の関口隆志画伯などが参列し、また、高松宮様からはご紋付きの祭壇掛けが贈呈された。さらには日伊合作オペラ映画「蝶々夫人」に出演するためにローマに滞在していた女優の八千草薫、東郷晴子、歌手の田中路子ほか、宝塚歌劇団の女優15名が着物姿で参列し花を添えたという。その席で路可はフランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)という称号を受け、またチヴィタヴェッキア市からは名誉市民に推挙された。

コスタンティーニ枢機卿はその祝辞の中で、殉教者たちの信仰を表す表現の深さ、少年を含む殉教者の示した一途な信仰や日本人の神秘性を称賛し、「祭壇の周囲に描かれたこの壁画が、感動すべき日本信徒の殉教をわれらに知らせたばかりではなく、画家がイタリアで学んだ技術を立派な形でわれらに示したことに注目しなければならない。」と述べ、東西の文化交流が結実し、日本画の技法とフレスコ壁画が巧みに融合したこの壁画の美術上の卓越さを指摘すると、参列した一堂に深い感銘を与えた。その後路可は、ウルバニアーナ大学(ローマ)の神学部礼拝堂に聖フランシスコ・ザビエルの生涯を描いたレスコ壁画の連作《制作し、帰国したのは1957年8月だった。

カトリック画家、長谷川路可の生涯最後の仕事は、長崎市の西山刑場跡に建てられた日本二十六聖人記念館における制作である。1966年に壁画《聖ザビエル像》を制作したところで心臓病で東京女子医大病院へ入院、翌年、フレスコ壁画《長崎への道》を制作、これが大作としては遺作となった。

路可はその生涯の中で、さまざまな絵画(日本画)をバチカンに献上し、《切支丹曼荼羅》(1927年)《ゲッセマネ》(1934年)《切支丹絵巻》三巻(1951年)《暁のマリア》(1967年)は現在バチカン布教民族美術館に所蔵されている。1927年、長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師の、日本人として初の司教への叙階を表慶した≪切支丹曼荼羅≫は、「日本のカトリック信徒よりローマ法王ピオ11世に贈る」として描かれたもので、大和絵風の画面に和装の聖母子が天女のように降臨し、帆船に乗って日本にたどり着いた宣教師や、南蛮寺で信徒になった人々、迫害されるキリシタンといった日本の「切支丹」の歴史を一枚の絵に描きこんだもので、路可のその後のスタイルを確立したメルクマークとなる代表作である。おそらく大和絵という和の感覚と、キリスト教世界が融和することを確信した作品だったろう。最後に献上した≪暁のマリア≫も、天女のようなマリアが雲に乗ってイエスを抱きながら降臨する作品だった。路可の示した、布教した国々にはそれぞれの国の聖母子像があるという考えは、その後、イスラエル・ナザレの受胎告知教会で各国の聖母子像を展示するという企画へとつながり、日本からは1968年、路可の下絵を基に「F・M」会員が≪華の聖母子≫という作品を作り献上している。なお、バチカンの「布教民族博物館」では、路可の作品がしばしば展示されている。

長谷川路可は日本におけるフレスコ、モザイク壁画のパイオニアとして活躍した画家である。フランス遊学でポール・ボードワンから伝統的な手法を学んだあと、日本聖殉教者教会の壁画を制作しながらローマ美術アカデミーのフェルッキオ・フェラッツィにアドヴァイスを受け、また現地の美術家ニコラ・アロッチらとも親しく交流しながら、フレスコ技術の習得に努めていった。

初めての渡欧から帰国後間もない1928年、旧カトリック喜多見教会の前身に当たる伊東家聖堂に日本初のフレスコ壁画を制作した。以来、路可の制作した壁画・床絵・天井画などの次の作品が記録に残っている。

1928年 - 狛江町(東京)の伊東家聖堂に《聖母子像・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》(フレスコ旧カトリック喜多見教会に移設後、現在、大和学園聖セシリア八角堂に移設)。≪天地創造≫(フレスコ:建物の解体と共に遺失)
1931年 - 早稲田大学理工学部建築学科の研究室(東京、新宿区)に《アフロディーテ》(フレスコ:建物解体により一部を修復後、現在文学部新33号館に移設展示)
1933年 - 徳川義親侯爵邸(東京、豊島区)玄関ホールに《狩猟図》、食堂に静物画》(建物の長野県野辺山への移設に際し、一部フレスコをストラッポ保存)
1933年 - 東京府養正館(東京、港区)。《旭日冨嶽圖》(フレスコ:建物解体とともに遺失)
1935年 - 徳川生物研究所(東京、豊島区)、現財団法人徳川黎明会《天井画》(板絵・現存)
1938年 - 尾張徳川家納骨堂(瀬戸市定光寺)。(フレスコ:現存)
1938年 - 文化服装学院大講堂(東京、渋谷区)。《西洋服装史》(フレスコ:戦災で焼失)
1939年 - 藤山工業図書館(東京、港区)。《啓示と創造》、《科学と芸術》(フレスコ:建物解体により遺失)
1941年 - 日本大学江古田校舎講堂(東京、練馬区)。題名不詳(天平時代の壁画を題材)(フレスコ・建物解体により遺失)
1942年 - 所在不明。《星港陥落記念》。(フレスコ・戦災で焼失)
1950年 - 夢想山 本眞寺(藤沢市)。《歩む釈迦像》(水墨板絵・現存)
1951年 - 1957年 日本聖殉教者教会(イタリア、チヴィタヴェッキア)。祭壇画:《日本二十六聖人殉教図》全五面
天井画: 《聖母子像》《アッシジの聖フランチェスコ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》
側廊小壁画: ≪聖ペトロと聖パウロ≫≪聖ヨセフ≫≪アッシジの聖フランチェスコ≫
≪聖処女マリア≫≪みこころのキリスト像≫≪パドヴァの聖アントニオ≫ (フレスコ・一部モザイク・現存。損傷が心配される)
1955年 - ウルバニアーナ大学(イタリア、ローマ)神学部礼拝堂。壁画:フランシスコ・ザビエルの生涯≪聖イグナチオ・ロヨラとのパリ時代≫≪リスボンでの乗船≫
≪インドでの説教≫≪日本の僧侶への洗礼≫≪中国・上中島での臨終≫(フレスコ・現存)
1958年 - 旧岩国市庁舎壁画。《繁栄》(モザイク・建物解体により一部を移設保存)
1959年 - 古屋旅館大浴場(熱海市)。《星座の神話》(フレスコ・改装された駐車場にて公開)
1960年 - 武蔵野美術大学3号館(東京、武蔵野市)。『題名不詳(壁画集団F.M.練習用習作)』(フレスコ・現存) 東京青年文化会館(東京に渋谷区≪希望の富士≫(フレスコ・ストラッポされ藤沢市鵠沼に移設の計画あり)
1961年 - 早稲田大学33号館1階エレベータホール床(東京、新宿区)。《杜のモザイク》(モザイク・建物解体により新校舎に移設)
1962年 - 船橋ヘルスセンターホテル(船橋市)。《人魚》(フレスコ・建物解体により遺失)、《四季のモザイク》(モザイク・建物解体により遺失)
1963年 - 東松山カントリークラブ(東松山市)。《彩雲》(モザイク・建物解体により遺失)
1963年 - 日生劇場(東京、千代田区)ピロティ床、大理石モザイクを共作(モザイク・現存)
1964年 - 国立霞ヶ丘陸上競技場正面玄関床(東京、新宿区)。《悠久》(モザイク・ケーブル増設工事により遺失)
1964年 - 国立霞ヶ丘陸上競技場メインスタンドエレベーター棟(東京、新宿区)。《勝利》(野見宿禰像)≪栄光≫(ギリシャの女神像)(モザイク・現在スポーツ博物館所蔵)
1964年 - 大成化学相模原中央研究所(相模原市)。《幽玄》(モザイク・建物解体により遺失)
1964年 - 国際仏教会館(浜松市鴨江寺)。《寂光》(フレスコ・遺失)
1964年 - シャンソンビル(静岡市)。《香の華》(フレスコ・損傷により遺失)
1965年 - 日本二十六聖人記念館(長崎市)。《ザビエル像》(フレスコ・現存)
1967年 - 日本二十六聖人記念館(長崎市)。《長崎への道》(フレスコ・現存)
これらの壁画作品は、動かせず展覧会などに出品することができない上、作家自身の自由意志だけでは制作できない。また建造物の一部であるから、建築主および建築家との連携、信頼関係が必要となる。今井兼次、村野藤吾といった建築家と親交を持っていた路可は、極めて恵まれていた。

イタリアから帰国する1957年までの壁画作品を、路可はほとんど独力で制作したようだ。帰国した時、路可は60歳を迎えていた。壁画を制作するには、数メートルの櫓を組み、立ったままの制作となり、天井画ともなればさらに無理な姿勢を強いられ、体力的にも相当大変な作業に違いない。1958年、武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師となった路可は、服装史を担当しながら、1960年、油絵科などの学生にも呼びかけて壁画集団「F・M」を結成した。「F・M」とはフレスコ、モザイクを意味する。以後の壁画制作のほとんどは「F・M」の学生を指導しながらの共同制作となった。フレスコの場合は自ら筆をとることが多かったようだが、モザイクの場合は「ローマンスタイル」というイタリア中世からルネサンスにかけてのシステムを踏襲し、路可が下絵を描き、「F・M」のメンバーが下図の拡大、材料調達、材料作り(石割り)、現場制作のほとんどを担当した。現在、フレスコ、モザイクの分野で活躍する画家の多くがここから育っていった。

戦前の日大芸術科でフレスコを教えていたときから、学生達と「日本フレスコ画協会展」を開くなど、フレスコ画による展覧会の試みも継続され、ブリヂストン美術館での個展(1958年)、文芸春秋画廊での「F・M展」(1960年〜)などでは、路可はフレスコ画の可能性を広げていくような斬新な試みを展開した。日本の神話を題材にした≪山幸彦のものがたり≫三部作、日本の古代をモチーフにした≪考古的幻想≫≪いかるがの春≫、ラスコーの壁画からイメージした≪孤洞≫、同時代の洋画を意識したような≪イタリアの想い出≫≪ファッションモデル≫、さらにはプロレタリアアートを意識したような≪斧を持つ男≫なども制作されている。これらの作業は、フレスコ画を同時代のアートとして普及させていきたいという路可の思いが、作品として現れてきたものだろう。

フレスコ画やモザイク画は、本来、建築と同様の耐久性を期待して開発された技法である。ところが、建築に対する西洋と日本の意識の違いもあるのか、既に遺失してしまった路可の作品が相当数に上る。戦災は致し方ないにしても、建物解体によるものがかなり多い。路可がイタリア時代に新技法として学び、日本に伝えた「ストラッポ」というフレスコ画面の剥ぎ取り補修技術によって保管されている作品もあるが、絹や紙の作品より多くが既に失われているのが現実である。路可の代表作である、イタリア・チヴィタヴェッキア市の「日本聖殉教者教会」内部の壁画も、雨漏りなどの要因で天井の壁に亀裂が入るなど修復の必要性があることが、崇城大学の有田巧教授や、東京文化財研究所の前川佳文の調査によって指摘されている。なお、路可の代表作である旧国立競技場メインスタンドの《勝利》と《栄光》は、分割して壁ごと切り出されたあと、日本スポーツ振興センターの倉庫に保管されていたが、現在新しくできる国立競技場の正面入り口(東ゲート)に設置されている。

1929年 - 1936年? 大和学園高等女学校講師、図画を担当
1937年 - 1967年 - 文化服装学院講師、服装美学・服装史を担当。
1939年 - 1941年 - 共立女子専門学校講師、服装史を担当
1939年 - 1944年 - 日本大学専門部芸術科(現・芸術学部)講師、日本画・フレスコを担当
1940年 - 1948年 - 東京家政専門学校講師、服装史を担当
1946年 - 1949年 - 恵泉女学園高等部講師、服飾史を担当
1950年 - 1964年 - 文化女子短期大学教授、服飾史を担当
1958年 - 1967年 - 日本女子大学講師、服装史を担当
1958年 - 1961年 - 武蔵野美術学校本科芸能デザイン科講師、服装史を担当
1959年 - 1966年 - 昭和女子大学短期大学部講師、服装史を担当
1962年 - 1967年 - 武蔵野美術大学特任教授待遇となる
1964年 - 1967年 - 文化女子大学教授に就任
代表作
流さるる教徒
切支丹曼陀羅
聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル
受胎告知
日本二十六聖人殉教図
馬場良治
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1949年、山口県宇部市生まれ。宇部鴻城高等学校を卒業。
1980年(昭和55年)、東京藝術大学美術学部日本画家卒業。
1983年(昭和58年)、同大学院美術研究科保存修復技術専攻修了。山崎昭二郎に師事。
1984年(昭和59年)、文化庁の依頼を受ける。
2003年(平成15年)〜2010年(平成22年)、歓喜院聖天堂の修理専門委員会委員となり、彩色担当となる。
国宝や重要文化財の色彩調査と修復に取り組んでいる。
2016年(平成28年)、集古館(文化財修復技術研究所)を設立。
2017年(平成29年)、山口大学に於いて客員教授として「文化財修復技術の現状と課題」という講演会を開いている。
現在は東京を拠点に、故郷である宇部市にアトリエを構えている。
代表作

幽玄
幻想
稗田一穂
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
和歌山県西牟婁郡田辺町(現・田辺市)生まれ。父はデザイナーの稗田耕一(号・彩花)。その後大阪に転居、9歳から阿倍野橋洋画研究所に通う。1933年、大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。卒業後上京、東京美術学校日本画科に入学。

1943年、戦時体制のため繰上げ卒業。その後山本丘人に師事。戦後1948年、丘人、上村松篁らが創造美術を結成し、第1回展より出品、奨励賞受賞。1951年、創造美術と新制作派協会が合併し新制作協会日本画部が発足、会員に推挙される。1970年東京芸術大学美術学部日本画科助教授、1972年教授。1974年新制作協会を脱退、創画会を結成。2001年文化功労者。
代表作
うす雪鳩
村郷訪春
東山魁夷
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学。1934年日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第1回日独交換留学生(日本からのドイツ学術交流会最初の留学生[3])として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、11月ベルリン大学文学部美術史科に入学したが、父危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国した[4]。1940年には日本画家の川﨑小虎の娘すみと結婚。同年、東北地方へのスケッチ旅行で足を延ばした種差海岸(青森県八戸市東部)の風景とそこにいる馬に取材した『凪』を紀元二千六百年奉祝美術展に出展した。種差を題材にしたと思われる作品は生涯で17点ほどあり、馬も東山作品のモチーフとなった。

太平洋戦争に前後して、画業でも家庭でも苦難が続いた。1941年には母が脳出血で倒れて療養生活に入り(1945年11月死去)、事業に失敗した父は翌1942年に急死。

1945年4月には母と妻を伴って高山(岐阜県)へ疎開するも、7月には召集令状を受けて入営。熊本県で爆弾を抱えての対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えた。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着く。

1945年11月に母が死去すると千葉県市川市に移った。市川では、馬主として知られる同地の実業家である中村勝五郎から住居の提供など支援を受けていた。1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった弟が死去。東山魁夷は当時の境遇を「どん底」と回想しつつ、「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めた。

1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられたことから世評が高まり、風景を題材とする決意を固め、独自の表現を追求した。1950年に発表した『道』は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。制作前には種差を再訪し、中村が紹介したと思われるタイヘイ牧場に投宿して写生した。

1953年、大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。

北欧、ドイツ、オーストリア、中国と海外にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性を備え、幅広い支持を集めた。同年に日展審査員となり、以後、歴任した。1956年、『光昏』で日本芸術院賞。1960年に東宮御所(『日月四季図』)、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1961年、吹上御所御用命画『万緑新』。1962年、イタリアのローマ日本文化館に『緑岡』。1965年、日本芸術院会員、日展に『白夜光』。1968年、皇居新宮殿壁画『朝明けの潮』、文化財保護審議会専門委員。1969年、毎日芸術大賞、文化勲章、文化功労者。1970年、東京国立博物館評議員。1973年、自然環境保全審議会委員。1974年、日展理事長に就き、翌1975年に辞任した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画『黄山暁雲』は畢生の大作となった。千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出した。東山は黄山を「充実した無の世界」と表現した。混沌とした自然の移ろいにあらゆるものを生み出すエネルギーを感じ取った。この計画を手がけたことにより国内での知名度と人気はさらに高まり、国民的日本画家とも呼ばれるようになった。画集のみならず文章家でもあり画文集など、著作は数多い。川端康成とも親交が深かった。

ドイツ留学中に知ったドイツロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒを日本に初めて紹介したのも彼である。また、瀬戸大橋のライトグレー色を提案したことでも知られる。

1975年、フランスのパリ吉井画廊で唐招提寺障壁画習作展、ドイツのケルン日本文化会館で同習作展。1976年、パリ吉井画廊で京洛四季習作展。1977年、パリ唐招提寺展に障壁画を出陳。1978年、中華人民共和国の北京と瀋陽で東山魁夷展、パリで『コンコルド広場の椅子』原画展。1979年、ドイツのベルリンとライプチヒで東山魁夷展。1980年、第二期唐招提寺障壁画制作。1981年、唐招提寺鑑真和上像厨子絵『瑞光』を制作・奉納。東京国立近代美術館で東山魁夷展。1982年、国立国際美術館で東山魁夷展。1983年、ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで東山魁夷展。1984年、西ドイツ最高栄誉であるプールルメリット学術芸術院会員に選ばれ、ボンで会員章を大統領臨席の下で授与。1986年、日中文化交流協会代表団団長として訪中。1988年、京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立美術館で東山魁夷展。1990年、東京の日本橋髙島屋でベルリンハンブルクウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展。1995年、東京、京都、長野で米寿記念東山魁夷展。1996年、長野県内高等学校106校に東山魁夷画集図録を贈呈。1997年、神戸、福岡で、米寿を迎えて-東山魁夷「私の森」展。

1999年、老衰のため90歳で死去、従三位、勲一等瑞宝章。生前、日展への出品作など代表作の多くを東京国立近代美術館と長野県に寄贈。長野県は長野県信濃美術館に「東山魁夷館」(谷口吉生設計)を増設し、寄贈された作品の常設展示にあてている。その他、少年時代を過ごした神戸市にある兵庫県立美術館、祖父の出身地である香川県坂出市の「香川県立東山魁夷せとうち美術館」にも、版画を中心とする作品が寄贈されている。戦後の復員直後から死去するまで暮らしていた千葉県市川市には、自宅に隣接して市川市立「東山魁夷記念館」が開館した。また、美術学校時代のキャンプ旅行の途中、激しい夕立に遇った際に温かいもてなしを受けたことに感謝して後に寄贈された約500点の版画を収蔵する「東山魁夷 心の旅路館」が、岐阜県中津川市(旧長野県木曽郡山口村)にある。

2000年、福岡、東京、名古屋でパリ展帰国記念東山魁夷展。信濃美術館で東山魁夷館10周年記念展東山魁夷の世界。2004年、横浜美術館で東山魁夷展ひとすじの道。2005年、坂出市沙弥島で香川県立東山魁夷せとうち美術館開館記念展。市川市で市川市東山魁夷記念館開館記念特別展。2008年、東京、長野で生誕100年東山魁夷展。2018年、東京、京都で生誕110年東山魁夷展。
代表作
残照

光昏
青響
白夜
水島爾保布
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
東京府下谷区根岸に生まれる。1909年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。

1911年、川路誠(柳虹、1912年卒業)・小泉勝爾(1908年卒業)・小林源太郎(1912年卒業)・広島晃甫ら、学校仲間を中心とした全12名で「行樹社」を結成する。同年11月1日から7日にかけて、赤坂三会堂にて第1回展覧会を開催、18人70余点が出品される。水島はここで「暴王の心臓」「手品」を出品した。第2回展は1912年11月、虎の門議員会館で28名の69点を展示、ここでは「心中未遂」「夜曲」を出品した。第3回展は、1914年4月に芝公園旧勧業場で開催するが、1916年、赤坂三会堂での第4回展で終了した。

1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始めた。長谷川が朝日を退社後は、東京日日新聞で描くようになる。また、山本露葉、武林無想庵らの同人誌『モザイク』に参加、小説や戯曲を発表した。太平洋戦争中、新潟県燕市に疎開。戦後長岡市に移住した。
代表作
東海道五十三次
見物左右衛門
漫画ノ国
昔の長岡十二ヶ月
新東京繁昌記
愚談(随筆集)
痴語(随筆集)
菱田春草
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。1895年(明治28年)21歳で卒業すると、同年の秋から翌年にかけて帝国博物館の委嘱を受けて、大規模な古画模写事業に参加、京都や奈良をめぐった。

過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く、1898年(明治31年)、岡倉は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして美校を去り、在野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。

その後春草は1903年(明治36年)には大観とともにインドへ渡航。1904年(明治37年)には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。1906年(明治39年)には日本美術院の五浦(いづら、茨城県北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに制作をした。しかし、春草は眼病(網膜炎)治療のため、1908年(明治41年)には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。1911年(明治44年)、満37歳の誕生日を目前にして腎臓疾患(腎臓炎)のため死去した。

兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝国大学、東京帝国大学教授。

春草、大観らは、1900年(明治33年)前後から、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼び、「朦朧体」(もうろうたい)と揶揄された。『菊慈童』『秋景(渓山紅葉)』などが「朦朧体」の典型的作品である。1907年(明治40年)には「官」の展覧会である文展(文部省美術展覧会)の第1回展が開催されたが、この時出品した、色彩点描技法を用いた『賢首菩薩』も手法の革新性のため、当時の審査員には理解されなかった。晩年の『落葉』は、伝統的な屏風形式を用いながら、空気遠近法(色彩の濃淡や描写の疎密で、遠くの事物と近くの事物を描き分ける)を用いて日本画の世界に合理的な空間表現を実現した名作である。このように、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家で、岡倉天心もその早すぎた死を惜しんだ。大観は、後に日本画の大家と褒められると、「春草の方がずっと上手い」と答えたという。また「(春草が)生きていれば自分の絵は10年は進んだ」とも残している。
代表作
秋景山水
鎌倉時代闘牛の図
寡婦と孤児
高野山風景
四季山水
平山郁夫
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
広島県出身の日本画家、教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京芸術大学学長などを務めた。文化功労者として顕彰され、のちに文化勲章を受章した。広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民などの称号を授与されている。2009年12月2日死去。

1930年6月15日、広島県豊田郡瀬戸田町生まれ。旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。

第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する。

東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。

郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や、ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介して高句麗前期の都城と古墳と高句麗古墳群の世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章した。

また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画の岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

1930年 - 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる。
1947年 - 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1952年 - 卒業とともに同校助手となる。
1973年 - 東京藝術大学美術学部教授に就任。
1988年 - ユネスコ親善大使に就任。
1989年 - 東京藝術大学学長に就任。1995年まで務める。
1992年 - 世界平和アピール七人委員会委員に就任。2005年まで務める。
1992年 - 日中友好協会会長に就任。2008年まで務める。
1992年 - 早稲田大学より名誉博士号贈呈。
1994年 - 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団) に就任。
1996年 - 日本育英会会長就任。2001年まで務める。
2001年 - 再び東京藝術大学学長に就任し、2005年まで務める。
2005年 - 日韓友情年日本側実行委員長に就任。
2005年
東京国立博物館特任館長に就任。
平城遷都1300年記念事業特別顧問。
2009年 - 脳梗塞のため東京都内の病院で死去。
代表作
仏教伝来
入涅槃幻想
祇園精舎
大唐西域壁画
松井冬子
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1994年、女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻卒業。

就職、4浪を経て、6度目の受験で東京藝術大学美術学部入学。2002年に東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。2007年、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域修了。博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を東京芸術大学へ提出し博士(美術)の学位を取得。

女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。

2002年、学部の卒業制作で「世界中の子と友達になれる」(横浜美術館所蔵)を発表。
2004年、銀座スルガ台画廊で、L'espoir 2004 松井冬子展。
2008年、4月20日、NHK教育テレビジョン「ETV特集」で「痛みが美に変わる時〜画家・松井冬子の世界〜」が放送される。
2008年、「松井冬子展」が静岡県の平野美術館で開催。
2010年、フランス・パリのGalerie DA-ENDにて「松井冬子展」。
2011年、第62回NHK紅白歌合戦にゲスト審査員として出演。
2011年、12月17日から横浜美術館で「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」が開かれる( - 2012年3月18日)
2015年、東京2020エンブレム委員会の委員に就任。
代表作
世界中の子と友達になれる
浄相の持続
松田権六
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科を経て1943年(昭和17年) 東京美術学校教授に就任、以後36年間そこで教鞭を取る。1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。漆工芸史に名を残す名匠として、「漆聖」とも称えられた。

1896年(明治29年)現・石川県金沢市大桑町の農家に生まれる。
1903年(明治36年)(7歳)兄孝作(仏壇職人)について蒔絵漆芸の習得をはじめる。
1914年(大正3年)(18歳)3月、石川県立工業学校卒業。4月、東京美術学校漆工科入学。
1919年(大正8年)(23歳)3月、東京美術学校漆工科卒業。卒業後、帝国陸軍第九師団歩兵第七連隊第十二中隊へ入隊。
1921年(大正10年)(25歳)3月、陸軍を除隊。4月上旬より東洋文庫において朝鮮楽浪遺跡の出土漆遺品の修理を始める。
1925年(大正14年)(29歳)この年、六角紫水教授らの推薦で株式会社並木製作所に入社。万年筆や喫煙具関係などの漆工加飾品を手がける。
1926年(大正15年)(30歳)12月、金沢で沢田文子と結婚。
1927年(昭和2年)(31歳)9月、並木製作所を退職、顧問となる。東京美術学校助教授就任。
1931年(昭和6年)(35歳)1月、帝国議会議事堂御便殿(現、御休所)漆工事を依嘱された東京美術学校の命で監督となる。御便殿のほか、皇族室、議長室の漆芸装飾を行う。
1943年(昭和18年)(47歳)5月、東京美術学校教授就任。
1944年(昭和19年)(48歳)8月、「蓬莱之棚」完成。
1945年(昭和20年)(49歳)6月、帝国陸軍近衛第二師団第三連隊へ入隊するが、終戦により9月に除隊。
1947年(昭和22年)(51歳)4月、帝国美術院(8月に日本芸術院と改称)会員となる。
1955年(昭和30年)(59歳)2月、文化財保護委員会より重要無形文化財「蒔絵」保持者(人間国宝)の認定を受ける。6月、社団法人日本工芸会設立許可、理事となる(8月に発会式)。
1958年(昭和33年)(62歳)4月、日展退会。
1962年(昭和37年)(66歳)6月、日本工芸会理事長となる。
1963年(昭和38年)(67歳)11月、文化功労者顕彰。
1964年(昭和39年)(68歳)11月、著書「うるしの話」(岩波新書)刊行。
1966年(昭和41年)(70歳)5月、日本工芸会理事長を辞し、理事となる。9月、毎日新聞のコラム「漆芸十話」の連載を開始。
1967年(昭和42年)(71歳)4月、設立に尽力した輪島市漆芸技術研修所(現、石川県立輪島漆芸技術研修所)が開講、その講師となる。勲三等旭日中綬章受章。
1974年(昭和49年)(78歳)4月、勲二等瑞宝章受章。
1976年(昭和51年)(80歳)11月、文化勲章受章。
1978年(昭和53年)(83歳)10月、金沢市名誉市民となる。
1983年(昭和58年)(86歳)輪島市名誉市民となる。
1986年(昭和61年)(90歳)6月15日、心不全のため死去。葬儀は19日、日本工芸会葬(委員長・細川護貞)として東京・吉祥寺で行われた。
代表作
鶴蒔絵硯箱
有職文蒔絵螺鈿飾箱
横山大観
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
1868年(慶応4年 / 明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請。見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生には菱田春草などがいる。

美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。

美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。

以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。

太平洋戦争下には日本文学報国会顧問となり、アドルフ・ヒトラーへの献呈画を描くなど、戦争協力を行った。

戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。"

1868年(慶応4年 / 明治元年):誕生(誕生日については後述)。父は、水戸藩士として「水戸学」の尊皇攘夷思想により志士として活躍。大観の皇室への忠誠はここに発するものとも言われる。初名は、酒井秀松。後に秀蔵、秀麿。大観の誕生日は、東京美術学校の「旧職員履歴書」には8月18日、台東区の戸籍には8月19日とある。古田亮は大観が旧暦の8月生まれであることは間違いないとする。東京美術学校の記録と台東区の戸籍の間には1日のずれがあるが、「慶応」から「明治」へ改元されたのは旧暦の慶応4年9月8日なので、いずれにしても大観は(明治元年ではなく)慶応4年の生まれということになる。大観は『大観自叙伝』において自身の誕生日を9月18日としている。慶応4年8月18日は新暦に換算すると(9月18日ではなく)1868年10月3日になるが、大観自身が9月18日生まれと記していることから、通常はこの日付が採用されている。
1878年(明治11年):一家で上京。
1881年(明治14年):東京府中学(現在の都立日比谷高校)に入学。優秀な成績で卒業するが、諸事情により「東大予備門試験」では入学資格を消失。致し方なく、当時は進学予備校として知られていた私立の東京英語学校(現在の日本学園高校)に入学。受験英語に勤しみ、その後の大観の海外での生活で大きな力を発揮する。
1883年(明治16年):絵画に興味をいだいた大観は、渡辺文三郎という画家に師事した。その後、狩野派の指導を得た。狩野芳崖にも影響される。当時の日本画家は貧乏で、副業により生活していた。このため父は、画家よりは東大進学を切望していた。
1888年(明治21年):東京美術学校を受験。横山家との養子縁組により、酒井秀麿から横山秀麿となった。
1889年(明治22年):東京美術学校1期生として入学。父は画家になることに大反対。卒業するまで書籍の図版を模写するアルバイトで生活費と学費を得た。
1893年(明治26年):東京美術学校卒業。その後は、京都で修養。古画の模写の仕事に励む。
1895年(明治28年):京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)教諭。この京都修行時代と推定されるが、雅号を「大観」とす。大観とはあらゆる大局的な観点から世界を見るという意味の法華経の経文からとったという説もある。
1896年(明治29年):東京美術学校助教授に就任する。
1897年(明治30年):滝沢文子と結婚。
1898年(明治31年):岡倉天心が東京美術学校々長を辞任、大観や橋本雅邦ら14人も続いて辞職した。その後、天心は日本美術院を設立。そして下村観山、寺崎広業、菱田春草、木村武山らがこれに従って、私財を投入して設立運営に奔走する。
1899年(明治32年):長女誕生。
1903年(明治36年):妻・文子死去。インドを訪問し、釈迦の実像を描こうとした。天心の勧めるものであったが、天心は日本画の原点をインドと考えたのではないかという説もある。
1904年(明治37年):天心の勧めでニューヨーク。へ
1905年(明治38年):ロンドンへ。長女死去のため帰国。
1906年(明治39年):遠藤直子と再婚。天心が住んでいた茨城県の五浦へ転居。五浦での活動、つまり「日本美術院絵画部」は、天心、大観、春草、観山、武山の5名。
1907年(明治40年):父死去。国が主催となって、官営の「文展」(文部省美術展覧会)が開催され、大観と観山は文展の審査員を務める。
1910年(明治43年):中国へ出発。ロバを買って帰る。第4回文展。審査員。作品『楚水の巻』。地球に接近したハレー彗星を題材に水墨画『彗星』を描く。
1912年(明治45年):第6回文展。
1913年(大正2年):妻・直子死去。第7回文展で、最後の審査員。作品『松並木』。9月に天心が逝去し、門人代表として弔辞を読んだ。
1926年(昭和元年):福井県越前市旧大滝村に滞在した折、岩野平三郎製紙所にて当時世界最大といわれた5.4m四方の岡大紙(おかふとかみ)を漉いた。
1928年(昭和3年):イタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに『立葵』が献呈された。
1931年(昭和6年)6月30日:帝室技芸員
1938年(昭和13年):ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに献呈するため作品『旭日霊峰』を完成させる。
1954年(昭和29年):茨城県名誉県民となる。
1958年(昭和33年):死去。
1976年(昭和51年):自宅が横山大観記念館として公開。
代表作
村童観猿翁
屈原
瀟湘八景
或る日の太平洋
海に因む十題・山に因む十題
安田靫彦
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
靫彦は1884年、東京日本橋の料亭「百尺」の四男として生まれた。1897年、帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、日本絵画協会絵画共進会にて横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し、画業を決意した。1898年より小堀鞆音に師事する。青邨らと共に紫紅会(後、偶々同じ「紫紅」を名乗っていた今村紫紅も参加し紅児会)を結成、東京美術学校に進むも中退した。後に岡倉覚三(天心)に認められ、1907年に日本美術院に招かれた。院展の初回より作品を出品し、再興院展にても尽力。肺病に悩まされながらも晩年まで制作を続けた。1974年の『鞍馬寺参籠の牛若』が靫彦の院展出品の最後になった。 1978年神奈川県大磯町にて没し、墓所は大磯の大運寺にある。

1934年12月3日帝室技芸員となる。1935年から多摩美術大学美術学部で教授、顧問として教えていた。1944年東京美術学校教授となり、1948年に文化勲章を受章。1958年、財団法人となった日本美術院の初代理事長となった。1959年宮中歌会始の召人(勅題「窓」を詠進)。1965年東京芸術大学名誉教授となる。東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任した。なお靫彦の門下に小倉遊亀、森田曠平、益井三重子、岩橋英遠らがいた。

初代中村吉右衛門とは同年で親しく、実兄に吉右衛門一座に在籍した五代目中村七三郎がいる。
代表作
夢殿
御産の祷
王昭君
卑弥呼
草薙の剣
山本丘人
画家種
日本画家
人物・来歴・経歴・その他
東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。
代表作
到春
青木繁
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
青木繁は現在の福岡県久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれた。武士の系譜を引く父は厳格な人物で息子の画家志望を聞かされた時、「美術だと。武術の間違いではないのか」となじったという逸話が残っている。青木は同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎とは同い年で小学校の同級生、そして終生の親友であった。同時代人の証言や本人による『自伝草稿』によれば、青木は歴山帝に憧れる早熟な文学少年であったとされる。絵画のほかに短歌もよくし、短い生涯に多くの文章を残している。

青木は1899年(明治32年)、満16歳の時に中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の学業を半ばで放棄して単身上京、画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事した。その後肺結核のため麻布中学を中退。1900年(明治33年)、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。1902年(明治35年)秋から翌年正月にかけて、久留米から上京していた坂本らと群馬県の妙義山や信州小諸方面へスケッチ旅行へ出かけている。これは無銭旅行に近い珍道中だったことが坂本の書簡などから窺えるが、青木はこの旅行中に多くの優れたスケッチを残している。1903年(明治36年)に白馬会8回展に出品した『神話画稿』は白馬会賞を受賞した。『古事記』を愛読していた青木の作品には古代神話をモチーフにしたものが多く、題材、画風ともにラファエル前派などの19世紀イギリス絵画の影響が見られる。1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良に滞在した。代表作『海の幸』はこの時描かれたもので、画中人物のうちただ1人鑑賞者と視線を合わせている人物のモデルはたねだとされている。この頃が青木の最盛期であった。以後は展覧会への入選もかなわず、下降線をたどっていった。

1905年(明治38年)8月、今の茨城県筑西市に滞在中、たねとの間に長男の幸彦(福田蘭童)が誕生した。しかし、彼女とは最後まで入籍しなかった。1907年(明治40年)8月、父・廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷するも、程なく父は亡くなった。画家としては天才と言われた青木であったが、父亡き後の家や妻子を支える才はなく、家族と衝突の末に1908年(明治41年)10月、郷里を離れて天草、佐賀など九州各地を放浪する生活に入った。この間にも創作を続け、『月下滞船』(1908年(明治41年))のような佳作もあるが、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、画家としてのピークは過ぎていた。1911年(明治44年)3月、福岡市の病院で死去した。死の床において、妻子や家族に向けて自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙を書き遺している。

青木の死後、坂本は遺作展の開催や画集の刊行に奔走。死の翌年である1912年(明治45年)には東京上野と福岡で遺作展が開催され、その翌年には『青木繁画集』が刊行されている。また、1948年(昭和23年)には遺言にしたがい、筑紫平野を見渡す久留米市兜山(通称「けしけし山」)に繁の歌碑が建立された。除幕式には坂本のほか、たね(当時は野尻姓)、長男の蘭童も出席した。命日に行なわれるけしけし祭には、青木の短歌「我が国は 筑紫の国や白日別 母います国 櫨多き国」に蘭童が曲をつけた『母います国』が歌われる。2003年(平成15年)には久留米市と地元企業、地域住民らの支援によって、老朽化の進んだ生家が復元整備され、青木繁旧居として一般公開された。館内では青木に関する写真パネルや解説パネル、作品の複製画などが展示されているほか、関連図書および映像資料を閲覧することができる[8]。

ハナ肇とクレージーキャッツの元メンバーで料理研究家の石橋エータローは蘭童の息子であり、青木の孫にあたる。
代表作
黄泉比良坂
自画像
天平時代
海の幸
大穴牟知命
日本武尊
わだつみのいろこの宮
朝日
赤木範陸
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
日本国内でのエンカウスティーク(独: Enkaustik、英: エンコスティック、仏: アンコスティック)技法研究の第一人者であり、画家。横浜国立大学で後進の指導にもあたっている。

美術評論家の米倉守、元ザルツブルク大学教授で美術史家のフリードリッヒ・ピール、レンバッハハウス美術館館長で美術史家のヘルムート・フリーデルらによる評論があり、それぞれに非常に高く評価されている。

その作品は、地塗りを施していない亜麻布を背景に用い、特殊に処理した蜜鑞でモチーフの暗部を亜麻布に染み込ませることで明暗を表現する画肌が特徴である。赤木はこの方法で古代のエンカウスティーク技法を自らの独自の絵画技法として完成させた。 また、赤木が試みたのは自らの作品への現代ドイツ芸術の抽象理論の導入であって、自らの作品自体の抽象化ではないと2001年の大分市美術館の回顧展図録の中で述べている。

赤木の初期の作品は卵黄テンペラ、鑞テンペラなどの様々なテンペラ技法や15世紀頃にフランドルで発明された混合技法等で描かれ、画風は年代により近年まで極端に変化している。1990年頃からエンカウスティークという古代の絵画技法を改良した、絵具を使用しない濡れ色の絵画作品を発表している。

1961年大分県別府市生まれ、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同大大学院博士前期課程終了。藝術学修士。大学院在学中にドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツ政府給費生としてミュンヘン国立芸術大学(Staatliche Akademie der Bildenden Kuenste, Muenchen)に留学、1995年卒業資格であるディプロム(Diplom)取得、同時にマイスターシューラー(Meisterschüler)の学位(ドイツの芸術系大学で芸術家に付与される最高学位。中世ヨーロッパのギルドの制度に由来している)を授与される。
代表作
厨房の片隅の静物
広間の残像
叢中猫図
見上げる猫
横浜人形
相笠昌義
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1939年 東京日本橋に生まれる
1957年 聖学院高等学校を卒業
1962年 東京芸術大学美術学部油絵科を卒業
1965年 第9回シェル美術賞展で佳作賞を受賞
1971年 第15回シェル美術賞展で3等賞を受賞
1972年 第2回新鋭選抜展で優賞を受賞 第3回・第4回展でも優賞を受賞 神奈川県座間市にアトリエをかまえる
1979年 NHK教育テレビ「文化シリーズ・美を探る」で相笠昌義・沈黙の風景に出演 芸術選奨新人賞を受賞 文化庁芸術家在外研修員として1年スペインに滞在
1982年 第25回安井賞展で安井賞を受賞
1983年 日本テレビ「美の世界」で都会生活の孤独・相笠昌義に出演
1984年 第1回日本青年画家展で優秀賞を受賞 1993年まで産経新聞 新東京カタログの挿絵をてがける
1985年 毎日新聞 半村良の連載小説「岬一郎の抵抗」の挿絵をてがける
1986年 多摩美術大学助教授となる
1987年 池田20世紀美術館で個展相笠昌義その世界展を開催
1989年 多摩美術大学教授となる
1990年 テレビ東京「美に生きる」に出演
1996年 NHKテレビ「美の朝」に出演
2004年 町田市立国際版画美術館で個展 相笠昌義 版画・油彩・素描展を開催
2005年 東京オペラシティアートギャラリーにて個展を開催
2006年 母校・聖学院礼拝堂のステンドグラス制作
2008年 損保ジャパン東郷青児美術館大賞を受賞 多摩美術大学美術館で個展を開催
2009年 茨城県つくば美術館で個展 日常生活―相笠昌義の世界展を開催
2010年 損保ジャパン東郷青児美術館で個展 受賞記念相笠昌義展―日常生活を開催
代表作
駅にて・冬陽
井手宣通
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1912年(明治45年) - 熊本県上益城郡御船町に生まれる。
1924年(大正13年) - 旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)で、東京美術学校を卒業後すぐに赴任していた若き美術教師富田至誠の指導を受ける。
1930年(昭和5年) - 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二、小絲源太郎らに学ぶ。
1935年(昭和10年) - 東京美術学校西洋画科卒業、同校彫刻科に入学。
1940年(昭和15年) - 東京美術学校彫刻科卒業。在学中に帝展(現在の日展)に初入選し画壇デビュー。
1947年(昭和22年) - 朝井閑右衛門、南政善らとともに新樹会創立。
1966年(昭和41年) - 「千人行列」で日本芸術院賞受賞。
1977年(昭和52年) - 日洋展創立。
1980年(昭和55年) - 熊本県近代文化功労者として表彰される。
1982年(昭和57年) - 勲三等瑞宝章受章。
1990年(平成2年) - 文化功労者として表彰される。
1991年(平成3年) - 日展理事長就任。
1993年(平成5年) - 死去。勲二等瑞宝章受章。
代表作
千人行列
漁夫と子供
瞬花開宴
入江観
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
日光町第一国民学校(現・日光市立日光小学校)で油絵の指導を受け、1953年に東京藝術大学美術学部芸術学科へ入学。藝大で加山四郎に師事しポール・セザンヌのに影響を受ける。1956年に春陽会展に初入選。1957年に東京藝術大学を卒業し、中学校の美術教師を勤めながら春陽会展に出品。柳亮の主宰する「黎明会」に参画。

1962年にフランス政府給費留学生として渡仏。国立高等美術学校でモーリス・ブリアンションに師事しセザンヌの研究を行う。滞在中にサロン・ドートンヌへ出品。

1964年に帰国し春陽会会員に推挙され、安田賞候補新人展に作品出品。フランス留学から帰国後は多くの留学生が経験する日本とフランスの原風景や文化の違いに直面し苦悩の時期を過ごす。

1967年に女子美術短期大学(現・女子美術大学短期大学部)専任講師に着任し神奈川県茅ヶ崎市へ転居。この頃より入江の作風は海や青空、砂浜をモチーフとする画に変わりを見せ始める。

1971年に昭和会展最優秀賞受賞。中川一政と親交を持ち東洋美術に対する造形を深める。

1984年に日伯美術連盟評議員、1985年に女子美術短期大学教授、1996年に宮本三郎記念賞受賞。女子美術大学付属高等学校・中学校校長(2000年~2006年3月)、日本中国文化交流協会常任理事を歴任。

女子美術大学名誉教授/女子美術大学付属高等学校・中学校顧問、日本美術家連盟理事/国際造形芸術連盟(IAA)日本委員会委員長、春陽会会員。

2017年秋に瑞宝双光章を受賞。
代表作
海辺
河口秋日
町はずれの駅
巣箱のある樹
秋果
大津英敏
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
学生時代は山口薫に師事。1970年代には『毬シリーズ』と呼ばれる幻想的な作品を制作していた。1979年の渡仏後、2人の娘を彼女をモデルにした『少女シリーズ』を描きはじめる。現在も家族を題材にした淡い色調の作品が多いが、風景画にも取り組んでいる。作風にはバルテュスの影響があるといわれている。また渋谷駅構内にはステンドグラスを使った壁画作品が設置されている。

1943年 - 熊本県熊本市で生まれる。後に福岡県大牟田市に転居し、高校卒業までを過ごす。
1969年 - 東京芸術大学大学院(山口薫教授)修了
1971年 - 第39回独立展で独立賞受賞
1979年 - 家族を伴って渡仏
1981年 - 帰国
1983年 - 第26回安井賞受賞(「KAORI」)
1988年 - 大津英敏展開催
1989年 - 多摩美術大学教授就任
1993年 - 第11回宮本三郎賞受賞(「宙・そら」)
2005年 - 第28回損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞
2007年 - 日本芸術院賞
2014年 - 多摩美術大学退任。同名誉教授
代表作
空-M氏の夢
大西博
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
徳島県池田町で1961年6月18日に生まれ、3歳以降、大阪で育つ。子供時代に彼が西洋文化に目覚める重要な出来事があった。1970年の大阪万博と市川加久-による西洋絵画の指導である。彼が12歳の時、家族と共に東京に転居する。1983年に東京藝術大学を受験し、美術学部絵画科油画専攻に入学。1987年卒業。 1989年東京藝術大学大学院美術研究科油画技法・材料第一研究室修士課程を修了。彼の卒業制作〈鱒〉[1]は、1987年に東京藝術大学が、修士修了制作の〈鮭〉は、1989年に大和銀行が買い上げた。この時期の彼の作品は、ヨーロッパ・ルネサンスの影響を強く受けている。彼の抱く魚や水の概念を人間の姿と一体化して描き、その人間の姿形はアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)、あるいはマティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald)を思い起こさせる。大学院終了後、油画技法・材料研究室で1年間研究生として務める。

次の数年間、よりシュールで、表現豊かな油絵を創作した。それと同時に1983年から1992年にかけて壁画家として東京渋谷のデパート、パルコの壁画を手懸ける。後に彼は、この仕事を“会社における活動”と著作の中で記している。デパートの外壁の4.5 x13 mと4.5 x9mのスペースに種々の商品広告を描いた。初めは一人で描いていたが、後にこの仕事のために何人かの画家が加わった。

1992年から1997年にかけて、ドイツのニュルンベルク美術大学絵画科ドロホップ研究室でギュンター・ドロホップ(Guenter Dollhopf)に師事する。1996年マイスターシューラー(卒業資格)を授与される。この大学での紙、アクリル、墨、布、顔料などの画材を用いた実験が、後の彼の日本人としてのルーツ探求の仕事につながる。

1998年2月、日本に帰国後、母校の東京藝術大学の助教授を経て、准教授になる。 2003年東京藝術大学アフガニスタン文化支援調査団員に任命され、2度アフガニスタンに赴く。その地でラピスラズリの原石に出会い、その原石を伝統的絵画の顔料として蘇らせる。非常に複雑な工程を経て精製されたこのウルトラマリンの顔料を最初は絵画に、そして後に茶道具の創作のために用いた。画材メーカーのホルベイン株式会社と共同で、上質の発色の良いラピスラズリ水彩絵の具を共同開発した。

東京藝術大学美術学部絵画科油画技法材料研究室准教授として、15世紀イタリアの画家チェンニーノ・チェンニーニ(英語版)が伝えた西暦1300年以来のラピスラズリ顔料の伝統的精製法を学生達に教授した。この絵画技法を用いた素晴らしい展覧会は、彼の最も重要で名誉ある仕事につながる。それは、京都の南禅寺の襖絵をラピスラズリの技法を用いて制作することであり、南禅寺塔頭天授庵の襖絵73枚の内、12枚を仕上げた。

2011年3月31日、琵琶湖で釣り船転覆水難事故で亡くなる。享年49。

2012年3月20日より4月8日まで、種々の作品を集めた展覧会が“大西 博回顧展 幻景”[2]として東京藝術大学大学美術館で開催される。多数の初期の作品に加えてラピスラズリの技法を用いた油絵が出品された。また、ラピスラズリの顔料を焼き付けた30個の茶器などの茶会用道具が、ラピスラズリの顔料を加えて漆を塗布した竹や木のアクセサリーと共に初公開された。 大西 博の主要なテェーマは、東洋絵画と西洋絵画の融合であった。彼の作品の一部は、現在ドイツ在住の未亡人のマルティナ・ワグナー・大西が所有している。
代表作

自画像
水景
岡鹿之助
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
劇評家岡鬼太郎の長男として東京に生まれる、実弟に岡畏三郎(美術史家、2010年に96歳で没)。

鹿之助は自分の絵のマチエールが西洋絵画のそれに比べて劣ることに悩み、試行錯誤の末到達したのが彼の作風を特徴づける点描画法である。西洋近代絵画史において点描画法を用いる代表的な作家としてジョルジュ・スーラが挙げられるが、当時の鹿之助はそのころまだ無名に近かったスーラの作品は知らなかったという。スーラの点描法は、キャンヴァス上に並置された異なった色の2つの点が視る人の網膜上で混合し別の色を生み出すという、「視覚混合」の理論を応用したものであったのに対し鹿之助の点描はむしろ同系色の点を並置することによって堅固なマチエールを達成しようとするものである。鹿之助はこの技法を用いて、静けさに満ちた幻想的な風景画(雪景色を描いたものが多い)を多く残した。

1898年 東京府麻布区西町 劇評家の岡鬼太郎の長男として生まれる。
麻布中学校2年のときから、岡田三郎助に素描を学ぶ
1919年 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学
1925年 パリ留学。藤田嗣治に師事
1940年 春陽会会員
1952年 芸術選奨文部大臣賞
1954年 最初の個展
1956年 『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受ける(同作品は1957年、毎日美術賞)
1964年 日本芸術院賞受賞 
1969年 日本芸術院会員
1972年 11月に文化勲章受章
1978年 心筋梗塞による心不全のため東京都大田区田園調布の病院で死去、享年79
代表作
遊蝶花
雪の発電所
花と廃墟
三色スミレ
岡本太郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。

父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを呑んでしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

家庭環境の為か、岡本は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。

絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。

一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》[5]を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。

親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。 1938年シュールリアリズムの創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」に「傷ましき腕」が掲載された。日本人では瀧口修造、瀧口綾子、山中散生、下郷羊雄、大塚耕二らも共に掲載された。

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。

1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[7]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。 1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。

1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。

1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。

この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。

同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される。

岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。

1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった[13]。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。

老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。

1998年(平成10年)、青山の岡本の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。

1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区桝形の生田緑地内に所在)。

2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、パブリックアートとして新たな名所となった。

2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。

2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が影響を及ぼしていたことが確認された。

2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。

ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。

芸術一家に生まれ、既存概念にとらわれる事がなく育ち、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。
東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、川端画学校に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校であるアカデミー・ランソンや、グランド・ショーミエールに通い、技術の修得に努めている。
著書『今日の芸術』の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。
「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などと発言した事でも知られる。
自らの作品をガラス越しで展示されるのを嫌った。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティの連絡通路に設置された《明日の神話》も、電車の微振動や往き来する多数の乗降者、気温・湿度の変化にも晒される劣悪な環境でありながら、何の防護措置も施されずに展示されることになった。

プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌い、徹底したフェミニスト・ロマンティストであった。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した。
生涯独身を通し、秘書であった岡本敏子を養女とした。多くの女性との恋愛を志向したが、これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。

スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の千葉茂や中西太らと共に興じた。

スキーは、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。

「「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」 」

また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。

岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。

身長156cmとかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファロー(後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした。そして参加メダルの表側を手がけた(裏側のデザインは田中一光)。
著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面のコーディネーターとなった人物に淡交社の臼井史朗がいた。
司馬遼太郎は、岡本から大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
岡本は東京・日本堤にある老舗馬肉料理店「中江」の常連であり、店主に「僕がフランスで食べた馬肉のタルタルステーキをこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられるようになった。
じっとしていられない性質で、TBSラジオ「久米宏の土曜ワイドラジオTOKYO」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、また1階に戻ってソファに腰かけたあと庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの吉川美代子はそのオーラを感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという。
写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に岡本の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年(平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。2006年(平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
鳥取県米子市の野坂寛治元市長と親交があった。同市の教育長であった安田光昭の回想録『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。
《犬の植木鉢》は1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて3体制作され、そのうち2体は岡本太郎記念館蔵、残る1体は川崎市岡本太郎美術館蔵となっている。なお、1955年1月7日付けの同社からの製品の発送通知が確認されており、制作時の岡本を写したスナップショットも残されている。
没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子の尽力に負うところが大きかったが、敏子の歿後2011年以降の研究においては、美術様式論および図像解釈学などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。

1911年(明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
1917年(大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
1929年(昭和4年)
慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。
父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。その後、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ。
1936年(昭和11年) 油彩『傷ましき腕』を制作。
1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
1948年(昭和23年) 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。
1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
1952年(昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。『忘れられた日本――沖縄文化論』が毎日出版文化賞受賞
1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
1965年(昭和40年) 名古屋の久国寺に梵鐘『歓喜』制作。
1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
1969年(昭和44年) 1968年から制作が開始されていた『明日の神話』完成。
1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『太陽の塔』完成。
1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス。
1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。
1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
1978年(昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
1982年(昭和57年) 慶和幼稚園(名古屋市港区)の新園舎の竣工にあたり、遊戯室にモザイク壁画『あそび』を制作。
1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章。
1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
1989年(平成元年) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。
1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
1992年(平成4年) 油彩『疾走する眼』制作。
1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。
1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。

1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区の生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
2006年(平成18年)
7月7日 壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画『電撃』と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が発見される。
11月29日『電撃』を修復前に一般公開。
2007年(平成19年)2月15日 『明日の神話』の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
2008年(平成20年)3月 『明日の神話』の恒久設置場所が東京都渋谷区の京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。
代表作
敗惨の歎き
空間
コントルポアン
傷ましき腕
露店
憂愁
重工業
赤い兎
森の掟
燃える人
裂けた顔
遊ぶ
装える戦士
愛撫
千手
明日の神話
哄笑
記念撮影
黒い太陽
遭遇
森の家族
疾走する眼


日の壁・月の壁
無籍動物
坐る事を拒否する椅子
梵鐘・歓喜
若い時計台
午後の日
マミフラワー会館
若い太陽の塔
緑の太陽
太陽の塔
母の塔
青春の塔
ノン
オリエンタル中村
樹人
躍進
若い泉
千手
足あと広場
河童像
縄文人
神話
未来を視る
こどもの樹
太陽
平和を呼ぶ像
未来を拓く塔
母の塔
歓び
森の神話
躍動の門
河神
花炎
小川游
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
満州国四平街に生まれ、戦後引き揚げて浦和中学校に編入学、在学中に高田誠に師事してデッサンや油彩画を学んだ。東京芸術大学美術科卒業後、浦和市内の中学校の美術教師となった。2016年(平成28年)には北海道河西郡中札内村にある中札内美術村にて小川游作品館が開館。

1932年(昭和7年) - 満洲国に生まれる。
1956年(昭和31年) - 二科会に出品し、初入選。
1967年(昭和42年) - 浦和市(当時)鹿手袋にアトリエを構える。
1968年(昭和43年) - 一水会賞を受賞
1969年(昭和44年) - 一水会に入会。
1970年(昭和45年) - 浦和市立高等学校(現さいたま市立浦和高等学校)美術科教諭となる。
1974年(昭和49年) - 一水会会員優賞を受賞。
1978年(昭和53年) - 寺井力三郎らと遥土会を結成。
1998年(平成10年) - 埼玉文化賞を受賞。
2014年(平成26年)9月25日 - 清水勇人さいたま市長が瀬ヶ崎のアトリエを訪問。
2016年(平成28年)4月28日 - 北海道に小川游作品館がオープン。
代表作
断崖のシンフォニー・知床
鎮魂の岬・オシャマップ
峠の春・知床
荻須高徳
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
荻須は1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれる。愛知県立第三中(現・愛知県立津島高等学校)を経て、1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。

荻須は画家として活動期間の大半をフランスの首都パリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクやユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。

荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーヴで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。

終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死去するまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユを発行。後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。同年文化功労者に選定されたのを受けて10年ぶりに帰国したのが祖国の地を踏む最後となった。

1986年(昭和61年)10月14日、パリのアトリエで制作中に倒れ死去、84歳だった。死の一週間前ほどに同年の文化勲章受章が内定していたため、11月3日には死去日に遡って同章が授与された。

墓はパリのモンマルトル墓地にある。
代表作
広告塔
サン・タンドレ・デザール広場
モンマルトル裏
パリの屋根
金のかたつむり
金山平三
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1883年(明治16年)兵庫県神戸区(現在の神戸市中央区)元町通3丁目に金山春吉、ひさの第四子として生まれる。1905年(明治38年)9月東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科本科に入学する。主任教授である黒田清輝らに師事し、1909年(明治42年)3月東京美術学校西洋画科を首席で卒業する。4月には同校西洋画科研究科に進み助手となる。しかし1911年(明治44年)2月15日付で退学し神戸へ帰る。1912年(明治45年)1月20日に日本郵船平野丸で神戸港を出発して、パリに3月7日に到着する。28歳から31歳までの4年近くの間は、パリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く。そして1915年(大正4年)9月27日にパリを離れ、10月3日マルセイユ港から乗船し11月に神戸港に到着。帰国して神戸市神戸花隈町(現在の中央区花隈町)の自宅(1898年に転居)に戻る。

1916年(大正5年)10月には、第10回文展初出品の小豆島で描いた『夏の内海』が初入選かつ特選第二席になり、文部省買い上げとなる。翌1917年には『氷辷り』が第11回文展の特選第一席になる。同年1月上旬に長野県下諏訪で描いた作品で、以後毎年2月にかけて同地で制作するようになる。1919年(大正8年)9月に帝国美術院が創設されて、同院主催の帝国美術展覧会(帝展)が開催されることになり、36歳にして帝展審査委員(1924年には帝展委員となり、後に審査員となる)に選ばれる。同年10月の第1回帝展には『雪』『花』を出品する。また11月には牧田らくを入籍し、東京市小石川区大塚坂下町(現在の文京区大塚6丁目)に転居する。1922年(大正11年)10月の第4回帝展に『下諏訪のリンク』を出品する。関東大震災が起きた1923年(大正12年)5月に初めて山形県北村山郡大石田を訪れ滞在する。1925年(大正14年)4月東京府豊多摩郡落合町大字下落合(現在の新宿区中井2丁目)にアトリエが完成し転居する。1928年(昭和3年)10月の第9回帝展には『菊』を出品する。1929年(昭和4年)10月の第10回帝展には大石田で描いた『東北地方の春』を出品する。1933年(昭和8年)10月の第14回帝展には房州千倉で制作した『風雨の翌日』を出品する。しかし1935年(昭和10年)5月の帝国美術院改組を機に中央画壇から去り、翌1936年から官展不出品を1959年(昭和34年)まで24年間貫く。1944年7月1日帝室技芸員となり、1945年には、皇太子(現在の明仁上皇)および義宮(現在の常陸宮正仁親王)に作品を献上する。

1945年(昭和20年)3月17日の神戸大空襲で実家が罹災し、作品が焼失する。5月には最上川をはさんで大石田(現在の北村山郡大石田町の中心部)の対岸に位置する北村山郡横山村(1955年に大石田町と合併)に疎開する。後にしばしば写生旅行をするようになる刑部人も同宿する。また大石田で斎藤茂吉と親交を結んだ。

1946年(昭和21年)10月には文部省より日展審査員に選ばれるが辞退する。1947年(昭和22年)2月横山村から大石田に移り、これ以降は大石田が生活の拠点となる。1953年(昭和28年)2月、前年12月に開館した東京国立近代美術館で開催された「近代洋画の歩み-静養と日本」展に『夏の内海』と『下諏訪のリンク』が出品される。1956年(昭和31年)5月、日本橋髙島屋において金山平三画業五十年展が開催され、多数の未発表作を含む240点が出品される。1957年(昭和32年)2月には日本藝術院会員に任命される。1959年(昭和34年)3月には日展顧問を委嘱される。同年11月の第2回新日展には『渓流』を出品する。1961年(昭和36年)6月には、最晩年の重要な支援者である故郷神戸の川崎重工業株式会社に自選作品100点(翌年38点追加)の永久保管を願い出て、同社によって嘱託として処遇されて、夫妻でのヨーロッパ再訪旅行(9月 - 12月)の機会を得る。1964年(昭和39年)6月に入院し、7月15日死去(享年81)。遺志によって本葬儀は行われず、叙位・叙勲もすべて辞退している。神戸市営追谷墓地に埋葬されている。

平三没後、川崎重工業の保管作品から夫人により130点が兵庫県に寄贈され、1970年兵庫県立近代美術館(現在の兵庫県立美術館)の開館にあたって同館所蔵品となる。また兵庫県立美術館には、開室期間が限定の金山平三記念室が設けられている。

2008年9月13日 - 11月30日、笠間日動美術館において『金子コレクションから見た金山平三の世界』展が開催された。また2012年4月7日 - 5月20日、兵庫県立美術館において『開館10周年記念 日本の印象派・金山平三展』が開催された。2012年9月15日 - 11月4日、ひろしま美術館に巡回。
代表作
自画像
コンカルノーの城壁
夏の内海
氷辷り
雪の湖
さびれたる寛城子
下諏訪のリンク

風雨の翌日
大石田の最上川
筒石の海岸
下曽我の梅林
一番桜
和井内の四月
渓流
冬の諏訪湖
絹谷幸二
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
奈良県奈良市元林院町に生まれる。奈良県立奈良高等学校、東京芸術大学美術学部油絵専攻卒(1966年小磯良平教室)。卒業制作で大橋賞受賞。

小学校一年生の頃から油絵を習い始める。芸大卒業後、1971年にイタリアへ留学、ヴェネツィアでアフレスコ古典画(フレスコ画のことで、本人は必ずアフレスコと〝ア〟をつける)の技法を研究する。1974年安井賞展安井賞受賞。その後メキシコ留学などを経て、1993年東京芸術大学教授に就任、後進を育てる。また、NHKの日曜美術館によく出演する。アフレスコ絵画技法の地方公演なども行っている。2000年に芸術院会員となる。新作個展は様々な全国有名百貨店にて開催されている。

2008年に35歳以下の若手芸術家を顕彰する絹谷幸二賞を毎日新聞社主催にて創設。2010年に東京芸術大学名誉教授に就任。
代表作
長野冬季オリンピック公式ポスター
アンセルモ氏の肖像
ダリア・ガナッシィーニの肖像
アンジェラと蒼い空II
熊谷守一
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。製紙工場のほか春牛社牧牛場などを経営する国三郎は政治や商売に忙しく、守一が3歳のときに祖母や母から引き離して他の兄弟とともに熊谷製糸工場に隣接する岐阜市内の邸宅に住まわせ、妾の一人を「おかあさん」と呼ばせて養育させた。同家には、国三郎の二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らしていた。岐阜県尋常小学校に入学し、11歳のとき、濃尾地震で友人を多数亡くす。12歳ころより水彩画を描きはじめ、14歳で岐阜市尋常中学校に進学する。

17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897年(明治30年)に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入し、1学期間だけ通って中退する。

1898年(明治31年)、共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集、徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。

1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をする。

1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行う。

1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。

1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。

1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。

1922年(大正11年)、42歳で大江秀子(1898-1984)と結婚。秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれ。大江家は近在きっての豪商で、山林地主だった。大正9年に原愛造と結婚している。5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが、絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。

1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。

1932年(昭和7年)後々池袋モンパルナスと称される地域の近く(現在の豊島区千早)に80坪に満たない土地を借り、家を建てる。

1938年(昭和13年)同じ二科会会員の濱田葆光のつよい薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。熊谷守一の最初の個展は、意外にも墨絵(日本画(毛筆画))であった。

1947年(昭和22年) 二紀会創立に参加。

1951年(昭和26年) 二紀会退会。無所属作家となる。

1956年(昭和31年)76歳 軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。(熊谷守一自身が「約30年間 家から出ていない」などの言葉を残しているが、実際はこの脳卒中以降というのが正しい。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉を残しているが実際はずっと狭かった。)

1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。 1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。 1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。墓所は多磨霊園。

1985年に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる(2007年に豊島区に寄贈し区立の美術館となる)。2004年には長男・黄(こう)が『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈。2015年に中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立される。
代表作
蝋燭
陽の死んだ日
裸婦
ヤキバノカエリ
伸餅
種蒔
土饅頭
化粧
白猫
雨滴

岩殿山


芍薬
アゲ羽蝶
倉田白羊
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。

1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。

1896年(明治29年)、師・浅井が東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の教師として迎えられたため、1898年(明治31年)に倉田もこれを追うように入学し、1901年(明治34年)に首席で卒業。

1902年(明治35年)、太平洋画会に参加。作品を発表するかたわら、中央新聞社を経て時事新報社に勤務し、カットや美術展評などの仕事を行う。またこの頃から、「白羊」の雅号を用いるようになった。

1907年(明治40年)には、第一回文部省美術展覧会に『つゆはれ』で入選。この頃から倉田の活動も活発になっていく。翌年には山本鼎、石井柏亭、森田恒友による美術文芸雑誌『方寸』に参加し、同じ頃「パンの会」にも参加。 1912年(大正元年)には『川のふち』が夏目漱石の美術批評に取り上げられるなどして評判も上がっていき、1915年(大正4年)には日比谷美術館で個展も開いている。

『方寸』で知り合い親友となった小杉未醒の紹介で、押川春浪を中心としたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」に入会していた倉田は、1916年(大正5年)、倶楽部の旅行で朝鮮・満州に出かける。これが倉田の転機となった。 この旅行の中で大自然の魅力に取りつかれた倉田の絵からは、以降人間の姿が少なくなっていく。

1922年(大正11年)、春陽会の創立に参加。同年、山本鼎に日本農民美術研究所の副所長として招かれ、長野県上田市に移住する。以後はここを終生の住処とし、作品を発表しながら農民美術運動の指導にもあたった。

1934年(昭和9年)、持病の糖尿病が悪化し右目を失明する。その後も絵は描きつづけたが、病状は悪化。1938年(昭和13年)には完全に失明し、同年11月29日に死去。墓所は多磨霊園。
代表作
小倉山の微雨
たき火
冬野
小磯良平
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1903年(明治36年)、旧三田藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。首席で卒業後の1928年(昭和3年)、フランスに留学。ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼ「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマとする。帰国後の1936年(昭和11年)、「新制作派協会」(現・新制作協会)の結成に加わる。1938年(昭和13年)から1年間藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作した。1941年(昭和16年)に群像画の傑作「娘子関を征く」と「斉唱」を相次いで発表する。良平自身は群像を書くため精力的に戦争画に取り組んだが、戦後は画集に収録しなかった。戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛む、と晩年に語っている。

戦後は東京藝術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献し、同大学名誉教授の号を授与された。1992年(平成4年)に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として知られている。

1933年(昭和8年)に神戸でキリスト教(組合教会系)の洗礼を受けており、1970年(昭和45年)には日本聖書協会の依頼により32点の聖書の挿絵を完成させた。

その他、1941年(昭和16年)出版の『東京八景』(太宰治)の装丁や1947年(昭和22年)に制定された「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけている。

1988年12月16日、肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で死去した。享年85。
代表作
T嬢の像
彼の休息
日本髪の娘
着物の女
練習場の踊り子達
斉唱
娘子関を征く
二人の少女
働く人びと
婦人像
絵画
音楽
KOBE, THE AMERICAN HARBOUR
小出楢重
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1887年、大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年(大正8年)、二科展出品作の「Nの家族」で樗牛賞を受ける。翌年は《少女お梅の像》が二科賞を受賞。この頃より挿絵等の仕事を手がけ始め、ガラス絵の制作にも着手する。

1921年から1922年に渡欧。1923年二科会員に推挙。フランスから帰国後の1924年には鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らと大阪信濃橋(現西区靱本町一丁目)の日清生命ビル内に「信濃橋洋画研究所」を設立し昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となった。1931年(昭和6年)、心臓発作のため43歳で死去。

晩年に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。

四方を川に囲まれ「島之内」と呼ばれた問屋街にある薬屋に、長男として生まれた。父、楢治郎は商家の旦那衆の典型で、書や日本画を嗜み浄瑠璃を語り、母、モンも三味線を弾くなど上方の上質な文化がある家庭で、後に随筆『新秋雑想』で「床の掛物が学校教育よりも私自身により多く作用したことは恐るべきものである」と記したように、家庭環境の影響が大きかった。

大阪市立大宝尋常小学校、大阪市立育英高等小学校を卒業後、大阪府立市岡中学校(旧制。現大阪府立市岡高等学校)に入学。数学は「落第するほど」だったが図画は断トツ1位の成績で、日本画科への編入で入学した東京美術学校も西洋画科本科に転入を果たし、50人中5席の成績で卒業した。

ただ、なかなか画家として日の目を見ず生活に苦労したため、のちに東洋史学者になる石濱純太郎や作曲家の信時潔ら市岡中学の同期生が「金鉄会」を結成。出資して小出の生活を支え、小出も絵を描くことに専念。のちに名画が生まれた背景には、市岡の絆があった。
代表作
原田氏像
N婦人像
静物
Nの家族
少女お梅の像
春に向かう風景
ピジャマの女
パリ・ソンムラールの宿
帽子のある静物
ラッパを持てる少年
壁面装飾のための7枚の静物
帽子をかぶった自画像
地球儀のある静物
蔬菜静物
裸女立像
中之島風景
裸婦
菊花
卓上草花
裸女結髪
卓上の薔薇
卓上蔬菜
卓上静物
帽子を冠れる自像
裸女と白布
六月の風景
裸女
裸婦
支那寝台の裸婦(Aの裸女)
横たわる裸身
枯木のある風景
小松崎邦雄
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
日暮里に生まれ、9歳の時、浦和で料亭を営んでいた叔母の縁で浦和市高砂町に転居。浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に入学し、2年生だった14歳の時に高田誠につきデッサン、油彩を学んだ。

東京芸術大学油画科に入学すると高田の師であった安井曾太郎の教室に入った。翌年に安井が退職したため林武の教室に入った。大学卒業後、同大学油絵専攻科に進み、一水会への出品が始まった。東京芸術大学講師も務めた。

1931年(昭和6年) - 東京市荒川区日暮里に出生。その後9歳で浦和市高砂町に転居。
1954年(昭和29年) - 東京芸術大学油画科を卒業、同大学油絵専攻科に進学。一水会第16回展に初出品し、初入選。
1956年(昭和31年) - 東京芸術大学油絵専攻科を修了。一水会第18回展に出品し、一水会賞を受賞。
1957年(昭和32年) - 一水会会員となる。
1960年(昭和35年) - 一水会会員優賞を受賞。
1961年(昭和36年) - 長男が誕生。浦和市仲町に転居。
1992年(平成4年) - 心不全のため浦和市立病院で死去。
代表作
灯ともし頃
群像
児島虎次郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館、仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)異例の早さで卒業。

1908年(明治41年)ヨーロッパに留学。1909年(明治42年)ベルギーのゲント美術アカデミーに入学。1912年(明治45年)には同校を首席で卒業し、大正元年となった同年11月に帰国。1913年(大正2年)石井十次の長女・友子と結婚。その後、絵画制作の傍ら中国・朝鮮を旅行。また、孫三郎の依頼を受け絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入した。この収集品が後の大原美術館建設の礎となった。

1924年(大正13年)明治神宮奉賛会より明治天皇を讃える壁画の作成を依頼された。しかし壁画制作による過度の疲労の為、この作品を完成することなく1929年(昭和4年)死去した。享年47。なお、この壁画は友人の吉田苞により1934年(昭和9年)に完成し、明治神宮聖徳記念絵画館に所蔵されている。

1972年から2017年まで、倉敷紡績記念館(現倉敷アイビースクエア)内に、大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されていた。2022年4月に新児島館(仮称)として旧中国銀行倉敷本町出張所建物に開館する予定。
代表作
西洋婦人像
支倉常長像
静物(草花)
漁夫
里の水車
登校
なさけの庭
宵の灯
裸婦素描
日本服を着たる白耳義の少女
奈良東大寺
ストックホルム
中山茂子像
酒津の庭(水連)
水仙を持つ少女
対露宣戦布告御前会議
齋藤芽生
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
東京都生まれ。1996年、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。2001年、同大学院博士課程修了。

2010年、「VOCA展2010」にて佳作賞と大原美術館賞を受賞。同年、アートプロジェクト「隅田川新名所物語」(「GTS(芸大・台東・墨田観光アートプロジェクト)」の一環)を実施。
代表作
徒花図鑑
佐藤一郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
マックス・デルナーの『絵画技術体系』の訳者にしてウィーン幻想派の画家ルドルフ・ハウズナーに師事した画家にふさわしい、混合技法による数々の絵画を描いている。それは、グレーズやインプリマトューラといった技法を巧みに用い、強い光沢を備えているものもそれでいてくどくない、油絵具の透明性や物体性を活かした霊妙な作品である。ハウズナーの作品との出会いに関しては、大学院修士課程にあったとき、小田急百貨店で開催されたウィーン幻想派展において、ハウズナーの『黄色い帽子の道化師』がデスパレートな気分に浸っていた自分の琴線に触れたと述べている。

絵画技術学の導入を、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『形而上学』第一巻第一章冒頭である「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠として感官知覚(感覚)への愛好が挙げられる。というのは、感覚はその効用を抜きにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、殊にそのうちでも最も愛好されるのは、目によるそれ〔すなわち視覚〕である。けだし、われわれは、ただ単に行為しようとしてだけでなく全く何事も行為しようとしていない場合にも、いわばほかのすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由はこの見ることが他のいずれの感覚よりも最もよくわれわれに物事を認知させ、その種々の差別を明らかにしてくれるからである。」の引用ではじめる佐藤は、油絵具という材料の誕生の背景に視覚の何であるかという問いの存在を認め、西洋の人々が油画の(物質的な)構成要素に視覚の構造自体を仮託していたと考える。そして、絵画はイリュージョンであっても、単なる像ではなく物質として存在 しているという事態に着眼する。

1946年 - 宮城県古川市に生まれ、仙台で育つ。
1970年 - 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業 東京藝術大学卒業制作、買い上げ・大橋賞受賞
1972年 - 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程油画修了
1973年 - 東京芸術大学研究生修了後、ドイツ学術交流会留学生(DAAD)として、ハンブルク美術大学に留学(-1977)
1981年 - 東京芸術大学博士課程油画専攻を単位取得退学し、同大学美術学部絵画科常勤講師(油画技法材料研究室)(-1986)
1986年 - 東京芸術大学助教授(油画技法材料研究室)(-1998)
1995年 - 文部省在外研究員として、ウィーン美術大学修復学科に在籍(-1996)
1999年 - 東京芸術大学美術学部教授(油画技法材料研究室、兼担:文化財保存学保存修復油画研究室)
2014年 - 金沢美術工芸大学大学院専任教授
代表作
透視肖像の図
調色板と電熱器
青葉
那智大滝
蔵王御釜
佐伯祐三
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス等で過ごし、フランスで客死した。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。

佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。

佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ(ゴッホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。

2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたという。屋内ではその後も偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描く(この郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様だったのではないか、と語っている)。自殺未遂を経て、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰弱死した。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺。

山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の画を熱心に収集し、戦時中にはコレクションの疎開を行った。しかしそれでも空襲により収集作品の8割は灰となり失われた。現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されている。
代表作
自画像
勝浦風景
戸山ヶ原風景
帽子をかぶる自画像
ベッドに坐る裸婦
裸婦
扇を持つ婦人像
立てる自画像
パリ遠望
オワーズ河周辺風景(ネル=ラ=ヴァレ)
オーヴェールの教会
セーヌ河の見える風景
クラマールの午後
教会
パリの裏町
パリ風景
煙突のある風景
パリの街角
レ・ジュ・ド・ノエル
広告のある門
リュ・デュ・シャトーの歩道
タラスコンの遺跡
裸婦
オニー牧場
靴屋(コルドヌリ)
レストラン
エッフェル塔の見える通り
寺院
パリ雪景
ストーブ
ラコルデール街
リュ・ブランシオン
ノートル・ダム(マント・ラ・ジョリ)
夜のノートル・ダム(マント・ラ・ジョリ)

酒場(オー・カーヴ・ブルー)
運送屋(カミオン)
人形
絵具箱
休息(鉄道工夫)
滞船

下落合風景
白い壁の家(下落合風景)
踏切
シグナル
肥後橋風景
黄色いレストラン
ロシヤの少女
坂本繁二郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。

坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は久留米藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。

前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。

1907年(明治40年)、『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)、第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。

1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。

1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。

1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。

第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)、毎日美術賞、1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。1969年(昭和44年)、87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。

坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。
代表作
水より上る馬
放牧三馬
櫻井慶治
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1919年、千葉県印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎)に生まれる。

千葉県立佐倉中学校(旧制、現千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスでル・サロン銅賞・ヴィシー国際展グランプリを受賞。

1967年(昭和42年)第10回日展、1969年(昭和44年)改組第1回日展の2回で特選を受賞した。

日展審査員、評議員を経て2001年に日展参与に就任。内閣総理大臣より紺綬褒章を受章。さらに2005年にも天皇より紺綬褒章を受章。八千代松陰学園に30周年記念のために同校に自作品140点以上を寄贈し、校内に展示されている。勲三等、文化勲章を授与される。

2016年6月6日死去。
代表作
ぼたん
あやめ
裸婦

犬吠崎
房総の春
パリ風景
パリ(屋根裏より)

フランスの女性
ニューヨーク早春
杉全直
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
洋画家であるが、東京美術学校系統のシュルレアリスムのグループで目立った活動をしていた「貌」に参加し、平面作品のみではなく、立体作品を中心に制作した時期もある。現代日本美術展、日本国際美術展などで優秀賞を受賞し、日本の抽象絵画をリードする一人となった。

1924年、兵庫県姫路市に移住。その後、美術学校進学のためアトリエ村として画家が多く集まっていた埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)へ移住し浦和画家にひとりに数えられる。1933年、東京美術学校(現:東京芸術大学)油画科予科に入学。その後、本科に入科し、1938年に卒業。

1939年、福沢一郎ら40名の前衛活動家と共にシュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となる。 戦後もシュルレアリスム的な作品を制作していたが、抽象表現主義的な作風へ移行。

1950年代から国内外を問わず、数多くの美術展に出品する。その後、多摩美術大学教授や東京芸術大学教授を務めた。1981年、第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1990年頃までは意欲的に制作に打ち込む。1994年、脳梗塞のため死去。
代表作
樹下
杉山新樹
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。1916年(大正5年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。

1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。

戦争が終わった1945年(昭和20年)の暮れ、岡崎では文化協会設立の世話人会がもたれ、杉山は竹内京治、榊原金之助、天野末治、足立一平らと共に案を練ることとなった。1946年(昭和21年)2月3日、岡崎文化協会が創立される。そのほか北川民次と民主美術協会を創立した。岡崎美術協会副会長に就任。

1949年(昭和24年)5月31日、愛知学芸大学設置に伴い、同大学の教授に就任。1960年(昭和35年)、同大学岡崎主事に就任。同年8月、マニラで開かれた国際美術教育会議に日本代表として出席した。1962年(昭和37年)、定年退職。

1967年(昭和42年)に渡欧、功績により勲三等瑞宝章を受章した。著書に『子供の造形』『西洋美術のふるさと』などがある。

1974年(昭和49年)2月16日、死去。75歳没。
代表作
アクロポリス夕照
パリの街角
高橋由一
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。

わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。

ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年9月5日(1862年10月27日)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。元治1年12月6日、開成所画学出役となった。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。

明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)6月には官職を辞して日本橋浜町に画塾である天絵社を創設し(1879年天絵学舎と改称、1884年閉鎖)、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。天絵社で毎月第1日曜に展覧会をひらき、自作および門下生の作品を展覧した。明治9年(1876年)、工部美術学校の西洋絵画教師として来日した、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージと交流を深め、作画の指示を仰いだ。

明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納した。そのため、金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある「高橋由一館」に展示されている。

人物、風景などの作品もあるが、代表作として挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている[どれ?]。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。1880年4月から8月まで主幹として美術雑誌『臥遊席珍』全5号刊行。

明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。明治18年(1885年)12月21日、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する。

明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。
代表作
花魁
墨水桜花輝耀の景
初代玄々堂像
司馬江漢像
雪景
江の島図
甲冑図
官軍が火を人吉に放つ図

浴湯図
不忍池
上杉鷹山像
大久保利通像
栗子山隧道図
山形市街図
岩倉具視之像
西周像
国府台真景
日本武尊
野田弘志
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1936年、6月11日に韓国全羅南道に生まれる(本籍地は広島県沼隈郡柳津村)。その後、福山、中国・上海と転居。
1945年、日本に帰国し福山市で過ごす。
1951年、静岡県浜名郡に転居。
1952年、愛知県立豊橋時習館高等学校に入学。
1956年、上京し阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所に通う傍ら、森清治郎に絵画を学ぶ。
1957年、東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。
1960年、白日会第36回展に初入選し、白日賞受賞。
1961年、第37会展においてプルーヴー賞受賞、白日会準会員となる。東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻(小磯良平教室)を卒業、東急エージェンシー企画調査部制作課にイラストレーターとして入社する。
1962年、白日会会員となる。東急エージェンシーを退社。以後、デザイン会社を設立し、イラストレーターとして活躍。
1966年、『現代日本文学館 三島由紀夫』(文藝春秋)の挿画を製作。
1970年、画業に専念するためにイラストレーターを辞する。安井賞展、国際形象展、新鋭選抜展、明日への具象展、日本秀作美術展などに出品するほか、初の個展(銀座・三越)等、個展を中心に作品を発表。
1974年、東京造形大学非常勤講師となる(勤務は2年間)。
1982年、白日会第58回展で内閣総理大臣賞を受賞。
1983年、朝日新聞の朝刊に連載された加賀乙彦の小説『湿原』の挿画を担当( - 1985年)。
1987年、加賀乙彦「ヴィーナスの笑くぼ」(『婦人公論』連載)および宮尾登美子「松風の家」(『文藝春秋』連載)の挿画を担当。
1988年、野田弘志展〈明晰なる神秘〉(有楽町アートフォーラム、豊橋市美術博物館他)を開催。
1990年、ベルギーで個展(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。日本経済新聞に「写実のこころ10選」を連載。
1992年、「現代の視覚」展 (東京・有楽町アートフォーラム)に出品。第14回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。第5回 安田火災東郷青児美術館大賞作家展〈第14回受賞者野田弘志〉(新宿・安田火災東郷青児美術館)および「安田火災東郷青児美術館大賞受賞記念野田弘志展」(ふくやま美術館)を開催。
1992年、「両洋の眼・現代の絵画」、安田火災東郷青児美術館大賞15周年歴代作家展(新宿・安田火災東郷青児美術館)、「美しすぎる嘘〈現代リアリズム絵画展 PART1 スペイン―日本〉」(日本橋・三越)、「大和思考」〈思いがフォルムになる時〉(大阪・近鉄アート館)に出品。
1993年、「豊橋市美術博物館所蔵 野田弘志展」(札幌・三越)を開催。日本ポルトガル友好450周年記念・新妻實・野田弘志展〈隠されている美神 石と骨〉(リスボン・GALERIA VALENTIM OE CARVALHO他)に出品。
1994年 ベルギーで野田弘志展〈油彩・水彩〉(ヘント・ヴェラヌマン美術館)を開催。 第12回宮本三郎記念賞を受賞。「第12回宮本三郎記念賞 野田弘志展」(日本橋・三越本店)を開催。「輝くメチエ 〜油彩画の写実・細密表現」(奈良県立美術館)に出品。
1995年、「洋画の展望 -具象絵画を中心に-」(福井県立美術館)に出品。北海道壮瞥町にアトリエを構える。
2007年、大規模な回顧展を開催。
2018年、天皇並びに皇后の肖像画を制作し、宮内庁に奉納。2018年度北海道文化賞受賞。
代表作
裸婦習作
白い風景
やませみ
黒い風景 其の参
鳥の巣


氷の落ちた風蓮川
蒼天
藤田嗣治
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854-1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士。兄の嗣雄(1885〜1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる。

藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小)に通った。1900年、高等師範附属小学校(現・筑波大附属小)を、1905年に高等師範附属中学校(現・筑波大附属中学・高校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。

1905年(明治38年)、森鴎外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。1910年に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。

1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている。

新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。

1913年(大正2年)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていた。藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。

また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。

パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。

1914年、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かいだした1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。

シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン(en:André Salmon)が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となった。

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。

当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。

1931年には、新しい愛人マドレーヌ(Madeleine Lequeux 1910-1936)を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれる。

その後、1933年に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添った。1936年旧友ジャン・コクトーが世界一周の旅で日本に滞在し時、藤田と再会し、相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にした。 (その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛した。)

1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手掛けた。南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。その後、1945年11月頃にはGHQに見いだされて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。

傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続いた。1955年にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られた。

1959年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

藤田の最期を看取った君代夫人は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開された。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されている。

2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。

2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されるなど、再評価の機運が高まっている。
代表作
にわとりとタマゴ
婦人像
父の像
自画像
朝鮮風景
スーチンのアトリエ
キュビズム風静物
巴里城門
トランプ占いの女
収穫
断崖の若いカップル
雪のパリの街並み
ル・アーヴルの港
パリ風景
モンルージュ、パリ
巴里風景
風景
聖誕 於巴里
二人の子供と鳥籠
ドランプル街の中庭、雪の印象
花を持つ少女
二人の女
聖母子
私の部屋、目覚まし時計のある静物
横たわる裸婦と猫
私の部屋、アコーディオンのある静物
寝室の裸婦キキ
ジュイ布のある裸婦
横たわる裸婦
エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像
バラ
アントワープ港からの眺め
長い髪のユキ
裸婦
五人の裸婦
座る女性と猫
タピスリーと裸婦
室内、妻と私
人形を抱く少女
ヴァイオリンをもつ子ども
友情
ユキ(雪の女王)
横たわる裸婦(ユキ)
エレーヌ・フランクの肖像
動物群
10人の子どもたち
貝殻のある静物
ギターを持つ少年と少女
砂の上で
座る裸婦
舞踏会の前
横たわる裸婦(夢)
横たわる貴婦人
夢から醒めて

青衣の女
二人の女
2人の裸婦
横綱栃木山の肖像
アトリエの自画像
インク壺の静物
アンナ・ド・ノアイユの肖像
シュジー・ソリドールの肖像
猫のいる自画像
受胎告知・三王礼拝・十字架降下
ライオンのいる構図
犬のいる構図
争闘1
争闘2
座る女
欧人日本へ渡来の図
馬の図
二人の友達
三人の女
死に対する生命の勝利
調教師とライオン
横たわる裸婦と猫
仰臥裸婦
横たわる裸婦(マドレーヌ)
横たわる裸婦と猫
カーニバルの後
室内の女二人
婦人像(リオ)
家族の肖像
ラマと四人の人物
大地
メキシコに於けるマドレーヌ
力士と病児
空の上の空中戦
北平の力士
五人女
Y夫人の肖像
葡萄畑の女性、母と娘、ポプラ並木の女性と楽士、犬を抱く女性と楽士、貴婦人と召使い。女性と天使
ノルマンディーの春
野あそび
秋田の行事
一九〇〇年
那覇の客人

ディナー・パーティー
青いドレスの女
サーカスの人気者
猫のいる風景
ドルドーニュの家
カルポーの公園
猫(闘争)
人魚
哈爾哈河畔之戦闘
アッツ島玉砕
仏印風景
渡洋爆撃(空中戦)
仏印メコンの広野
サイパン島同胞臣節を全うす
無題
優美神
私の夢
カフェ
美しいスペイン女
占いの老女
姉妹
夢見る女
ジャン・ロスタンの肖像
校庭
家馬車の前のジプシー娘
河原にて
誰と戦いますか?
カルチェ・ラタンのビストロ
庭園の子供達
アージュ・メカニック(機械の時代)
花の洗礼
聖母子
EVE
キリスト降架
磔刑
アッシジ
聖母子
礼拝
マドンナ
藤田吉香
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
県立中学明善校(現福岡県立明善高等学校)卒

九州大学工学部造船科(専門部)卒 (1948年)

松田塾にて松田実に洋画の指導を受ける(1949年)

東京芸術大学美術学部芸術学科卒(1955年)

スペインの王立サン・フェルナンド美術アカデミーヘ留学(1962年-1966年)

国画会会員。京都造形芸術大学名誉教授。

群を抜く描写力と清澄な色彩で「静」でありながら、圧倒する存在感をもつ静物画が多数。

また、中央にモチーフを配し単色の背景というシンプルな画面構成であり、

抽象画的な感覚も持ちあわせながらも、古典的な技法にもすぐれ各所でその力量を窺うことができる。

昭和の一時代を築いた画家である。
代表作
すわる
ほおむる
はたじるし

連雲
春木萬華
前田寛治
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1896年10月1日、鳥取県東伯郡北条町(現・北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。1914年に倉吉中学(現・倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現・京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学を果たす。学校では長原孝太郎と藤島武二に師事する。一方で在学中の1920年、恩師中井をリーダーとする倉吉の文化団体「砂丘社」の創立より参加し積極的に同人展に出品する。1921年、東京美術学校を卒業して研究所に進級し研究生となり、翌1922年から1925年までフランスに滞在し、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに籍を置いてクールベの写実主義を研究する。また、このフランス滞在中には同郷のマルクス主義理論家である福本和夫と交友を持ち、影響を受けたとされる[3]。帰国後、1926年にパリ時代の友人である佐伯祐三、里見勝蔵、小島善太郎たちと「1930年協会」を結成する。1928年6月に東京杉並区天沼にアトリエ兼自邸を建てて前田写実研究所を開設し、当地で後進達の指導をしつつ自身が目指す写実画の更なる探求をはじめる。帝展での特選を重ねて1929年に帝展審査員に選ばれ務めるが病に倒れ、都内の病院に入院する。その病室で絶筆となる大作「海」を完成させる。1930年4月16日、鼻孔内腫瘍により逝去。
代表作

棟梁の家族
ベッドの裸婦
裸体
横臥裸婦
J.C嬢の像
二人の労働者
ポーランド人の姉妹
正宗得三郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。実兄に小説家の正宗白鳥、国文学者の正宗敦夫、弟に植物学者の正宗厳敬がいる。1902年(明治35年)に日本画家を志して東京に出て寺崎広業に師事した。のち洋画に転じ、1907年(明治40年)東京美術学校(後の東京芸術大学)西洋画科を卒業。在学中より青木繁グループに属す。1909年(明治42年)文展入選。

1914年(大正3年)から1916年(大正5年)および1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけてヨーロッパに渡り本場の西洋絵画を学ぶ。この時アンリ・マティスにも学んだ。この間、1915年(大正4年)前年に創立したばかりの二科会会員となる。第二次世界大戦前は二科会の重鎮として活躍した。東京都中野区東中野にアトリエを構えていたが、1945年(昭和20年)、空襲によりアトリエを焼失し作品の多くを失った。

戦後は1944年(昭和19年)に解散した二科会に代わり、1947年(昭和22年)正宗は熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、宮本三郎、横井礼市と共に「第二紀会」(後、二紀会と改称)を結成した。晩年は富岡鉄斎の研究を行った。
代表作
河港
チューリップ
秋林
森本草介
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1937年(昭和12年)、画家・森本仁平の長男として朝鮮全羅北道に生まれる。大東亜戦争中の1943年(昭和18年)に内地へ帰ったものの再度朝鮮へ戻り、1945年(昭和20年)に日本が敗戦すると、一家での逃避行を強いられた。岩手・東京で育つ。子の森本純(1970- )も画家で美人画を描く。

1951年(昭和26年)墨田区立堅川中学校へ転入学。

1958年(昭和33年)、東京芸術大学絵画科油画専攻入学し、在学中の1961年(昭和36年)に安宅賞を受賞した。1962年(昭和37年)に大学を卒業すると専攻科に進んで翌年に修了、東京芸術大学の助手となった。

1963年(昭和38年)国画会第37回展に初出品し、初入選。1966年(昭和41年)には国画賞を受賞、助手職を辞した。

1969年(昭和44年)、国画会会員に推挙される。

1969年(昭和44年)、「十騎会」の結成に加わる。静物画、風景画に、精密な画法で評価を得るが、1979年(昭和54年)頃、女性画のモデルを発見、以後このモデルを使って裸婦、着衣婦人画を数多く制作する。

森本の作品の最大の収集者は、千葉県千葉市のホキ美術館であり、同館には森本の作品36点が収蔵・展示されている。

2015年(平成27年)10月1日、心不全のため千葉県鎌ケ谷市の自宅にて死去。78歳没。
代表作
横になるポーズ
光の方へ
休日
果物たちの宴
牡丹
田園
山口薫
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1925年、東京美術学校入学
1926年、第7回帝展に初入選
1927年、第8回帝展に入選
1929年、第4回国画会展に入選
1930年、第17回二科会展に入選。渡欧する
1931年、グランド・ショミエール芸術学校(パリ)に通い、南仏、イタリア、スペイン、エジプトなどを旅行する。エコール・ド・パリの影響をうけ、自然主義的画風になる
1933年帰国、同年国画会会友となる。
1934年、川端美術学校からの友人で留学生仲間の村井正誠、矢橋六郎らと、新時代洋画展を結成
1937年、自由美術家協会[3]を結成(村井正誠、矢橋六郎、難波田竜起、瑛九ら)このころから自然主義的画風から、壺、紐などのモティーフを組み合わせた幻想的で抒情的作風に変化してゆく
1950年、モダンアート協会を結成[4]
1951年、武蔵野美術大学講師に就任
1956年、現代日本美術展で佳作賞
1958年、グッゲンハイム賞国際美術展国内賞のほか、第10回毎日美術賞等、国内の各種展覧会のほか、サンパウロ・ビエンナーレやベネチアビエンナーレに出品。
1960年、芸術選奨文部大臣賞受賞
1964年、東京芸術大学教授に就任
1968年、死去。享年60歳。
代表作
花子誕生
葬送

おぼろ月に輪舞する子供達
花の像
萬鉄五郎
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1885年11月17日 岩手県和賀郡東和町の商家(回送問屋「八丁」)に生まれる。
1901年 大下藤次郎『水彩画之栞』を読み、大下に作品を送り、批評を受ける。
1903年 上京し、早稲田中学で学びながら、白馬会第二研究所(菊坂研究所)で素描を学ぶ。
1906年 臨済宗円覚寺派の宗活禅師に従って、アメリカ西海岸にわたる。サンフランシスコの美術学校で本格的な修業をすることを目指すが、この年に起きたサンフランシスコ地震で生活が困難になり、数ヶ月で帰国する。
1907年 東京美術学校西洋画科に入学する。 
1909年 よ志と結婚する。
1911年 日本画家の広島新太郎(のちの広島晃甫)らとアブサント会を結成する。
1912年 東京美術学校を卒業。卒業制作として《裸体美人》を提出。
この頃の作品は後期印象派やフォーヴィスムの影響が強い。
1912年 フュウザン会第1回展に出品する。
1914年~1916年 土沢に帰郷、妻に電灯会社代理店を任せ、自らは制作に没頭する。フォーヴィスム的な色彩は影をひそめ、茶褐色を主とした作品を描く。
1917年 二科展にキュビスム的作品の《もたれて立つ人》を出品する。
1919年 病気療養のため、神奈川県茅ヶ崎市に転居する。鳥海青児、原精一らが薫陶を受ける。
1922年 春陽会の設立に参加する。
1922年 鉄人会を起こし南画の研究を進める。
1927年 結核のため、神奈川県にて死去する。
代表作
裸体美人
もたれて立つ人
赤い目の自画像
雲のある自画像
落曙・荷車ひきのいる風景
目のない自画像
猿ヶ石川当楽図
和田義彦
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
1940年 -三重県北牟婁郡引本町(現紀北町)にて出生。
1959年 -愛知県立旭丘高等学校美術科を卒業。東京芸術大学美術学部油画科に入学。
1963年 -東京芸術大学美術学部油画科を卒業。
1964年 -スルガ台画廊で初めての個展開催。
1965年 -東京芸術大学大学院美術研究科を修了、研究副手となる。
1966年 -国画会展 野島賞受賞。
1967年 -国画会展 プールブー賞受賞。滝沢具幸・和田義彦二人展(スルガ台画廊)開催。
1968年 -国画会会友に推挙される。
1969年 -講談社フェーマススクールズにインストラクターとして勤務。(1971年まで)
1970年 -国画会会員に推挙される。
1971年 -イタリア政府給費留学生として渡伊、ローマ美術学校でジェンティリーニ教室で学ぶ。
1972年 -ローマ国立中央修復学校に編入学、バルディ教授に師事して修復技術、古典技法を学ぶ。シモーネ・マルティーニ、セバスティアーノ・デル・ビオンボの作品等の模写を行う。
1974年 -現代日本新人作家展(日本橋高島屋)出品。ローマ、ドーリア=パンフィーリ美術館でベラスケス作《インノケンティウス10世》の模写を行う。
1975年 -マドリード、プラド美術館でルーベンス作《プロセルピーナの略奪》《聖ペドロ》ホセ・デ・リベラ作《聖バルトロメイ》の模写を行う。
1976年 -マドリード、プラド美術館でホセ・デ・リベラ作《バコ女性像》の模写を行う。
1977年 -東京に住む。
1979年 -第1回明日への具象展(日本橋高島屋他)出品。(81、82年)
1981年 -名古屋芸術大学美術学部助教授に就任。(1985年から教授)
1982年 -開館記念 三重の美術・現代(三重県立美術館)招待出品。
1983年 -帰国後初の個展・和田義彦個展(日本橋高島屋、7.28-8.2、名古屋丸栄スカイル、9.29-10.4)開催。具象現代展(上野松坂屋)出品。裸婦デッサン展(伊勢市・亀谷美術館)出品。
1984年 -第1回日本青年画家展(日本橋三越)出品。(85年)和田義彦滞欧作と新作展(東京自由が丘・一誠堂画廊、10.26-11.5)開催。和田義彦個展(大阪・阪急百貨店、11.21-11.26)開催。炎の会展(名古屋・第一画廊)に佐々亮暎、鈴木五郎と出品。(96年まで)
1985年 -和田義彦展(名古屋画廊、5.14-5.22)開催。
1988年 -洋画の現在と未来展(企画・美術世界画廊、会場・ラフォーレミュージアム赤坂)出品。
1990年 -サロン・ド・アブリル展(東京・日動画廊本店)出品。第27回太陽展(東京・日動画廊本店)出品。(以後05年まで毎年)第21回日動展出品。和田義彦展 この十年の歩み展 PartI(名古屋・ギャルリー・メチエ、12.8-12.18)開催。
1991年 -和田義彦展 この十年の歩み展 PartII(名古屋・ギャルリー・メチエ、1.20-1.30)開催。パリ国立美術大学ピエール・キャロン教授からパリに招待される。以後数年間、同大学にアトリエを借りて毎年制作を行う。
1992年 -和田義彦展(名古屋日動画廊11.20-11.28)開催。
1993年 -和田義彦展(東京・日動画廊本店、9.14-9.21)開催。3人展(ローマ、グラディーバ画廊)出品。
1995年 -藤田吉香、山本文彦とともに実行委員となって組織した赫風会展(東京大丸、京都大丸、大丸大阪心斎橋店)出品。
1998年 -和田義彦展(東京・日動画廊本店、1.19-1.27、名古屋日動画廊、1.29-2.6)開催。雑誌「美術の窓」連載の芸苑雑事記(瀧悌三著)挿画原画展(銀座・風童門)開催。樹要会展(東京・日動画廊本店)出品。
2000年 -両洋の眼21世紀の絵画展(日本橋三越他)出品。(以後05年まで毎年)和田義彦挿画原画展 森村誠一著「敵対狼群」(東京・日本橋高島屋(3.30-4.5)、大阪・なんば高島屋(4.12-4.18)名古屋・丸栄スカイル(5.3-5.9)開催。
2001年 -和田義彦展、新作と森村誠一著作のための原画展(東京・日動画廊本店、10.31-11.9、名古屋日動画廊、2002.1.10-1.19)開催。
2002年 -現代洋画選抜展(名古屋・松坂屋本店)出品。名古屋芸術大学教授を退官。
2003年 -東郷青児美術館大賞25周年記念 25人の絵画展(損保ジャパン東郷青児美術館)出品。4つの視点展(サムホール画廊)招待出品。(04年)15の眼展(光画廊)出品。(04年)
2004年 -桃花の会展(日本橋高島屋)出品。
2005年 -両洋の眼新美術主義の画家たち展(日本橋三越他)出品、河北倫明賞受賞。秋山庄太郎・画家・一期一会展(日本橋高島屋)出品。和田義彦展開催(三重県立美術館、渋谷区立松濤美術館、茨城県つくば美術館)
2006年5月 - イタリアの画家アルベルト・スギの作品との、作品類似疑惑が発生。
2006年6月5日 - 芸術選奨文部科学大臣賞、安田火災東郷青児美術館大賞の取り消し。国画会退会。
2008年 -パリ・セーヌ画廊で小品展開催。和田義彦展(東京セントラル美術館 11.24-11.30)開催。
2010年 -円鳥洞画廊特別企画和田義彦展(円鳥洞画廊、10.12-22)開催。東北福祉大学特別任用教授。
2011年 -2011年3月12日~4月3日、中国北京「Mizuma & One Gallery」にて「和田義彦展~挽歌~」開催。
2012年 -ブータン王国芸術顧問に就任、国王及び王妃の肖像画を制作。
2013年 -和田義彦展(東京・ギャラリーミハラヤ、5.6-5.18)開催。
2014年 -「日本とブータンの子供たち絵画交流展」を、福島県、宮城県、東京都内の計5会場にて開催。
2016年 - 逝去(享年76歳)。
代表作
母子像
夢想
辰野登恵子
画家種
洋画家
人物・来歴・経歴・その他
長野県岡谷市に生まれる。1968年、長野県諏訪二葉高等学校を卒業。同年、東京芸術大学美術学部に入学。大学時代に柴田敏雄(写真家)や鎌谷伸一(版画家)とともにグループ「コスモス・ファクトリー」を結成。名前は、彼らが好きだったクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのアルバム『Cosmo's Factory』(1970年)からとられた。アンディ・ウォーホルやロバート・ラウシェンバーグの影響を受けた写真製版によるシルクスクリーンをいち早く試みる。1970年、村松画廊で初めての展覧会を開催。1972年、同大学美術学部絵画科油画専攻を卒業。1974年、同大学大学院修士課程を修了。

1974年から1975年まで、同大学美術学部版画科の助手を務めた。

1996年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。

2003年、多摩美術大学客員教授となる。2004年、同大学教授となる。

2013年1月1日、第54回毎日芸術賞を受賞。

2014年9月29日、転移性肝癌のため死去。64歳没
代表作
Untitled 92-7
Untitled 92-8
Untitled Ⅱ
Untitled Ⅳ
稲田年行
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
日本の版画家、浮世絵研究家、郷土玩具収集家、岐阜大学名誉教授、浜松大学教授( - 2000年)。

東京美術学校卒、同専修科修了。安井曽太郎に師事。日本美術家連盟会員、大学版画協会会員、竹とんぼの会会員。水府森家の末裔で、森鴻次郎の孫。建築家稲田尚之の兄、版画家松田ハルミの夫、哲学者純丘曜彰、版画家稲田醍伊祐の父。憲法学者小林直樹の甥。
代表作
惑星
彷徨
牛玖健治
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1922年(大正11年)、千葉県に生まれる。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京版画国際展をはじめ、毎日国際展、毎日現代展、朝日秀作美術展、JAA国際展などで活躍する。河童絵の牛玖博は実弟。
代表作
木と実と花と
発祥

静かな日
駒井哲郎
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
油絵や色彩版画の作品も少数あるが、生涯にわたり一貫してエッチングを制作し、モノクロームの世界で、自己の内面、幻想、夢などを表現し続けた。作風は、パウル・クレーの影響が濃い抽象的・幻想的なもの、樹木や風景を繊細で写実的なタッチで描いたものなどがある。大岡信(詩人、評論家)、安東次男(詩人)ら文学者との交流も多く、安東とのコラボレーションによる詩画集『からんどりえ』(1960年)は、版画と詩を同じ紙に刷った、日本では初の試みと言われている。棟方志功、浜口陽三など、同時代の版画家に比べやや地味な存在ではあるが、日本美術界では長らくマイナーな分野であった銅版画の普及と地位向上に貢献した作家として高く評価されている。

駒井は1920年(大正9年)、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に製氷業者の子として生まれた。少年時代を品川区五反田、港区麻布などで過ごす。1933年(昭和8年)慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、図画教師・仙波均平を知る。1935年(昭和10年)、慶應義塾普通部在学中に、当時「日本エッチング研究所」を主宰していた西田武雄(1895年-1961年)という人物のもとに日曜日ごとに通ってエッチングの技法を習得した。西田武雄は画商を営むかたわら、銅版画の普及に尽力し、『エッチング』という雑誌を自費出版に近い形で発行していた。少年駒井哲郎がエッチングに魅せられたのは、この『エッチング』誌に載っていたジャン=フランソワ・ミレーの版画を見たことがきっかけだったという。

駒井は1938年(昭和13年)、慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学。当時の美術学校は予科1年、本科4年であったが、戦時下のため半年繰り上げて1942年(昭和17年)9月に卒業した。東京美術学校油画科では、卒業制作として自画像を描くことが慣例化しており、駒井の自画像も東京藝術大学に現存している。暗闇の中に白い顔だけが浮き出したような、特異な作風の自画像は、駒井の数少ない油絵作品の1つである。

第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)、第16回日本版画協会展に出品。入選して同会会員に推挙されている。1950年、 春陽会第27回展で春陽会賞を受賞。1951年(昭和26年)には『束の間の幻影』がサンパウロ・ビエンナーレ展で聖日本人賞を受賞。翌1952年、スイスのルガノ国際版画ビエンナーレでも国際次賞を受賞している。1953年(昭和28年)には資生堂画廊で初の個展を開催した。同時期に多分野の芸術グループ実験工房にも参加している。

1954年(昭和29年)から翌年にかけて渡仏。パリの国立美術学校でビュランの技法を学んでいる。ビュラン(「エングレーヴィング」と同義)とは、銅版画の技法の1つで、薬品で銅板を腐蝕させるエッチングとは異なり、「ビュラン」という一種の彫刻刀で銅板に直接線を彫っていく技法である。もっとも、帰国後の駒井は再びエッチングの技法に戻り、ビュランの作品をほとんど残さなかった。駒井は日本へ帰国後まもない1956年(昭和31年)、『芸術新潮』誌の3月号に「自信喪失の記」という文章を寄せ、西洋の版画美術のすばらしさに圧倒されたこと、熟練を要する「ビュラン彫り」の技術習得は30歳を過ぎてからでは困難であったことなどを述懐している。

1959年には、日本版画協会第27回展で日本版画協会賞を受賞、同年、第5回日本国際美術展でブリヂストン美術館賞を受賞。

駒井は1963年(昭和38年)、東京藝術大学講師となり、1971年(昭和46年)には同・助教授、翌年教授に就任している。1973年、自選による『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)を刊行。働き盛りの56歳であった1976年(昭和51年)、舌がんのため死去した。

2012年、福原義春が50年以上かけて収集した駒井哲郎の作品約500点が世田谷美術館に寄贈された。
代表作
束の間の幻影
夢の扉
ある空虚

森の中の空地
中林忠良
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1937年 東京・品川区大井山中町に産まれる。1941年江東区に、1943年品川区に、1944年目黒区に転居。目黒区立中目黒小学校入学直後に、新潟県蒲原郡加茂町(現加茂市に戦時児童疎開。4年間を過ごす。この少年時代の疎開生活は、のちの作品に影響をあたえた。

1959年 東京芸術大学 美術学部絵画科油絵専攻に入学。1961年 3年次の版画集中講義で、駒井哲郎から初めて銅版画を学ぶ。1963年 東京芸術大学 卒業(学部同級生 -版画関係- に青出光佑、秋元幸茂、斎藤智、野田哲也、星野美智子、本多栄子、本山敬子、柳澤紀子がいる)。 東京芸術大学大学院 美術研究科 版画専攻に入学、駒井哲郎に師事する。

1965年 東京芸術大学大学院を修了し、同大副手に採用される。1966年から非常勤講師。「アトリエC-126」を今井治男、小作青史、野田哲也、吉田東、清塚紀子らと結成。のちに田村文雄、原健らが参加した。1969年 東京芸術大学助手。1974年講師、1978年に助教授に昇任、1989年に教授になる。この間、1973年 第四回版画グランプリ展でグランプリ受賞、パリなど、内外で多数受賞。

1975年には文部省派遣在外研究員として国立美術学校、ハンブルク造形芸術大学(英語版)で研修( - 1976年)、1年間をすごす。


1986年に長野県茅野市・蓼科に「山のアトリエ」を建て、創作活動をする拠点の一つになる。

2003年 紫綬褒章受章。2005年教授を退任。武蔵野美術大学客員教授( - 2009)、大阪芸術大学教授に招聘される。

2015年時点 東京芸術大学名誉教授、大阪芸術大学客員教授、京都造形芸術大学客員教授、2003年 紫綬褒章、2014年瑞宝中綬章受章。日本版画協会理事、日本美術家連盟常任理事。
代表作
転位'92 地 I
Position'78 7 枝
転位'95 地III(水脈)
Position 78-1
転位
転位'90 地 II
夜 林の奥にひそむ夜の生壁色
野田哲也
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1940年: 熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市)に、校長の息子として生まれる。
1959年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻入学
1963年: 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業
1965年: 東京藝術大学大学院絵画研究科油絵専攻修了(在学中に小野忠重から木版を学ぶ)
1968年 : 作品として日記をつけはじめる。東京国際版画ビエンナーレ 大賞受賞
1971年6月: 駐日イスラエル大使Moshe Barturの娘であるドリット・バルトゥールと結婚
1978年: 東京藝術大学美術学部版画研究室講師、81年 同助教授、91年 同教授
この間、客員芸術家としてカナダ、アルバータ大学('84)、オーストラリア、キャンベラ美術学校('90)、アメリカ、コロンビア大学('98)などで教える。
また、第5回英国国際版画ビエンナーレ('76)、第10回ソウル国際版画ビエンナーレ('96)、第2回中国現瀾国際版画双年展('09)などで国際審査員を勤める。
2007年3月31日: 東京藝術大学美術学部版画研究室教授を退任
2010年 - 現在: 東京藝術大学名誉教授[1]。
2010年12月 - 2011年1月: 文化庁文化交流使としてイスラエル、イギリスに派遣されロンドンメトロポリタン大学の公開講座などで日本の木版画を教える。
代表作
「日記」シリーズ
萩原英雄
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を努め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。

1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には華族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る[4]。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。東京府下野方町上高田(東京都中野区)に住む。このころより油彩画をはじめ、1930年(昭和5年)には耳野卯三郎から指導を受けている。

1932年(昭和8年)3月に旧制中学を卒業し、同年4月には文化学院美術科へ入学する。このころには公募展へも作品を出展し、白日会第9回展に油彩画の作品<雑木林>が入選し、光風会第19回展では油彩画<上り道>、日本水彩画会第19会展に水彩画<アネモネ>(東京藝術大学所蔵)が入選している。

1933年(昭和8年)4月に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)油絵科へ入学する。東美時代は授業で木版画や銅版画とも接している。在学中は両親の理解や姉夫婦の援助を受け、西洋美術の画集や文献を収集し、セザンヌなど近代美術を好みつつ、16世紀まで遡り西洋美術を研究したという。この年には白日会第10回展に油彩画<風景>、光風会第20回展に油彩画<南天畑>が入選しているが、これ以降は学校の校則により公募展出展が禁止されたため、公募展への出展は行っていない。

1934年(昭和9年)には東京美術学校油画科本科へ進み、南薫造の指導を受ける。本科時代には後の洋画家・長谷川利行とも知り合っている[14]。1938年(昭和13年)3月に東京美術学校油画科本科を卒業する。卒業制作は<自画像>で、多くの初期油彩画が戦災で失われているなか現存しており、同年制作のアカデミックな雰囲気において、鋭い眼差しを向ける詰襟姿の青年として自身を描いている。

この年には父が死去し、同年4月には浮世絵の複製を手がけていた高見沢木版社に入社し、企画部を担当し主に図版の出版や職人のマネージメントに携わった。セザンヌやマティスらの画集刊行に携わり、浮世絵についても理解を深める。同年11月には結婚する。

1943年(昭和18年)6月には召集を受けて高見沢出版社を退社し、陸軍東部第17部隊に入隊する。短期間で除隊となる。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では自宅のアトリエが初期作品や蒐集品とともに焼失する。

戦後は生活のために勤めることはせず、極貧生活のなかで制作活動に励んだ。この時期の作品は美術学校で学んだアカデミックな雰囲気を持つ写実的な作風で、1951年(昭和26年)には銀座の資生堂で油絵作品の個展を開催し、油彩画の他に銅版画も手がけていた。

1953年(昭和28年)5月には肺結核に倒れて救世軍杉並療養所に入所し、3年間の療養生活を余儀なくされる。療養中には療養所の患者同士で絵を描き、それを回覧する「ピノチオ会」の活動を行った。素描や水彩画を制作しているが、画題は風景や花など身近なものや身近な人物の肖像などが多くなり、色彩も原色傾向に移り抽象傾向に傾いていく。また知人から聖書を送られ、同年制作のパステル画<聖書に関する物語の十二の試>など、キリスト教の影響も受けた作品も多い。

療養初年度には、友人への年賀状に高見沢木版社時代に学んだ木版画の技法で<牛>を制作する。これを機に木版画制作をはじめる。萩原は1956年(昭和31年)1月に退院するまで、約70点も木版画を制作している。療養中に作成した連作<二十世紀>11点は、退院後に銀座の養清堂画廊で開かれた個展において出展された。<二十世紀>に関しては萩原自身の証言は見られないものの、西洋美術の神話・宗教的なモチーフが描かれ、怪物に食べられる人間や骸骨なども描かれており、長坂光彦は1988年に刊行された目録のなかで、「戦争」や「文化」など人間の愚行を告発した作品と評している。なお、早川ニ三郎は<二十世紀>に関して、萩原が退院して療養生活から開放された精神的自由を表現したと評しているが、太田智子は製作年が療養中の1955年(昭和30年)であることから、これを否定している。

萩原は本来平面的な木版画に油絵の持つ色彩の深さを加えることを目標とし、空摺りなど伝統的な技法を守りつつも、板目木板を刀で彫るという基本的な木版画の技法を捨て、版木に建築資材の端材や朽木、ベニヤの木片などを用い、それらを鋸で切断し接着することで木目の方向を克服し、オブジェ的に版を構成し木版凹版を開発した。また高見澤出版社時代に接した浮世絵の技法を応用し、和紙を湿らせることで紙に含まれる滲み止め薬のドーサの働きを弱め、浸透性の高い染料を針金を巻いた独特なバレンで摺るこよによって裏側からも摺る「両面摺り」の技法を開発した。

このため、萩原の作品は偶然性による滲みの具合に左右され、一点一点が微妙に異なるモノグラフ(一点制作)の版画となっている。萩原は「幻想」シリーズや「石の花」シリーズにより抽象版画家としての地位を築き、1960年(昭和35年)には第二回東京国際版画ビエンナーレで「石の花」シリーズが神奈川県近代美術館賞、1962年にはルガノ国際版画ビエンナーレで「白の幻想」がグランプリを受賞した。

1979年から1990年まで日本版画協会理事長を務める。1986年には野口賞を受賞する。1988年にはノーベル文学賞を受賞した川端康成の記念品を製作する。

1960年(昭和35年)以降にはリトグラフの制作を行っている。萩原の最初期のリトグラフは山梨県立美術館所蔵の「葉」(1960年)、「あられ」(1961年)の2点で、いずれも萩原による刷りではなく「PRINTED BY ARTHUR FLORY」の印が見られる。アーサー・フローリー(Arthur Flory、1914年 - 1972年)はアメリカ合衆国・オハイオ州出身の版画家で、1960年に来日すると東京・新宿区下落合で工房を開き、棟方志功・斎藤清・山口源・畦地梅太郎・篠田桃紅・脇田和らの日本人作家が集い、フローリーから技術指導を受けた。

山梨県立美術館の研究によれば、萩原も同様にフローリーから指導リトグラフの技法を学んでいたと考えられており、『芸術新潮』1961年4月号に掲載されたフローリーの随筆「石版画工房-日本の一角で」には萩原の「あられ」が紹介されている。また、萩原コレクションにはアメリカ帰国後のフローリー作品が含まれており、親交があったと考えられている。

1981年(昭和56年)から1986年(昭和61年)には故郷である山梨県から見える富士山を題材とした連作<三十六富士>の制作に取り組む。『美の遍路』に拠れば萩原は療養所を退所して5年前後に着想したと述懐しており、制作に際しては各地を取材している。萩原は高見沢木版社時代に浮世絵に親しんでおり、<三十六富士>は葛飾北斎の<富嶽三十六景>に学んでいる。

北斎が風景のみならず人々の生活や生業を題材としているのに対し、萩原は人間の営みを描かず、純粋に富士の見える風景を題材に、季節や大気の変化を表現している。また、すべての作品に雲母(きら)を使用し、富士の冠雪を「きめこみ(空摺り)」は表現しており、さらに絵具が不均一になるように版木におがくずを固定したり、ニスを塗布するなどの技法を用いている。<三十六富士>は多くが山梨県側から見た富士であるが、一部に静岡県・神奈川県側から見た風景も含まれている。<三十六富士>は富士北麓の富士五湖周辺や朝霧高原から見た富士が多く、北杜市高根町の清里高原や、遠くは東京都新宿区の新宿副都心のビルの谷間から見た富士や、中央自動車道の八王子付近から見た富士なども描いている。

萩原は<三十六富士>以降も富士図に取り組み、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)、1998年(平成10年)には<拾遺富士(こぼれふじ)>、1990年から1998年には<大富士>を制作している。1996年(平成8年)9月には著書『美の遍路』を刊行する。

2000年(平成12年)、自らの作品と蒐集品(萩原英雄コレクション)を山梨県立美術館に寄贈している。2007年に死去、94歳。
代表作
三十六富士
夜の絆
木枯らしの詩
浜口陽三
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男に当たる。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居。東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。パリ滞在中の1937年(昭和12年)頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めた。戦時色の濃くなる中、1939年(昭和14年)に日本に帰国。自由美術家協会に創立会員として参加するが、戦時下にはなかなか作品発表の場が無かった。1942年(昭和17年)には経済視察団の通訳として仏領インドシナ(ベトナム)に渡航し、1945年(昭和20年)帰国している。

浜口は20世紀におけるメゾチント技法の復興者として国際的に知られる。メゾチントは「マニエル・ノワール(黒の技法)」の別名でも呼ばれる銅版画の技法の1つで、鏡面のような銅板の表面に「ベルソー」という道具を用いて、一面に微細な点を打ち、微妙な黒の濃淡を表現するものである。こうして作った黒の地を「スクレイパー」「バニッシャー」と呼ばれる道具を用いて彫り、図柄や微妙な濃淡を表す。この技法は写真術の発達に伴って長く途絶えていたものである。浜口はこの技法を復興させると共に、色版を重ねて刷る「カラー・メゾチント」の技法を発展させたことで知られる。

浜口が本格的に版画の制作を始めるのは、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)前後、40歳頃のことであった。1953年(昭和28年)には再度渡仏し、以後主にフランスで制作を続けた。1957年(昭和32年)にはサンパウロ国際版画ビエンナーレの版画大賞と東京国際版画ビエンナーレにおける国立近代美術館賞をダブル受賞し、国際的評価が高まった。その後も多くの国際的な賞を受けている。妻の南桂子も版画家である。

1971年から1972年にはブラジルに滞在。フランスにいったん戻った後、40年来の本拠地を1981年(昭和56年)からサンフランシスコに移す。版画の刷師を探すところまで立ち返り、制作活動を再開。やがてパリとサンフランシスコそれぞれの本拠で手がけた同じモチーフの作品を比較すると、色調に変化が現れる。 1996年(平成8年)、日本へ戻り、2000年(平成12年)12月に没するまでの数年間を日本で過ごした。まとまった作品はヤマサコレクション施設と、浜口の生前に受贈した武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵される。後者は記念室を設け、作品と制作の道具を展示する。
代表作
西瓜二切
西瓜
パリの屋根
水差しとぶどうとレモン
突堤
蝶と太陽
8つのくるみ
魚と果物
浜田知明
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1917年(大正6年)、熊本県上益城郡高木村(現・御船町)生まれ。教育者の次男である。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)では、東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。16歳の時には飛び級で東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けた。戦時色濃いこの時代にあって、1939年(昭和14年)の同校卒業と同じに日本軍(熊本歩兵連隊)に入隊し、中国山西省方面で軍務についた。1943年(昭和18年)に満期除隊するが、翌1944年(昭和19年)には再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務についた。20歳代の大半を軍隊で過ごした、典型的な戦中派であった。戦地でもスケッチなどを残しているが、作家としての本格的なデビューは太平洋戦争後のことである。

第二次大戦後、浜田は郷里熊本に帰り、県立熊本商業学校の教員をしながら作品制作をしていたが、1948年(昭和23年)に東京へ出、自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがっていた。浜田が注目を集めるのは1951年(昭和26年)の自由美術家協会展に出品した銅版画『初年兵哀歌』シリーズからである。浜田の代名詞ともなっているこのシリーズは1954年にかけて計15点が制作された。中でも1954年作の『初年兵哀歌(歩哨)』は高い評価を得、1956年のルガノ国際版画ビエンナーレで受賞している。

日本国内のみならず、1979年にはオーストリアのウィーン(アルベルティーナ版画素描館)とグラーツ(グラーツ州立近代美術館)、1993年にはロンドン(大英博物館日本ギャラリー)で回顧展を開催、2008年にはイタリアのウフィツィ美術館で日本人版画家として初めて展示、収蔵され、1965年にフィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員、1989年にはフランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章するなど、国際的にも活躍している。

「冷たく、暗い、金属的な感じ」を求めた結果、技法的には一貫してエッチング(腐食銅版画)を主体に作成し、アクアチント(松やにを防蝕剤に使った銅版画の一種)を併用することもある。核戦争のような人間社会の不条理や人間心理の暗部といった深刻なテーマを、ブラックユーモアにくるんで表現している。浜田は発表する作品を厳しく選別しており、発表する作品は平均して年間数点に過ぎない。また、初期の作品は大部分が本人によって破棄されたといわれている。1983年(昭和58年)からはブロンズ彫刻にも取り組み、新境地を見せている。98歳となった2015年時点でも創作意欲は衰えていないという。

2018年7月17日1時25分(JST)、老衰のため熊本市内の病院で死去した。100歳没。
代表作
初年兵哀歌
いらいら

ボタン
柳澤紀子
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
静岡県旧浜松市(現在は周辺市町村と合併し新制浜松市)にて誕生。浜松市立高等学校を経て、1965年、東京藝術大学大学院を修了。その後、アメリカ合衆国ニューヨーク州に渡り、デザイン、版画といった美術への造詣を深める。帰国後は静岡県掛川市に居を構えアーティストとして活躍し、精力的に作品を発表する。

1940年5月30日:静岡県浜松市に生まれる。
1959:東京藝術大学美術学部油絵専攻入学
1963:東京藝術大学美術学部油絵専攻卒業
1965:東京藝術大学大学院油画研究科油画専攻修了
1971~1975:ニューヨーク滞在・制作
1992:文化庁は県芸術家在外研究員としてロンドン滞在
2003~2011:武蔵野美術大学造形学部油絵学科版画研究室教授

東京芸術大学では林武に油彩を学び、当時「最も影響を受けたのはゴーギャン」「版画の様々な制約の中自分が日常感じている矛盾、情念的なものをどれだけ表現出来るか」に意欲がわき、版画を志す。(「出会い」 静岡新聞 1982年1月12日)

東京芸術大学四年から大学院時代に、駒井哲郎に銅版画のてほどきをうける。「林先生の土俗的情熱と駒井先生の都会的感性 〜 思えば、私は銅板とシルクスクリーンの上で、この二つの要素の絡み合いの中に少しでも新しいものをみいだすために努力している」と振り返る。そして「葉書大の銅版にただ針で描いて腐蝕させただけ」の作品3点の処女作を芸大祭りに展示したら、吉屋信子が購入。そのお金でニードルの針を買い、銅版画のとりこに。「油絵と並べて少しも軽く無い強い版画を作りたい」(小笠原流押花9月号 昭和41年)

結婚後、夫の勤務の都合で1971年(昭和46年)から4年間、ニューヨークのブルックリンハイツに住む。当時全盛だったアンディ・ウォーホルの作品を見て影響を受け、シルクスクリーンの世界に目覚め「自分の幅をぐっとおおきく広げてくれた」という。

渡米して美術を学んだ経験からイサム・ノグチらアメリカ合衆国のアーティストについても詳しい。

夫は元衆議院議員(自由民主党)柳澤伯夫(現・城西国際大学学長)である。紀子が大学院生当時、大蔵省職員の伯夫と出会い交際が始まった。なお、知り合ったきっかけは知人の紹介である。伯夫の「女性は子供を産む機械」発言を知った際、紀子は「なんでこんなバカなこと言ったのよ」と伯夫に向かって怒鳴ったため、伯夫が紀子に謝罪した。

娘は関西学院大学神学部准教授の柳澤田実である。
代表作
水邊の庭シリーズ
山本鼎
画家種
版画家
人物・来歴・経歴・その他
1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井暁雲(虎吉)の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。

1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業した。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊[1]。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。

1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。1910年(明治43年)3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。1911年(明治44年)、自ら東京版画倶楽部を開設し、そこからの刊行となった「草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来の浮世絵版画の形式を追った作品であった。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。

1912年(明治45年)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。木版画を製作し、絵を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。

1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく。モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。またモスクワ時代には留学中であった片上伸とも出会い、以降も親交が続く。

1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。1921年(大正10年)頃より、夫婦で国柱会に入信。

山本の郷里の知り合いが星野温泉の支配人をしていたことから、帰国後の第一作「温泉道」を軽井沢で描いて発表したところ、富岡製糸場の所長から申し出があり、軽井沢のアトリエを進呈された。所長は、偶然軽井沢で画作に励む山本を目撃し、その真摯な姿勢に感激したゆえの好意だったという。

鼎はフランスへ渡った当時、借金生活を送ったがその後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み手術後に没した。享年65。鼎の墓所は江戸川区一之江の国柱会墓所にある。
代表作
漁夫
デッキの一隅
野鶏(ヤーチー)
ブルトンヌ
朝倉文夫
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが、入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。

結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた朝倉は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。

1907年(明治40年)、卒業制作として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた第2回文展に『闇』を出展し、最高賞である2等となり翌年も「山から来た男」で3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。

1910年(明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立つ(後に朝倉が著書『航南瑣話』(東和出版社、1943年(昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は井上馨(当時朝倉は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという。この際の経験は、後の朝倉に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。

1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。1924年(大正13年)に帝国美術院会員となるが1928年(昭和3年)にこれを辞し、1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)。1932年(昭和7年)早稲田大学校賓となり大隈重信10回忌を記念して大隈重信像を作る。1935年(昭和10年)、再度帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。1944年(昭和19年)東京美術学校教授を辞し帝室技芸員(7月1日)、従三位、勲四等瑞宝章受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の朝倉の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。

戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。1949年(昭和24年)、日展運営会(現社団法人日展)常務理事。1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。

1964年(昭和39年)4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。81歳没。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にある。
代表作
墓守
加藤弘之像
時の流れ
大隈重信像
三相
太田道灌像
翼の像
尾崎行雄像
五代目 尾上菊五郎胸像 及び 九代目 市川團十郎胸像
尾澤正毅
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
長野県出身の彫刻家である。東京芸術大学美術学部を卒業後、彫刻家として活動した。また、並行して、東京都の公立高等学校にて非常勤で教鞭を執った。のちに福井大学に奉職し、教育学部にて助教授や教授を務め、さらに教育地域科学部の教授を務めるなど、後進の育成にも力を注いだ。2005年の国民文化祭では彫刻部門の審査員を務めており、福井県立美術館では実技講座専門彫刻の講師を務めるなど、地域社会の芸術の振興にも力を尽くした。

1936年、長野県にて生まれた。長野県上田松尾高等学校にて学んだ。長野県上田松尾高等学校を53期生として卒業した。その後、上京して東京芸術大学に進学し、美術学部の彫刻科にて学んだ。大学では同級生の横澤英一らとともに、石井鶴三の門下となった。

大学卒業後は彫刻家として活動した。新垣純一、岩村守、大里八郎、喜屋武貞男と五人展を開くなど、精力的に活動した。また、東京都の公立高等学校にて、講師を非常勤で務めていた。

その後、福井大学に常勤の教官として採用され、教育学部の助教授に就任した。のちに教育学部の教授に昇任した。なお、1999年には教育学部が教育地域科学部に改組されたが、引き続き勤務した。福井大学では24年間に渡って教鞭を執り、後進の育成に尽くした。なお、広島市立大学、愛知県立芸術大学、といった他の教育・研究機関においても、講師を非常勤で兼任した。2002年3月、福井大学を退職した。退職に際して、福井大学より名誉教授の称号が授与された。

なお、福井県の芸術振興にも尽力した。1996年から2002年にかけて、福井県立美術館にて実技講座専門彫刻の講師を務めた。福井大学を退職してからも福井県を度々訪れ、「市美展ふくい」や「福井市彫刻のある街づくり」などに携わった。2005年に福井県で開催された国民文化祭では、彫刻部門において雨宮敬子、加藤昭男、中原佑介、林武史とともに5名の審査員のうちの一人として名を連ねた。また、長野県の芸術振興にも尽力した。出身地である上田市美術館建設研究委員会にて、荒井潤、太田圭、金子敏彦、窪島誠一郎、佐藤悦夫、清水義博、橋詰昌義、米津福一とともに9名の委員の一人として名を連ねた。

2010年に死去した。
代表作

女83-1
胸像SF-84。
清清
保田龍門
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1891年(明治24年)、那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。

名は重右衛門、龍門と号した。旧制粉河中学校(現・和歌山県立粉河高等学校)を卒業後、一時は医師を志望するが、東京の上野で開かれていた文部省美術展覧会(略称:文展)で菱田春草の《落葉》と出会い、一度はあきらめた美術の道を再び目指そうと決める。太平洋画会研究所で絵画の指導を受け、1912年(明治45年)東京美術学校西洋画科に入学する。美術学校在学中に二科展に出品し入選、1917年(大正6年)の第11回文展では《母と子》で特選を受賞する。その後、日本美術院の研究所で彫刻の勉強をはじめ、以後日本美術院展覧会を発表の場とした。

1920年(大正9年)に渡米し、サンフランシスコ、ニューヨークを経て翌年にはパリに入り、オーギュスト・ロダンの助手であったアントワーヌ・ブールデルの教室で彫刻を習う。また、ヨーロッパ各地を遊学する途中、南仏のアリスティド・マイヨールのアトリエを訪ねた。ギリシアのアルカイックな彫刻に心酔して女性のおおらかな裸体像を追求したマイヨールの作風は、龍門が終生追い求めた母性愛のテーマに影響を与えた。母逝去の知らせをきいて1923年(大正12年)に帰国するが、欧米で3年余り研鑽を積んだ経験は、のちの自己の造形世界を築いていく際のたしかな礎となった。

帰国後は、東京での制作をやめ、郷里の和歌山に西村伊作設計のアトリエを建てて活動の本拠を移し、その後大阪府堺市に転居する。戦後は、大阪市立美術研究所、和歌山大学で後進の指導にあたり、関西の美術界に大きな影響を与えた。1965年(昭和40年)、73歳で死去。

1891年(明治24年) 和歌山県那賀郡龍門村(現:紀の川市)に生まれる。
1912年(明治45年) 東京美術学校西洋画科本科入学。
1915年(大正4年) 「自画像」等、二科入選。
1917年(大正6年) 東京美術学校西洋画科本科卒業、日本美術院彫刻部に入り彫刻研究をはじめる。卒業制作の内「母と子」を第11回文展に出品、特選となる。
1918年(大正7年) 第5回院展に「石田氏の像」を出品、樗牛賞(ちょぎゅうしょう)をうける。
1920年(大正9年) 院展同人に推挙される。海外留学に横浜から出帆。
1921年(大正10年) アメリカで模写や制作に従事、4月パリ着、ブールデル、マイヨールについて彫刻に打ち込む。
1923年(大正12年) 母の逝去に伴い帰国。
1924年(大正13年) 東京徳川邸で「渡欧記念展覧会」を開催、油彩59、彫刻13点等出品。
1946年(昭和21年) 大阪市立美術研究所彫刻部教授となる。
1953年(昭和28年) 紀陽銀行本店壁面レリーフ4面の製作をうける。2月、和歌山大学学芸学部(現教育学部)教授となる。
1954年(昭和29年) 紀陽銀行壁面レリーフ4部作完成。
1958年(昭和33年) 「名古屋市平和堂立像」完成。
1965年(昭和40年) 2月病没。従五位勲四等瑞宝章を授与される。「南方翁胸像」が未完成で遺された。
代表作
自画像
母と子
石田氏の像
名古屋市平和堂立像
本山白雲
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
明治4年、辰吉は土佐国幡多郡宿毛村(現 高知県宿毛市)土居下の侍屋敷に次男として生まれる。父本山茂武(省吾)は、土佐藩家老で宿毛7,000石の領主・伊賀家(安東家)に仕えていた。本山家は、かつて長宗我部氏とも争った家柄であったが、明治維新ののち家禄を奉還し、生活は極めて貧困であった。

幼少時、家の近くの城山墓地の地蔵堂で遊び、地蔵堂にある多くの地蔵の表情がそれぞれ違うことに気づき、立体造形に興味を持つ。美術(彫塑)の勉学を志すが、明治18年(1885年)に宿毛小学校高等科を卒業後、逼迫した家計を助けるため、郷里宿毛で小学校の代用教員として奉職した。しかし美術への思いを断ちがたく、明治21年(1888年)6月24日夜半、意を決して、自ら蓄財10円を懐中に家出して大阪へ向かう。

大阪で彫塑の師たるべき人を探したが、成果の無いまま空しく1ヶ月が過ぎて所持金も3円となり、自失していた折、母の知人に会い、かつての旧領主・伊賀家を頼って上京することを薦められる。路銀が乏しいので東海道を歩いて上京し、旧主の伊賀家を訪ねた。伊賀家12代目当主の伊賀氏成(陽太郎)の推薦により、当時東京美術学校の主任教授であった彫刻家・高村光雲の門弟となる。光雲は辰吉の才能を知り、美術学校で彫塑を基礎から学ぶことを薦めた。

明治23年(1890年)7月、宿毛出身の岩村通俊(もと伊賀家の家臣で北海道庁長官、農商務大臣等を歴任)の援助を得て、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科に入学。在学中、師の高村光雲の助手として「大楠公像」や「西郷隆盛像」の木型制作に携わった。

明治27年(1894年)、東京美術学校を卒業の際、前代未聞の実技100点の成績を修め、そのまま同校の講師として奉職する。この頃、高村光雲から「雲」の一字を貰い白雲と号した。しかしイタリア帰りの長沼守敬に西洋彫塑を学ぶ中で銅像を専門とするようになっていく。このことは師の光雲との関係にも微妙な影を落した。

明治28年(1895年)、岩村通俊が「本邦古今偉人傑士」の銅像建立を計画し、白雲は招聘されてその銅像制作の主任となるべく、在職早々にして東京美術学校を辞任する。

明治32年(1899年)、板垣退助等の主唱によって故後藤象二郎の銅像建立の懸賞展があり、1丈2尺の立像彫刻の模型を制作し入選する。後藤象二郎像は東京の芝公園に建立され、その技術の精巧さは世の好評を博した(銅像は戦時中に金属供出により撤去)。

明治36年(1903年)、「品川弥二郎像」の原型を制作。明治38年(1905年)、海軍省で西郷従道、川村純義の銅像建設の建議があり、数十人の彫刻家に技を競わせたところ、白雲が一位となり銅像の原型制作を任された。

維新の元勲の銅像で彼の手にかからなかった物は殆どないと言われ、その作品数は建立された銅像だけでも40体以上、その他の作品は全国各地に300体以上に及ぶという。当時「其精巧なる技術は驚く可きものあり。今や斯界の大家にして当代稀に見る芸術家たり」と呼ばれたにも関わらず、その後の第二次世界大戦時に多くの銅像が金属供出で撤去された。

昭和19年(1944年)、白山は明治の元勲たちの石膏原型を自らの手で全て叩き割り、防空壕の傍らに穴を掘って埋めたという。

昭和27年(1952年)2月18日、東京世田谷で死去。享年82。
代表作
鹿
坂上浄野像
小児像
後藤象二郎像
品川弥二郎像
雨宮敬次郎像
渋沢栄一像
仏国公使アルアン像
東郷平八郎大将像
大山巌元帥像
松方正義像
山縣有朋像
伊藤博文像
岩村通俊像
辻新次像
高島嘉右衛門像
藤岡市助像
永山中将像
松本重太郎像
林有造像
小野義眞像
川崎幾三郎像
山内一豊像
川路大警視像
板垣退助伯爵像
板垣退助伯爵像
坂本龍馬像
板垣退助像
中岡慎太郎像
原敬像
井上子爵像
山内容堂像
片岡健吉像
原田十次郎像
西郷南州翁像
地蔵
小野梓像
鈴木喜三郎像
板津邦夫
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1931年 北海道に生まれる
1956年 東京芸術大学彫刻専攻科修了
1959年 北海道美術協会会員
1961年 北海道教育大学旭川分校(現・旭川校)着任
1965年 自由美術協会会員
1995年 北海道教育大学名誉教授
代表作
北の柱頭
双貌
人 (い)

木のなかの顔
星と月と
木偶
仮面
大きな仮面
夜の日時計
木の花
木の人
風神・雷神
伊藤隆道
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1963:資生堂会館ショーウィンドウディスプレイのデザインを始める
1970:日本万国博覧会テーマ館、日本館、リコー館、迎賓館、クポタ館、水中レストラン、企画/モニユメント設置
1975:第2回彫刻の森美術大賞展(箱根彫刻の森美術館)廻る曲線のリング・大賞
1980:ホワイトイルミネーション・サッポロ (大通公園・札幌)企画.デザイン(〜現在まで毎年開催)
1988:プリスベン国際博’88彫刻展(オーストラリア・ブリスベン)出品
1993:東京芸術大学美術学部教授就任
2003:環境芸術学会会長就任
2004:「伊藤隆道 動く彫刻・上海展」(上海城市規劃展示館)
2006:東京芸術大学教授退任・名誉教授就任。道都大学美術学部客員教授
2008:環境芸術学会会長退任。
2014:道都大学客員教授退任。
代表作
ひかり・空に舞う
回転する16本の曲がった棒
流れる・ひかり
風の水面
清水九兵衛
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
愛知県大久手町(現・名古屋市千種区大久手町)に生まれ、愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)へ進学。第二次世界大戦開戦直後に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)で建築を学び、主にイタリアのファシスト政権下で存続していたモダニズム建築に興味を持った。沖縄戦から生還し、戦後は東京藝術大学美術学部鋳金科で彫刻を学んだ。在学中に京都の清水焼の名跡、六代清水六兵衞の養子となり陶芸をはじめた。1953年に大学を卒業し、陶芸家として評価を高め日展の審査員も務めたが、その間もヨーロッパ、特にイタリアの現代彫刻に関心を持ち続け、1967年に日展を辞し陶芸をやめ抽象彫刻の制作を開始した。

1960年代末のヨーロッパ留学を経て、西洋の彫刻のもつ強い表現への意志とスケールの大きさ、公共空間や古い建築空間への調和などを見て影響を受けるが、同時に西洋の堅牢な建築や都市空間への違和感も覚え、日本の風土に適応する近代彫刻の可能性を探求することになった。この後、作品が周囲の環境に溶け込み調和するような「親和(アフィニティー、AFFINITY)」をテーマとすることとなった。

1970年に、それまでの真鍮にかわり、アルミ合金を鋳造して艶消しした抽象彫刻の制作を開始。大地から足を伸ばす垂直性と、足の上にアルミの有機的な形が大きく横たわる水平性を強調するスケールの大きな彫刻を多数制作し、ビルの公開空地や広場など公共空間に置かれるパブリック・アートも多く手がけた。

1981年に七代清水六兵衞を襲名。陶芸活動を再開し、花器などの制作を行う一方、彫刻制作も引き続き行った。2000年に長男の清水柾博が八代清水六兵衞を襲名した後は彫刻に専念し、アルミやステンレス、陶を組み合わせた造形を模索した。
代表作
AFFINITY.D
AFFINITY.L
マスクA
京空間C
語り合い
共存
清水南山
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した。1919年から1945年までは母校の東京美術学校の教授として、学生の指導に当たった。この間、帝室技芸員(1934年12月3日)、日本彫金会会長、帝国美術院会員を歴任した。

その作風は伝統技法を大切にした格調高いもので、「梅花図鍍金印櫃」などの代表作を残している。南山の専門とする彫金は金属面を鏨で彫り崩し、絵画的文様を表現するという極めて装飾性の高い技術である。

第二次世界大戦が終結する一か月前、東京美術学校を退官して故郷に疎開し、そこで終戦を迎える。戦後、物資がとぼしく材料や工具など不自由であったが創作活動を続けた。そして1948年12月7日、結核性腹膜炎を患い病床に伏し、東京の自宅で死去した。享年73。
代表作
梅花図鍍金印櫃
獅子文香炉
梅花文印櫃
黄土水
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲埕の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。1915年3月に同校を卒業し、半年間母校の大稲埕公学校に訓導として勤めた。しかし、国語学校長隈本繁吉および総督府民政長官内田嘉吉の推薦を受け、同年9月に東京美術学校彫刻科木彫部に留学、高村光雲の門下に入った。1920年3月に卒業制作『ひさ子さん(女孩胸像)』を提出し、4月に研究科に進学した。

1920年、彫刻作品『蕃童(山童吹笛)』が台湾人としては初めて帝展に入選、その後、『甘露水』(1921年、第三回帝展入選)、『ポーズせる女』(1922年、第四回帝展入選)、『郊外』(1924年、第五回帝展入選)、『釈迦像(釋迦出山)』(1927年、台北・龍山寺)、『水牛群像』(1930年、台北・中山堂)等の作品を発表した。

また、1922年に『みかど雉子』と『双鹿』の木彫二点を宮中に献上、1928年には昭和天皇御大典のための台湾からの献上品を担当(『帰途(水牛群像)』、ブロンズ)、『久邇宮邦彦王胸像』『久邇宮邦彦王妃胸像』を制作するなど、日本の皇室との関係も密接であった。

1922年3月に東京美術学校研究科を修了した後、1923年に台湾人の廖秋桂と結婚、東京池袋にアトリエを構えて、独立した彫刻家として日台を往来しながら制作を続けた。

1930年12月21日、腹膜炎により東京池袋で35歳で病没した。

1931年4月、台北東門町曹洞宗別院で追悼会が催され、9月に三橋町墓地で納骨式が行われた。また、同年5月には台北にて遺作展が開催されている。

台湾での黄土水の評価であるが、1980年代後半に台湾人意識の高揚とともに評価が高まり、台湾彫刻界を代表する彫刻家と見なされている。
代表作
蕃童(山童吹笛)
ひさ子さん(女孩胸像)
甘露水
ポーズせる女
郊外
釈迦像(釋迦出山)
南国(水牛群像)
佐藤忠良
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1912年、宮城県黒川郡大和町落合舞野に生まれる。6歳で父が死去したため幼少期は母の実家である北海道夕張で過ごす。
1925年、旧制札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)に入学。
1932年、上京し川端画学校にて学ぶ。
1934年、東京美術学校彫刻科入学。
1939年、美校卒業後、同期の舟越保武らと共に新制作派協会彫刻部の創設に参加する。
1945年から1948年までシベリア抑留に遭う。
1954年、第1回現代日本美術展佳作賞受賞。
1959年、東京都杉並区永福にアトリエを構え、死去するまで当地に在住。
1960年、第3回高村光太郎賞受賞。
1966年、東京造形大学創立と共に教授に就任。
1974年、第15回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞、翌年には第6回中原悌二郎賞受賞、第3回長野市立野外彫刻賞受賞。
1977年、第5回長野市立野外彫刻賞受賞。
1981年、フランス国立ロダン美術館で個展。
1986年、東京造形大学名誉教授に就任。
1989年、朝日賞受賞。
1990年、宮城県美術館内に佐藤忠良記念館設立。
1992年、第41回河北文化賞受賞。
2011年3月30日、老衰のため東京都杉並区永福の自宅で死去。98歳没。

生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者の候補にも選ばれたが、本人は「職人に勲章は要りませんから」と語り、国家の賞を全て辞退した。また杉並区の名誉区民賞も辞退している。
代表作
群馬の人
微風
蒼穹
夏の像
若い女の像
緑の風
帽子
支倉常長像
聖フランシスコ・ザビエル像
澄川喜一
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
島根県出身の彫刻家である。東京芸術大学の教授を経て学長を務め、金沢美術工芸大学では客員教授を務めた。新制作協会の会員であり、2006年には委員長を務めた。日本芸術院会員にも選任され、文化功労者となった。また、島根県芸術文化センター グラントワのセンター長、石見美術館の館長、横浜市芸術文化振興財団の理事長などを歴任した。

島根県六日市町(現・吉賀町)生まれ。山口県立岩国工業高等学校機械科卒業。東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。

大学卒業後に助手として採用され、同大学専任講師、助教授を経て教授。東京芸術大学学長を歴任。「そりのあるかたち」シリーズで知られる作家。新制作協会会員。1998年に紫綬褒章、その他紺綬褒章、日本芸術院賞、日本芸術院恩賜賞など、2020年に文化勲章を受章。安藤忠雄と共に、東京スカイツリーのデザイン監修を務める。
代表作
そりとそぎのあるかたち
大蛇の彫刻
リチャード・ブラントン胸像

高橋英吉
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1917年、日本大学法律学科に入学する。1920年、弁護士試験に合格する。1922年、愛媛県八幡浜で法律事務所を開く。1925年には八幡浜町会議員に初当選し、1933年には立憲民政党公認で愛媛県会議員に当選した。1942年、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に非推薦で立候補するが落選。1943年、八幡浜市会議長を務める。1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で立候補し初当選する(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江崎真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。

日本自由党経て民主自由党・自由党・日本民主党に属し、保守合同後は自由民主党佐藤派→田中派に所属。その間1949年、佐瀬昌三の推薦により、衆議院両院法規委員長に当選。1969年には勲一等瑞宝章を受章。1972年の総選挙で落選し、政界を引退。高橋の選挙地盤は長浜町長で後に国土庁長官・自治大臣などを歴任した西田司が引き継いだ。

1975年に八幡浜市名誉市民。1981年5月14日、83歳で死去。

自由党時代、総裁の吉田茂から「もう、君は眼がよくなったのか」と言われたが、高橋は何のことか分からなかった。というのは、同じ自由党に鈴木仙八という片目が見えないため常に眼帯をかけていた議員がいた。眼帯の部分を除けば高橋と鈴木はよく似ていたため吉田は高橋を鈴木と間違えたと思われる。これは単なる人違いというより吉田の党人派軽視のエピソードとして語られる。

1951年2月13日、衆議院第二控室で愛媛新聞の記者を殴るトラブルを起こした。

国会黒い霧事件ではかつての同僚議員として田中彰治を説得して議員を辞職させ、その後の裁判でも弁護人を務めた。
代表作
蛇と蛙


少女像
黒潮閑日
潮音
少女と牛
漁夫像
高村光太郎
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。

日本を代表する彫刻家であり画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論や随筆、短歌もあり能書家としても知られる。弟は鋳金家の高村豊周であり甥は写真家の高村規。父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。

1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。

1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年(明治35年)に彫刻科を卒業し研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安で悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。このようにして昼は働き夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通って学んだ。世界を観て帰国した光太郎は旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。また、同年、神田淡路町に日本初の画廊「瑯玕洞」を開店する。

1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年(大正3年)10月15日に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年(大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後1941年(昭和16年)8月20日に詩集『智恵子抄』を出版した。

智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞。1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。

1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。

1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。

1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。戒名は光珠院殿顕誉智照居士。この高村の命日(4月2日)は、高村がアトリエの庭に咲く連翹(れんぎょう)の花を好んでおり、彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていたことから連翹忌と呼ばれている。

著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。
代表作

柘榴
蓮根

裸婦坐像
成瀬仁蔵胸像
光雲一周忌記念胸像
乙女の像
舟越桂
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
小学3年生のころには父と同じように彫刻家になることを漠然と意識していた。学生時代(高校生時代)はラグビーの練習に明け暮れていたが、美術予備校の夏期講習に参加したことで彫刻家になる意思を固めた。浪人して東京造形大学彫刻科に入学したが、大学3年時には高校生時代のラグビー熱が再燃し、大学でラグビー部を立ち上げている。

その作品は多くの美術館に展示されているほか、国際的な現代美術展への出展も多い。また、書籍の装幀などに作品が使用されるなど、その作品は多くの人々の目に触れている。1989年より、母校である東京造形大学において客員教授を務めている。

1951年 - 東京芸術大学教授であった彫刻家・舟越保武の次男として生まれる。
1975年 - 東京造形大学彫刻科卒業。
1977年 - 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。
1986年 - 文化庁芸術家在外研究員としてロンドンに滞在。
1988年 - ヴェネツィア・ビエンナーレに出品して好評を博し、帰国後には東京・日本橋の西村画廊で凱旋個展を行った。
1988年 - 第43回サンパウロ・ビエンナーレ出品。   
1989年 - ~ 現在 東京造形大学客員教授。
1991年 - タカシマヤ文化基金第1回新鋭作家奨励賞受賞。
1992年 - ドクメンタIX(ドイツ・カッセル)出品。
1992年 - 第9回シドニー・ビエンナーレ出品。
1995年 - 第26回中原悌二郎賞優秀賞受賞。
1997年 - 第18回平櫛田中賞受賞。
2003年 - 第33回中原悌二郎賞受賞。
2006年 -「森に浮かぶスフィンクス」両性具有像を発表。
2009年 - 芸術選奨文部科学大臣賞、毎日芸術賞受賞。
2011年 - 紫綬褒章受章。
代表作
妻の肖像
夏のシャワー
山を包む私
水に映る月蝕
舟越保武
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。

1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。

1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を務める。その後、多摩美術大学教授を務めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多臓器不全で死去。89歳だった。
代表作
長崎26殉教者記念像
原の城
病醜のダミアン
道東の四季-春-
リンゴをもつ少年
アンナ
はばたき
LOLA
シオン
武藤順九
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1973年に東京芸術大学を卒業し、ヨーロッパに渡る。イタリアのローマと彫刻の町ピエトラサンタにアトリエを構えて、大理石の彫刻を中心に抽象的なテーマの彫刻を制作している。1997年にピエトラサンタでヴェルシリア賞国際グランプリを受賞した作品「風の環(わ)・PAX 2000」は、2000年7月25日にカステル・ガンドルフォにあるローマ教皇の避暑用の離宮に永久設置された。その後、「風の環」と題した彫刻作品を世界各地に設置している。2019年6月9日には昭島市の昭和の森内に大理石彫刻園を開園させた。
代表作
風の環・PAX 2000
風の環・PAX 2001
風の環・PAX 2003
風の環・PAX 2003
風の環・PAX 2005
風の環・PAX 2008
若林奮
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
東京都町田市出身。東京都立立川高等学校、東京芸術大学美術学部彫刻学科卒業。鉄、銅、鉛などの金属素材を用いて自然をモチーフとした彫刻を制作した。1980年、1986年のベネチア・ビエンナーレに出品。武蔵野美術大学、多摩美術大学教授を歴任した。詩人の吉増剛造や河野道代と共同制作を試みている。また700点の銅版画作品も制作しており、吉増剛造は没後に銅板を譲り受けてオブジェ作品を制作している。

1962年、二科展にて金賞受賞。
1969年、第9回現代日本美術展にて東京国立近代美術館賞受賞。
1973年、文化庁芸術家派遣研修員としてパリに留学。
1987年、東京国立近代美術館・京都国立近代美術館で「今日の作家 若林奮展」開催。
1996年、第27回中原悌二郎賞受賞。
2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
代表作
振動尺
熱変へ
残り元素
籔内佐斗司
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1953年、大阪府大阪市にて生まれる。大阪府立三国丘高等学校を経て、1978年、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。1980年、東京芸術大学大学院美術研究科澄川喜一研究室で彫刻を専攻し、修了する。

1982年から1987年まで、東京芸術大学大学院美術研究科保存修復技術研究室の非常勤講師を勤める。仏像などの古美術の古典技法とその修復技術を研究、新薬師寺地蔵菩薩立像(奈良市)、平林寺十六羅漢像(新座市)などで東京芸術大学が中心となって行った、保存修復に参加する。

1987年、彫刻家として活動を開始する。作品には、横浜ビジネスパークの「犬も歩けば」(1990年)など、パブリック・アートも多い。2004年、東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室教授に就任する。

2018年、福島県磐梯町慧日寺からの依頼で、同研究室の学生/スタッフと共に本尊丈六薬師如来坐像の復元事業を三年の年月をかけ完成させる。
代表作
女の鎧-おつまみ
日曜童子/「七曜童子」
月曜童子/「七曜童子」
火曜童子/「七曜童子」
水曜童子/「七曜童子」
木曜童子/「七曜童子」
金曜童子/「七曜童子」
土曜童子/「七曜童子」
男の鎧-阿・吽(2点組)
淀井敏夫
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。

1911年 - 兵庫県朝来郡朝来町佐中に生まれる
1948年 - 「老人胸像」で、二科展特別賞受賞
1965年 - 東京芸術大学教授就任
1972年 - 第1回平櫛田中賞受賞
1973年 - 「砂とロバと少年」で、内閣総理大臣賞受賞
1977年 - 「ローマの公園」で、日本芸術院賞受賞
1978年 - 長野市野外彫刻賞受賞
1982年 - 日本芸術院会員
1994年 - 文化功労者。朝来町名誉町民
1998年 - 二科会理事長
1999年 - あさご芸術の森美術館に「淀井敏夫記念館」開館
2001年 - 文化勲章受章
代表作
波・群
聖マントヒヒ
放つ
ナイルたそがれ
ローマの公園

海の鳥と少年

雲と樹、渡り鳥
エビタウロス追想
足をのばした幼いキリン
加藤昭男
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
愛知県瀬戸市出身の日本の彫刻家。武蔵野美術大学名誉教授。新制作協会会員。旭日小綬章受章。

父は日展特選受賞作家の加藤華仙、兄は蛙目粘土原料採掘・精製技術開発で知られる加藤政良、岳父は二科会会長などを歴任した洋画家北川民次。

1927年 - 愛知県瀬戸市にて出生
愛知県立窯業学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)、京都工業専門学校(現京都工芸繊維大学)卒業
1952年 - 新制作協会展に入選、以後毎回出品
1953年 - 東京藝術大学彫刻科卒業
1955年 - 東京藝術大学彫刻専攻科修了
1974年 - 第2回 長野市野外彫刻賞(「母と子」)、第5回 中原悌二郎賞優秀賞(「月に飛ぶ」)をそれぞれ受賞
1980年 - 松下幸之助の依頼により、松下政経塾 アーチ正門に「明日の太陽」制作設置
1982年 - 高村光太郎大賞展優秀賞受賞(「鳩を放つ」)
1983年 - 第1回 東京野外現代彫刻展大衆賞
1986年 - 第2回 東京野外現代彫刻展大衆賞
1990年 - 新瀬戸駅前広場(愛知県瀬戸市)に「鳩を放つ」制作設置
1991年 - 都立大井ふ頭中央海浜公園(東京都品川区)に「南の空へ」制作設置
1994年 - 第25回 中原悌二郎賞受賞(「何処へ」)、同年武蔵野美術大学彫刻学科教授就任
1995年 - 第16回 現代日本彫刻展で「小川に魚が帰った日」を展示
1996年 - 福岡市立総合図書館(福岡県福岡市)に「森の詩」制作設置
2000年 - 第5回 倉吉・緑の彫刻賞受賞
2001年 - 北海道療育園(北海道旭川市)に「小川に魚が帰った日」制作設置
2002年 - 第2回 円空大賞受賞
2004年 - 旭日小綬章受章
2015年4月30日 前立腺癌のため死去。87歳没。
代表作
月に飛ぶ
母と子
小川に魚が帰った日
黒川晃彦
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
彫刻の大半は楽器を手にした野外彫刻(ブロンズ)で、人との関係を大切にして、人々の生活の場に置かれている。 1989年には初めて”人物とベンチを組み合わせた”「プリーズ・リクエスト」を発表し、具象彫刻の可能性を開いたとして「横浜美術館長賞」を受賞した。その後、トランペット、アルトサックス、フルートの三人の奏者が三重奏を川岸いっぱいに響かせている「リバーサイド・トリオ」などミュージシャンとペンチを組み合わせた野外彫刻(ブロンズ)を次々と発表。 「彫刻は人が参加することで完成する」との信条の元に創られた”風景の中に溶け込み、行き交う人とコミュニケーションし、自然そのもののように存在してする”ちゃめっけのあるユニークな人物”や”猫”の彫刻が人々の心に安らぎを与えている。

それらの作品は"View with My Works(私の彫刻がある風景)1993"、"More View with My Works(続・私の彫刻がある風景)1997"の作品集で見ることができる。

1946年 東京に生まれる
1972年 東京芸術大学美術学部彫刻科卒業
1974年 東京芸術大学大学院彫刻科修了
1975年 東京芸術大学彫刻科研究生修了、同大学助手となる
1979年 創形美術学校 非常勤講師
1990年 多摩美術大学彫刻科非常勤講師
1997年 常盤松女子短期大学 非常勤講師
2004年 多摩美術大学 美術学部彫刻学科 客員教授
2008年 多摩美術大学 美術学部彫刻学科 教授
代表作
サキソフォン吹きと猫
金子篤司
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。

1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。

1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。
代表作
小鍛冶
好日(平櫛田中像)
真間の手児奈
宮入行平像
土用干し
シャムネコ
鵤(いかるが)に祈る(聖徳太子像・立像)
歓迎
捨て児
鵤の夢
不動明王
茨木童子
大成哲
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
東京都八王子市出身。2004年、日本大学芸術学部を卒業。同年東京芸術大学大学院入学。2005年、チェコ政府奨学金を取得しチェコ・プラハへ留学。プラハ美術アカデミー(AVU)とプラハ工芸美術大学(VSUP)に各1年ずつ在籍。2008年、東京芸術大学大学院修士課程を修了。

東京とチェコに滞在し、ガラス、石、木などを用いて彫刻、インスタレーションを制作している。

2012年、上野の森美術館が平面芸術の若手作家を対象に実施する「VOCA展」において、作品「まねびNO.6」が佳作に入選した。

近年では2014年に第一生命南ギャラリーでの個展「Tets Ohnari ∞ Egon Schiele」を開催。

グループ展では2014年にポーラ ミュージアム アネックスにて行なわれた「ポーラ ミュージアム アネックス展2014-光輝と陰影-」や、同年にフィンランドにて行なわれたガラス作家による展示「European Glass Experience Exhibition in Finland」に参加している。

2019年、トンボ鉛筆やオルファ、トーヨー産業、サンフレックスなど日本とチェコの会社計9社とスポンサー契約をしている。
代表作

ある人
manebi
make, be made
reflection
吉水快聞
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1982年、奈良県橿原市の浄土宗寺院正楽寺に生まれる。 東京芸術大学(東京藝術大学とも表記)美術学部彫刻科卒業後、同大学院美術研究科文化財保存学専攻にて、 快慶作東大寺俊乗堂阿弥陀如来立像の想定復元模刻研究を行う。2011年に博士後期課程を修了し博士号取得。卒業後は仏像制作や文化財修復に携わりながら、その技術や技法を応用し、動植物をモチーフとした木彫作品を発表。

2011年 - アートフェア東京 2011
2011年 - お仏壇のはせがわ賞五周年記念展
2012年 - 第2回奈良国際映画祭2012新人コンペティショングランプリゴールデンSHIKA賞トロフィー制作
2013年 - 個展靖山画廊
2014年 - 個展髙島屋 東京日本橋、京都、大阪
2015年 - 個展松坂屋 名古屋店
2017年 - 個展「巧匠 吉水快聞展」大美アートフェア瀬戸美術ブース大阪美術倶楽部
2018年 - 個展「鏡花水月・吉水快聞展」高島屋 東京日本橋、大阪、横浜、京都
代表作
花ぞめごろも
魔法乃絨毯
白猫
揺籠
水鏡
文鳥
白象
水音
安藤栄作
画家種
彫刻家
人物・来歴・経歴・その他
1961年 東京都墨田区に生まれる
1986年 東京芸術大学彫刻科卒業
1989年 福島県いわき市の山間部に移住
1991年 彫刻制作と並行してパフォーマンス開始
1997年 エッセイ集「降りてくる空気」を出版
2008年 同市の海辺部に自宅兼アトリエを移動
2011年 東日本大震災で自宅兼アトリエを津波で流され、5月、奈良県明日香村に避難移住
2011年 絵本あくしゅだを落合恵子の勧めでクレヨンハウスより出版
2012年 11月、奈良県天理市に自宅兼アトリエを構える
2017年 第28回平櫛田中賞受賞
2019年 第10回円空賞受賞
代表作
コズミックヘッド
コズミックボディー
宇宙動力
光のさなぎ
狛ちゃんシリーズ
天と地の和解
鳳凰
大樋長左衛門
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
金沢市出身の陶芸家で、大樋焼の本家十代当主。日展・日本現代工芸美術展・その他の個展などで大樋焼にとらわれない自由なかたちでの発表を行う際には大樋 年朗(おおひ としろう)を名乗る。2016年(平成28年)には「長左衛門」の名跡を長男・大樋年雄に譲って、以後は大樋 陶冶斎(おおひ とうやさい)を名乗る。本名は奈良 年郞(なら としろう)。文化勲章受章者。

1927年 - 九代大樋長左衛門(1901〜86)の長男として生まれる
1949年 - 旧制東京美術学校(現東京藝術大学)工芸科卒業
1950年 -「日展」初入選
1956年 -「日展」北斗賞
1957年 -「日展」特選・北斗賞
1958年 - 日本陶磁協会賞
1961年 -「日展」特選・北斗賞
1961年 -「ベルリン日本工芸展」招待
1967年 - 史上最年少の39歳で「日展」審査員を務める(以後1972、1976、1988、1997、2001、2004の各年にも再任)
1968年 - 北国文化賞
1973年 -「中日国際陶芸展」評議員
1976年 - 金沢市文化賞
1978年 - 金沢市工芸協会会長
1980年 - 現代工芸美術家協会理事
1982年 - 第14回「日展」文部大臣賞(「歩いた道」花器、東京国立近代美術館収蔵)
1984年 - ボストン大学で基調講演
1985年 - 日本芸術院賞[1](「峙つ」花三島飾壺、日本芸術院会館収蔵)
1986年 - 中日文化賞
1987年 - 十代大樋長左衛門を襲名
1988年 - 石川県陶磁協会会長、金沢大学教授
1989年 - 金沢卯辰山工芸工房工房長
1991年 -「大樋長左衛門・加山又造・勅使河原宏 三人展」
1992年 -「日本の陶芸『今』100選展」(NHK・フランス政府共催)
1992年 - 第7回「国民文化祭石川92 土と炎の芸術祭陶芸展」審査員
1995年 - 日本陶磁協会理事
1995年 -「現代日本陶磁の秀作アジア巡回展」招待出品(中国・タイ・マレーシア・インドネシア)
1997年 - ロチェスター工科大学より名誉博士号
1997年 - 石川県美術文化協会理事長
1997年 - 現代工芸美術家協会理事長
1997年 -「世界工芸都市会議 金沢97」開催委員会会長
1999年 - 日本芸術院会員
2000年 - 金沢学院大学美術文化学部学部長・教授
2001年 - 第40回記念「現代工芸美術展」審査主任
2001年 - 日展常務理事審査員
2001年 - 第16回「日本陶芸展」招待出品
2001年 -「中華民国国際陶芸展」招待出品(台湾)
2001年 -「RAKU国際会議」記念基調講演(韓国)
2003年 - 第1回茶道文化振興賞
2004年 - 日本陶磁協会特別記念功労賞
2004年 - 第36回「日展」審査主任
2004年 - 文化功労者
2005年 - 金沢市名誉市民
2006年 - 金沢学院大学副学長
2008年 -「日展」顧問
2009年 -「陶冶斎拝命記念個展」(全国巡回)
2010年 -「金沢世界工芸トリエンナーレ」実行委員長
2011年 - 第50回記念「日本現代工芸美術展」審査主任
2011年 - 東日本大震災復興チャリティー展「Craft for the people-工芸はひとびとのために」実行委員長
2011年 -「作陶六十年記念個展」(全国巡回)
2011年 - 文化勲章
2012年 - 石川県名誉県民
2012年 - 台湾国立台南芸術大学より名誉博士号
2012年 - 天皇皇后両陛下より誕生日宴会の儀に招待
2013年 - 第2回「金沢世界工芸トリエンナーレ」招待出品
2015年 - 北陸新幹線金沢駅舎に「日月の煌き」を製作
2016年 - 大樋陶冶斎を襲名
代表作
歩いた道
峙つ
板谷波山
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。

上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。

波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。

1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取った。享年92、満91歳没。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺境内にある。

山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。

前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。
代表作
葆光彩磁珍果文花瓶
彩磁禽果文花瓶
彩磁延寿文花瓶
彩磁椿文茶碗
香取秀真
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
学問としての金工史を確立し、研究者としても優れた。日本における美術の工芸家として初の文化勲章を受章。東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授、芸術院会員。

帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員、国宝保存会常務委員、文化財審議会専門委員などを歴任。秀真は雅号で、本名は秀治郎。金工の人間国宝である香取正彦は長男。

千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれるも、5歳で佐倉の麻賀多神社の宮司、郡司秀綱の養子となる。一時両親のもとに帰るが、7歳からの10年間を佐倉で過ごす。佐倉周辺は遺跡や古い寺院が多く、秀真は、幼い頃から古代への関心を抱いていた。1889年、佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)に学ぶ。また和歌を作りはじめ、佐倉集成学校の蔵書『万葉集』を写し作歌を学んだ。この頃から、古代への関心が更に強くなり、昔から作られていた様な仏像などを自分の手で作ってみたいと思うようになる。そこで、秀真は、秀綱に上京したい、と願い出た。秀真が東京に出て仏師になった場合、後を継いで麻賀多神社の宮司になる人がいなくなってしまうが、秀綱自身も、学問に優れた人で、秀真の実力は認めていたため、その願いを聞き入れた。しかも上京の資金は、代々受け継がれていた土地を売って準備してくれた。秀真は後に、「私が東京に出て勉強できたのは養父の恩恵によるものです。」と回顧している。麻賀多神社の境内には、現在でも秀真が作った釣り灯篭が奉納されている。

1891年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に首席で合格、鋳金科へ進み1896年に卒業。卒業制作は『上古婦人立像』。その翌年、佐倉市にある旅館の娘たまと結婚。翌年、長男香取正彦が生まれる。

1898年に「日本美術協会展」で『獅子置物』が褒状1等になり、1900年のパリ万国博覧会で銀賞碑を受けるなど国際的に活躍。しかし実際には作品はなかなか売れず、厳しい生活が続いていた。鋳金を行うには、模型や鋳型を作ったり、金属を溶かしたりするので、一人では出来ず、何人かの弟子とともに生活していた。秀真は妻の嫁入り道具を売り、彼らを養った、といわれている。やがて、極度の貧困生活に耐えかねた妻、たまが、故郷に帰ってしまい秀真は途方に暮れる。そんな時、印西市吉高に住む友人、富井惣之助の家を何度か訪れては、実家や養父に言えぬ心の内を明かしていたという。秀真の身の回りの世話をしていた養母の母である、金子うしの協力もあり、秀真は再起の努力を続け、1903年に再婚。1933年には東京美術学校教授となり学問として母校で「鋳金史」「彫金史」などを講義、多くの後進を育てた。秀真はこの後意欲的に作品を制作。その技術を高め、名実とともに鋳金の世界の第一人者として認められるようになる。また、金工史の研究にも取り組み『日本金工史』『金工史談』『日本鋳工史』など学術著書は40冊を超え、同時に多くの研究論文も残す。また帝展(帝国美術展覧会、現在の日展)の工芸部設置では同郷の津田信夫と共に尽力し、金工(金属工芸)を美術として社会的に認知させる努力をした。1934年12月3日帝室技芸員となる。1953年、これらの功績を認められ文化勲章を叙勲された。同年に文化功労者として顕彰。

伊藤左千夫、長塚節らと、正岡子規門下の根岸短歌会のアララギ派の歌人としても活躍し、1954年の宮中新年歌会始の召人として召歌を奏上することが許された。生前に『天之真榊』など数冊の歌集を出版した。小説家の芥川龍之介、高浜虚子とも親交があったとされる。

1954年に急性肺炎のため81歳で没する[2]。墓所は豪徳寺(東京都世田谷区)。
代表作
八稜鏡瑞鳥文喰籠
雷文鋳銅花瓶
瑞鳥銅印
霊獣文大花瓶
笑獅子香炉
鴛鴦文銅花瓶
鳩香炉
金銅獅子脚
両耳三足香炉
唐草文花瓶
高山寺梵鐘
仁和寺金堂梵鐘
獅子牡丹文水盤
獅子置物
高橋節郎
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
日本の漆芸家である。長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1938年東京美術学校工芸科漆工部卒業。日本芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者、日展顧問。

1940年(昭和15年)- 紀元二千六百年奉祝展「虜美人草(ひなげし)之図小屏風」を出品、入選
1946年(昭和21年)- 第1回日展「菊籬蒔絵文庫」を出品、入選
1953年(昭和28年)- 第9回日展審査員に就任
1965年(昭和40年)- 第7回新日展出品作「化石譜」により日本芸術院賞受賞
1976年(昭和51年)- 東京芸術大学美術学部教授に就任(1982年に退任)
1981年(昭和56年)- 日本芸術院会員
1984年(昭和59年)- 紺綬褒章受章
1986年(昭和61年)- 勲三等瑞宝章受章
1990年(平成2年)- 文化功労者を顕彰、長野県芸術文化功労者受賞
1995年(平成7年)- 東京芸術大学名誉教授に就任、豊田市美術館髙橋節郎館開館
1997年(平成9年)- 長野オリンピック公式記念メダルをデザイン、文化勲章を受章
1998年(平成10年)- 豊田市名誉市民となる
2003年(平成15年)- 都営地下鉄大江戸線汐留駅の陶壁レリーフ「日月星花」が「日本の鉄道パブリックアート大賞」の国土交通大臣賞を受賞、出身地の穂高町(現:安曇野市)に安曇野髙橋節郎記念美術館開館
2007年(平成19年)- 肺炎のため死去、92歳。
代表作
天空翔翔
化石譜
菊籬蒔絵文庫
虜美人草(ひなげし)之図小屏風
津田信夫
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、帝国美術院(現在の日本芸術院)会員。フランスと日本の文化交流への功績から、両政府より、オフィシャー・デ・アカデミー勲章、オフィシャー・エトワール・ノアール勲章、勲四等瑞宝章を賜り、正四位に叙せられる。

1875(明治8)年10月、千葉県印旛郡佐倉藤沢町44番地(現在の千葉県佐倉市藤沢)に佐倉藩医(江戸詰めの漢方医)である父津田長人,母けいの長男として生まれる。佐倉集成学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1895(明治28)年9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。1900(明治33)年7月に鋳金科を卒業する。卒業から2年後,1902(明治35)年に東京美術学校の助教授となり、1919(大正8)年には教授となる。東京美術学校が公共事業として注文を受けた浅草公園(現在は浅草寺のお水舎に移築)や日比谷公園の噴水、日本橋の装飾、国会議事堂の扉装飾など公共施設の金工品を多く手掛け、近代的な都市づくりに貢献する。1923年(大正12年)には金工の研究の為にヨーロッパへ留学し、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス、ギリシャ等の国々を歴訪し、当時ヨーロッパで流行していた装飾様式であるアール・デコなどを学ぶ。1925年(大正14年)のパリ万国装飾美術工芸博覧会(現代装飾美術・産業美術国際博覧会、通称アール・デコ博)では日本代表として審査員を務める。この博覧会では、日本の著名な工芸家たちの作品がこぞって落選することとなり、日本の意匠の停滞ぶりと欧米各国の新潮流の違いが明らかになった。「工芸」とは、伝統的で精緻な技術の追求のみならず、美しさをも追求し、生活と心を豊かなものにする「美術」であるというのが、当時の欧米での考え方であった。帰国後は、ヨーロッパでの工芸の状況や自らの考えを日本へ伝え、高村豊周、佐々木象堂、杉田禾堂、北原千鹿,山本安曇などの若手工芸家に大きな影響を与えた。また、国主催の美術展覧会である帝国美術院展覧会(現在の日展)における工芸部門の設置(1927年、昭和2年)に尽力した。1946(昭和21)年、東京下谷区谷中天王寺町16番地(現在の東京都台東区谷中)の自宅にて心臓麻痺により、72歳で没する。
代表作
壺形アラビア文青銅花瓶

鸚鵡
カンガルー
一去一来
隠霧澤毛
霊亀曳尾
六角紫水
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
1883年(明治16年)広島師範学校初等師範科(現広島大学教育学部)卒業後、母校の小学校で教員を務めたのち上京、東京美術学校(現東京芸術大学)の一期生として漆工科へ入学。1893年(明治26年)卒業と同時に同校漆芸科助教授就任。岡倉天心とともに国内の古美術を研究した。1898年(明治31年)、岡倉が同校を辞職した際にも行動をともにし日本美術院の創立に参加。1904年(明治37年)、岡倉に随行して横山大観らとともに渡米。ボストン美術館東洋部、メトロポリタン美術館に勤務し東洋美術品の整理に従事した。その後欧米の日本美術を視察し1908年(明治41年)帰国。母校で後進の指導に当たりながら、正倉院宝物や楽浪漆器など幅広い古典技法の研究と応用作品を発表。1924年(大正13年)教授。1925年(大正14年)パリ万国博覧会受賞。1927年(昭和2年)帝展に工芸部が新設されると審査員、無鑑査として作品を発表、1930年(昭和5年)第11回帝展に出品した「暁天吼号之図漆器」が帝国美術院賞を受賞した。

中尊寺金色堂や厳島神社社殿の修復、古社寺文化財の調査、白漆の発明など、日本の漆工芸界の草分けとして大きな功績を残した。
代表作
岩に鶺鴒図額
暁天吼号之図漆手箱
銀平文不動尊像軸盆
芦刈図刀筆硯箱
宮田亮平
画家種
工芸作家
人物・来歴・経歴・その他
新潟県佐渡市出身。佐渡に伝わる金属工芸「蝋型鋳金」技術保持者の二代目宮田藍堂(みやた らんどう)の三男。初代藍堂は祖父、三代目藍堂は長兄で元・東京藝術大学工芸科教授の宮田宏平(1926年 - 2007年)、次男はデザイナーで三重大学名誉教授の宮田修平。兄二人、姉四人を持ち、家族全員が東京芸術大学出身の芸術家一家に育つ。長女は金属工芸家の宮田琴(東京芸術大学工芸科卒)。金属工芸家の山下恒雄(やました つねお、元・東京藝術大学工芸科名誉教授)の指導を受けた。

東京芸術大学工芸科教授として鍛金技法研究の指導に当たる一方、金属工芸家としても世界的に活動。東京芸大学長選挙時には、同郷の佐渡出身であった三浦小平次(人間国宝)を中心とした新潟県人や身内で学内を統制し、学長となる。日本のみならずドイツ・イスラエル・韓国・中国などで展覧会が催されている。

代表作にイルカをモチーフにした「シュプリンゲン(Springen)」シリーズがある。故郷の佐渡島から上京する際、フェリー船上から見たイルカの群れをモチーフとしたシリーズで、世界各地で展覧会が開催されている。シュプリンゲンは三越日本橋本店新館エンブレムにも採用されている。

かつてはカーデザイナーに憧れがあり、後に江戸開府400年記念コンセプトカーのトップマークのデザインもした。

2016年から文化庁長官に就任。2019年に「あいちトリエンナーレ2019」への補助金不交付問題が発生し、前任の文化庁長官だった青柳正規は、不交付を求められれば「自分だったらもちろん辞めてます」と宮田の姿勢を批判した。

2010年3月から横綱審議委員会委員を務めているが、2019年1月場所を途中休場した白鵬について「白鵬は本当にケガをしたのかね? そういう負け方に見えましたか? 負けが込んだから休むというのは、どうなのか」と仮病を疑うような発言をした。

1964年(昭和39年)3月 - 新潟県立佐渡高等学校卒業
1970年(昭和45年)3月 - 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
1972年(昭和47年)3月 - 東京藝術大学大学院美術研究科(工芸・鍛金専攻)修士課程修了
1973年(昭和48年)
3月 - 東京藝術大学美術学部研究生卒業
4月 - 東京藝術大学美術学部非常勤講師
1984年(昭和59年)4月 - 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室助手
1988年(昭和63年)4月 - 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室講師
1990年(平成2年)4月 - 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室助教授
1990年(平成2年)〜1991年(平成3年) - 文部省在外研究員としてドイツに約1年派遣
ハンブルク美術工芸博物館(英語版)にて研修
1997年(平成9年)4月 - 東京藝術大学美術学部工芸科鍛金研究室教授
2001年(平成13年)4月 - 東京藝術大学美術学部長
2004年(平成16年)4月 - 東京藝術大学理事(教育担当)・副学長(教育担当)
2005年(平成17年)12月 - 東京藝術大学学長就任
2010年(平成22年)4月 - 東京藝術大学学長に再任(二期目)(任期は2010年(平成22年)4月1日から2016年(平成28年)3月31日)。
2015年(平成27年)12月 - 東京藝術大学学長に再任内定(三期目)(任期は2016年(平成28年)4月1日から2022年(令和4年)3月31日)→後に辞退[9]。
2016年(平成28年)2月 - 第22代文化庁長官[10](任期は2016年(平成28年)4月1日から2018年(平成30年)3月31日)[11][12]。
文化庁長官再任 (2018年 (平成30年) 4月1日 - 2021年 (令和3年) 3月31日)
代表作
シュプリンゲン
会田誠
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1965年、新潟県新潟市に生まれる。父は社会学者で新潟大学名誉教授の会田彰。また本人によると、母親はフェミニストであった。 小さい頃は授業中に走り回るなど落ち着きがなく「いまでいう典型的なADHD(注意欠陥・多動性障害)」だったという。「基本的に飽きっぽくて同じ絵を繰り返し描くことができない」と本人が語っている。

新潟県立新潟南高等学校卒業後、代々木ゼミナール造形学校を経て、1989年東京芸術大学油画専攻卒業、1991年東京芸術大学大学院修了(油画技法材料第一研究室:佐藤一郎)。在学中に小沢剛、加藤豪らと同人誌『白黒』(1 - 3号)を発行。1993年、レントゲン藝術研究所で開催された「fo(u)rtunes part2」でデビュー。

2003年には、会田自身の制作を追ったドキュメンタリー映画『≒会田誠』(ビー・ビー・ビー株式会社)が公開。

2005年、写真「Girls Don't Cry 2003」の一つが香港クリスティーズにおいて9253ドル(約110万円)で落札された。

2012年11月10日には渡辺正悟監督によるドキュメンタリー映画『駄作の中にだけ俺がいる』が公開。

2013年、第8回安吾賞受賞。
代表作
河口湖曼荼羅

無題(通称:電信柱)
火炎縁蜚蠊図(かえんぜつごきぶりず)
火炎縁雑草図
あぜ道
デザイン
巨大フジ隊員VSキングギドラ
ポスター
無題(通称:駄作の中にだけ俺がいる)
美しい旗(戦争画RETURNS)
戦争画RETURNS
紐育空爆之図(にゅうようくくうばくのず)
題知らず
大皇乃敝尓許曽死米(おおきみのへにこそしなめ)
ミュータント花子
スペース・ウンコ
スペース・ナイフ
犬(雪月花のうち“雪”)
たまゆら
ジューサーミキサー
食用人造少女・美味ちゃん
新宿御苑大改造計画
切腹女子高生
人プロジェクト
大山椒魚
じょうもんしきかいじゅうのうんこ
?鬼
無題(通称:考えてませ~ん)
ヴィトン
727
滝の絵
万札地肥瘠相見図(原画)
灰色の山
1+1=2
ニトログリセリンのシチュー
Jumble of 100 Flowers
考えない人
電信柱、カラス、その他
MONUMENT FOR NOTHING Ⅳ
榎倉康二
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
父は洋画家の榎倉省吾。東京で生まれ、1966年に東京藝術大学美術学部油画科を卒業、1968年に同大学美術研究科で修士号を取得し、1975年から1995年に死去するまで同大学で教員を務めた。

榎倉は1970年代初頭から、紙、布、フェルト、革に油を染み込ませる手法で作品を制作する。時にギャラリーや野外スペースで壁や床を変色させるということも行っていた。当時のインスタレーションは現存しないものの、写真による展示作品の記録が残されている。
1970年には、リチャード・セラ、ヤニス・クネリス、ルチアーノ・ファブロ(英語版)、ブルース・ナウマンといった世界的に有名なアーティストらが出品する「第10回日本国際美術展 Tokyo biennale ‘70〈人間と物質 between man and matter〉」に、高松次郎、小清水漸とともに参加。油を染み込ませた藁半紙を、高さを変えて床に敷きつめた《場》(1970年) を出品した。

さらに、最も有名な作品の一つが《無題》(1970年) である。革でできた三角錐を部屋の角に置いたこの作品を通して、榎倉は隣接する壁との関係性を強調している。

1971年の「第7回パリ青年ビエンナーレ」に出品した《壁》という、パリのフローラル公園(英語版) の2本の木の間に、高さ3m、幅5mのコンクリート壁を築いた作品もまた、同じテーマを用いた榎倉の代表作 である。 この際に受け取った優秀賞の奨学金で、榎倉は 1973年から1974年までパリに滞在することとなる。

これらの作品群は、榎倉の世界の中に自分の居場所を確認する試みであった。彼はこう語っている。 「肉体と物との緊張感こそ私が探りたい事であり、そしてこの緊張感が自分自身の存在を自覚し得る証しだと思う」

1973年までに、榎倉康二、菅木志雄、李禹煥、関根伸夫、そして、小清水漸、吉田克朗といった作家達は「もの派」と呼ばれるようになった。

後に残らないインスタレーションの単なる記録としてのみならず、榎倉は作品としての写真も制作した。床の水たまり、机から滴り落ちる水、光の反射など、閾の存在といった、同様のテーマを用いたものである。《予兆−海・肉体(P.W.-No.)》(1972年) は最も象徴的な作品のひとつであり、打ち寄せる波に沿うように作家が海岸に体を横たえた様子を描いたものである。この作品についてキュレーターのサイモン・グルームはこう言及している。

「永遠に寄せては返す波が岸辺を洗う。世界に帰属するための媒体としての身体、あるいは、周囲の世界からの分離の気づきとつながりたいという我々の思いを、これ以上に痛切に表現した作品はない。」

1980年代から1990年代にかけて、榎倉は綿布にしみをつけるという行為を探求し続けた。しみの作品には《干渉》あるいは《干渉(STORY)》というタイトルをつけ、時系列に番号をふった。 多くは、キャンバス上で黒いペンキを塗った滑らかな部分/何も塗っていない部分を対比させた作品であったが、時には布の表面全体にペンキを浸した作品も存在する。また、油を浸した木材をキャンバスに押しつけたり、立てかけたりすることでキャンバス上にしみをつけるといった手法を用いることもあった。

加えて、砂や水が入った瓶、あるいは鉢植えを置いた小さな棚板がついた作品に取り組んだのもこの時期である。さらに、一重あるいは二重に重ねた布を斜めに壁に掛け、床に垂らした作品もこの時期に数多く制作した。
代表作
無題
二つのしみ
P.W.-No.40 予兆-海・肉体
予兆(布)
小沢剛
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1965年東京都生まれ。
1989年、東京芸術大学絵画科油画専攻卒業。
1991年、東京芸術大学大学院美術研究科壁画専攻修了。
2002-03年、文化庁在外研修員としてニューヨークに滞在。
2012年より東京芸術大学美術学部先端芸術表現科准教授。
取り扱い画廊はオオタファインアーツだったが、現在はミサシンギャラリー。
代表作
地蔵建立
なすび画廊
相談芸術
醤油画
ベジタブル・ウェポン
尾形純
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
東京都大井で育つ。両親・兄の四人家族の次男。彫金家の祖父の影響から幼少より絵を描くことを好んだ。芝公園の正則高等学校を卒業後、1991年武蔵野美術大学短期大学部を卒業、和光大学人文学部芸術学科卒業を経て、東京藝術大学大学院美術研究科を修了。大学院の研究室では、坂本一道教授の研究室にて西洋の伝統的な絵画技法を研究。大学〜大学院時代より東京中野にある絵画保存研究所で勤務、絵画修復の実務にあたる。大学院修了後、和光大学で非常勤講師として教鞭を執る。洋画の技法、状態の観察と修復技術についての授業を約十年に渡って務めた。大学での在任中、文化庁の在外派遣研修によりニューヨークへ留学。Rustin Levenson Art Conservation Associatesにインターンとして所属。絵画や壁画の技法、保存や修復の技術についてのさまざまな実務と研究に携わり、ニューヨーク大学美術学部コンサベーションセンターでの講義にも参加している。スタジオでの実務とニューヨーク市内での施設の実務作業はStudio Museum in Harlemで黒人芸術に触れながら修復作業に従事し、同じくハーレム (ニューヨーク市)にある歴史的な劇場でもあるHeckscher Theatre内の壁画の修復事業にも参加した。ニューヨークでの経験は帰国後から始まる作品の発表活動や事業の礎となった。

1998年に帰国し、主に国内のギャラリーで個展を軸とした発表活動を開始。作品はモノクロから始まり、やがて「茶の湯」や「日本庭園」から着想した古色、伝統色などから独自の色彩表現を追求。古来より日本の生活空間に存在してきた襖絵や軸、屏風に代わる現代の和をミニマルな抽象に表現。近年では公共的空間、ホテルやレジデンス、レストラン、病院など、人の集う空間、いわゆるパブリックアートの制作に注力し、多くのコミッションワークを手がけている。
代表作
紫仮山
紅仮山
川俣正
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
北海道三笠市出身の芸術家、造形作家。作品は日本のみならず、世界各国で展開されている。

作品制作スタイルについては、ワーク・イン・プログレスと呼ばれるプロジェクトを組み、現地で制作されることが特徴。国内でのワーク・イン・プログレス例としてはコールマイン田川(福岡県田川市)、ワーク・イン・プログレス豊田(愛知県豊田市美術館)、直島スタンダード2や越後妻有トリエンナーレ等がある。東京藝術大学教授などを経て、現在、フランス国立高等美術学校教授。2019年にフランス国立高等美術学校を定年退職している。

クリエイティブオフィスキュー所属のパーソナリティ・北川久仁子は従妹。

1953年 - 北海道三笠市の住友奔別炭鉱生まれ
1972年 - 北海道岩見沢東高等学校卒業
1979年 - 東京藝術大学美術学部油絵科卒業
1982年 - 第40回ヴェネツィア・ビエンナーレ
1984年 - 東京藝術大学大学院博士後期課程満期退学
1987年 - ドクメンタ8、第19回サンパウロ国際ビエンナーレ
1992年 - ドクメンタ9
1993年 - 第2回リヨン現代美術ビエンナーレ
1998年 - 第11回シドニービエンナーレ
1999年4月‐2005年3月 - 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授
2000年 - 越後妻有アートトリエンナーレ / 日本文化芸術振興賞受賞
2002年 - 第4回上海ビエンナーレ、釜山ビエンナーレ
2003年 - ヴァレンシアビエンナーレ
2005年 - 横浜トリエンナーレ総合ディレクター
2007年 - フランス国立高等美術学校教授
2013年 - 芸術選奨文部科学大臣賞受賞
代表作
アパートメント・プロジェクト、宝ハウス205号室
アパートメント・プロジェクト、大手門・和田荘
アパートメント・プロジェクト、スリップ・イン・所沢4
アパートメント・プロジェクト、テトラハウスN-3 W-26
工事中
PS1プロジェクト
スプイ・プロジェクト
デストロイド・チャーチ
比燕荘
プロジェクト・オン・ルーズヴェルト・アイランド
コールマイン田川
椅子の回廊
椅子たちの旅
東京プロジェクト
Sur La Voie(道ゆき)
ブリッジ&アーカイヴ
日下淳一
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県横浜市出身。電飾スーツなど奇抜な衣装を着て、美術展のオープニングパーティーや街頭へ出没するパフォーマンスで知られる。

「服装は外観だけでなく、精神的にも影響を及ぼす」「着替えることにより、人は変わっていくことができる」と唱え、囚人服のイメージが強い白黒縞模様で仕立てたビジネススーツや花柄の建築土木作業服、赤い白衣など社会通念を覆すような「衣」を発表したり、「制服は没個性を誘引する」とし、アロハシャツの生地やフェイクファーで仕立てた学生服などを発表。

1986年 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1988年 同大学院美術研究科修士課程(榎倉康二研究室)修了。

在学中、ピエロ・マンゾーニの影響を受け、箱作品の制作に没頭する。

1994年開催の「人間の条件」展(スパイラル/ワコールアートセンター、キュレーター:南條史生)で、日下は衣食住をテーマとする3部作を発表。以降「衣」作品を中心に制作発表する。

1995年、日下の「衣」作品に関心をもったアパレルデザイナーたちと「アイディーブティック」[3]と称するユニットを結成。2004年までアイディーブティックを名乗った。

船上茶会「水面の灯」@スマートイルミネーション横浜2017
2011年~、東日本大震災からの復興を目的として開催された「スマートイルミネーション横浜」に、全身が光るスーツを着用して参加。以降、毎年秋に開催される同イベントで参加アーティストとして光る作品を発表している。

2014年~、茶道具の制作を始める。茶杓、薄器、香合、花入、茶箱、銘々皿、仕覆、数寄屋袋など種類は多岐に及ぶ。また、スマートイルミネーション横浜では2015年以降、毎年茶会を開いている。クルーザーのキャビンやデッキで横浜港の夜景を見ながら行う船上茶会や電気自動車の荷室に茶席をしつらえ「ゼロエミッション」をテーマにした茶会が知られる。
代表作
フィードバックシリーズ
電飾打掛スーツ
小谷元彦
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
京都府生まれ。所属するギャラリーはANOMALY。東京芸術大学准教授。

東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。同大学院美術研究科修了。
1997年 - 初個展「Phantom-Limb」(P-HOUSE)を開催。
2000年 - リヨン・ビエンナーレ
2001年 - イスタンブール・ビエンナーレ
2002年 - 光州ビエンナーレ
2003年 - ヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として日本館で展示。彫刻をベースに写真や映像作品も発表。
2009年 - メゾンエルメス フォーラムにて個展「Hollow」
2010年 - 森美術館にて個展「幽体の知覚」開催。(静岡市、高松市、熊本市、以降巡回)
2011年 - 第25回平櫛田中賞を受賞
2012年 - 「幽体の知覚」にて芸術選奨新人賞美術部門を受賞
2012年 - Asian Cultural Council の助成にてニューヨークに9ヵ月滞在
代表作
Hollow:Duplex
幽体の知覚 Odani Motohiko Phantom Limb
Alexander McQueen Scarf
SP1 "Beginning"
Terminal Moment
境貴雄
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
東京藝術大学に在学中より和菓子や小豆を媒体とした作品を発表。作品のジャンルは彫刻、写真、パフォーマンスと多岐にわたっている。

2005年(大学4年次)に開催されたオオタファインアーツでの展覧会を機に本格的なアーティスト活動をスタート。テレビ番組やトークショーの出演、ラジオ番組のパーソナリティ、雑誌や新聞の掲載、伊勢丹やルミネといった商業施設でのイベント、ファッションブランドとのコラボレーションなど、アート界のみならず様々なメディアで活動している。また、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、ソウル、台北でもイベントや展覧会を開催している。

作品のモチーフとなる和菓子は主に小豆、餅や団子、饅頭などの素朴なもの、鯛や花を意匠化した干菓子が中心である。それらを装飾的に貼り付けたり積み上げたりする造形は、邪気を払う呪術的な意味から由来し、社寺にて幸福を祈願するため神仏へ捧げる神饌や供饌、滋賀県に伝わる民俗宗教行事オコナイからの影響が大きい。小豆や和菓子をモチーフとした作品は、現代における「魔除けの造形」であり、差別や暴力のない平和な世界への祈りが込められている。
代表作
アズラー / AZURER
J-SWEETS
小豆の生活 / A LIFE OF AZUKI
篠原有司男
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
東京麹町生まれ。父親は詩人、母親は日本画家だった。千代田区立番町小学校を経て、日本大学第二工業学校に入学。疎開先から東京に戻ると、麻布中学校に入学。在学中は画家の荻太郎に師事する。

1952年、東京芸術大学美術学部油絵科に入学、林武に師事。1957年、同校を中退。1958年、村松画廊で初個展を開催。1960年、「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を新宿ホワイトハウスにて結成。短い活動期間に多くの伝説を残す。日本ではじめて頭を「モヒカン刈り」にして、週刊誌のグラビアで紹介された。

その後も「イミテーション・アート」や「花魁シリーズ」(1965年)などの「悪趣味」で「スキャンダラス」な作品を次々と発表。ボクシンググローブに絵の具をつけてキャンバスを殴りつけながら絵を描く「ボクシング・ペインティング」は有司男の代名詞となるが、これはマスメディア向けのパフォーマンスであり、芸術のつもりは毛頭なかったと、のちに赤瀬川との対談で明かしている。

1969年、ロックフェラー三世基金の奨学金を得て、妻と子供と共に渡米。以後ニューヨーク在住。1972年、段ボールを使ったオートバイの彫刻「モーターサイクル・ブルックリン」などを作り始める。1973年3月、現夫人で、現代美術家である乃り子(旧姓・島)と出会う。ただ、当時の米国ではマイノリティの芸術家はモダンアートの市場からは締め出される構造があり、制作の拠点をニューヨークに置きつつ、発表は日本で行なっていた。米国で本格的な再評価がなされるのは90年代以降である。

2007年、第48回毎日芸術賞を受賞。

2008年、ドキュメンタリーDVD『モヒカンとハンガリ ギュウとチュウ 篠原有司男と榎忠』(監督・青木兼治)が作られる。

2012年、ニューヨーク州立大学ニューパルス校ドースキー美術館で、初の回顧展が開催された。

2013年1月、篠原有司男・乃り子夫妻の日常を綴ったドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(監督:ザッカリー・ハインザーリング)がサンダンス映画祭ドキュメンタリー部門監督賞を受賞。12月21日、同ドキュメンタリーが日本で公開される。29都道府県で順次公開予定。

2019年12月、文化庁長官表彰。
代表作
タイムズスクエア
「篠原有司男自伝『前衛の道』」ポスター
「篠原有司男『前衛の道』」ポスター
手鏡
刈谷の嵐
一葉
『篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年図録』原画(表紙)
鈴木朝潮
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1985年 - 東京芸術大学美術学部油画科卒業
1986年、中上健次-『十九歳のジェイコブ』表紙装丁に採用。
1987年 - 東京芸術大学油画大学院壁画研究室修了
1990年代初頭よりコンクリートを使ったオブジェ「雨の記憶」を発表。
1992年、第28回今日の作家展(横浜市民ギャラリー)。  同年、山崎豊子-『白い巨塔』表紙装丁に採用。
1990年代中盤から鉄条網を使ったオブジェ「剛針鋼網」を発表。
2000年代より「雨の記憶」「剛針鋼網」を使い銅版画を制作を行う。自作オブジェ写真でフォトエッチングの技法により銅版画を制作。
2005年 - 日本美術家連盟会員
2008年 - 日本版画協会準会員
2009年、浜口陽三生誕100年記念銅版画大賞展(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)で銅版画が入賞。
2010年代よりデジタル処理によるデジタル版画の制作ルアチント
2013年より新たなデジタルプリント手法「フレスコジクレー」の制作。
2014年、第十六回中華民国国際版画ビエンナーレに選ばれ、フレスコジクレー作品が台湾国立美術館に収蔵。
2016年、『版画芸術』No171、「デシタル版画の現在」にて6ページの特集。
代表作

アーティチョーク
アガパンサス
曽谷朝絵
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
神奈川県出身。東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了後、2006年に東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻にて博士(美術)取得。2014年、文化庁新進芸術家海外研修制度によりニューヨークに留学。

日常身近にあるものをモチーフにし、身体感覚を光と色彩に昇華する絵画、インスタレーション等で知られている。近年では従来の絵画作品《Bathtub》、《Circles》、《Airport》、《The Light》シリーズに加え、鮮やかな色彩で森のなかでざわめく草花や木々を連想させる《air》、「色が奏でる音の反響」をテーマにした《鳴る色》、「光が発する音」をテーマにした《鳴る光》、「創造の森」を視覚化した、映像インスタレーション《宙》(そら)などを新たに展開している。
代表作
虹の家

鳴る色
高松次郎
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
東京都に生まれ、1954年に東京藝術大学絵画科(油画専攻)に入学。在学中は小磯良平に師事した。卒業後の1958年より第10回読売アンデパンダン展へ作品の出品を開始し、以後1959、1961、1962、1963年に出品している。はじめ前衛芸術に傾倒し、中西夏之、川仁宏らと共に、有名な「山手線事件」というハプニングを行った。また中西、赤瀬川原平らと芸術集団ハイレッド・センターを結成し、数多くのパフォーマンスを実践した。

作品はインスタレーションから絵画、彫刻、壁画、写真、映画にまで様々なスタイルに至り、多くの作品が抽象的かつ、反芸術的な色合いが濃いもので、実体の無い影のみを描いた作品「影」シリーズが脚光を浴び、石や木などの自然物に僅かに手を加えただけの作品、遠近法を完全に逆にした作品など、あえて「思考させる」「思考する」ことにより、作品と世界との間に新しい関係を作りだすことに成功し、1960年代以降の日本におけるコンセプチュアル・アートに大きな影響を与えた。

しかし1980年代に登場する「形」シリーズからは作品に飛躍的な展開が見られ、平面空間に線、面、色彩が溢れるようになる。高松は62歳で亡くなるまで20年間以上三鷹にアトリエを構え、病に倒れた後も亡くなる直前まで、このシリーズを追求し続けた。

1968年より多摩美術大学専任講師を務め、1972年から1974年まで東京藝術大学にて美術学部油画科非常勤講師を務めた。1981年「十代の会」の発起人の一人として同会創立に参加。
代表作
遠近法の日曜広場
遠近法のテーブル
ガラスの単体
日本語の文字

赤ん坊の影NO.387
中西夏之
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1935年、東京市品川区大井町生まれ。1954年、東京都立日比谷高等学校卒業。同窓に作家の坂上弘・文芸評論の権田萬治などがいる。1958年、東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業。大学時代の同窓に高松次郎・工藤哲巳・磯辺行久など。1959年、シェル美術賞で佳作を受賞した。

1962年、高松次郎・川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行い、翌1963年、第15回読売アンデパンダン展に《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品、時代を代表する作品となる。同年、高松次郎・赤瀬川原平らと「ハイレッド・センター」(高・赤・中)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイヴェントを実践した。

1960年代から舞踏家の土方巽と交流をもち、周辺の瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちと親交するほか、1965年、暗黒舞踏派公演『バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ』、1968年、『土方巽と日本人—肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を手がけ、笠井叡や山海塾らとも協働を重ねる。近年はフランス・リヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュ作曲、天児牛大演出によるオペラ作品(『三人姉妹』(1998年)、『更級夫人』(2008年))などでも舞台美術を担当した。

初期には、砂を用いた絵画《韻》、連作廃品を溶接した《内触覚儀》、アクリル樹脂で身辺の事物を封じ込めたコンパクトオブジェなど物質的な要素の強い作品を制作し、1960年代以降も《正三角儀》や《山頂の石蹴り》など、幾何学的かつ身体感覚を強く反映した作品が多い。

1960年代後半からは「絵画」の制作を主軸とし、特に1970年代から、白、紫、黄緑といった色を基調とする、油彩の平面作品を発表。作家と現実空間との緊張関係を主題にした思考性の強い作品を数多く制作。現在まで精力的な取り組みを見せている。

1995年の神奈川県立近代美術館での個展以来、インスタレーション「着陸と着水」シリーズが続いている。

1996年より2003年まで東京藝術大学にて美術学部絵画科油画専攻教授を務めた。

2004年から2007年までは倉敷芸術科学大学で教授を務めた。

2016年10月23日、脳梗塞のため死去した。81歳没。
代表作
コンパクト・オブジェ

エマンディタシオン
l*字型‐左右の停止‐
2・1・2・3柵型四群一瞥と擦れ違い
汐留のための『4ツの月』
中村政人
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
村上隆と共に「中村と村上」展や「大阪ミキサー計画」などを活動を展開した後、コンビニの看板を作品化したシリーズやマクドナルドのMサインを作品化するなど、作品展開を進め、1998年よりアーティスト・イニシアティブ「コマンドN」を主宰。「氷見クリック」(富山県氷見市)、「ゼロダテ」(秋田県大館市)、「アーツ千代田3331」(東京都千代田区)などの社会芸術家である。

1963年 - 秋田県大館市に生まれる。
1987年 - 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業。
1989年 - 東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻壁画を修了。
1992年 - 大韓民国政府招待奨学生として、弘益大学大学院西洋画科修士課程卒業。
2003年 - 東京芸術大学美術学部助教授。(2007年 - 同准教授)
代表作
QSC+mV
平川滋子
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
水、空気、太陽エネルギー、植物をコンセプトの基盤に置いて作品群を制作している。

2004年1月、《空気が危ない?Air in Peril》 プロジェクトを構想。 人間社会の大気汚染がもたらした欧州の森林の被害に関する欧州連合の報告書が、直接の発想の大本となった。《空気が危ない?》 プロジェクトは、大気汚染で被害を受けた森林が、エコシステムが低下して酸素を供給できなくなってきているらしいことを世界に訴えようとするもので、森林の光合成を助けようと光合成を視覚化する《光合成の木》、光合成で発生する《酸素分子》、新しい空気を生み出す動力メカニズムをかたちにした《風車》の三つのエレメントで構成されている。

《空気が危ない?》プロジェクトのキー・エレメントである《光合成の木》 は、構想の2年半後の2006年秋にフランス、アルジャントゥイユ市で初めて実現した。葉緑素ならぬ、太陽光線で色を変える人工の特殊ピグメントを混合したプラスチック・ディスク1500枚を、木の葉のように木に取り付け、大気中の二酸化炭素を吸収してわれわれに酸素を供給する植物の光合成を、人工的に毎日視覚化させてみせた。

地球を異常気象の危機に追い込んだ経済中心主義社会へのアイロニーを込めた作品、 《神々の滑り台》(2006年作、トンネル全長66m、インスタレーション高さ30m)は、日本の神々の中に現代の自然への恐怖を払拭する方法を見出したもの。

また2006年、ベルギー、リエージュ州の野外展企画テーマ『詩的空間』において、平川滋子は《羽根を持つ木》を制作した。欧州の楓の種子が、昆虫のような羽根を持ち、舞いながら遠くへ風に乗って運ばれることにインスピレーションを受けて、根を張った親木にも大きな羽根を持たせたもの。

1953年3月14日、福岡県久留米市生まれ。3歳のときに久留米市に石橋美術館が建設され、郷土の画家(青木繁や坂本繁二郎)の絵に魅了される。7歳のとき、家族とともに上京。以後数回、国内を移転するが、毎回異なる環境への対応へ心をくだく。

1971年、東京女子大学に入学し、日本史を選考。 卒業の翌年の1976年、東京藝術大学に入学して油画を修めた。

1983年、フランス政府給費留学生として渡仏し、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール Ecole nationale supérieure des Beaux-Arts de Paris)に在籍してオリビエ・ドゥブレ (Olivier Debré) に師事する。 渡仏の翌年からサロンを手始めに活動を開始し、旺盛な仕事の中で、渡仏当初平面であった作品は、1985年には立体やインスタレーションへと急激な進展をみせた。

1985年、南仏カーニュの近代美術館主催 『国際絵画展』において、全会一致の審査員奨励賞受賞。

1987年、フランスのアーティスト・ステータス獲得。

1987年から1990年まで、サロン・ド・ラ・ジュヌ・パンチュール (Salon de la Jeune Peinture) の公募審査員を務める。

野外のインスタレーションに取り組むのは1989年、北フランス、トリ・サン・レジェでの企画が最初。全長36mの木のインスタレーションを制作。

1992年、イル・ド・フランス地域議会の1%プロジェクトで彫刻《浮島》を制作。 同年、アンリ・ゴーディエ・ブルゼスカ (Henri Gaudier-Brzeska) の生誕百年記念彫刻コンクールで入賞し、オルレアンの衛星都市、サン・ジャン・ド・ブレイの県立公園に浮いた芝生と水を張った池を点在させるインスタレーション《回転する楕円》を作った。また初めてのベルギーの個展で、それまでアトリエで行っていた反絵画ともいえる脱色作業を屋外に持ち出して行い、太陽光線の意外な力に目を開いた。植物、水、太陽光線という自然のエレメントに出会った年である。 同年、フランス文化省の芸術家用アトリエに入居。

以来、フランスを中心に、ドイツ(フライブルク市自然歴史博物館、同市市民ギャラリー)、ポーランド(BWA国立現代美術ギャラリー)、イギリスなどヨーロッパ各地で発表。仕事の移動のたびに、現地の環境や人々の出会いの中から手がかりを収集し、人間を包む環境にかかわるグローバルなテーマへと凝縮させつつ、空間を変容するスケールの大きい作品を作り続ける。

1997年、南仏のモンドマルサン市が企画するトリエンナーレで、野外インスタレーション《系統樹 / 死》、《変容 / 生》を制作。肉親の死にインスピレーションを受けて川沿いに制作したインスタレーション《系統樹 / 死》は全長130m。用いた約40個の木の切り株は、高さ2m以上、一個の重さ1トン近く、合計40トン以上を利用。泉水の中に松の木を12本立てた《変容 / 生》は、人間と荒々しい自然の共存を助けていき続けるモンドマルサンの人工の松林にインスピレーションを受けた作品。 フランスの美術批評家、ピエール・レスタニ(Pierre Restany)は、これらのサイトスペシフィック・インスタレーションを現場で見て、「ランド・アートの近代物質主義とネオ・ゼンのミニマリズムの境界」の仕事と形容した。

2000年、1999年年末にフランス全土を襲った大嵐と、その被害に対する人間のリアクションを題材にした作品群を、個展《アプロプリエーション》で発表。

2001年、人間と水との関係を《追われる水》と題したプロジェクトにまとめ、パリ近郊マラコフ市の企画個展で4つのインスタレーションを制作発表。

2003年、南仏エロー県県庁コミッションで、水と空気のインスタレーション《接続された空気&服従した水》を制作。モンプリエ市シャトー・ドー (Château d'O) 公園敷地に展開。

2003年、日本文化庁在外研修特別派遣研修員として、初めて渡米し、ニューヨーク滞在。フランスで日本とフランスの二つのカルチャーを背負いつつ活動する自己の経験に根ざし、ニューヨークのバイカルチュラルなアーティストたちのメンタリティの持ち方や活動振りをインタビューして回った。国という各々の社会環境の違いを背景に、アーティストの活動と作品への考え方の違いを探って欧州とアメリカの現代文化比較に迫ろうとした。

2004年、初めてのエコロジカル・アートであるプロジェクト《空気が危ない?》を構想。

2004年、アメリカ、ニューヨーク州、アート・オーマイ (Art Omi International Artist Colony) で、アーティスト・イン・レジデンス。《酸素分子》を制作。

《空気が危ない?》プロジェクトのキー・エレメント《光合成の木》は、2006年秋冬、フランス、アルジャントゥイユ市の企画個展で実現。 引き続き、2007年夏、北フランスの鉱山歴史センター・炭鉱博物館 (Centre historique minier / Musée de la mine) で《光合成の木》の個展。

2007年秋冬、アメリカ、ニューヨーク州ジャメイカのジャメイカ・センター・フォー・アーツ・アンド・ラーニング (Jamaica Center for Arts & Learning) 企画、ジャメイカ・フラックス (Jamaica Flux) に《光合成の木》出品。

2006年 - 2007年、アメリカ、ニューヨークのポロック・クラズナー財団 (The Pollock-Krasner Foundation) からグラント収受。

2007年、東京藝術大学大学美術館主催、『パリへ、芸術家たち百年の夢』展に出品。
代表作
プロジェクト《ウォーター・フットプリント》、フランス、フィニステール
インスタレーション《忘れられた曼荼羅、瞑想の迷路》、フランス、ジュミエージュ
《火の天使、想像のセラフィム》、フランス、ブールカンブレス
《天の果実をつけた木》、フランス、ショーモン城
インスタレーション《空気の誘引》、フランス、ルーアン
プロジェクト《空気が危ない?》のキー・エレメント《光合成の木》、フランス、アメリカ、日本
《神々の滑り台》、フランス、ジュイ・アン・ジョザス
《羽根を持つ木》、ベルギー、リエージュ
《空気、肺》、フランス、ルワルド
《太陽系》フランス、メル
《酸素分子》アメリカ、ゲント
《接続された空気&服従した水》、フランス、モンぺリエ
プロジェクト《追われる水》、フランス、マラコフ
《五つの赤い宇宙》、東京大学数理科学研究科所蔵
《系統樹 / 死》、フランス、モンドマルサン
《変容 / 生》、フランス、モンドマルサン
《浮島》、1%フォー・アート
《回転する楕円》、フランス、サン・ジャン・ド・ブレ
《Dé-peindre》シリーズ
彫刻シリーズ
日比野克彦
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1958年岐阜県岐阜市生まれ。 岐阜大学教育学部附属中学校を卒業。岐阜県立加納高等学校を卒業後、多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科に進学(同級生にしりあがり寿がいた)。同大学に1年在学した後、東京芸術大学美術学部デザイン学科に再入学し、1982年に卒業。1984年、同大学大学院修士課程修了。1980年代に領域横断的、時代を映す作風で注目される。作品制作の他、身体を媒体に表現し、自己の可能性を追求し続ける。1986年シドニー・ビエンナーレ、1995 年ヴェネチア・ビエンナーレに出品。

近年では、館内の展示室だけでなく、様々な地域の人々と共同制作を行いながら、受取り手の感受する力に焦点を当てたアートプロジェクトを展開し、社会で芸術が機能する仕組みを創出する。2003年大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレにて[明後日新聞社文化事業部]を設立、同時に[明後日朝顔プロジェクト]を開始。2005年 水戸芸術館[HIBINO EXPO]、2006年岐阜県美術館[HIBINO DNA AND]、2007年金沢21世紀美術館「[ ホーム→アンド←アウェー」方式]、熊本市現代美術館[HIGO BY HIBINO]など個展を開催。

2012年[種は船~航海プロジェクト]を実施。2013年 瀬戸内国際芸術祭2013にて[海底探査船美術館プロジェクト「一昨日丸」]を発表。同年・翌年(2013・14年)「六本木アートナイト」にてアーティスティックディレクターを務める。2010年より4年の1度のサッカーW杯年に合わせ、「マッチフラッグプロジェクト」を開始。2014年もブラジル大会への熱い想いを胸にワークショップを実施し、スタジアムをスポーツとアートの交流の場とした。1995年から1999年まで東京芸術大学美術学部デザイン学科助教授、1999年から2007年まで東京芸術大学美術学部先端芸術表現科助教授/准教授を経て2007年10月より教授、2016年より美術学部長に就任。現在、日本サッカー協会社会貢献委員長。

2015年4月1日より、岐阜県美術館の館長に就任した。
代表作
PRESENT AIRPLANE
GRAND PIANO
NITO
保科豊巳
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
長野県東御市生まれ。日本もの派、榎倉康二、高山登の影響の中、東京芸術大学で学ぶ。同期生に川俣正、下級生の宮島達男、中村一美がいる。 ポストもの派世代に属し、木、紙、墨という素材を用いたインスタレーションや絵画制作を展開している。日本をはじめスイス、台湾、ドイツ、アメリカ、中国、などで作品発表を続けている。 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。東京芸術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻修了。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻 単位修得退学。その後、明星大学芸術学科助教授、東京芸術大学美術学部専任講師、東京芸術大学美術学部助教授を経て2002年に文部科学省在外研究員として渡米。2006年から東京芸術大学美術学部教授。2009年に東京芸術大学美術学部副学部長。2013年に東京藝術大学美術学部学部長。2016年に東京藝術大学理事・副学長。

1982年「第12回パリビエンナーレ」パリ市立近代美術館
1984年「日本現代美術展」スイス国立博物館、ラス美術館ジュネーブ
1986年「日本現代美術展」国立台北現代美術館
2003年 第2回「大地の芸術祭」妻有トリエンナーレ展
2008年「国際メディアアートビエンナーレ」北京
2011年「釜山ビエンナーレ」韓国
2013年「HERE IS THERE THERE IS HERE–A Solo Exhibition」台湾
2014年 市原ビエンナーレ展「3D山水画プロジェクト」、上野の森美術館大賞展招待出品
2016年「RAIGHT OF DARKNESS」南京美術館、バングラデシュBIENNALLE
代表作
宮島達男
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
「Art in You(芸術はあなたの中にある)」という考え方を基盤に、発光ダイオード(LED)を使用したデジタルカウンター等、LEDの作品を特徴とする美術家である。また、コンピュータグラフィックス、ビデオなどを使用した作品も手掛けている。

美術家を志望したのは佐伯祐三、青木繁の自然体で自由な生き方に憧れたことが発端で、東京都立小岩高等学校を経て1984年(昭和59年)に東京藝術大学美術学部油画科を卒業(学士)、1986年に東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了(修士)。

大学在学中には油絵を学んでいたが、油絵では自分の言いたいことを表現できないもどかしさがあると感じ、現在においても作品制作のテーマとなっている「それは変化し続ける」、「それはあらゆるものと関係を結ぶ」、「それは永遠に続く」の3つのコンセプトを形にする手段を模索していたところ、偶然LEDと出会う。1987年(昭和62年)には初めてLEDの作品を発表し、1990年(平成2年)にアジアン・カルチュラル・カウンシルの招きによりニューヨークに転居。同年、ドイツ文化省芸術家留学基金留学生としてベルリンに転居し、翌1991年(平成3年)まで居住。1992年(平成4年)の帰国後は茨城県守谷市に転居、以降は1993年(平成5年)にカルティエ現代美術財団アーティスト・イン・レジデンスプログラムによりパリに滞在した。

2006年(平成18年)に東北芸術工科大学副学長に就任。2014年(平成26年)に京都造形芸術大学副学長も兼任。2016年両校を退職。現在は両校の客員教授。
代表作
MEGA DEATH
HOTO
村上隆
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1962年(昭和37年)生まれ。東京都板橋区出身。本郷高等学校を経て、2浪ののち、1986年(昭和61年)東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年(昭和63年)同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)、1993年(平成5年)同博士後期課程修了、博士(美術)。日本美術院同人で日本画家の村上裕二は弟。

自らの作品制作を行うかたわら、芸術イベント『GEISAI』プロジェクトのチェアマンを務め、アーティスト集団『カイカイ・キキ(Kaikai Kiki)』を主宰し、若手アーティストのプロデュースを行うなど、活発な活動を展開している。同集団は、アメリカのニューヨークにも版権を管理するエージェントオフィスをもつ。

日本アニメポップ的な作風の裏には、日本画の浮世絵や琳派の構成に影響されている部分も強く、日本画のフラット感、オタクの文脈とのリンクなど現代文化のキーワードが含まれている。中でもアニメ、フィギュアなどいわゆるサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が有名。アニメ風の美少女キャラクターをモチーフとした作品は中原浩大の「ナディア」に影響を受けたと本人も認めている。アニメーター・金田伊功の影響を強く受けており、自分の作品は金田の功績を作例として表現しているだけと話したこともある。

漫画原作者である大塚英志は、教授として就任した大学のトークショーにおいて「現代美術のパチモノの村上隆は尊敬はしないし、潰していく。我々の言うむらかみたかしは4コマまんがの村上たかしのことだ」と強く非難し、また、現代美術家がサブカルを安易に取り上げることや、後述のリトルボーイ展の戦後日本人のメンタリティを無視した展示内容に強い不快感を示している。

一方、精神科医の斎藤環は、批判者の言説は「村上隆は日本のオタク文化のいいとこどりをしただけ」との単純な論理に依ると捉え、そのような論理は根本的に誤解であり不当な批判を行っているとして、厳しく非難している。また、村上の作品はオタク文化から影響を受けているだけでなく、それを昇華させてオタク文化に影響を与えてもいると述べている。

村上曰く、「マティスのような天才にはなれないがピカソやウォーホール程度の芸術家の見た風景ならわかる。彼らの行ったマネージメントやイメージ作りなどを研究し自分のイメージ作りにも参考にしている」。

自身に批判的なツイートを公式リツイートすることで、炎上商法・炎上マーケティングを行っていると、ツイッター上で公言している。

きゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」(2011年)のプロモーションビデオの発表以降、それに登場する「目玉」や「世界観」が自作品と類似性があると問い合わせがあり、2013年10月頃よりそれが急増したとして、2013年11月18日に、自身の作品は2000年に誕生したものであり、一切関係ないことを自身のサイトで公表した。

生来のアニメ好きが高じて、高校卒業後にはアニメーターを志した。尊敬しているアニメ監督は宮崎駿で、『未来少年コナン』や『ルパン三世 カリオストロの城』を観て、アニメーションの仕事に就きたいと思っていた。しかしながら挫折し、同じく以前から興味のあった日本画を習い、2浪の後に東京芸術大学に入学した。同大学では美術学部日本画科に学び、1986年(昭和61年)の卒業時には『横を向いた自画像』(東京芸大美術館所蔵)を製作・提出。

1988年(昭和63年)に東京芸術大学大学院修士課程の修了制作が、首席とならず次席であったために、日本画家への道を断念する。

1991年(平成3年)には、個展 『TAKASHI, TAMIYA』を開催、現代美術家としてデビューした。同年、ワシントン条約で取引規制された動物の皮革で作ったランドセルを展示する「ランドセル・プロジェクト」を展開する。

1993年(平成5年)、東京芸術大学大学院の美術研究科博士後期課程を修了。「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」と題した博士論文をもって、同大学日本画科で初めての博士号取得者となった。

1994年(平成6年)にはロックフェラー財団のACCグラントを得て、「PS1.ART PROJECT」の招待を受けニューヨークに滞在した。 

1998年(平成10年)にカリフォルニア大学ロサンゼルス校美術建築学部客員教授。2001年(平成13年)にアメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる。2005年(平成17年)4月、ニューヨークで個展 『リトルボーイ展』を開催。自身の作品の他、ジャパニーズ・オタクカルチャーや日本人アーティストの作品が展示され、またリトルボーイ展では「父親たる戦勝国アメリカに去勢され温室でぬくぬくと肥えつづけた怠慢な子供としての日本と、そうした環境ゆえに派生した奇形文化としてのオタク・カルチャー」、「それがゆえにオタク・カルチャーのきっかけはアメリカにもあるのだ」との考えが提示された。翌年2006年(平成18年)にリトルボーイ展はキュレーターに送られる世界で唯一の賞であるニューヨークの美術館開催の最優秀テーマ展覧会賞を受賞した。

2001年(平成13年)アート制作・映像制作や所属アーティストマネージメントなどを企画・運営・販売等、芸術事業の総合商社「有限会社カイカイキキ」と起業する。また、事業部としてアニメーションスタジオ「STUDIO PONCOTAN(スタジオ ポンコタン)」を立ち上げる。

2005年(平成17年)1月末よりPHS会社・ウィルコムのCMに出演。近年は六本木ヒルズのトータルプロデュースの一員やイメージキャラクター『ロクロク星人』のデザイン、フロアガイド冊子のデザインを手がけている。また『ルイ・ヴィトン ミーツ ネオ・ジャポニズム』と題し、高級ファッションブランド、ルイ・ヴィトンをクライアントとするコラボレーション製品などを発表。

2006年(平成18年)に「リトルボーイ展」の成果として芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。

2007年(平成19年)、カニエ・ウエストのアルバム『グラジュエイション』(Graduation)のジャケットデザインを担当。

2008年(平成20年)、米Time誌の"The World's Most Influential People - The 2008 TIME 100"(世界で最も影響力のある100人-2008年度版)に選ばれた。

2008年(平成20年)、GQ MEN OF THE YEAR 2008を受賞。

2010年(平成22年)に開催されたシンポジウム『クール・ジャパノロジーの可能性』では、「アート界における"クール・ジャパン"の戦略的プロデュース法――Mr.の場合」と題した講演を行った。講演では、日本のマンガやアニメ、および、それらを生み出した日本自体を肯定的に解釈し、それらの前提のもと、今日ではクール・ジャパンと呼ばれている観点を日本人作家作品によっていかに西洋アート界に体現させていけるか、とのテーマについて初期から漸進的に取り組んできた軌跡を発表した。

2010年(平成22年)10月に雑誌『SUPERFLAT』を創刊し、創刊号ではジェフ・クーンズとの特別対談や、村上隆、東浩紀、椹木野衣、黒瀬陽平、梅沢和木、藤城嘘、福嶋亮大、濱野智史らの記事が掲載される予定であった(未刊行)。

2016年(平成28年)3月に「村上隆の五百羅漢図展」の成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。

総監督をつとめるアニメ「6HP/シックスハートプリンセス」が12月30日より放送され、1時間枠のうち22分を線画状態で未完成の第1話の放送にあて、残りは制作経緯や村上の謝罪といったドキュメンタリーの構成になることが明かされた。その後2017年9月には完全版が放送され、2017年12月23日には第2話が放送された。
代表作
Miss Ko2(KoKo)
HIROPON
My Lonesome CowBoy
Mr.DOB
お花
ゆめらいおん
シックスハートプリンセス
五百羅漢図
めめめのくらげ
Yassan
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
埼玉県出身。GPS絵画の先駆者。

東京藝術大学美術学部先端芸術表現科を卒業。在学中は川俣正に師事。

2008年に日本列島を縦断して描いた処女作”MARRY ME (7,163.67km)”が、2010年、ギネス世界記録に認定される。この作品が、ギネス世界記録に”最大のGPS絵画”カテゴリーとして初めて登録される。

2015年、世界一周し5大陸にわたって”PEACE on Earth (60,794.07km)”を描く。ギネス世界記録に認定されていないが、現存する最大の作品である。

2019年、Googleのドキュメンタリーシリーズ Google Stories.で紹介される。
代表作
MARRY ME(Google Maps)
#PEACEonEarth(Google Maps)
「無名の土地への入口」への道(Google Maps)
初音ミク(Google Maps)
チーバくん(Google Maps)
山口晃
画家種
現代美術
人物・来歴・経歴・その他
1969年東京都生まれ。群馬県桐生市で育つ。群馬県立桐生高等学校卒業。私立美術大学を一年で中退後、1994年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業、1996年東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。1997年、会田誠に誘われ「こたつ派」展に参加。2001年に岡本太郎記念現代芸術大賞優秀賞を受賞。2013年に『ヘンな日本美術史』で第12回小林秀雄賞を受賞。

大和絵や浮世絵のようなタッチで、非常に緻密に人物や建築物などを描き込む画風で知られる。武士を馬型のバイクに乗せたり、現代の超高層ビルに瓦屋根を載せて描くなど、作品の多くが自由でユーモラスな発想で描かれている。書籍の装丁や広告のポスターの原画も数多く手掛け、成田空港の出発ロビーなどにパブリックアートとして作品が設置されている。2012年に平等院にある養林庵書院に襖絵が奉納された。

主要取り扱い画廊は、ミヅマアートギャラリー。
代表作
洞穴の頼朝
どぶ川のほとり
落馬
十字軍
今様遊楽
何かを造ル
胎内巡り
歌謡ショウ
東京 奨堕不楽乃段
東京 六本木昼
階段遊楽
百貨店 日本橋三越
東京 芝の大塔
成田国際空港 飛行機百珍圖
四天王立像「廣目天」「増長天」「持国天」「多聞天」
ラグランジュポイント
四季休息
渡海文殊
Tokio山水
ショッピングモール
前に下がる 下を仰ぐ
富士北麓参詣曼荼羅

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