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文京区について

東京23区の中央北寄りに位置する。「文の京(ふみのみやこ)」という字義通り、大学が多い文教地区と住宅街が区の多くを占める。明治時代より夏目漱石や森鷗外、宮沢賢治等の著名な文人・学者や政治家が多く住んだ。出版・印刷のほか、先端医療が盛んで大規模病院も多い。日本サッカー協会、講談社、東京ドーム、東京大学などがある。

区の南部には商業地域がいくらか見られるものの、全体としては住宅地が多く、また公園、教育機関、医療機関が点在する。千代田区と隣接していながら文京区には西片、大和郷(本駒込六丁目)、本郷、小石川、小日向、本駒込、目白台などの閑静な住宅地が残されている。また音羽の森や六義園、後楽園、小石川植物園など歴史ある広大な日本庭園がいくつも残されている。

区内には目黒区、世田谷区、および練馬区と共に、JRの駅が一つも存在しない。JRの線路は山手線の巣鴨駅 - 駒込駅間がわずかに通るだけで、この区間を除けばほぼ全域がすっぽり山手線内側に入る唯一の区でもある。また、大きな繁華街は無いが、区内に東京ドームシティ・アトラクションズに属する「ラクーア」がある。

文京区は、東京都の東部、皇居の北側に位置する。文京区役所の正確な位置は、東経139度45分40秒・北緯35度42分20秒。武蔵野台地の坂、神田川などにつくられた低地部、5つの台地(関口台、小日向台、小石川台、白山台、本郷台)や谷から成り立ち、坂の多い地域である。高度は、後楽一丁目の海抜3.1メートルを最低に、大塚五丁目付近で海抜34メートルである。面積は、11.31平方キロメートルであり、23ある特別区では4番目に面積が小さい区である。

画家について

・浅井忠
江戸の佐倉藩中屋敷に藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。

1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。

1902年に帰国[3]後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。

1907年12月16日、リウマチにより入院中の東京大学病院において心臓麻痺のため死去。墓地は京都の金地院。

・五百住乙人
1925 (大正14年)東京小石川に生まれる
1951 (昭和26年)第5回毎日新聞社主催美術団体連合展新制作部入選
1956 (昭和31年)立軌会同人 第8会立軌展(日本橋三越本店)
1957 (昭和32年)第1回安井賞候補新人展(東京国立近代美術館)
1970 (昭和45年)日本洋画壇新鋭100人展(東京大丸)
1971 (昭和46年)現代日本新人絵画展(日本橋髙島屋)
第8回太陽展 第2回日動展(日動画廊)
1972 (昭和47年)第1回推薦作家展(日動画廊)
1973 (昭和48年)第3回新鋭選抜展(日本橋三越本店)
1979 (昭和54年)第1回立星会展(フジカワ画廊)
第18回国際形象展(日本橋三越本店)
1983 (昭和58年) “あのときあの言葉”挿画(日本経済新聞)昭和60年9月迄
1986 (昭和61年)第9回現代の裸婦展(日動画廊)
1988 (昭和63年)現代洋画の展望展(日本橋三越本店)
洋画の現代と未来展(ラフォーレミュージアム赤坂)
1989 (平成元年)日本の四季、日曜カラー版「母と子」50F 掲載(読売新聞)
日本の美展(渋谷東急本店)
1990 (平成2年)第1回日本洋画再考展(NHKギャラリー)
第21回燦々会展(日動画廊)
1991 (平成3年)日本洋画商協同組合1991年展(洋協アートホール)
1992 (平成4年)第2回日本洋画再考展(東京都庭園美術館)
1993 (平成5年)第17回樹要会展(日動画廊)
1995 (平成7年)五百住乙人油絵展(日本橋三越本店)
1997 (平成9年)画集刊行記念自選展(東京セントラル美術館)
1998 (平成10年) “絵は風景”日曜カラー版「部屋の隅で」100F 掲載(読売新聞)
第13回小山敬三美術賞受賞記念展(日本橋髙島屋)
1999 (平成11年)高校2年美術文部省検定済教科書に「青い実」掲載(光村図書出版)
第21回日本秀作美術展(’00 ’02日本橋髙島屋)
2003 (平成15年)五百住乙人油絵展(日本橋三越本店・大阪・仙台・福岡巡回)
2005 (平成17年)秋山庄太郎・画家・一期一会展(日本橋髙島屋)
五百住乙人展(髙島屋 東京・京都・大阪巡回)
2007 (平成19年)現代日本画・洋画 名家百画展(髙島屋美術部創設百年記念)
三越美術百選展(三越美術部100年記念)
2011 (平成23年)早稲田大学曾津八一記念博物館に作品100号を寄贈
現在 立軌会同人

・桂ゆき
1913年(大正2年)10月10日、東京市本郷区千駄木町に生まれた。父親は冶金学者で東京帝国大学教授の桂弁三。生家は九代目 市川 團十郞と五代目 尾上菊五郎が共同で別荘として茶会などを催していた家であり、売家となったものを父親の弁三が購入したとされる。1926年(昭和元年)には東京府立第五高等女学校(現・東京都立富士高校)に入学。ゆき自身は油彩画を学びたかったが両親に許されず、十代前半の3-4年間は池上秀畝に日本画を学んでいる。

16歳の時には軽い結核にかかり、逗子と鎌倉で療養する中で、東京帝国大学美学美術史科に在学していた長谷川三郎(後の洋画家)に出会った。三浦海岸で見つけた動物の頭蓋骨を東京に持ち帰り、自身初の「オブジェ」を製作している[3]。18歳だった1931年(昭和6年)に高等女学校を卒業[3]。父親の縁故により中村研一に師事し、中村の紹介で岡田三郎助にも師事している。当時は職業についている女性(職業婦人)は少なく、ゆきに画家を職業としたいという気持ちはなかった。

1933年(昭和8年)2月には中村の勧めで第20回光風会展に3作品を出展。駿河台のアヴァンギャルド洋画研究所にも通いはじめ、東郷青児や藤田嗣治らの指導を受けた。藤田嗣治はゆきの将来性を見抜き、銀座の日動画廊でゆきの個展を開催する便宜を図ったり、フランス留学の可能性についてゆきの両親に進言を行っている。1935年(昭和10年)6月には海老原喜之助の勧めにより、銀座の近代画廊で「桂ゆき子コラージュ個展」を開催。当時のゆきは自身の制作技法がコラージュと呼ばれる技法であることを知らなかった。

1938年(昭和13年)には姉とともに中国・北京を旅行。9月には日動画廊で個展を開催し、10月には二科会の前衛画家による研究団体・九室会の創立に参加した。峰岸義一、吉原治良、山本敬輔、山口長男、広幡憲、高橋迪章、斎藤義重、難波架空像ら29人が創立会員であり、東郷青児と藤田嗣治が顧問となった。1939年(昭和14年)の二科展では特待となり、1940年の二科展では会友となった。1940年(昭和15年)には紀元2600年奉祝美術展にも出品している。1943年(昭和18年)4月には日動画廊で二度目の個展を開催し、6月には大阪・青樹社で個展を開催した。同年には満州を旅行して鞍山市でも小規模な作品展を開催した。1944年(昭和19年)5月には銀座・美穂堂で近代油絵展を開催し、11月には大阪・阪急百貨店で井上長三郎・伊藤九三郎・山本敬輔と近作展を開催した。
1947年(昭和22年)2月には三岸節子らとともに女流画家協会を結成し、1949年(昭和24年)の第3回女流画家協会展では協会賞を受賞した。1947年9月には二科会の準会員となり、1950年には正会員となっている。1953年(昭和28年)には第2回日本国際美術展に、1954年(昭和29年)には第1回現代日本美術展に出品し、1955年(昭和30年)の第40回二科展では会員努力賞を受賞。

1956年(昭和31年)から1961年(昭和36年)まではフランスとアメリカ合衆国で暮らし、1958年(昭和33年)にはアフリカ大陸を旅行した。欧米滞在中にはパリではインターナショナル・ウォアマンアート展に、アリゾナ大学アート・ギャラリーではインターナショナル・コンテンポラリィ・ペインティング展に、ミラノではプレミオ・リソーネ展に、さらに第27回コーコラン・ビエンナーレなどに出品している。パリのイルス・ワレール・ギャラリーでは個展を、ワシントンDCのグレス・ギャラリーでは岡田謙三や川端実などの日本人作家とグループ展を開催している。

1961年に帰国すると、第6回日本国際美術展で優秀賞を受賞し、同年以降は二科展に出品していない。1962年(昭和37年)には光文社から『女ひとり原始部落に入る アフリカ・アメリカ体験記』を出版し、1963年(昭和38年)には毎日出版文化賞を受賞した。1966年には第7回現代日本美術展で最優秀賞を受賞した。1967年(昭和42年)にはオーストラリアとニュージーランドを旅行している。

1980年(昭和55年)には下関市立美術館で個展が開催された。1985年(昭和60年)には東京INAXギャラリーで個展「紅絹のかたち」を開催。癌のために1990年(平成2年)5月から入院していたが、1991年(平成3年)2月5日に東京女子医大病院で死去した。死因は心不全。77歳だった。

1991年には下関市立美術館で回顧展「桂ゆき展」が開催された。1998年(平成10年)には茨城県近代美術館で「桂ゆきの世界展」が、2007年(平成19年)には一宮市三岸節子記念美術館で「桂ゆき展」が開催されている。2013年(平成25年)には生誕100年を記念して、東京都現代美術館と下関市立美術館で「生誕100年 桂ゆき ある寓話」が開催された。

・倉俣史朗
1934年に倉俣吉治・清の四男として東京都・本郷にある理化学研究所の社宅に生まれる。 1943年に東京の家が空襲で焼ける。後年、空襲時に米軍機が電波妨害のためのアルミチップを落としていった風景がキラキラしてきれいだったと語る事があった。戦後は東京都駒込に住む。

1956年に桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科を卒業。当時、塾的雰囲気のあった桑沢で得たものは大きくデザインエージへの胎動を感じる。同年「ドムス」誌においてイタリアデザインに出会う。この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになる。

1957年 - 1964年まで株式会社三愛宣伝課に籍をおく。主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。1964年 - 1965年(1年10箇月)まで株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおく。

1965年にクラマタデザイン事務所設立。1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。 1969年に自らの作品を持ちイタリアの「ドムス」誌を訪れる。後にその時の作品が「ドムス」に掲載される。15名の若手クリエーターでデザイン集団「サイレンサー」結成。

1970年、日本万博博覧会(EXPO'70) に参加。この頃、変形の家具など収納家具を多く発表する。1972年、毎日産業デザイン賞受賞。1974年、作家・野坂昭如が参院選に出馬した際、運動員の一人として参加する。

1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加する。ソットサスからの手紙はスケッチ2枚だけであったという。この年、新設された日本文化デザイン賞受賞。1983年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作る。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生む。

1980年代に倉俣 史朗は新設計のコイルが無い風呂を設計。形としては一世代前の風呂を元に作られたが、見た目は現代式の倉又風呂。コンセプトとしては、茶碗の形をした風呂を追い炊きで水を温めるシステム。しかし、追い炊きであったため、コイルを使わず火を使ってお湯を温める方法だった。しかし、あまりにも売れなかったためすぐに廃品にされた。

1990年、フランス文化省芸術文化勲章受章。1991年、急性心不全のため死去。享年56。その後、美恵子夫人が代表になり資料の整理、作品の維持、管理を目的としてクラマタデザインを続ける。死後もその独創性と希有な存在からベテランから若手のデザイナーに影響を与え続けている。

・黒田久美子
大正3(1914)年8月11日父生野源太郎、母初恵の長女として東京都小石川に生まれる。鉄道局員であった父の転任により仙台、名古屋、東京と転居。この間大正末年のころ名古屋第二師範附属小学校在学中に絵画に強い興味を抱くようになる。昭和4(1929)年金城女学校を病気のために休学中に遠山清に油画、パステル画を習う。翌年名古屋市展にパステル画「バラ」で入選。同年病気のため金城女学校を中退する。同6年中村研一に入門し、翌7年中村の紹介により岡田三郎助の女子研究所に入る。同8年第20回光風会展、および春台展に初入選。以後同展に出品を続け、同11年春台展に「鎧戸前」を出品して受賞。また、同年新文展鑑査展に「タイプライターのある静物」で初入選する。同12年洋画家黒田頼綱と結婚。同14年第26回光風会展に「庭」を出品して三星賞を受賞。翌年第27回同展に「しき松葉」を出品してI氏賞を受賞し会友に推挙される。また同年紀元2600年奉祝展に「夏の日」を出品。以後光風展、新文展に出品を続け、同20年敗戦後の光風会復興に参加して同会会員となる。同21年春に開催された日展に「二月の日」、同年秋の第2回日展に「ひがん花咲く頃」を出品し、同24年まで日展に出品を続けるが、翌年より日展を退く。この間同22年三岸節子らとともに女流画家協会を設立し同会会員となる。同35年第14回女流画家展に「タぐれの病院」を出品して船岡賞受賞。花や人形を配した静物画を好んで描き、対象の形態をデッサン風に捉える黒い輪郭線を完成作に生かし、緑、青、空色、赤などの原色で画面を構成して明澄な画風を示した。団体展のほか、同25年を皮切りに資生堂ギャラリーで3度、日本橋丸善画廊で2度個展を開催し、同32年から13固にわたり高島屋で黒田頼綱・久美子二人展を開催した。同56年からは世田谷美術館での世田谷展にも毎年出品している。著書に『静物の描き方』(昭和35年、アトリエ社)、『パステル画風景の描き方』(同46年アトリエ社)などがあり、同60 年「黒田頼綱・黒田久美子画集』(フジアート)を刊行している。
1995年心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。

・清水規
1962年-
東京生まれ。創形美術学校卒。1989年まで絵画保存研究所に勤務。
1989年 銀座松屋で個展開催。以後日本各地で個展を開催。
1994年 「東京セントラル美術館日本画大賞展」、「21世紀の騎手1992展」出品。
1995年 月刊美術8月号(1998年3月号・2002年11月号)の表紙を飾る。
2005年  4月11日、長野市善光寺に<戸隠雪景>四曲半双屏風を奉納。
繊細な筆致と緻密な描写、鮮やかな色彩で日本の美を描き、
現代の日本画壇を担うホープとして期待されている。

・竹山博
竹山は、大正12(1923)年6月30日、東京府文京区曙町に生まれる。本名博二。昭和15年、京北中学校4年修了後、東京美術学校日本画科予科に入学。同18年、学徒出陣により応召、翌年9月、出征中ながら同校を卒業。同20年復員後、翌年の第30回院展に初入選、さらに同22年の第31回展に「晩秋」、また第3回日展に「秋暮」が入選した。一方、戦後間もなく、山本丘人宅で開かれていた若い日本画家たちによる研究会「凡宇会」に出入りするようになり、その世話係をする。そして、同23年に山本丘人、上村松篁、吉岡堅二等が中心になって結成された美術団体「創造美術」の第1回展に「藁家」を出品、つづいて同26年、同会が新制作派協会と合同し、日本画部となると、これに出品するようになった。同38年、第27回同協会展に出品の「巌と滝」によって、さらに同40年の第29回展出品の「源流」、「凍雪」によって新作家賞を受け、同41年には会員となった。同49年、同協会の日本画部会員が創画会を結成、以後、同会展に毎回出品する。同会展への出品は、平成5年の第20回展の「海棠(未完)」が最後となった。色彩表現を抑制した、精緻な線描による花鳥画を多く描いた。
1994年胃ガンのため、横浜市の病院で死去した。享年70。

・中川一政
1893年 東京市本郷に生まれる。
1914年 巽画会展に出品した作品が岸田劉生に見出されて画家を志す。
1915年 草土社を結成。
1920年 初の個展(油彩)を開く。また、同年2月千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊。
1922年 小杉放庵らと「春陽会(しゅんようかい)」設立に参加。
1923年 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚。
1931年 水墨画の個展を開く。
1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。
1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。
1986年 母の故郷である石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現 白山市立松任中川一政記念美術館)が開館。
1989年3月 真鶴町に真鶴町立中川一政美術館(設計 柳澤孝彦/第15回吉田五十八賞受賞、第33回BCS賞受賞)が開館した。

・西村愿定
大正3(1914)年12月12日東京の小石川に生まれ、昭和14(1939)年、東京美術学校油画科を卒業、在学中から光風会、春台展等に出品し、同13年の第25回光風会展では、光風会賞を受けた。その後も、同展で各賞を受賞し、同16年に会友に推挙され、同21年に会員となった。また、戦後には同22年に銀座資生堂画廊にて初個展を開催したほか、同21年の第1回日展から出品をつづけ、同25年の第6回展では、「二人の女の構図」が特選となり、さらに第3回新日展の出品作「レゲンデ」が、菊華賞を受賞した。鋭角的なフォルムによる構成によって、独自の幻想の世界を描きつづけた。
1993年肝臓ガンのため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年78。

・野口弥太郎
東京生まれ。1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。1926年、「一九三〇年協会」会員となる。1929年、フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。1933年、帰国、独立美術協会会員となる。戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。1972年、紺綬褒章受章。1973年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1975年、勲三等瑞宝章受章、日本芸術院会員。父親は元第一銀行常務取締役の野口弥三。

・堀越千秋
1948(昭和23)年11月4日、東京都文京区駒込千駄木町に生まれる。祖父は日本画家滝和亭に師事した画家、父も小学校の図工の教師であった。69年東京藝術大学油画科に入学、田口安男のテンペラ画の授業を受ける。また在学中に解剖学者三木成夫による美術解剖学の講義に感銘を受け、その理論・思想は以後の堀越の画業のバックボーンとなる。73年大学院に進学、その年8ヶ月間にわたりヨーロッパを放浪、とくにスペインの地に魅せられる。プラド美術館ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」を模写した。75年東京藝術大学大学院油画専攻修了。翌年スペイン政府給費留学生として渡西、マドリードの国立応用美術学校で石版画を学ぶ傍ら、テンペラ画等の様々な技法に挑戦。80年最初の個展をマドリードのエストゥーディオ・ソト・メサで開催。82年に帰国し、日本で初めての個展(東京、セントラル絵画館)を開催。84年にニューヨークに約一ヶ月間滞在、ソーホーでニューペインティングに刺激を受け、制作上の転機となる。奔放な筆致と明るい色使いで、抽象と具象の入り混じった世界を描いた。1995(平成7)年頃より埼玉県児玉郡神泉村(現、神川町)に居を構え、スペインと日本を往来するようになる。03年からは同村に“千秋窯”を拵え、焼き物に興じた。03年、装丁画を担当した『武満徹全集』(全5巻、小学館)が経済産業大臣賞を受賞、ライプチヒの「世界で最も美しい本コンクール」に日本を代表して出品される。05年絵本『ドン・キ・ホーテ・デ・千秋』(木楽舎)刊行。07年から16年まで、ANAの機内誌『翼の王国』の表紙絵を連載。また07年以降、世界的なフラメンコの踊り手である小島章司の舞踊団のための舞台美術を手がけるようになる。14年スペイン国王よりエンコミエンダ文民功労章を受章。旺盛な文筆活動でも知られ、フラメンコ専門誌『パセオフラメンコ』への連載(1986~2012年)をはじめ新聞・雑誌にエッセイを多数執筆。『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』(主婦の友社、1991年)、『スペイン七千夜一夜』(集英社文庫、2005年)、『絵に描けないスペイン』(幻戯書房、2008年)、『赤土色のスペイン』(弦書房、2008年)等の著作がある。14年3月から16年11月に『週刊朝日』に連載された古今東西の名品をめぐるエッセイ「美を見て死ね」は、没後の17年にエイアンドエフより単行本として刊行された。フラメンコで歌われるカンテの名手としても著名で、逝去の際、スペインの新聞はカンテ歌手の死と報じられている。生前より企画されていた画集は18年に『堀越千秋画集 千秋千万』(大原哲夫編集室)として刊行された。
2016年多臓器不全のためマドリードで死去した。享年67

・吉岡堅二
東京都本郷の生まれ。父は日本画家吉岡華堂。野田九浦に師事する。藤田嗣治の友人の洋画家高崎剛の留守宅を借りて住んだ際に制作した「奈良の鹿」で、わずか24歳にして帝展特選となる。福田豊四郎・小松均と山樹社、豊四郎・岩橋英遠らと新日本画研究会を、さらに新美術人協会を結成し日本画の革新運動を展開、大胆なフォルムの豪快な作風で画壇に新風を送り込んだ。戦時中は豊四郎と共に大日本帝国陸軍従軍画家として満州、華北、華中へと赴く。戦後は、山本丘人・上村松篁・豊四郎・高橋周桑らと創造美術を結成、西洋と東洋を融合させた常に新傾向の日本画を追求し続け「伝統日本画の亡霊と闘う画家」と評された。1971年日本芸術院賞受賞。東京芸術大学教授(1969年退官)。

・吉田遠志
東京市(現在の文京区)出身。父親は吉田博。弟は吉田穂高。父親に油彩画を学び、さらに自ら木版画の技法を習得。1951年には日本版画協会の会員になり、海外にも渡るなどして世界各地で版画家としての活躍を見せた。1970年代にはアフリカへ渡り、野生動物などを題材とした作品を多数作った。「動物絵本シリーズ」で絵本にっぽん賞などを受賞しているが、その他にも、産経新聞「美術賞」やフランス「翻訳出版賞」、東京児童書「国際オーナリスト賞」、 フランス「異文化理解貢献賞」、エルバ賞などを受賞している。彼の作品は、ニューヨーク近代美術館やボストン美術館など世界の美術館に所蔵されている。

・吉田芳夫
明治45(1912)年2月7日、東京都本郷区に生まれる。祖父島村俊明、父吉田芳明(本名芳造)、伯父吉田白嶺と代々彫刻家を家業とする。昭和11(1936)年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業。同13年第13回国画会展に「農婦木彫原型」で初入選しK氏賞を受けるが、翌年、東美校同級生で国展での同志であった柳原義達らと共に新制作派協会彫刻部を創立し、その創立会員となる。工匠、芸術家など深い内面性を含んだ人物塑像を主に制作し、同51年には第40回新制作展出品作「白道」で中原悌二郎賞受賞。一貫して具象彫刻を制作し、実在感のある物の生成を追求してレアリストを目指した。的確な観察にもとづき、制作の跡の残る生気あるモデリングを行ない、静かな緊張感と精神性を秘めた作風を示した。
1989年急性心不全のため東京都中野区の自宅で死去した。享年77。

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