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山口県について

本州最西端に位置しており、三方を海に囲まれている。山口県土の大半は山陽地方に含まれ、北浦地区(萩市・長門市など)が山陰地方の西端に当たるとされる[1]。県庁所在地は県央部の山口市だが、山口県内最大の都市は県西端に位置する下関市である。また、県西部(下関市など)は福岡県との繋がりが密接であり、県東部(岩国市など)は広島県との繋がりが密接である(詳細は後述)。令制国の長門国と周防国に相当するので、防長(ぼうちょう)という別名を持つ。周防国と長門国は後に毛利氏により統治され、江戸時代には、併せて長州藩と称していたことから、長州(ちょうしゅう)と呼ばれる。

山口県魚に指定されているふぐは南風泊市場(下関市)が日本一の市場取扱量を占めている。地元や周辺地域では、主に取扱業者やマスコミが、 縁起を担いでフグとは呼ばず「ふく」と呼ぶ(ふぐが「不遇」に繋がり、ふくが「福」に繋がるためとされている)呼び方を定着させようとしている(下関とふく参照)。ふぐの他にも海産物の資源が豊富である。

山口県はインテルサットのインド洋経由の欧州向け、太平洋経由の米国向けの両方向への通信が可能な位置にあり、KDDI山口衛星通信センターが山口市にある。当センターではインテルサット・インマルサットのサービスをしているが、その他、スカパーJSATが SUPERBIRD の地上局(山口ネットワーク管制センター)、自治体衛星通信機構の地上局(山口管制局)も立地している。後者については、全国瞬時警報システムなど最重要ミッションを運用している。

南側を瀬戸内海(広島湾・伊予灘・周防灘)、西側と北側を日本海(響灘)と、三方を海に囲まれ、その中央部を中国山地が横断している。中国山地に水源を発する河川として、一級水系の佐波川および小瀬川、二級水系の錦川、椹野川、厚東川、木屋川、阿武川等がある。平野部が小さく、瀬戸内側の一部(主要河川の河口部並びに周南地区)を除けば山に囲まれた谷底平野が多く存在する。

山口県は7世紀には周防、長門の二つの国でした。
中世には大内氏が二国を平定し、大陸貿易で財力を蓄え、大いに栄えました。
その後、歴史的名将毛利元就が中国地方全体を領地としました。
しかし関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、その結果毛利氏の領地は山口県域に削られてしまいました。

山口県が歴史的に脚光を浴びるのは幕末です。
吉田松陰などの優れた人材を輩出し、薩摩藩と共に明治維新の実現に中心的な働きをしました。
明治時代、廃藩置県により山口県が誕生しました。
大正期にかけて、県内の石炭やセメント産業、瀬戸内地域の重工業が発展しました。
第二次大戦後には石油化学コンビナートが建設されました。

画家について

・香月泰男
開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。
山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
1945年、ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。
1947年、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。
1948年、郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合)に転任。
1960年、大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念していたが、1966年に九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
1969年、「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞する。
1974年、三隅町の自宅で心筋梗塞のため62歳で死去した。
没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されている。

・狩野芳崖
1828年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信(さつしん)の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。

芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。少年時代の作品は10点近く現存しており、早熟の才能を示している。弘化3年(1846年)19歳で、父も学んだ木挽町狩野家に入門、勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)に学ぶ。嘉永3年(1850年)には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。

その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。安政4年(1857年)近郷の医師の娘よしと結婚。幕末の動乱期には、戦勝祈願の絵馬「武内宿禰投珠図」(忌宮神社蔵)や、「馬関海峡測量図」(下関市立長府図書館蔵)を描くなど、当時の社会と密接した芳崖の活動がうかがえる。この頃、自ら旧套を脱し一頭地を出る意味を持つ雅号を探り、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた伝えられる。

明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。

同じ年に生まれ、同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人の美術史家フェノロサとの出会いが重要であった。日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。鮮やかな西洋顔料を取り入れた「仁王捉鬼図(におうそうきず)」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となった。フェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。

フェノロサと知り合った明治15年(1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。墓所は東京谷中の長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関の覚苑寺には、芳崖の座像がある。

弟子に、芳崖四天王と呼ばれた歴史画を良くした岡倉秋水(岡倉覚三(天心)の甥)、山水画に特色がある本多天城、「仏画師」と称した高屋肖哲、草花図を得意とした岡不崩など。芳崖死後、明治29年の『太陽』(二巻二号)には、河鍋暁斎、菊池容斎と共に「近世の三大画家」と紹介されているが、芳崖本人は彼らの画に不満だったらしく、「北斎や暁斎は腕が余り達者過ぎて下品なものになったのだ。容斎や是真なども器用が過ぎたのである」と弟子の岡不崩に漏らしている。

・小林和作
1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。京都市立美術工芸学校卒。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒。同校在学中、弟四回文部省展覧会(文展)に初入選。

1918年(大正7年)、日本画から洋画に転向し、1920年(大正9年)鹿子木孟郎の画塾に通う。翌年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1924年(大正13年)、第2回春陽会に「夏の果実」を出品し初入選。

1927年(昭和2年)、春陽会会員となる。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)まで渡欧。1934年(昭和9年)春陽会を脱会し独立美術協会会員となり、広島県尾道市に移り住む。以後亡くなるまで40年間尾道にあって創作活動を続ける一方、地方美術界に於いて指導的役割を果たす。また文化の振興にも意を注ぎ、物心両面から援助した。これらの功績から1952年(昭和27年)中国文化賞、1953年(昭和28年)芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46年)勲三等旭日中綬章などを受けた。尾道市名誉市民、秋穂町名誉町民。

広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、訪れていた郷里の山口から午前4時の汽車で尾道に帰る予定だったが、急用ができたため午前8時に乗車。その15分後に原爆が投下され汽車が緊急停車し、被爆の難を逃れている。

1974年(昭和49年)、広島での写生旅行中に誤って転倒し、頭を強打して死去。享年86。命日の11月4日には毎年、西國寺で和作忌が開かれている。

「天地豊麗」という言葉を好んで使った。

・高島北海
長州阿武郡(現・山口県萩市)出身、萩藩の藩医の子(幼名:和三郎)として生まれ、学んだ明倫館では、9歳(当時)で下郷していた後の陸軍大将・乃木希典との交友もあった。

長じては、明治新政府の工部省に入省し、明治5年(1872年)から4年間(22-26歳)、兵庫県・生野銀山の鉱山学校に赴任、フランス人技師長のジャン=フランソワ・コワニェらお雇いフランス人よりフランス語と地質学・植物学などを学ぶ。明治7年、地質図としては日本初の「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著す。内務省地理局・農商務省山林局に勤務を経て、明治17年(1884年)政府の命により万国森林博覧会参加要員として渡英、ヨーロッパ各地の森林視察の後、翌年フランスに行き「ナンシー水利林業学校 」に3年間在学(35~38歳)、専門の植物地誌学を研鑽する。

卒業したナンシーの学校には、高島の写った卒業写真とともに、彼が描いた植物の細密画や写生画が保存され、ナンシー派美術館には彼のレリーフ(ビュシェール作)が飾られる。また、1886年のフランス東部美術展に日本画を出品、現地の高い評価を受け、その絶賛は日本にも報道された(*別添記事)。パリ装飾美術館長の依頼でリモージュ美術館に作品を寄贈し、1887年にはフランス政府より教育功労章を授与され、100年の後になって1987年(昭和62年)、日本で開催された「ナンシー派アール・ヌーボー展」では「日本とナンシーを結んだ人物」との市長メッセージが寄せられた。

(*現地の絶賛を伝える報道記事:出自不詳)
「タカシマは花卉枝葉の美麗、即ち植物の真状を写し出すことに卓絶し、想像画家と自然画家とを兼ねるものは、日本人より他にあらざるが如し。而してこれを実行し得る者は、日本人にして森林家たるタカシマ氏、実に其の人なり・・・。」
明治21年(1888年)同校を修了、帰国する。その後、10年あまり専門の林野行政に携わりながら(明治27年山林局林制課長)、公務の合間に山岳を写生し、自修にて山水画の研究を進め、日本美術協会展に出品、明治28年『連峯紅葉』が銀杯を受賞する。47歳で公職を辞して郷里の長府(現・下関市)に隠棲するが、明治35年(1902年)52歳で再び上京、雅号を「北海」として中央画壇での活動を本格的に始める。

明治36年(1903年)にはロッキー山脈写生、翌年はセントルイス万国博覧会のために渡米、明治39年(1906年)には中国を旅行し山水画の本場を取材する。また前後して、画論『写山要訣』(36年)、画集『北海山水百種』(39年)を刊行。第40回日本美術協会展(39年)にて『秋澗暁霽』で二等賞銀杯、東京勧業博覧会(40年)に『水墨山水』で一等賞牌を受賞など、精力的な活動を行いながら、明治40年(1907年)の文展開設では旧派の正派同志会の結成に幹事として参加、翌年の第2回文展から大正6年(1917年)まで審査員を務め、その間『蜀道七盤関真景』『峭壁摩天』『朝鮮金剛山四題』などの大作を出品する。

大正12年(1923年)、関東大震災を機に長府に戻り、図画教師の傍ら、画業を続けながら長門峡など山口県の名勝地の開発や紹介に努めた。昭和5年(1930年)、東京・品川の子息の元に身を寄せ、昭和6年(1931年)没、享年80。

・難波平人
1941年に山口県熊毛郡上関町白井田に生まれる。1964年には広島大学教育学部美術科を卒業する。翌年には同大学の研究生を修了。後に広島大学大学院教育学研究科造形芸術教育学講座の教授として後身を育成する。2004年、広島大学退官記念の作品展を東京芸術劇場、広島県民文化センターで開催。

現在は、二紀会委員、広島大学名誉教授、日本美術家連盟会員、中国新聞情報文化センター講師、NHK広島文化センター講師を務め、波の会を主催している。

1975年に第18回安井賞展に出品し、受賞候補となる。以後6度出品する(1980年、1984年-1986年、1990年、1991年)。1976年には第12回現代日本美術展、西日本美術展に出品する。また、シェル美術賞展で佳作賞を受賞(1979年に再び出品)、日仏現代美術展2等賞を受賞(1977年に佳作賞を受賞)する。

1979年、第14回昭和会展に出品(1981年、1982年にも出品)する。第33回二紀展に初出品、以後毎年出品する。1980年に第13回日本国際美術展に出品する(1982年、1986年)。1981年、第3回明日への具象展へ招待出品。さらに、第1回東京セントラル美術館油絵大賞展へ招待出品。

1983年に第37回二紀展同人賞を受賞(以後、宮永賞・会員優賞・鍋井賞・栗原賞を受賞)。

1986年にはヒロシマアートグラント'86を受賞し、受賞記念個展を広島福屋で開催する。1987年、現代の美術・今日の情況展に出展する(1991年、1995年、1999年、2003年)。

1990年には広島市南区民文化センター胸板壁画を製作、1994年に文化庁の第27回現代美術選抜展へ招待出品。また、同年広島で開催されたアジア大会広島公式記念メダルデザインを製作する。1995年には文化庁芸術家特別派遣のため翌年までトルコへ行く。その際、アンカラ大学、ガジ大学で個展を開催する。

1996年には帰国記念個展を三越広島店で開催。また、文部省在外研修員派遣のためフランス、イタリアへ赴く。1997年には『トルコ83日の旅』出版記念展を三越広島店で開催。1999年、『フランス・イタリア美術紀行』出版記念展を三越広島店で開催する。

2001年、個展「世界の集落・遺跡-光と影」を千代田楠苑で開催する。2002年には防府天満宮「平成手鑑展」作品を奉納。また、向原の願舩寺本堂襖絵の制作を手掛ける。同年には広島文化賞を受賞。2004年、広島大学を退官。退官記念大作展が開かれる。

・松林桂月
萩市中渡(現・山田)出身。尋常小学校卒業後、地元の素封家・瀧口吉良の援助を受けて上京。1894年野口幽谷に師事。南画の表現に新たな世界を開拓し、南画界の重鎮と言われる。官展の中心画家で、1906年日本南宗画会を結成。1919年帝展審査員、1932年帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1944年7月1日帝室技芸員[1]。戦前の40代後半から60代にかけてが桂月の最盛期で、力作の多くがこの時期に描かれている。桂月作品の特色である、右上から左下に向かう構図法がはっきり現れるのもこの頃である。

1947年日中文化協会理事、1948年日本美術協会理事、1949年日展運営委員会常任理事、1954年同理事。戦後日展に書が加えられたのは、桂月の働きかけが大きいという。ただし桂月自身は、戦後の前衛書道は評価しなかった。1958年文化勲章受章、文化功労者、日展顧問、1961年日本南画院会長。死後従三位勲二等旭日重光章受章。 弟子に白井烟嵓・大平華泉・西野新川などがいる。

・森寛斎
長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。出生地は萩の雁島とされ、現在「贈正三位森寛斎誕生地」碑が建てられているが、防府生誕説もある。1825年(文政8年)12歳の時、萩浜崎の万福寺の寺侍で、作風から円山派に影響を受けた太田(田)龍について絵を習う。1831年(天保2年)18歳の時大坂蔵屋敷の検使役となった戸田九郎左衛門に従って上坂、森徹山の門に入る。しかし、一年も経たないうちに戸田が病気にかかってので、寛斎も戸田とともに帰郷する。1838年(天保9年)再び上坂するが、徹山はその頃京都にいたので、上洛し再入門を果たす。1840年(天保11年)師徹山は四条派に押され衰退に向かっていた円山派を再興するため、表向きは徹山の実子として、実際は一鳳の弟として徹山の養子となった。翌年、徹山が亡くなると一時京都を離れ、四国や中国地方を遊歴し、この頃から南画の画風も身につけ始めたという。

幕末の政情不安が起こると、長州人の寛斎も火中へ飛び込んでいく。絵師としての身分や表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にしたという。その中には山縣有朋や品川弥二郎などもおり、特に品川との交流はその後も長く続き、品川から寛斎へ宛てた手紙が多く残っている。また、北垣国道は生野の変後に長州に潜伏中、間諜と間違えられ首を刎ねられそうになるも、たまたま通りがかった寛斎の取り成しによって生き延びた。北垣はこれを深く感謝し、後年になっても任地先からしばしば酒を贈っている。寛斎自身も京都の様子を伝えるため、何度も長州と京都を往復し、一時は新撰組の関三十郎からも命を狙われたという。とはいえ、完全に絵筆を捨てたわけでは無かった。1855年(安政2年)の御所造営でに一鳳と共に参加し、寛斎は常御殿の杉戸絵に「帰去来」「赤壁」を描き、各地でこの頃の作品が確認されている。例えば徹山が出入り絵師を務めていた金毘羅神社との関係を引き継いでしばしば訪れ、応挙の障壁画などを補修しつつ、その画技を学ぶ。また数度に渡って倉敷の素封家萩野家を訪ねており、同じ倉敷にある野崎家塩業歴史館に寛斎の作品が数十点所蔵されている。こうした活躍からか、1865年(慶応元年)萩藩には25俵で召し抱えられ藩の御用絵師となるが、1870年(明治3年)絵に専念するため賞典返上帰商願を藩に提出。藩はこれを認めて恩典に金100両を贈り、寛斎はお抱え絵師の身分を離れて上洛する。

明治以降は京都に永住し、幕末期に志士とともに国事に奔走した面影はなく、悠々と絵三昧の生活をおくる。塩川文麟らと如雲社に参加、文麟没後、同社および京都画壇の中心的存在となる。内国勧業博覧会など各種博覧会にも数多く出品し、しばしば高い賞を受けた。1880年(明治13年)京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)設立に伴って出仕となり、2年後には実際に画学講座を担当している。1890年(明治23年)10月2日には帝室技芸員を拝命。1894年(明治27年)前年に患った肺炎が再発し、室町二条の自宅で没する。享年81。墓所は清閑寺霊山町神葬墓地。死にともない『京都美術協会雑誌』は、「今此の明治の応挙を失ひたるを悼む」と、その死をおくった。

応挙以後の円山派は、対象の形を写し取ることにとらわれ、次第に形骸化していった。そこで寛斎は、南画を手本に滲みや掠れといった墨の多彩な表現を取り入れた雅趣に富む筆法を追求し、単なる写生に留まらない臨場感ある表現を追求した。

子は無く、弟子の森雄山、森直愛、森松雨(西川貞吉)を養子にした。門下に野村文挙、山元春挙、巌島虹石、奥谷秋石らがいる。

・横山沙季
日本の水彩画画家である。山口県宇部市出身、現在は山口県宇部市で活動中。銀の鈴社から出版されている2014子どものための少年誌集に参加し作品を掲載している。この少年誌集は全国の図書館、市町村の副教材冊子などへ配布されている。

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