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北海道について

北海道は昔は蝦夷地と呼ばれ未開拓な所が多かった為、開拓団が入植して開拓された地となります。
県庁所在地は札幌市です。
土地は日本面積の約22.1%を占めます。中央部には天塩山地、北見山地、石狩山地、日高山脈が走ります。約7割が森林面積で、自然環境に恵まれる大地です。
年間を通じて冷涼低温で、梅雨や台風の影響が少なく、約半年間は雪の季節です。
中央部には東西約15キロ、南北10キロほどの大雪山と総称される山岳地帯が形成され、旭岳を主峰とする2000メートル級の峰々が連なることから「北海道の屋根」と呼ばれています。
北海道の真ん中にはラベンダー畑で有名な富良野があり観光地として名高いです。
また、特に札幌はラーメンが有名で「ラーメン街」があるので沢山の美味しいラーメンを楽しめます。
冬にはパウダースノーに乗るために沢山のスキーツアーがあります。
夏から秋にかけては野菜が多く収穫できますので沢山の美味しいお料理がたのしめます。
バスツアーも沢山のコースがあるので日にちをかけて沢山見て回れるのが魅力です。

画家について

石郷岡敬佳

1928年に北海道小樽市に生まれ、1941年から独学で絵画を描き始める。1953年に北海道から東京に移住。
1954年に東京、銀座一番館にて初の個展を開催した。1960年代にはフランス文学者で芸術評論家、作家としても著名な栗田勇と親交を深めるようになった。 1984年に、東京、銀座アートセンターにて3度目の個展を開催した。 1985年には、アメリカ合衆国の抽象表現主義のポール・ジェンキンス(英語版)と親交を結び、作品の交換も行った。
1980年に、東京、銀座のロイヤルサロン・ザ・ギンザにて2度目の個展を行った。
1987年の3月24~4月18日に、初の海外での個展をアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.の世界銀行ギャラリー(The World Bank Art Society)主催で行った。
引き続いて、翌年1988年には、アメリカ合衆国のニューヨークにあるキース・グリーン・ギャラリー主催の2度目の海外個展を行った。
その翌年1989年の9月29日から10月13日まで、フランス人ファッション・デザイナーのピエール・カルダンが、フランスのパリにある自身の劇場「エスパース・カルダン(フランス語版)」を提供して、3度目の海外個展を主催した。美術評論家のアンドレ・パリノ(フランス語版)、ベルトラン・デュプレッシ(Bertrand Duplessis)、ピェール・レスタニ(フランス語版)が招かれ、各氏ともフランスの芸術雑誌に論評を寄稿している。
1992年には、フランスのパリにあるパガテル公園のオランジュリー美術館にて、フランスでの2度目の個展を、9月9日から10月11日までの約1か月間にわたり開催した。
また1993年には、モナコ皇太子財団主催のモンテカルロ国際美術展に招待出品した。 この頃は、アトリエをノルマンディーにあるルイ14世時代のシャト―・ル・ルパ(フランス語版)、アメリカ合衆国のニューヨーク、東京の築地の3か所に持ち、各アトリエを行き来した。
1996年には、東京アメリカンクラブで作品展示があった。 1997年には、ロイヤル・サロン・ザ・ギンザでの2度目となる個展を開催した。
その後、アトリエを千葉県旭市に移して絵画の制作を続けたが、病のため、最後は東京の病院で80歳の人生を終えた。


一原有徳

1910年、徳島県那賀郡平島村(現阿南市)に生まれる。
1913年、北海道虻田郡真狩村に移住。
1923年、北海道通信社入社に伴い、小樽市に移住。
1927年、小樽高等実修商科学校(夜間)に約五年間修学。1927年郵政省小樽貯金支局に事務員として入局し、以後43年間勤務。1928年頃から俳句の制作を始める。
1944年、札幌市月寒の大砲隊小隊に入隊。
1951年、この頃から油絵を始め、後に版画に転じる。
1960年、土方定一の知遇を得て、その推薦で東京画廊個展でデビュー。
1970年、郵政省小樽地方貯金局を定年退職。以後創作に専念。文芸同人誌「楡」に発表した小説『乙部岳』が太宰治賞候補となる。
1979年、北海道現代美術展優秀賞受賞。
1980年、小樽市教育文化功労賞受賞。
1988年、神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」を開催。
1990年、北海道文化賞受賞。
1998年、徳島県立近代美術館・北海道立近代美術館で、回顧展「一原有徳・版の世界」を開催。
2010年10月1日、老衰のため小樽市内の病院で死去。100歳没
2011年、小樽美術館に一原有徳記念ホールがオープンする。

一木万寿三

北海道空知郡滝川村(現・北海道滝川市)で生まれ、少年時代に一家で江部乙村(現・滝川市江部乙町)に転居する。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。
同じく江部乙村の近所に住んでいた岩橋英遠とも親しくなり、1926年(大正15年)(22歳)で上京し、本郷絵画研究所にて学ぶ。
そこで岡田三郎助に師事し、安井會太郎らの影響を受けることになる。1929年(昭和4年)に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。
1944年(昭和19年)には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。全道美術協会の創立にも参加し、北海道洋画界の重鎮として活躍した。
妻は北海道を代表する俳人で、氏と同じく江部乙出身の榛谷美枝子。「リラ冷え」という季語を作った俳人として知られる。娘の熊谷佳久子も「天為」に所属する俳人である。


岩橋英遠

1903年 北海道空知郡江部乙村に生まれる。20歳頃まで農業に携わりながら油絵を描く。
1924年 日本画家を志して上京、山内多門に師事する。
1932年 山内没、一時青龍社に出品する。
1934年 新日本画研究会結成に参加する。再興第21回院展に初入選 (作品:『新宿うら』)
1937年 歴程美術協会結成に参加する。安田靫彦門下の研究会「火曜会」に入会する。
1936年 第1回帝展で初入選 (作品:『店頭囀声』)
1949年 第34回院展で奨励賞・白寿賞を受賞 (作品:『砂丘』)
1950年 再興第35回院展で大観賞を受賞 (作品:『明治』)
1951年 再興第36回院展で大観賞を受賞 (作品:『眠』)
1953年 日本美術院同人に推挙される。
1954年 前年の院展出品作で芸術選奨文部大臣賞を受賞(作品:『庭石』)
1958年 東京芸術大学講師となる。
1959年 第44回院展で文部大臣賞受賞 (作品:『蝕』)
1960年 日本橋三越で初個展を開催する
1965年 東京芸術大学助教授となる
1967年 法隆寺金堂壁画模写に参加する
1968年 東京芸術大学教授となる (~1970年まで)
1972年 前年の院展出品作により日本芸術院賞を受賞 (作品:『鳴門』)
1979年 第20回毎日芸術賞受賞。勲四等旭日小綬章受章。
1981年 日本芸術院会員となる。
1986年 東京芸術大学名誉教授となる。
1989年 文化功労者となる
1990年 渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムにて回顧展を開催
1993年 日本橋三越で『画業70年・岩橋英遠展』を開催。北海道立近代美術館で『岩橋英遠と片岡球子展』を開催。
1994年 文化勲章受章。
1999年 7月12日 神奈川県相模原市にて逝去。享年96。


内山ユニコ

北海道北見市出身。血液型はO型。独自のサイケデリック観をもって主にアクリル絵具または透明水彩で制作している。女性をモチーフとした作品が多い。
名前と作風より女性と思わせがちであるが男性である。
絵の活動を始めたのは29歳から。
2000年、ライターで編集者の北沢夏音が主催するDJイベントにて作品を初展示。翌年、嘗て渋谷に在ったアートワッズで展覧会を開催。
東京・高円寺の1960?70年代テイストのサイケなレストラン・バー「喫茶・軽食グリーンアップル」店内ペインティングやロゴデザインなど手がける。
2014年9月より『オタク・イン・USA―愛と誤解のAnime輸入史』の著者、パトリック・マシアス原作によるSF小説『パラノイア・ガールズ』のイラストを担当。WEB上で連載中。
2013年より、オリジナルキャラクターである四本脚の「顔ちゃん 」がツイッターで人気になったが、2016年10月2日以降アカウントの更新は途絶えている。
女優の美保純は顔ちゃんのファンであったことから、レギュラー番組『5時に夢中!』(2015年10月28日放送分)にて、ハロウィンに合わせた「顔ちゃん仮装」で登場した。
またアメリカのバンド、ツイン・シスター(2014年よりMr Twin Sisterに改名)のボーカリストで知られるアンドレア・エステラは、自身のインスタグラムに顔ちゃんソフビと戯れる様子や、顔ちゃんに成りきった姿を投稿するなどした。
元thee michelle gun elephantのドラマー クハラカズユキや、伊藤誠 (漫画家)とクラスメイトだった。


おおた慶文

子供や少女を描いた淡く抒情豊かな水彩画で人気が高い。多数の作品および画集を発表しているほか、雑誌・書籍の挿絵や大手企業の各種広告なども手がけ、個展でも多数の観客を集めている。
1981年サンリオ主催「詩とメルヘン第1回イラストコンクール」で最優秀作品賞を受賞。
1986年第12回サンリオ美術賞受賞。


片岡球子

1905年(明治38年)1月5日、 北海道札幌市に生まれる
1922年(大正11年)、北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)師範科を卒業。画家になることを決意。女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科入学
1926年(大正15・昭和元年)、女子美術専門学校卒業。神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭に就任
1930年(昭和5年)、日本美術院再興第17回展入選(「枇杷」)。研究会員になる
1935年(昭和10年)、日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞受賞
1938年(昭和13年)、日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞受賞
1939年(昭和14年)、日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞受賞。第26回院展入選(「緑陰」)。院友に推挙。以後毎回入選
1942年(昭和17年)、日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞受賞
1946年(昭和21年)、安田靫彦に入門。第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞受賞
1948年(昭和23年)、第33回院展入選「室内」が日本美術院賞受賞
1950年(昭和25年)、第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞受賞
1951年(昭和26年)、第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞受賞。このころ東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
1952年(昭和27年)、第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞受賞。日本美術院同人に推挙
1955年(昭和30年)、横浜市立大岡小学校を依願退職。女子美術大学日本画科専任講師に就任。横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居
1959年(昭和34年)、日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品。以後1969年(昭和44年)第24回展まで毎回出品
1960年(昭和35年)、女子美術大学日本画家助教授
1961年(昭和36年)、院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品に。片岡球子日本画展で火山がテーマの作品発表。以後、富士山をテーマとするまで6~7年間、各地の火山を取材し作品制作、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞(院展出品作「渇仰」および個展の諸作品において日本画界に新風を送り、特に人物画の解釈に新生面を開いた)。第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞受賞。日本美術院評議員に就任
1962年(昭和37年)、第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品。初の渡欧。フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
1965年(昭和40年)、女子美術大学日本画科教授に就任
1966年(昭和41年)、女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任。「面構」シリーズ制作開始。このころから「富士山」シリーズを製作開始
1970年(昭和45年)、北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)。神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居
1971年(昭和46年)、第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品。面構シリーズ初の浮世絵師作品
1973年(昭和48年)、定年により愛知県立芸術大学客員教授
1975年(昭和50年)、自伝「情(こころ)ありて」執筆 第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞受賞。院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品
1976年(昭和51年)、秋の叙勲で勲三等瑞宝章受章
1978年(昭和53年)、日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」出品。国際交流基金買上げ。第27回神奈川文化賞受賞
1981年(昭和56年)、日本美術院理事に就任。NHKテレビ番組「女性手帳(球子画ばなし)」出演、放映
1982年(昭和57年)、日本芸術院会員に就任。
1983年(昭和58年)、第38回春の院展に「ポーズ1」出品(初めての裸婦作品)
1986年(昭和61年)、文化功労者に選ばれる
1989年(平成元年)、第42回中日文化賞受賞。文化勲章受章
1990年(平成2年)、藤沢市名誉市民に選ばれる
1993年(平成5年)、愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成、一般公開
1996年(平成8年)、愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈
1998年(平成10年)、日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品
1999年(平成11年)、都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画制作
2000年(平成12年)、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催
2008年(平成20年)、急性心不全のため103歳で死去。叙従三位
2014年(平成26年)、名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される。日体大除幕式は2015年3月に行われた。


神田日勝

1937年(昭和12年)東京の練馬に生まれる。1945年(昭和20年)、東京大空襲に遭遇。戦火を逃れる為、一家で北海道鹿追町へ疎開する。
1950年(昭和25年)に鹿追中学校に入学し、美術部を創設する。1952年(昭和27年)頃には兄・一明の影響を受け、油絵を始めた。1953年(昭和28年)に中学を卒業、美術が特に優れていたとして賞を受ける。そして東京芸術大学に進んだ兄の神田一明に代わり、農業を継ぐ。
1956年(昭和31年)、平原社美術協会展(平原社展)に『痩馬』を公募展初出品、朝日奨励賞を受賞する。その後も同展やや全道美術協会展(全道展)など北海道の美術運動を進める公募展を中心に出品、1960年(昭和35年)には『家』が全道展で初入選を果たす。これ以降は入選を重ね、評価を固めていく。1962年(昭和37年)に結婚、1964年に長男、1968年に長女が誕生する。
1970年(昭和45年)、全道展に代表作『室内風景』を出品[要出典]。しかし6月下旬に風邪をこじらせ、体調の快復を得ないまま8月に入院し加療後も病状は好転せず、8月25日、腎盂炎による敗血症のため死去。32歳であった。


木田金次郎

岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京し開成中学、京北中学に通う。京北中学時代から絵を描き始め、また上野の展覧会に通うようになる。1910年、学校を中退し札幌市郊外で絵を描き続ける日々を送る。札幌で開催されていた黒百合会(東北帝国大学農科大学美術部)の展覧会で有島武郎の絵と出会い感銘を受け、スケッチを携えて訪問。以後有島との交友が生まれるが、その後岩内に帰郷し漁業に従事する。
1923年に有島武郎が死去して以降、漁業を離れ画業に専念する決意を固める。1945年、後志美術協会や全道美術協会の創立に参加するが、出品はしなかった。戦後になってようやく画家として認められるようになり、1953年札幌市にて初個展を開催。1954年、洞爺丸台風による「岩内大火」により作品の大多数が焼失する。
1994年に同町に木田金次郎美術館が開館し、その設計を長男の木田尚斌が手がけた。
忌日は「どんざ忌」と呼ばれており、偉業をたたえるため1995年から木田金次郎美術館で続けられている。
2014年10月、日本たばこ産業(JT)が所有する油彩『半農の漁村』(1956年頃制作)と油彩『茶津の断崖』(1958年頃制作)の計2点が木田金次郎美術館に寄贈された。


高松潤一郎

1963年 個展 兜屋画廊(銀座)
1968年 個展 青木画廊(銀座)
1971年 朝日新聞社主催・現代の幻想絵画展
1976年 ポスト・コレクション展 東京セントラル美術館(銀座)
1977年 個展 青木画廊(銀座)
1980年 個展 青木画廊(銀座)
1981年 幻想絵画展 旧西ドイツ私設美術館巡回
1981年 幻視の森展1 東京セントラル絵画館(銀座)
1982年 国際交流基金による幻視者たち展] 旧西ドイツ公立美術館  高橋巌]による推薦文。
1982年 ミニアチュール展1 彩鳳堂画廊(銀座)
1982年 幻視の森展2 東京セントラル絵画館(銀座)
1983年 ミニアチュール展2 彩鳳堂画廊(銀座)
1984年 個展 青木画廊(銀座)
夢座刊行記念展 中野紅画廊(東京・中野)
1987年 星夜・/施術者たち・詩と原画展 東京堂文化サロン(神田神保町)]
1989年 二人展 青木画廊(銀座)
1994年 人人展 東京都美術館(上野)
2007年 「澁澤龍彦・幻想美術館」展(埼玉県立近代美術館)
2007年 「渋澤龍彦・幻想美術館」展(札幌芸術の森美術館)
2007年 「澁澤龍彦・幻想美術館」展(横須賀美術館)
2008年 「精筆の8人展」 青木画廊(銀座2011年 「死を思え」 折原一コレクション展 文藝春秋画廊(銀座)
2014年 「精筆の画家9人展」 青木画廊(銀座)
2014年 「天球會展」 ギャラリー歩歩琳堂(神戸)
2015年 「巻き貝の見た夢」 青木画廊(銀座)
2015年 「精筆の画家10人展」 青木画廊(銀座)
2017年 「トンドの夢想家達展V・Ⅳ」 Galerie Or・Terre(京橋)
2017年 「一角獣の変身刊行記念展」 青木画廊(銀座)
2017年 「Fantasic Art Exhibition」 ドラード・ギャラリー(早稲田)
トンドの夢想家達展 2018年5月 ギャラリー・オルテール


武田範芳

1913年4月28日、北海道旭川生まれ。小学校のときに応募した水彩画公募展の審査員であった上野山清貢にほめられたことを契機に画家を志す。
1932年、北海道庁立永山農業学校林学科を卒業して上川支庁林務課に勤務し、大雪山自然林の保護に携わる。1934年、上野山を頼って上京し、本郷と目白の絵画研究所に学ぶ。牧野虎雄にも師事。
1939年3月、画壇の登竜門であった旺玄社展の最高賞『目白賞』を受賞。かねてよりポール・ゴーギャンのエッセイ『ノア・ノア』を読んで感激し、南洋への憧れを募らせていた武田は同年10月、南洋諸島に向け出発。
サイパン島、パラオ、ヤップ離島のフララプ島を取材。パラオ滞在中に南洋庁に勤めていた土方久功と知り合い、その援助により1940年5月、コロールの昌南倶楽部で個展を開催。
1941年4月に帰国。翌年旭川に生活拠点を置く。この7月、南洋美術協会第一回展に油彩画《フらラップ島麗日》《樹下雑語》を出品、9月には銀座・紀伊国屋ギャラリーで『武田範芳南洋作品展』を開催した。
戦後は関心をヨーロッパに移し、1947年、パリ移住を前提にまず上京、資金作りに奔走するが、結核を発症して渡航を断念。それでも1962年に渡仏した。
フランス国立美術研究所アカデミーグランドショミエルで学ぶ。
1963年から、デュッセルドルフ、ハンブルク、ロンドン、香港、バンコクなど海外で個展を7回にわたって開催し、多くの国際賞を受賞した。
1978年、北海道近代美術館買上げ。1978年紺綬褒章受章。1969年以後、日本国内においては無所属の画家として活躍。三越本店、東急本店を中心に全国的に個展を開催。
1989年7月29日死去。その後、1989年フランスのパリ、ユネスコ国連本部で革命200年記念遺作展開催。
1989年日本赤十字本社、北海道旭川近代美術館に作品が所蔵された。
2013年狛江市泉の森会館に於いて生誕100年展開催 2010年にはエコルマホールに人形達が所蔵展示される


中村岳

日本建築をコンセプトとしたシンプルな絵画・立体作品を手がける。木目や漆や金属などの質感を生かした、古風だが何処かエキゾチックで暖かみのある作風が持ち味。インスタレーションやミニマルアート風の手法、現代美術と日本美術を併用するなどの試みを行っている。
北海道に生まれ育ったためか、既存の日本の伝統文化に接する機会が少なく、日本の伝統文化をあたかも異文化のように感じたと言う。そのため、日本建築との絵画の関係の検証を通じ、自分自身の中には無かった日本の伝統に根ざした「文化の再構築」をテーマとした作品作りを行っている。独自の日本文化の考察がある。
近年、現代美術業界での日本画ブームの中で多くの美術家が目指すものとは、彼の作風は、かなり特異な方向に作品を進化させている。その表現手段は既に絵画から脱却しているが、より日本画の本質に迫っている。しかしまだまだ知名度が低く、一部の関係者のみに注目されている。
『吹抜屋台』をキーワードとした一連の作品がある。近年、現代美術のギャラリーや、古民家での展示や、野外展など多くの場で活動している。表現方法が多様で一見理解しにくく、また緻密で工芸的な作風が誤解を受けやすく、作品の賛否の意見が別れているところである。
しかし作品のコンセプトは長期に渡り一貫性がある。特にインスタレーションとしての空間の扱いがうまく、作品のマチエールの手法が凝っている。まるで古びた寺院の木柱を思わせる漆表現を見せる。現代美術のミニマルな要素と日本の伝統美術をかなり理想的に融合させている。ギャラリー内に架構を複雑に組み上げていく手法は、その大胆さと技術力で見る者を圧倒する。それは絵巻物に描かれている『吹抜屋台』の建築を現出化させた物であり、彼のイマジネーションのフィルターを通した架空の日本建築である。
また野外での実験的展示は、建築的要素を分析的に行っており、自身の表現としての殻を次第にやぶっていくようである。現在「シャトル・ギャラリー」という自作の組立式のギャラリーによるユニークな展覧会を全国展開中である。地域に向き合い、またこれを機会に旧跡や寺院を訪れて自身のデーターベースづくりをしているようである。
2010年代に入ると、木材を使って実際に構造物を作り、次第に作品が大型化している。野外作品が多くなり、建築物のような規模である。周囲の環境に合わせて、新たなる関係や繋がりを再構築している。


中村善策

1901年:北海道小樽市に生まれる。
1916年:小樽洋画家研究所に入所。
1924年:上京し、川端画学校に通学、中央美術展に入選。太地社結成に参加する。
1925年:二科展入選。以後、1936年まで毎年出品。北海道美術協会展(道展)創立会員。
1931年:東京へ転居。
1936年:第23回二科展出品作「白い燈台」「獨航船」が二科展特待受賞。
1937年:一水会展昭和洋画奨励賞受賞。一水会会員。
1941年:第4回新文展「豊穣」が無鑑査。
1945年:長野県明科町(現・安曇野市)に4年間の疎開。
1946年:一水会委員。日展出品。以後、毎年出品。
1948年:旧・文部省が作品を買い上げる。
1950年:東京都新宿区上落合に転居。
1961年:東京国立近代美術館が作品を買い上げる。
1967年:第10回日展「石狩湾の丘の邑」で文部大臣賞受賞。
1969年:第11回日展出品作「張碓のカムイコタン」で日本芸術院賞受賞。日本芸術院が作品を買い上げる。
1978年:勲四等旭日小綬章受章。
1980年:日展参事。
1983年:脳血栓により東京都千代田区の病院で死去。享年81。
1988年:小樽市立小樽美術館に「中村善策記念ホール」開設。


難波田龍起

北海道旭川市生まれ。1923年早稲田第一高等学院に入学、高村光太郎に出会って美術に関心を抱く。早稲田大学政経学部中退。川島理一郎に師事し、
1929年国画会に初入選。1935年フォルム展、1936年アヴァンギャルド芸術家クラブ結成に参加する。1937年には自由美術家協会の創設に参加し、1938年に同協会会員となる。
戦後は、戦後抽象画家として活動、現代日本美術展や日本国際美術展などでも活躍した。1959年に自由美術家協会を退会し、以後は個展を中心に活動した。
1971年、紺綬褒章受章(以後5回受章)。1987年、東京国立近代美術館で『今日の作家 難波田龍起展』を開き毎日芸術賞を受賞。1996年に文化功労者として表彰された。


長谷川?二郎

1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。
長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。
旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
1931年、画の勉強のためパリへ渡る。数年滞在する予定だったが約1年で帰国。1988年、84歳で死去。


福井爽人

旭川市新町で福井貞一・チエの長男として生まれる。1939年より小樽市潮見台、1954年より琴似町字東牧場に住む。
北海道小樽潮陵高等学校から北海道札幌北高等学校に転入して卒業後、日本大学芸術学部に進学するが、東京芸術大学助手だった平山郁夫との出会いから芸大進学を決意。
1961年に東京芸術大学美術学部日本画専攻に進学。芸大時代はボクシング部に所属するなどスポーツマンだった。同大学院修士課程修了後、芸大助手となり法隆寺金堂壁画再現模写に参加。
1973年、イタリア初期ルネサンス壁画調査団員として初渡欧。1983年日本美術院同人、2002年に理事。
1991年から母校の日本画科教授を務め、2005年に退官、名誉教授。
1980年代より中国・インドなどを度々旅行、静かで穏やかな東洋の美を追い続ける。代表作に「桜島」「古陽」「夜のオアシス」「秋影」「城下」など。


松樹路人

1927年 北海道羽幌町に生まれる。
1941年 東京に転居。東京府立第十五中学校(現・東京都立青山高等学校)に編入
1944年 東京美術学校入学、梅原龍三郎に学ぶ
1949年 東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科卒
1950年 独立展初入選
1960年 独立美術協会会員
1971年 武蔵野美術大学助教授、稲城市にアトリエを持つ
1973年 第16回安井賞展佳作賞
1977年 武蔵野美術大学教授
1981年 第4回東郷青児美術大賞
1986年 蓼科高原にアトリエを持つ
1987年 第5回宮本三郎記念賞
1991年 芸術選奨文部大臣賞
1996年 武蔵野美術大学退任
2005年 旭日小綬章叙勲
武蔵野美術大学名誉教授
独立美術協会会員
札幌武蔵野美術学院名誉学院長


松島正幸

1910年、北海道雨竜郡一己村の屯田兵の家庭に生まれる。その後札幌市に移住。上京し、画家を志す。
1930年、『花を持てる少女』で二科展に最年少で入選。 1935年、石見浜田藩主松平家9代当主松平武修の長女・松平鈴子(花を持てる少女のモデル)と大恋愛の末結婚。 同年生まれた息子が昭和40年代頃に前衛画家であった交楽龍弾(まずらりゅうだん、本名松島正迪、のち松平武龍と改名)。
1930年代後半、従軍画家としてハルビン・大連などの風景をスケッチし、作品として仕上げる。
1941年、『ハルビンの舗道』で独立美術協会賞受賞。
1940年代前半、第二次世界大戦激化につき札幌に疎開。
札幌、小樽を中心にスケッチを続けて、多数の作品を仕上げる。『札幌雪日』などが代表格。
再び上京し、北は北海道から南は鹿児島県まで日本全国を精力的に描き続ける。 1960年代後半より、北海道教育大学(岩見沢分校・札幌分校)の非常勤講師を務める。
ヨーロッパで毎年一定期間の滞在をし、『アイガー北壁』『モンマルトル』『巴里の教会堂』などの作品を残す。
最晩年は、体調を崩し、度重なる脳梗塞で、次第に体の自由を奪われてゆく。
かつて勤務した北海道岩見沢市にできた絵画ホール・松島正幸記念館、出身地の深川市・JR深川駅前に新設のアートホール東洲館に多数の作品を寄贈。
1999年10月29日、肺炎をこじらせ亡くなる。


丸木俊

北海道雨竜郡秩父別町生まれ。旧本名は赤松俊子(あかまつ としこ)。庁立札幌高等女学校、女子美術専門学校卒。二科展に出品、1933年から1937年まで小学校の教員を務める。
1941年、丸木位里と結婚。1941年から1946年まで美術文化協会展に出品。浦和画家など多くの画家が住む埼玉県浦和市に疎開していたが、原爆投下後に広島へ赴き、救援活動を行い夫とともにその惨状を目撃し、以後2人で原爆の絵を描き続ける。
女流美術家協会、十一会に所属。
1946年に日本共産党に入党。いわさきちひろを指導、デッサンなどに強い影響を与えた。1953年、世界平和評議会より国際平和賞を夫婦で受賞。
1964年に部分的核実験停止条約の評価を巡り共産党を除名される。1966年に埼玉県東松山市に移住し、翌年に原爆の図丸木美術館を開設。
1995年にノーベル平和賞候補に選ばれたとされ、翌1996年に朝日賞を受賞。
遠縁の親戚としてNHKアナウンサーの赤松俊理がいる。


三岸好太郎

北海道札幌区(現 札幌市)出身。祖父・梅谷十次郎は元御家人で、石狩の漁村厚田村の網元だった(子母澤寛の項に詳しい)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
1916年に父を亡くしてからは母イシが質屋に住み込みで働き始め、札幌で所帯を持っていた異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛)に育てられる。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を卒業後、画家を志して1921年に上京。1923年、第1回春陽展に『檸檬持てる少女』が入選。翌1924年、第2回春陽展に『兄及ビ彼ノ長女』などを出品、春陽会賞を主席で受賞。同年、吉田節子と結婚。初めアンリ・ルソー風の素朴な画風から出発し岸田劉生の東洋趣味への傾倒を経て、やがては中国旅行(1926年)の体験を元にしたエキゾティックでロマンティシズム溢れる画風に転じた。
1930年、福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加する。最年少の会員となり、独立展で『面の男』など道化をモチーフにした作品を数多く発表した。この頃から画面は、ジョルジュ・ルオー風のフォーヴィズムの影響が顕著になって来る。さらに、1932年に開催された「巴里・東京新興美術同盟展」に衝撃を受けたことを契機に三岸のその画風は前衛主義に急速に接近して行った。
抽象形態を構成した『コンポジション』や線条様式の『オーケストラ』などの試作により純粋主義・機械主義を賛美した三岸はその後シュルレアリスムに移行し、1934年に連作「蝶と貝殻」シリーズを発表する(死後の世界をイメージしたものとも言われる)。中でも『海と射光』は単純化した構図に白日夢のような幻想的な光景を現出し、乾いたエロティシズム・東洋的な叙情をも漂わせた晩年の三岸の代表作と言ってよい作品である。その後も三岸は精力的な活動を続けたが、同年7月に旅行先の名古屋で胃潰瘍で吐血し、31歳の短い生涯を終えた。
三岸は村山槐多・古賀春江らとともに詩作も行う画家として知られ、散文詩『上海の絵本』、『蝶と貝殻』などの作品を残している。三岸ならではの色彩感と唯美性、そして硬質な叙情といったものが、これらの作品の特色をなしている。創作を「主観的感情の表現」と定義づけた三岸にとって、絵画と詩は互いに補完し合う関係であったものと思われる。
死後75年経った2009年6月、妻・節子のアトリエで、三岸の最晩年の作品と見られる油彩画が発見された。


山口蓬春

1913年に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。松岡映丘に師事し、大和絵を習得。
1923年卒業、1924年新興大和絵会に参加する。1926年帝国美術院賞受賞。1929年帝展審査員。1950年日展運営会参事、日本芸術院会員、1954年日展運営会理事
1958年日展常務理事、1965年文化勲章受章、文化功労者。1969年日展顧問。
画風は西欧絵画の日本的表現と見られる。


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