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東京(その他のエリア)について

多摩地区と島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)である。

多摩地区では、おおむね令制国時代の武蔵国多摩郡に相当し、古くは武蔵国の行政の中心地として国府や国分寺が置かれいた。
東京都民の約3分の1がこの地域に居住している。人口は420万人を超え、静岡県の人口を上回る。多摩地域の人口を上回る都道府県は(東京都以外では)神奈川県・大阪府・愛知県・埼玉県・千葉県・兵庫県・北海道・福岡県のみである。
代表的な都市としては八王子市・町田市・府中市・調布市・立川市・武蔵野市などがある。西東京などとも言われ、住みたい街ランキングで上位に入る事が多い吉祥寺(武蔵野市)を筆頭に東京23区のベッドタウンとして人気が高い地域である。
「東京都の特別区と島嶼を除いた地域」を指す名称としては、「多摩地域のうち東多摩郡を除く、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の多摩3郡域」の意味で三多摩(さんたま)の語を用いる場合もあるが、前述のとおり世田谷区の旧砧村・旧千歳村の区域が北多摩郡であったため、厳密にはこれも正確な表現とは言えない。だが、多摩地域のうち旧東京市に編入された、現在の中野区・杉並区(旧東多摩郡、編入当時は豊多摩郡)、世田谷区の砧地域や烏山地域(旧北多摩郡)が東京23区となってから長年が経過し、これらの地域がかつて「多摩」であったという意識は薄れている。また市制施行により西多摩郡以外の2郡は消滅したため、「三多摩」の語の使用頻度は減少しつつある。ただし旧郡名については地域名称として、例えば東京都議会の北多摩第一~第四、西多摩および南多摩の各選挙区分として利用されている。

島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)では、島部」ないし伊豆諸島と小笠原諸島を併せて「伊豆・小笠原諸島」とも呼ばれる。また「嶼」が日本の常用漢字ではないため、「島しょ」と交ぜ書きされることもある。
大島支庁(大島町・利島村・新島村・神津島村)・三宅支庁(三宅村・御蔵島村)・八丈支庁(八丈町・青ヶ島村・ほか直轄地)・小笠原支庁(小笠原村)の4支庁2町7村が置かれている。いずれも江戸時代には天領であり、韮山代官所あるいは島奉行が管轄していた[1]。1871年の廃藩置県後には足柄県、1876年には静岡県の所属となったが、軍事上の重要性や伊豆諸島の経済交流が東京に結びついていた事実もあり、1878年には東京府の直轄地となった[1]。1896年の郡制施行時には郡に属していなかったため、住所に郡名は表記しない。

画家について

・安西啓明
1905 (明治38)年4月15日、東京府八王子に生まれる。本名正男。1920(大正9)年荒木寛畝門下の広瀬東畝に師事したのち、21年川端龍子に入門。26年第13回再興院展に「学校」が初入選するが、29(昭和4)年龍子が青龍社を結成するに及んでこれに参加、同年の第1回展に「アパート」「本門寺風景」を出品した。以後同展で36年第8回「集鹿」がY氏賞、39年第11回「埴輪」が奨励賞、40年第12回「游亀」が蒼穹賞を受賞し、30年青龍社社子、翌年社友、42年社人となる。また龍子の画塾御形塾の塾頭もつとめた。45年6月満州(中国東北部)に開校した新京芸術院の教授として同地に渡るが、終戦とともに帰国。48年より全国の建築をテーマにした風景連作を青龍展に発表、60年からは急速な勢いで変貌していく東京の街や建物に思いを寄せ、連作「東京シリーズ」に着手する。またその一方で坂口安吾「信長」(52年)、室生犀星「杏っ子」(56年)、庄野潤三「夕べの雲」(64年)といった新関連載小説の挿絵を描く。57年以後毎年個展を開き、61年には自ら主宰する青明会の第一回展を開催。同66年龍子死去に伴い青龍社は解散、以後、無所属で活動する。日本美術家連盟理事もつとめる。98(平成10)年3月大田区ほかの主催で「安西啓明日本画展」(於太聞区民プラザ)を開催。
1999年、老衰のため東京都大田区の病院で死去した。享年93。

・城所祥
昭和9(1934)年12月2日、東京都八王子市に生まれる。八王子市立第五中学校、東京都立川高校を経て早稲田大学に入学し、同32年同大学第一商学部を卒業する。34年養精堂画廊で個展を開いて木版画家としてデビューし、36年日本版画協会会員となる。39年東京国際版画ビエンナーレに出品し、以後40年スイス木版画展、パリ青年ビエンナーレ、42年サンパウロ国際版画ビエンナーレなど国際展にも多く出品。42年鑿の会を結成し、木口木版画集「のみ」の制作に参加する。また、同年文化庁在外研究員として渡欧し、パリ、ジュネーヴに滞在する。美術教育にもたずさわり、43年より52年まで武蔵野美術大学講師、47年より63年まで武蔵野美術学園講師、53年より63年まで金沢市立美術工芸大学講師をつとめたほか、日本美術家連盟版画工房の嘱託もつとめた。果物や花を主要なモチーフとする室内静物画を多く制作し、黒をアクセントとする明快な色面によって画面を構成する。代表作に、三好豊一郎の詩による詩画集『黙示』(昭和42年)、版画集『鳥』(46年)、東京八王子市喜福寺襖絵(46年)などがある。
1988年、急性心不全のため東京都八王子市の多摩相互病院で死去した。享年53。

・佐藤多持
1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。
2004年、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。

・島田三郎
1943年 東京八王子に生まれる。
高橋治男氏に師事を受け、墨東洋画研究所に学ぶ。
サロン・アンデパンダン会員、元一線美術会会員。

1971年 パリに渡り以降パリ在住。
パリ・グランショミエール、エコール・ド・ギャルソンで絵画をより一層学ぶ。      
第27回ドーヴィル絵画国際大賞グランプリ及び、風景画部門第一位受賞。
サロン・アール・フォルム・クルール銀賞受賞。      
サロン・アンテルナショナル・パリ・シュド銅賞、など受賞多数。      
フランス画壇において非常に高い評価を獲得。 日本でも東京、大阪など各地で個展。

・鈴木信太郎
東京生まれ。白馬会洋画研究所で黒田清輝に師事する。二科展に出品し、1936年会員となる。戦後1955年二科会を退会して一陽会を結成し中心的存在として活躍する。1960年日本芸術院賞受賞、1969年日本芸術院会員、1988年文化功労者。明朗な風景画を得意とした。

現在もたびたび展覧会が催され、北里研究所病院内に展示されたり、ケーキ店の包装紙に使われるなど、目にする機会も多い。
フランス文学者の鈴木信太郎とは、同年でもあるため紛れやすい。
長崎市歴史民俗資料館によれば「長崎を代表する作品」として鈴木作の「精霊流し図」を紹介している。

1895年(明治28年)8月16日、鈴木金蔵、テルの次男として誕生。 祖父の代まで甲州街道の小仏関所で本陣を営み、父の代で八王子に移り、 生糸の仲買などを営んだ。 幼少期の病で左半身が不自由となる。
1906年(明治39年)白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。
1913年(大正2年)東京府立織染学校(現東京都立八王子工業高等学校)に入学。 織物図案を2年学ぶ。
1924年(大正13年)第11回二科展に入選。
1955年多摩美術大学教授[2]
1955年(昭和30年)二科会を退会。高岡徳太郎らと一陽会を結成。
1960年日本芸術院賞受賞。
1969年日本芸術院会員。勲三等瑞宝章受章。
1988年文化功労者。
1989年5月13日、日本赤十字社医療センターにて死去。

・田中案山子
本名格男。明治39年東京都青梅市に生れ、田中以知庵に師事し、はじめ院展に出品した。同展に入選すること8回に及び、院友となった。また帝展にも出品している。昭和12年日本美術院を脱退し、元院友12名で改らたに新興美術院を結成、その創立同人となった。昭和16年小室翠雲らの南画人によって大東南宗院が設立されてからは第1回展委員となり、第2回からは審査員となった。同18年新興美術院の同人を辞し、大東南宗院、海洋美術展等に出品した。戦後、再興新興美術院同人となったが、三越本店における個展を主な発表の場とし、開催18回に及ぶ。主要作品に「神代村」「立場茶屋」「伊豆下田街道」「奥瀬」などがある。
1970年、肺気腫のため世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。

・原光子
旧姓小瀬(こせ)。 1931(昭和6)年7月10日東京都八王子市に生まれる。都立南多摩高校を経て54年に女子美術大学芸術学部洋画科を卒業すると、同大学洋画科助手となる。同年は第22回独立展に「赤いローソク」が初入選したほか、初めての個展を開催した。翌年、第9回女流画家協会展に「ダム」を出品し、以後主に両会に作品を発表するなかで、女流画家協会では58年に会員となり、プールヴー賞、努力賞、甲斐仁代賞などを受賞し、73年からは委員に推挙され2001(平成13)年まで連続出品した。一方独立美術協会でも、2001年までほぼ毎年入選および出品を続け、72年第40回展では独立賞を受賞、翌73年会員に推挙されている。この間、59年に原静雄と結婚。女子美術大学芸術学部では、60年専任講師、75年からは助教授、84年教授に就任し後進の指導にあたった。97年からは名誉教授。 65年、第1回女子美術大学海外研修旅行としてイギリス、フランス、イタリアなどにでかけたのを皮切りに、ロシア、シルクロード、アンコールワットまで取材旅行は多岐にわたる。彫刻や噴水が配された風景は鮮やかな色面で構成され、その作品タイトルからもうかがえるように作品に水の動きを描き、流れる風を表現した。 84年第23回国際形象展に「午後2時・微風」ほかを招待出品。95年には「原光子―風の方向―」展(たましん歴史・美術館)を開催、96年には第11回小山敬三美術賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催した。技法書として『油絵の描き方 風景画』(講談社 1985年)を出版し、「福沢一郎」展カタログ(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 1998年)では、独立美術協会や女子美術大学の教職員として兄事した福沢一郎に文章を寄せている。88年、紺綬褒章受章。
2020年、乳がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年70。

・平松譲
東京都の三宅島出身。白日会会員として白日会展において中沢賞、内閣総理大臣賞を受賞。日展文部大臣賞を受賞。
1992年に『TOKYO』で日本芸術院賞を受賞し、1995年に日本芸術院会員となる。元日展顧問。
三宅島出身ということもあり、風景画を得意としていた。
2013年7月21日、急性肺炎により死去。99歳没。

・藤江志津
明治28年2月15日都下青梅市に生れた。高等女学校卒業後、大正9年藤江醇三郎に嫁し台湾台北市に住まった。昭和5年から東京都世田谷区の現住所に居住。昭和9年第21回日本水彩画会展より昭和45年第58回同展にいたるまで連続出品した。また戦前昭和13年二科会第25回展より第29回展まで数回入選。その他、朱葉会展や白日会展にも出品、終始、水彩画に専心し、水彩画界の古参作家として認められていた。

・吉岡憲
本名佑晴。大正4年3月25日東京に生れた。川端画学校に学んだのち満州に渡り、さらに聖ウラヂミール専門学校に学んだ。ハルピンに約7年滞在、昭和15年帰国した。帰国後は独立展に出品し、18年第13回展では「母子」で独立美術協会賞をうけたが、戦線の急迫とともに、ジャワ方面に従軍し、同地で住民の文化指導にも従事していた。現在のジャワ美術学校創設の基礎は、当時の彼の努力によるところが大きかつたといわれる。22年独立美術協会準会員、23年会員となつた。戦後は独立美術協会の中堅として同展で活躍するほか、日本国際美術展、アンデパンダン展にも作品を発表していた。

1956年、1月15日夜、中野区の踏切で国電に触れ死去した。自殺ともいわれるが明らかでない。享年40歳。

・若林奮
東京都町田市出身。東京都立立川高等学校、東京芸術大学美術学部彫刻学科卒業。鉄、銅、鉛などの金属素材を用いて自然をモチーフとした彫刻を制作した。1980年、1986年のベネチア・ビエンナーレに出品。武蔵野美術大学、多摩美術大学教授を歴任した。詩人の吉増剛造や河野道代と共同制作を試みている。また700点の銅版画作品も制作しており、吉増剛造は没後に銅板を譲り受けてオブジェ作品を制作している。

1962年、二科展にて金賞受賞。
1969年、第9回現代日本美術展にて東京国立近代美術館賞受賞。
1973年、文化庁芸術家派遣研修員としてパリに留学。
1987年、東京国立近代美術館・京都国立近代美術館で「今日の作家 若林奮展」開催。
1996年、第27回中原悌二郎賞受賞。
2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

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