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佐賀県について

佐賀県の形は、凹凸のある逆三角形に近い。北西部はリアス式海岸と砂浜の玄界灘、南東部は干潟と干拓地の有明海という、海岸の様子が全く異なる2つの海に接している。有明海沿岸から筑後川沿いには県の面積の3割を占める佐賀平野が広がり、玄界灘から佐賀平野西部までは杵島丘陵などの丘陵地帯である。北東部に脊振山地、南西部に多良岳山系といういずれも1,000m級の山地があって丘陵地帯を挟んでいる。

人口が多いのは佐賀市(約24万人)、唐津市(約13万人)、鳥栖市(約7万人)などであるが、小規模な都市が多く点在し経済的・人口的に求心力の強い都市が無いという特徴がある。県面積の3分の1を占める南東部の佐賀平野に県人口の半数である40万人が暮らしている。玄界灘沿岸や杵島丘陵の盆地にも人口集積があって平地に偏っていることを除けば人口分布に大きな偏りはない。2005年の国勢調査によれば、総人口に占める DID(人口集中地区)人口の比率が28.4%と島根県に次いで47都道府県中2番目に低い。人口が都市に偏らず比較的分散している傾向にある。土地利用の特徴として耕地が県面積の39%に上り国内平均の2倍と高い割合である一方、森林・荒地は同49%と国内平均の7割に留まっている。相対的に平野の割合が高いという地形の影響が現れている。

県北東部を東西に連なる脊振山地は唐津市浜玉町から鳥栖市までその稜線が福岡県との県境になっている。鳥栖市で山脈は途切れるが、その延長線には福岡県の耳納山地が延びている。鳥栖市・基山町は隣接する久留米市とともに山地の合間にあり、北の福岡平野と南の筑紫平野を結ぶ道路網・鉄道網の分岐点となっている。交通の要所かつ工業地域で福岡都市圏のベッドタウンでもあるため、住宅開発が進んでおり人口減少が続く県内では例外的に人口増加率が高い。山地は南方に広がっていて、県中央部に位置する天山まで連なっている。

脊振山地の南麓は緩やかな洪積台地からなる細長い丘陵地帯で、それより南側には幅の広い平坦な沖積平野である佐賀平野が東西に広がっていて県の東部から中央部を占める。佐賀平野は筑紫平野の西半分を指す別名で、古くより穀類の生産が多い穀倉地帯である。筑紫平野の中央を縦断する筑後川が福岡県筑後地方(筑後平野)との境である。平坦な低地が内陸まで広がり大小多数の河川が流れるため20世紀半ばまで洪水被害が頻発していたが、治水が進んだことにより現在は被害が大きく抑えられている。佐賀平野の南には有明海があり、遠浅の広い干潟が広がり干潟独特の生物相がみられる。沿岸には江戸時代以降の干拓により造成された地域が分布している。県内の干拓面積は江戸時代から累計100km2前後に達しており、佐賀平野の1割・県面積の4%程度に達する。

北西部は日本海と東シナ海の接続水域である玄界灘に面する。海に突き出た東松浦半島(上場台地)や北松浦半島は玄武岩で構成された溶岩台地であり、温暖で部分的に照葉樹林も分布する。リアス式海岸で半島や離島が点在、唐津湾や伊万里湾には砂浜が分布する。この一帯の海岸沿いは玄海国定公園に指定され、唐津城や呼子などの観光地がある。

玄界灘沿岸の河口低地より南側、県南西部には杵島丘陵が広がり、長崎県との県境をなす多良岳山系へと続く。杵島丘陵には芳ノ谷層(始新世)や佐世保層群(漸新世後期)の石炭を含む層(挟炭層)があり、かつて炭鉱として栄えたが閉山により急速な地域衰退と人口減少を経験した。また、有田泉山で陶石が採れたことをきっかけに創始された伊万里焼(有田焼)は、県を代表するブランドである。武雄温泉や嬉野温泉などの温泉街も点在する。

多良岳が活動していない火山であるほかは、県内に火山はない。地震の被害を受けることは少ないが、梅雨などの大雨による洪水、台風の被害は多い。また、森林面積の3割強を占める自然林・二次林のほとんどが常緑広葉樹林で、玄界灘沿岸部には照葉樹林も見られる。残りの7割弱はスギとヒノキを中心とする人工林で、森林面積に占める人工林率66%(2002年)は日本の都道府県の中で最も高い。

唐津市・東松浦郡は、虹の松原、七つ釜の海食洞、リアス式海岸、クジラのように急峻にせり出す形状の島々など、玄界灘・唐津湾に面した海沿いの自然景勝地として知られ、海水浴やサーフィン、ダイビングといったマリンスポーツなどが盛んである。また鏡山や丘陵地帯・海岸部の棚田などの自然景勝がみられるほか、丘の上に建つ唐津城、名護屋城跡(博物館)などの文化財が観光地となっている。11月上旬には日本三大くんちの一つである唐津くんち(唐津市)、6月上旬には呼子大綱引(唐津市呼子町)が行われるほか、呼子の朝市も有名である。

伊万里湾も同様に、湾口部のいろは島やリアス式海岸が特徴的な景観で、海水浴地でもある。10月下旬には伊万里トンテントン祭りが行われる。また、伊万里市・有田町・武雄市の黒髪山周辺は奇岩のなす地形や豊富な植物、各種伝説などで知られる。また、有田町を中心とした地域には有田焼(伊万里焼)、唐津市・伊万里市・武雄市を中心とした地域に唐津焼の、それぞれ古い窯跡や現存する窯元が数多く分布していて陶磁器にまつわる名所が多い。九州陶磁文化館、有田陶磁美術館、有田ポーセリンパークなどの文化施設もあるほか、ゴールデンウィークには有田陶器市が開かれ多数の客で賑わう。

日本三大美肌の湯である嬉野温泉(嬉野市)温泉は湯豆腐や嬉野茶でも有名で、武雄温泉(武雄市)は楼門と武雄温泉新館が国の重要文化財に指定されており、それぞれ趣の異なった温泉街として賑わう。

一方、県庁所在地佐賀市は平坦な田園地帯の中にあり、城下町時代の名残のある込み入った街路や水路網などの景観が特徴的である。江戸-明治期の建物が残る佐賀市歴史民俗館、佐賀城跡と佐賀城本丸歴史館、佐嘉神社、反射炉跡などの歴史遺産が点在する。10月下旬から11月上旬には佐賀インターナショナルバルーンフェスタが開かれ、熱気球が舞う光景が広がるほか、8月には佐賀城下栄の国まつりが開催される。

県南部一帯には泥質干潟の有明海が広がり、玄界灘や伊万里湾とは大きく異なった景観となる。ムツゴロウ、シオマネキなどの希少生物や、紅葉のように変化するシチメンソウなどが見られる。また5月頃には鹿島ガタリンピック(鹿島市)が開催される。

県北部の北山ダム(佐賀市三瀬村)は避暑地となっており、どんぐり村などが観光地として整備されている。嘉瀬川を下って行くと古湯温泉や熊の川温泉(ともに佐賀市富士町)、川上峡などのスポットが点在する。

吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町・神埼市)は、一部で発掘を継続しながら国営吉野ヶ里歴史公園として復元整備されている。

画家について

・中島潔
1943年、旧満州国において父・峰雄、母・ウメ子の間に生まれる。1歳の時両親の故郷の佐賀県へ戻る。

1961年、佐賀県立唐津西高等学校卒業。母の死後2か月で再婚をした父への反発から家を出て、伊豆下田で温泉掘りの仕事をする。独学で絵を学び、その後印刷所、広告会社などで働く。

1971年、パリへ行き、半年間絵の勉強をする。

1976年、独立しフリーになる。

1982年、みんなのうたの『かんかんからす』のイメージ画を担当し話題になる。同年9月に初の個展を開く。

1987年、『木霊みょうと』で、ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞。

1990年、中国文化庁の招きで北京で個展を開く。

1999年、港区広尾に「ギャラリーうめ吉」をオープン。(2011年3月現在、整備のため休館中)

2001年、パリ、三越エトワール美術館にて「風の画家中島潔の世界・童画でつづる三十年史」展を開く。

2010年、清水寺成就院に、「かぐや姫」「風の故郷」「大漁」など、46面の襖絵を奉納。

2015年、京都の六道珍皇寺に「地獄心音図」の連作5枚を奉納。同寺にて「中島潔 地獄心音図 完成特別公開 -親から子へ、いま伝えたいこと‐」を開催。

・池田幸太郎
(1895年 - 1976年)佐賀県出身であり、昭和中期に近代画壇で活躍した日本の画家。
(1904年 - 1989年)政治家。北海道名寄市元市長。⇒池田幸太郎 (首長)

・岡田三郎助
1869年 肥前佐賀藩の名家であった石尾家に生まれる。幼名は芳三郎。
1887年 岡田家の養子になり洋画家・曽山幸彦の画塾に入門、曽山の逝去後は堀江正章に学んだ。
1892年 洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受ける。
1893年 大幸館規定の科目を卒業。卒業制作は『矢調べ』。
1894年 久米桂一郎の紹介で黒田清輝を知る。
1896年 久米桂一郎、黒田清輝とともに白馬会の創立に参画する。
1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランに師事する。
1902年 帰国し、東京美術学校の教授に就任する。
1906年 小山内八千代と結婚。
1907年 東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受ける。文展の審査員に選ばれる。
1912年 藤島武二と本郷洋画研究所を設立。
1913年 久米桂一郎等と共に佐賀美術協会を設立。
1919年 高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成に加わる。帝国芸術院会員となる。
1926年 妻・八千代と別居。
1930年 文部省より欧州出張を命じられ渡欧。11月帰国。
1933年 桃の花の咲きみだれる北信濃の地を訪れ、その地を「丹霞郷」と名づける。
1934年 12月3日 帝室技芸員
1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術院会員となる。
1939年 9月23日自宅で死去。
1940年 岡田三郎助遺作展覧会を東京府美術館、大阪市天王寺美術館で開催。
2016年 岡田三郎助、妻八千代、辻永の姿が生前16ミリフィルムで撮影されたものをもとにドキュメンタリー映画「あるアトリエの100年」が山崎欽毅監督らによって製作された。

・百武兼行
幕末・明治維新を経て1871年(明治4年)岩倉使節団を皮切りに計3回渡欧し、この滞欧期間中に洋画を学び製作活動を行う。本来は画家ではなく外務書記官であり、また帰国後には農商務省へ出仕した政府役人である。そのため日本美術史において日本人初の洋画家として評価が確立されていない。

また、日本人で最初にオックスフォード大学へ留学した人物の一人でもある。

百武兼貞の次男として1842年(天保13年)佐賀城下片田江に生まれる。幼名を安太郎。父兼貞は佐賀藩京都留守居・有田皿山代官などを務め、有田にゴットフリード・ワグネルを招くなどして磁器製法の改良に尽力した佐賀藩士でもある。

百武兼行が8歳のとき、幕末の四賢侯の一人として名高い肥前国佐賀藩10代藩主鍋島直正(鍋島閑叟)から鍋島直大(後に11代藩主)のお相手役に選ばれ、4歳年少の直大からは兄のように慕われ信頼される。

・池田学
1973年、佐賀県多久市に生まれる。佐賀北高校芸術コースを卒業。東京藝術大学美術学部デザイン科卒業後、2000年に東京藝術大学大学院修士課程修了。2001年、「再生」が第4回はままつ全国絵画公募展大賞ならびに佐賀銀行文化財団新人賞を受賞。2011年より文化庁芸術家在外研修員としてバンクーバーに滞在し、2013年よりアメリカ・ウィスコンシン州マディソンにあるチャゼン美術館(英語版)にて滞在し、制作を行っている。

2000年から朝日新聞で法廷画家をしていた時代があり、オウム事件やライブドア事件などの法廷画を描いている。

・池田龍雄
佐賀県西松浦郡二里村(伊万里市二里町)に生まれる。父は清、母はチサ、五男二女の長男。

1935年(昭和10年)4月には佐賀県二里尋常高等小学校に入学する。同年秋には福岡日々新聞社(現在の西日本新聞社)主催の児童スケッチ大会において三等銅メダルを受賞している。幼少期には『子供の科学』に親しみ、自然科学に関心を持ったという。

1941年(昭和16年)4月には佐賀県立伊万里商業学校へ入学する。1943年(昭和15年)には海軍航空隊に入隊し、第13期海軍飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に配属される。

1945年(昭和20年)2月には飛行練習生過程を修了し、岩国航空隊へ移る。同年4月特攻隊員となり、同年5月には霞ヶ浦航空隊へ移動する。同年8月には終戦となり、除隊して佐賀へ戻る。

同年11月15日には佐賀師範学校本科1年に編入されるが占領政策により一年で退学となる。1946年(昭和21年)8月には長崎県佐世保の進駐軍キャンプ設営地で働く。1948年(昭和23年)には上京して多摩造形芸術専門学校(多摩美術大学)へ入学する。同級生には桂川寛、森正洋らがいる。独学で油絵を学んでいたが、同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩む。

1950年(昭和25年)の朝鮮戦争を契機に社会意識を強め、絵画において実際の事件・政治問題に取材したルポタージュの可能性を探る。1954年(昭和29年)には読売バンデパンダン展に内灘闘争を描いた「網元」を発表する。50年代には小型ペン画の制作を行い、50年代終わりには大型ペン画を集中して制作する。この時期の作品に「出口のない貌」「砦」があり、50年代に議論された再軍備問題に対する政治意識があったという。

大型ペン画制作に関して、池田はアンフォルメル運動に影響され、抽象化に傾く当時の流れに対して事故の外側の世界を取り込み造形化する意識を持っていたと証言している。また、「出口のない貌」「砦」で描かれた化物のイメージを発展させた「化物の系譜」シリーズを制作した。

池田は1958年8月には福音館書店の絵本誌「こどものとも」29号に掲載された木島始『ろくとはちのぼうけん』の挿絵を手がけており、以来『ないたあかおに』(1965年、偕成社、浜田広介作)、『世界のこどもエスエフ(1)ラスティと宇宙怪ぶつ』(1968年、偕成社、ランプマン作)、『現代子ども図書館13 デブの国ノッポの国』(1972年、学習研究社、アンドレ・モーロワ作)、『ひかりのくに』(1974年、ひかりのくに昭和出版)など数多くの絵本・児童書も手がけている。

60年代以降には政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画のシリーズを制作する。

2012年?2013年 ニューヨーク近代美術館のTokyo 1955?1970: A New Avant-Garde at the Museum of Modern Art, New Yorkに展示され、2018年 練馬区立美術館で「戦後美術の現在形 池田龍雄展-楕円幻想」が開催されている。

2020年11月30日、誤嚥性肺炎で死去した。92歳だった。

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