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大阪府でのパソコン事情

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画家について

小出楢重
1887年、大阪府大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。
小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。
1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を受験したものの不合格、日本画科への編入を許されて入学する。
下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1919年(大正8年)、二科展出品作の「Nの家族」で樗牛賞を受ける。翌年は《少女お梅の像》が二科賞を受賞。
この頃より挿絵等の仕事を手がけ始め、ガラス絵の制作にも着手する。
1921年から1922年に渡欧。1923年二科会員に推挙。
フランスから帰国後の1924年には鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎らと大阪信濃橋(現西区靱本町一丁目)の日清生命ビル内に
「信濃橋洋画研究所」を設立し昭和前期の洋画界に新風を送り込み、若手の先駆者となった。
1931年(昭和6年)、心臓発作のため43歳で死去。
晩年に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。

呉春

呉春は、金座に勤めていた時、嶋原の名妓・雛路を身請けし妻としていたが、天明元年(1781年)3月、単身里帰りの途中海難事故に遭い妻を、8月には父を相次いで失う。
傷心を癒す為か剃髪し、蕪村の勧めで、パトロンであった蕪村門下の商人・川田田福を頼り、しばらく現在の大阪府池田市に転地療養する。
翌年の正月、この地の古名である「呉服(くれは)の里」で新春を過ごした事に因み、呉春、伯望の画号を名乗るようになる(この縁で、池田市には今でも「呉春」と言う銘柄の地酒がある)。
ただし、「月渓」の名は俳号としては終生用い続け、俳画や俳諧では「月渓」を名乗っている。これは、師蕪村が画号を「春星」「謝寅」、俳号を「蕪村」と使い分けていたことに倣っていると考えられる。
この頃から天明6年5月の帰洛後円山派風の作品を描くまでを「池田時代」、または天明年間にほぼ重なる事から「天明時代」という。
蕪村風の筆法で力強い画風の人物画や花鳥画を残し、俳画にも優れた作品が多い。呉春の俳画には、自句を記したものは少なく、蕪村ら先人の句に合わせて画を添えることが多い。
この点、自画と自句を合わせて自己表現を試みていた蕪村とは対称的である。
天明3年(1783年)蕪村が重病に伏せると、呉春は京に戻る。
兄弟子紀楳亭と共に献身的に看病するけれども、同年末に蕪村は亡くなってしまう。
師の死後も、自ら挿図を描いて遺作句集『新花摘』を出版し、池田と京を往復し蕪村の家族の世話をする。
しかし、この頃から次第に師匠とは対照的な画風である円山応挙に接近していく。天明7年(1787年)頃から、おそらく応挙の紹介で、真仁法親王のサロンに出入し始め、法親王側近の絵師となる。
同年、応挙を棟梁とする6人の絵師の中に入り、一回目の但馬国大乗寺の襖絵制作に参加。この時の作「群山露頂図」は、蕪村の「峨嵋露頂図」に倣った作品で、
関係文書にも「蕪村高弟月渓」と記されており、未だ蕪村を慕う呉春の心情を窺わせる。天明6年(1786年)から2年間10回にわたって、池田の酒造家が中心となって、
蕪村の「屏風講」に倣ってか「掛物講」が催されている。これは講の参加者が1両ずつ出しあって代金を募り、くじ引きで呉春の絵を得る仕組みである。
その中には後の写生派時代につながる作品が見られ、この講が画業転換期の呉春を支えたと言える。

天明8年(1788年)天明の大火で焼きだされた呉春は、避難所だった五条喜雲院で、偶然にも一時応挙と同居する。
この時応挙は、「御所や門跡寺院に出入したいなら、漢画を捨てて狩野派や写生画を描かねば駄目だ」、と助言をした(『古画備考』)。
呉春は師蕪村と異なり、俳諧と国文学には詳しかったが漢詩文の素養は無きに等しく、師亡き後も南画を描き続ける意欲や動機が薄かった。
また、親しかった高井几董の死がきっかけとなったとする意見もある。いずれにしても呉春は、応挙の助言を取り入れ、文人画の味わいを残しつつ写実的な作風へと転進していく。
この時、呉春は応挙に弟子入りしようとしたが、蕪村と交流があり呉春の画才を認めていた応挙は、呉春を莫逆の友として遇し(『松村家略系』)、「ただ共に学び、
共に励むのみ」と答えたという逸話が残る(『扶桑画人伝』)。数年後の寛政7年(1795年)、二回目の大乗寺障壁画「四季耕作図」では、円山派風の作風へと変化している。
同年応挙が亡くなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。呉春は合作が多い絵師であり、
翌年も岸駒と合作した「山水図」(東京芸術大学大学美術館)を描く。晩年の呉春は、放埒な生活が祟ってか病気がちで健康がすぐれず、
大作を依頼されても断ったという(上田秋成『胆大小心録』)。
文化8年(1811年)7月自宅で没する。享年60。
法名は釈春譲。洛南の大通寺に葬られたが、大通寺が荒廃したため明治22年(1889年)9月、四条派の絵師たちによって松村景文と共々、金福寺の蕪村の墓隣に改葬された。


後藤 仁
1968年 兵庫県赤穂市生まれ。伯父はからくり人形師の後藤大秀。祖父は指物大工。
1983年 「第1回全国都市緑化フェア図画・ポスターコンクール」大阪府知事賞(最高賞)。
1984年 「太陽の日記念絵画コンクール」(審査委員長は岡本太郎)佳作賞。「旺文社主催全国学芸科学コンクール デザイン部門」旺文社賞(銀賞)。
1986年 「児童生徒美術展」(ビクトリア国立美術館/オーストラリア)。
1988年 大阪市立工芸高等学校美術科を首席で卒業。美術予備校の立川美術学院にて村上隆に学ぶ。
1995年 国重要文化財建造物等「金唐革紙」復元製作。以降、入船山記念館(呉市)、移情閣(神戸市)、旧岩崎邸(台東区)等の復元を手がける。ジャワ島・バリ島写生旅行、中華人民共和国(北京・西安)写生旅行。
1996年 東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男に師事。後藤純男門下による「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)に参加、以後2010年まで毎年開催。
1997年 イタリア・バチカン市国写生旅行。
1998年 NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作。
2000年 千葉銀行2000年度カレンダー作品採用。「三渓日本画賞展2000」入選(横浜三渓園)。
2002年 「新生展」入選(新生堂/東京都南青山)。「北の大地展」佳作(北海道)。
2004年 個展(新樹画廊目白)にインド大使夫妻、バチカン市国大使を招待。インド(北部・東部・西部)写生旅行。
2005年 タイ王国・カンボジア写生旅行。「名士寄贈書画工芸作品展」(毎日新聞主催。心斎橋大丸、のち毎日新聞ビル)以後2011年まで毎年出品。
2006年 ちばテレビ「ニュースC-MASTER」にて個展(ギャラリーアートサロン)取材・特集放映。
2007年 ベトナム写生旅行。NHK「にっぽん心の仏像」アトリエ取材・放映。「金唐革紙展」(大英博物館、ヴィクトリア&アルバート美術館/イギリス)。
2008年 中華人民共和国(貴州省・広西チワン族自治区)写生旅行。
2009年 ネパール・タイ王国写生旅行。「F展」大阪市立美術館館長奨励賞(大阪市立美術館)。
2010年 NHK「日曜美術館(遣唐使・美の遺産)」取材協力・放映。
2011年 タイ王国・ラオス写生旅行。
2012年 中華人民共和国(チベット・四川省)写生旅行。
2013年 絵本「ながいかみのむすめ チャンファメイ」を福音館書店より出版。絵本「犬になった王子 チベットの民話」を岩波書店より出版。
2014年 ミャンマー(ビルマ)写生旅行。絵本『犬になった王子 チベットの民話』がミュンヘン国際児童図書館「The White Ravens 国際推薦児童図書目録2014」に選定。
2015年 イタリア・ボローニャブックフェア Bologna Children’s Book Fair 2015に絵本『犬になった王子 チベットの民話』展示。
2016年 挿絵本「おしゃかさま物語」を佼成出版社より出版。スリランカ写生旅行。千葉テレビ「NEWSチバ930」アトリエ取材・特集放映。
2017年 学校法人桑沢学園 東京造形大学「絵本A・B」非常勤講師 就任。絵本「わかがえりのみず」を鈴木出版より出版。国立大学法人 東京藝術大学「デザイン科 アートアンドデザイン」非常勤講師 就任。絵本「金色の鹿」を子供教育出版より出版。
2018年 台湾写生旅行。中国(上海)写生旅行。
2019年 中日国際書画学術研討会、煙台職業学院書画芸術研究院 掲牌儀式・展覧会(中国山東省)。中華人民共和国(南京・揚州・西寧・敦煌莫高窟・上海)写生旅行。

佐伯 祐三
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス等で過ごし、フランスで客死した。
佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。
佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。
作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。
佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。
1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、
1918年(大正7年)には吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。
東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、
佐伯はパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ(ゴッホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。
佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる)。
事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと
「1930年協会」を結成する。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたという。屋内ではその後も偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描く(この郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様だったのではないか、と語っている)[4]。自殺未遂を経て、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰弱死した。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺。
山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の画を熱心に収集し、戦時中にはコレクションの疎開を行った。しかしそれでも空襲により収集作品の8割は灰となり失われた。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されている。


田中敦子
具体美術協会の作品は現在は抽象表現主義に位置付けられているが、かつては「抽象表現主義の亜流」と欧米の批評家から評されていた。
田中は、芸術作品がどのように現れるべきであるか、あるいは「為される」べきかという従来の概念を拒否した。
田中の作品は、抽象画、彫刻、パフォーマンスの他、織物やドアベル、電球などの日用品を特徴としたインスタレーションなどがある。
1955年に制作された作品の1つ「ベル」は、ギャラリーの境界を囲み配置した電気のベルの一群で構成されている。
1955年に創作されたもう一つの作品、「作品(黄色い布)」は、黄色く染められた長い無地の布をギャラリーの壁に貼り付け、
その形態や表象から人間のいかなる影響も取り除いた「絵画」を作った 。
1956年制作のステージ衣装は、布と電球をかぶせた巨大な棒人間状のものに、長さ30フィート(9.1 m)の大きな赤い衣類で構成された。これは具体の公演でも身に着けていた複合的な衣装で、
田中は各レイヤーを剥がし、素早く衣装チェンジをした。 田中は文字通り自身の体を芸術作品とし、自身をパフォーマンスの一部とした。
田中の最も有名な作品は、「電気服」(1956年)である。それは電線と電球色の電球からなるブルカのような衣装の作品であり、彼女は展覧会でそのドレスを着ていた。
「電気服」の着想は、ネオンライトで照らされた医薬品広告からであり、かさばった外観は身体の回路でもあり衣装のようでもある。
この作品はまばらに点灯し、エイリアンのような生物の感覚を放つ。そして田中は「花火のように点滅する」と言う。
具体のアーティストによると、田中の作品は戦後の日本の急速な変化と都市化を象徴している。田中が初めて「電気服」を着たとき、彼女の顔と手だけが見えた。
彼女は作品を身に着け、スイッチをつけた時に恐怖に気が付いた:「私はふと考えた。これは死刑囚のようではないか?」。
2000年代、田中の作品は、東京都現代美術館[9]、京都国立近代美術館、名古屋 のギャラリー HAM 、ニューヨーク大学美術館のグレイ・アート・ギャラリーやポーラ・クーパー・ギャラリー、
オーストリアのインスブルックにあるGalerie im Taxispalaisをはじめ、国内外の数多くの美術館で展示された。
ニューヨークのグレイ・アート・ギャラリーは、田中の具体時代に焦点を当て、具体のムーブメントの映像とドキュメンテーション、さらに「電気服」の再制作もコレクションしている。
2005年、バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学のモリス・アンド・ヘレン・ベルキン・アート・ギャラリーで、田中の重要な展覧会「Electrifying art: Atsuko Tanaka, 1954-1968」を開催した。
2007年、ドイツのカッセル で開催された国際展「 ドクメンタ 12 」では、「電気服」やその他の作品が展示された。
田中敦子の作品は、国際的に重要とされているニューヨーク近代美術館(MOMA)などでパブリックコレクションされている。
MOMAのオンラインコレクションには、1964年の作品「無題」(キャンバスに樹脂)をはじめ、8作品が掲載されている。
MOMAのオンラインの解説では、この作品は333.4 x 225.4 cmで「田中のパフォーマンス「電気服」から発展」した、
「床に敷かれたキャンバス上で、アーティストの動きによるレイヤーと色とりどりのアクリル絵の具のビビットな記録」である。

村上 華岳
1888年
7月3日、大阪天満松ケ枝町に生まれる。本姓武田、甲州武田氏の末裔。本名震一。
1895年
神戸市神戸尋常小学校に入学。叔母村上千鶴子の婚家、村上五郎兵衛方に寄居する。
1903年
京都市立美術工芸学校へ入学。
1904年
村上家を嗣ぐ。
1907年
京都市立美術工芸学校卒業。
1909年
京都市立絵画専門学校に入学。
1911年
同校を卒業。
1916年
京都市東山高台寺円徳院に住む。
1917年
洛北衣笠に転居。この頃仏画に筆を染め、静物、風景等を多く描く。
1918年
国画創作協会(国展)を結成。
1923年
京都を去り、神戸に帰り、芦屋に隠棲。
1925年
タゴール翁と識する。「タゴール像」を素描す。国展第五回に「松巒雲煙」出品。
1926年
久邇宮家の献上画を作成。
1927年
神戸花隈の旧居に帰る。この頃より画壇を遠ざかる。以後制作は多いが公表は少なくなる。
1934年
華岳作品の憧憬者が集まり、各自その収蔵作品を持ち寄り、東京永楽倶楽部において展列を行う。
1935年
帝国美術院第一部無鑑査となる。
1936年
京都美術倶楽部において友人達が作品百余点を展示する。
1939年
11月11日、神戸花隈の家居において宿咳に悩まされながらも、「牡丹図」に加筆するため礬水びきをするが、その夜遂に永眠する。享年51。

森村 泰昌
大阪市天王寺区細工谷町生まれ。父は緑茶商。大阪市立桃陽小学校から大阪市立夕陽丘中学校を経て大阪府立高津高等学校を卒業。
1年間の浪人生活を経て、1971年、京都市立芸術大学美術学部工芸科デザインコースに入学。
1975年(昭和50年)に京都市立芸術大学を卒業した。同年に松下電工(現パナソニック電工)株式会社に入社するも3日で退職。京都市立芸術大学に聴講生として学ぶ傍ら、
非常勤講師として大阪府立高津高等学校工芸科に勤務。
1976年(昭和51年)、京都市立芸術大学美術学部専攻科デザイン専攻に入学。高校や短期大学の非常勤講師を務める。
1980年(昭和55年)に京都市立芸術大学美術学部映像教室非常勤講師。写真家アーネスト・サトウに師事。
1983年(昭和58年)、京都市のギャラリー・マロニエにて初個展を開催。当初は、静謐で幻想的なオブジェや、身体の手足などのモノクロ写真を撮影し関西周辺で発表していた。
1985年(昭和60年)、自らが扮装してフィンセント・ファン・ゴッホの自画像になる写真作品を発表。以後、自らがセットや衣装に入って西洋の名画を再現する写真で評価を受けた。
1988年(昭和63年)にヴェネツィア・ビエンナーレの若手グループ展「アペルト」部門、1989年には全米を巡回した日本美術展「アゲインスト・ネーチャー-80年代の日本美術」展に参加し、
鮮烈な国際デビューを飾った。当初はシミュレーショニズムやアプロプリエーション(盗用芸術)などとの関連、美術史と人種・ジェンダーとの関連、
シンディ・シャーマンなど他のセルフポートレートを手法とする作家との比較で語られた。
以後、日本各地や海外での個展やグループ展に多数参加している。
2003年(平成15年)に織部賞を受賞。
2007年(平成19年)に設立された大阪創造都市市民会議(クリエイティブオオサカ)の発起人の一人である。
2008年(平成20年)に平成19年度(第58回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。
2011年(平成23年)に第52回毎日芸術賞を受賞した[6]。同年に紫綬褒章を受章した。
2012年(平成24年)12月に「ヨコハマトリエンナーレ2014」のアーティスティックディレクターの就任が決定した。同年から開催された釜ヶ崎芸術大学で講師を務める。
2018年(平成30年)11月3日、大阪市住之江区北加賀屋に私設美術館「モリムラ@ミュージアム」(M@M)を開設。


ヤノベ ケンジ

1990年、京都のアートスペース虹で、生理食塩水を入れたタンクの中へ鑑賞者が浸かり瞑想する、体験型作品『タンキング・マシーン』(現・金沢21世紀美術館所蔵)を発表。
同作で第一回キリンプラザ大阪コンテンポラリーアワード最優秀作品賞を受賞。
その後、1992年水戸芸術館での個展「妄想砦のヤノベケンジ」では美術館へ住み込み、ユーモラスな形でありつつ後の放射能汚染された環境でも生き抜く機能のあるスーツ、
サバイバル用の機械一式、それらを収納して移動する車両などを発表。以後「サバイバル」をテーマに終末的な環境下で使用するための機械彫刻シリーズを続け、
1994年以降はベルリンへ移住し欧米でも精力的に制作・発表、主に日本のサブカルチャーとの関連でも取り上げられ、注目を浴びた。
阪神・淡路大震災とオウム事件は、妄想であったものが現実となったことでヤノベに転機を与えた。
1990年代後半からは史上最後の遊園地計画、「ルナ・プロジェクト」を構想、その一環として「アトムスーツプロジェクト」を開始した。
鉄腕アトムにどことなく似た形のガイガーカウンター付き放射能感知服を着用し、チェルノブイリ原発や周辺の放棄された都市の廃墟、大阪万博跡の万博記念公園、砂漠や海岸などを歩き、
子供のころに感じた「未来の廃墟」へもう一度戻るための「時間旅行」を試みた。
開催後三十年を経て朽ちてゆく途中の大阪万博の残存物との出会い、チェルノブイリの激しい放射線量、遊園地・保育園・軍用車などの残骸の「現実の廃墟」のすさまじさ、
そこでも生きている人々たちとの遭遇などの体験から帰って、以後テーマを「廃墟からの再生(リバイバル)」に転換してゆく。
チェルノブイリの保育園で見た人形と万博後の廃墟で見たロボットをモチーフにした大型ロボット、子供の命令だけで歌い踊り火を吐く巨大な腹話術人形型ロボットなどが制作されている。
2003年、大阪万博の美術館だった国立国際美術館で、集大成的展覧会「メガロマニア」を開催。
解体されたエキスポタワーから下ろされた朽ちた展望台の一部を使用し、展望台内で生えていた苔を育てるなどの作品を制作した。
2005年、豊田市美術館で個展「KINDERGARTEN」を開催。ヤノベの5歳の息子の声が登録され子供の命令しか聞かないという、
高さ約7.2mのロボット人形「ジャイアント・トらやん」や、ヤノベ自身が乗っていた車と産業廃棄物で作った約3.7mのマンモスロボット、
映画を見たりお菓子を食べたりして生き延びる子供用核シェルターという設定の作品「森の映画館」等を公開した。
「この展覧会が、子供たちにとって何かのきっかけ作りになればうれしい」と、中日新聞の取材で訪れた子供記者達に語った。
2016年、第29回京都美術文化賞を受賞。


サン・チャイルド像
2011年に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所事故からの復興と再生への願いを託した像で、太陽を右手に持ち防護服を着た子どもがヘルメットを脱いだ姿となっている。
モチーフは、チェルノブイリ近くの廃虚となった保育園の壁に描かれていた太陽の絵。
2012年以降に数体制作され、世界各地に設置。日本国内では、茨木市南茨木駅前[3]のほか福島市内の教育施設前に設置された。
福島市のものは、放射能の風評被害を助長するなどの批判が相次いだため、2018年9月に撤去された。


与謝 蕪村
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。
同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている。
20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。
このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、
僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。
その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。
『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、
江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある。
42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。
再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。
死因は従来、重症下痢症と診られていたが、
最近の調査で心筋梗塞であったとされている。
辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。
墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。

俳句
春の海 終日のたりのたり哉
柳散り清水涸れ石処々
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
花いばら故郷の路に似たるかな
不二ひとつうづみのこして若葉かな
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
夏河を越すうれしさよ手に草履
ゆく春やおもたき琵琶の抱心
易水にねぶか流るゝ寒かな
月天心貧しき町を通りけり
さみだれや大河を前に家二軒
菜の花や月は東に日は西に
笛の音に波もよりくる須磨の秋
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
稲妻や波もてゆへる秋津しま
ところてん逆しまに銀河三千尺
古庭に茶筌花さく椿かな
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
あま酒の地獄もちかし箱根山
鰒汁の宿赤々と燈しけり
二村に質屋一軒冬こだち
御火焚や霜うつくしき京の町
寒月や門なき寺の天高し
さくら散苗代水や星月夜
住吉に天満神のむめ咲ぬ
秋の夜や古き書読む南良法師
朝霧や村千軒の市の音
休み日や鶏なく村の夏木立
帰る雁田ごとの月の曇る夜に
うつつなきつまみ心の胡蝶かな
雪月花つゐに三世の契かな
朝顔や一輪深き淵の色

吉原治良
大阪市の油問屋(後の吉原製油、現在のJ-オイルミルズ)の御曹司として生まれる。北野中学校在学中に油絵をはじめる。
関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。
比較的早くからシュルレアリスムの影響を受け、1930年頃には魚や浜辺の風景などを題材に描いていた。
敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。
1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成するも、戦時に入ると前衛芸術は黙し、彼もまた写生などを続ける日々を送った。
戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画(のちにフランスでのアンフォルメル運動との同時性が注目された)を
描き始めた。その頃、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。
同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っていた。
1952年秋、「現代美術懇談会」を結成[1][2]。そして1954年、「具体美術協会」を結成。結成時のメンバーは吉原を筆頭に、
嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、吉原の息子の吉原通雄、上前智祐、吉田稔郎、東貞美ら15人。
吉原のもとに糾合した関西の若手の作家が主なメンバーであったため、同協会は戦後の美術運動としてはむしろ例外的に師弟関係を軸としていた。
芦屋の公園での野外展示に続き、東京の小原会館などで大規模な具体展(第一回)(英語版) を開催し、アンフォルメルの主導者であったフランスの美術評論家ミシェル・タピエらの注目を集めた。
1960年、タピエと共同でアドバルーンを利用した「インターナショナル・スカイ・フェスティバル」を開催した。
1962年、中之島にあった自分の所有する土蔵(現在の阪神高速中之島入口の南向かいの場所)を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、
会員たちの個展を開いた。また自身も黒地に大きく白い円を描くなど円形を題材にした多くの作品を描いた。具体美術協会は解散したが、その先駆性はいまでも高く評価されている。
実業でもデザインにこだわり、吉原製油の「ゴールデンサラダ油」のパッケージデザインにあたり、当時もっともモダンなグラフィックデザインを手掛けていた早川良雄に依頼するなど、画家らしくハイセンスであった。
1972年2月10日、クモ膜下出血が原因で死去。67歳没。


左 甚五郎
逸話などでその存在さえも疑われているが、実在の人物として記述している文献も見られる。
足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。ただし、紀伊国根来東坂本(岩出市)に生まれたとする説もある。
父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、
将軍家大工頭・甲良宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。
江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。
その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に高松藩の客文頭領となったが、
慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58。
名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は永正元年(1504年)に誕生し、66歳で没したとされている。
姓の「左」の由来には諸説ある[2]。江戸時代、腕利きの大工の代表として「大和大工に飛騨匠」と称されており「飛騨の甚五郎」が訛ったものとする説がある。
別の一説によると左利きだったからという説がある。
講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという。そのほか、16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、
その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。
そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったともいわれている。
実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺 (香芝市)鳳凰の欄間がある


安藤 忠雄
1941年9月13日 - 大阪府大阪市港区に生まれる。
1965年 - この年より4年間、2度にわたり世界を放浪。キューバの革命家チェ・ゲバラに傾倒し、ガンジス川の河岸でゲリラ的生き方を決意。
1969年 - 安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。
1976年 - 「住吉の長屋」(大阪市住吉区)が高く評価され、1979年に日本建築学会賞を受賞した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。
1980年代 - 関西周辺(特に、神戸・北野町と大阪・心斎橋)での商業施設設計や寺院・教会設計を相次いで建設。
1987年 - 米イェール大学客員教授。
1988年 - 米コロンビア大学客員教授。
1989年 - 米ハーバード大学客員教授。ベネッセの福武總一郎の依頼により、直島国際キャンプ場をオープン。その後、直島プロジェクトに参画、1992年のベネッセハウス、1999年の「家プロジェクト」(南寺)へと続いていく。
1991年 - 米ニューヨーク近代美術館にて個展開催。
1993年 - 仏ポンピドゥー・センターにて個展開催。
1997年 - 東京大学工学部建築学科教授に就任。
2000年 - 中坊公平と共に「瀬戸内オリーブ基金」を設立。
2002年 - 米南カリフォルニア大学客員教授。
2003年 - 東京大学を定年退官して、東京大学名誉教授の称号を得る。
2005年
新設された「東京大学特別栄誉教授」の称号を得る。
安藤忠雄文化財団を設立。
2008年 - 大阪府政策アドバイザー(水都・都市景観分野)
2011年
東日本大震災復興構想会議議長代理
ヴェネツィアン・グラスのブランドである伊ヴェニーニとオブジェを共同制作(2017年までに4回実施)。
2012年 - 国立競技場 国際デザイン・コンクール審査委員長。国立競技場将来構想有識者会議委員。
2017年 - 国内では初の個展となる安藤忠雄展「挑戦」を国立新美術館で開催。
2018年 - 10月10日より、パリのポンピドゥー・センターにて安藤忠雄展「挑戦」が、日仏友好160周年、日本文化紹介事業「ジャポニスム 2018」の公式企画として開催。
2019年 - 2025年日本国際博覧会(万博)ロゴマーク選考委員会座長に就任。
2020年 - 万博までに2025本の桜を府内に植樹することを目的に立ち上げた「万博の桜2025」実行委員会委員長に就任。



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