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新宿区について

東京都に23ある特別区の一つであり、23区の中央やや西側に位置する。千代田区・港区・中央区の「都心3区」に新宿区と渋谷区を加えて「都心5区」と言われることがある。かつての35区が22区(のち23区)に移行した1947年に発足した区であり、行政機構としての歴史は比較的浅い。また、牛込、四谷、淀橋の3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。

1991年より東京都庁は同区に位置しており、自治体として見た場合は「東京都の都庁所在地」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は地方自治法において他の46道府県庁所在地とは異なる「特別地方公共団体」とされており、通常の市町村(普通地方公共団体)と同格に扱われていないため、国土地理院発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧東京市の後裔たる東京都区部の総称」として「東京」と表記されている。

古くは甲州街道の通り道として栄えた新宿駅周辺は日本有数の繁華街が形成されており、新宿駅は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい。また新宿駅西口に位置する西新宿は東京でも有数のオフィス街であり、超高層ビルが林立している。新宿駅南部は新宿御苑や明治神宮外苑があり緑が豊富である。また都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた北部の落合地区は住宅地となっている。本来、山の手とは新宿区内を中心とした高台(武蔵野台地)を指す。

甲州街道沿いの街、宿場の街として江戸時代以降から繁栄を見せた四谷地域(旧四谷区)。四谷見附から新宿駅東口の手前および信濃町駅周辺までが四谷地域に該当するため、警察署や消防署、公立学校の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。

江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、明治時代には既に成熟した住宅地として機能してきた牛込地域(旧牛込区)。牛込地域は住居表示未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。神楽坂、市谷、早稲田と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。

このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター戸山病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人登録者が多い区である。外国人のなかでもとりわけ、中国人と韓国人が多数居住している。 特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる。新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛庁(現防衛省)などの官公庁も移転してきた。

このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。

1970年辺りまでは、「若者の街」、「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿だった。しかし、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。

新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることがわかる。

下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。

これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の靖国通りも低地に沿って建設されている。

こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。

区内の年間平均気温は約15℃であり、東京都の気象観測所のある大手町付近と比べ約1℃ほど低い。冬は大手町よりも寒くなり、反対に夏は暑いこともある。

画家について

・AKI (画家)
スペイン国立「バルセロナ海洋博物館」にて「マザーフォレスト」を発表、「金賞」「日本スペイン交流親善名誉作家」受賞、日本・ギリシャ修好110周年記念展覧会にて「歴史」を発表、「特別審査委員賞」受賞。2010年、23歳にして、知的障がい者の大学ゲスト講師として日本で初めて教壇(武蔵野美術大学)にたつ。近年では、NHKハートプロジェクト第18回ハート展作画者として選出されたほか、京都・佛光寺派大善院にて、唐紙師とのコラボレーション作品「唐紙四曲屏風・涅槃図」(京都ホテルオークラにて公開)を発表。また、ヨーロッパ、アメリカにてデザインテキスタイルの「AKI デザインファブリック」並びにそのデザインの元となる原画を発表、2014年春発売「アシストスマホ」(ソフトバンク株式会社)に作品が採用。2014年〜公益社団法人日本助産師会 機関誌「助産師」表紙に作品が採用。

・朝比奈文雄
大正3(1914)年10月20日東京都新宿区に生まれる。昭和7年から小絲源太郎に師事し油絵を学び、光風会展に出品した。戦後は光風会展、日展を中心に制作発表を行い、同24年の第5回日展に「画室静物」で特選、同年の光風会展に「お茶時」で岡田賞、同26年の光風会展に「永代橋」で南賞をそれぞれ受けた。同32年、最初の個展を東京・銀座求龍堂で開催する。同35年改組第1回日展に「黒い門」を出品し、第1回菊花賞を受賞。同37年第5回日展に審査員をつとめ、翌年から同39年にかけて渡欧。同39年日展会員となる。のち、日展評議員。
1992年肺炎と心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。

・岩崎巴人
東京府東京市(現在の東京都新宿区)にて出生。

1936年に川端画学校を卒業後、同学校研究科に2年間在学し青龍社展に初入選、小林古径に師事する。

1938年の再興第25回院展に「芝」で入選し、横山大観から評価を得る。1941年に応召し、復員後に一時期母親の疎開先である富山県に逗留。戦後、1947年に再び院展で入選し院友となるが1950年に院展を脱退。1958年谷口山郷や長崎莫人らと共に日本表現派を創立。

1977年には禅林寺で出家し、絵描と求道の精神を一体化させ日本画の分野で独自の展開を繰り広げた。姉が嫁ぎ先である富山に居たため、度々富山県に訪れて関わった。

2010年、間質性肺炎のため死去。92歳没。

・岩田久利
昭和元(1925)年12月18日、ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京に生まれる。

東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。

父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。

墓所は、日蓮宗威光山法明寺 (豊島区)、戒名は、輝光院能持日久居士。

1925年 [大正14年] 東京新宿弁天町に二代目岩田藤七の長男として生まれる。
1939年 [昭和14年] 小寺健吉画塾に学ぶ。
1941年 [昭和16年] 廣川松五郎に師事、デザインを学ぶ。伊藤熹朔に師事。
1942年 [昭和17年] 和田三造に師事、デッサン、図案を学ぶ。春台美術・本郷研究所に通う。
1944年 [昭和19年] 東京美術学校工芸部図案科入学。
1946年 [昭和21年] 外山卯三郎に西洋美術史およびバウハウス・デザイン運動の理論につき個人教授を受ける。
1947年 [昭和22年] 阿部俊夫(東芝電気ガラス研究所室長)にガラスの科学的基礎を学ぶ。
1948年 [昭和23年] 東京工業大学窯業科ガラス研究室研究生、森谷太郎教授にガラス組成の指導を受ける。株式会社岩田硝子製造所入社。
1949年 [昭和24年] 第5回日展初出品。初入選、以後毎年出品、連続入選。糸子(旧三井物産社長山本正男長女)と結婚。
1950年 [昭和25年] 東京工業大学窯業科ガラス研究室研修修了。
1951年 [昭和26年] 東京美術学校工芸部図案科卒業。
1953年 [昭和28年] 岩田工芸硝子株式会社に社名変更、代表取締役社長となる。
1955年 [昭和30年] 第11回日展特選受賞。国際工芸美術家協会設立、初代理事長。カリフォルニア州博覧会・ブラッセル博覧会にて金賞受賞。
1956年 [昭和31年] 第12回日展特選受賞。
1957年 [昭和32年] 財団法人日本デザイン協議会理事。財団法人世界デザイン会議日本運営設立準備委員。
1959年 [昭和34年] 第2回日展審査員。以後数回。
1963年 [昭和38年] 武蔵野美術大学講師。窯業協会理事(~1967)
1966年 [昭和41年] 第7回国際ガラス会議年会参加。
1968年 [昭和43年] 日本硝子製品工業会評議員。
1971年 [昭和46年] 初の個展開催。
1972年 [昭和47年] 日本ガラス工芸協会創立、初代会長。日展評議員
1973年 [昭和48年] 社団法人窯業協会理事(工芸担当)。
1974年 [昭和49年] 現代工芸美術家協会評議員。
1975年 [昭和50年] 第1回「資生堂現代工藝展」に出品。以後毎回出品。岩田工芸硝子株式会社社長を糸子に譲り、ガラス制作に専念する。
1976年 [昭和51年] 第8回日展文部大臣賞受賞。労働省より技能者表彰審査員委嘱される。
1979年 [昭和54年] 紺綬褒章受章。
1981年 [昭和56年] ホテルニューオータニ鶴の間にガラスによる大装飾壁面製作。
1982年 [昭和57年] 第23回毎日芸術賞受賞。第38回日本芸術院賞受賞
1986年 [昭和61年] ニューヨークメトロポリタン美術館20世紀Design and Architecture部門に藤七・久利・糸子作品が永久収蔵される。
1993年 [平成5年] 最後の個展開催。日展及び資生堂現代工藝展に最終出品。
1994年 [平成6年] 1月8日死去。68歳。

・内田武夫
1913(大正2)年5月10日、東京市四谷区左門町に生まれる。1933(昭和8)年、帝国美術学校西洋画科に入学。在学中の36年に新制作派協会が結成され、その第1回展に出品。翌年の第回展では、新作家賞を受賞。38年、同美術学校卒業、また同協会の第3回展でも新作家賞受賞。41年、同協会の会員となる。53年、同協会の事務所を引き受ける。同年、武蔵野美術学校で後進の指導にあたる。84年、武蔵野美術大学を退職。88年、『内田武夫画集』(日本経済新聞社)を刊行、あわせて自薦展(銀座セントラル美術館)を開催。1993(平成5)年、小山敬三賞受賞、日本橋高島屋にて受賞記念展を開催した。堅実な描写力にささえられた作品は、つねに妥協をゆるさない強さと誠実さが感じられ、上質な写実表現であった。
2000年肺炎のため横浜市青葉区の病院で死去した。享年86。

・恩地孝四郎
父の恩地轍は東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職となる。母は京都出身で轍の2番目の妻である。1891年7月2日、孝四郎は恩地家の第5子4男として、東京府南豊島郡淀橋町に生まれた。東京市立番町尋常小学校を卒業した後、父親の希望した医者になるべく獨逸学協会学校中等部に進学したが、卒業後の1909年には第一高等学校入試に失敗し、その翌年の1910年には父親に背いて東京美術学校予備科西洋画科志願に入学。同時期には白馬会原町洋画研究所に通い始め、池内三郎、田中恭吉、藤森静雄などと出会った。1911年には東京美術学校予備科彫刻科塑像部志望に入学し、6月には竹久夢二らとともに『都會スケッチ』を刊行。7月には現在確認できる恩地の初めての装幀本である西川光二郎の『悪人研究』が刊行され、さらには竹久の主宰雑誌『櫻さく國 白風の巻』に絵と詩を発表した。1912年には東京美術学校予備科西洋画科志望に再入学し、『少年界』『密室』などに油彩画やペン画など様々な作品を発表した。

1914年1月には恩地家に寄宿していた女子美術学校の学生と婚約。同年3月、日比谷美術館で開催された木版画展でワシリー・カンディンスキーらドイツ表現主義作家の抽象版画に深く共鳴し、この頃に版画の創作を始めたと思われる。春から夏にかけて田中・藤森とともに同人誌『月映(つくはえ)』(私輯)を6輯まで発行し、9月には洛陽堂から自画自刻の木版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』(公輯)が刊行。この頃から北原白秋や室生犀星や萩原朔太郎との交友がはじまり、月映は7輯に達した。恩地は16歳の時に三兄を、19歳の時に妹と次兄を亡くしているが、24歳だった1915年に親友の田中の死を経験し、生の苦悩や歓喜を表現した作品を多数生みだした。1915年には日本の近代絵画最初期の抽象作品と言われる『抒情』シリーズを発表し、1916年には2年の婚約期間を経て結婚。1917年には萩原の第一詩集『月に吠える』の装幀を担当した。1918年には山本鼎、織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、1919年1月の展覧会開催に尽力した。1920年には初子となる恩地邦郎が誕生し、翌1921年には第2子が誕生。この時期には具象的な油彩作品も製作された。

1927年には帝国美術院展(帝展、現在の日展)が版画の受理を初めて認め、同年に『幼女浴後』が初入選を果たした。1929年には平塚運一や川上澄生、藤森とともに創作版画倶楽部を設立し、『新東京百景創作版画』の頒布が開始されている。1931年には日本創作版画協会や洋風版画協会の面々が結集して日本版画協会が結成され、恩地はその常任委員に就任しているほか、1936年には国画会版画部の会員に推挙された。1939年には関野凖一郎や山口源とともに版画の研究会である「一木会」を開き、守洞春、若山八十氏などの後進の指導にあたった。

海外で開催された日本の版画展に目を向けると、1934年にはパリの装飾芸術美術館(Musée des Arts Décoratifs)で開催された「日本現代版画とその源流展」に7点を出品し、1936年にはジュネーブ市博物館で開催された「日本の古版画と日本現代版画展」に10点を出品している。また、同年7月にはサンフランシスコ市立デ・ヤング記念美術館(M. H. de Young Memorial Museum)で行われた「日本現代版画展」に複数作品を出品し、翌年までに恩地の作品はロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、リヨン、ワルシャワ、ベルリンを巡回した。

戦時中も製作の手を休めなかったが、戦後は抽象版画に傾倒し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズが同時進行的に製作された。これらの抽象作品は日本人より先に、日本に駐留するアメリカ人に評価され、多数の作品がアメリカに持ち帰られた。1953年6月には国際版画協会が創立され、恩地は初代理事長に選ばれた。同じ頃には岡本太郎や村井正誠、植村鷹千代とともに国際アートクラブ日本支部を発足させている。1955年4月頃に心身の不調を訴え、東京大学医学部附属病院に入院するが、5月に退院して自宅療養を続けた。6月3日に死去し、品川区上大崎の高福院に葬られた。享年64。法名は勝徳院真誉孝淳居士。

・木下 孝則
同じく画家の木下義謙は実弟。父の友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。

学習院中等科を経て学習院高等科を卒業する。 京都帝国大学法科大学政治経済学科および東京帝国大学文科大学哲学科をいずれも中退。このころに小島善太郎など複数の画家と知り合い、油絵を開始。1921年、二科展に入選。その後フランスに留学。帰国後に二科会展で樗牛賞および二科賞受賞。1936年に二科会と一水会創立会員になった。1958年には日本芸術院賞受賞。1973年に没し、勲四等旭日小綬章受章。木下の作品には、女性をモチーフとしたものが多かった。

・木下義謙
明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。
1996年心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。

・久保孝雄
大正7年2月17日東京・新宿区に生れた。早稲田中学を経て、昭和13年3月第二早稲田高等学院を卒業し、更に同年4月東京美術学校彫刻科に入学、同17年9月同校を卒業し、まもなく軍隊へ終戦で復員するまで応召した。美校卒業直前の第29回二科展には「Nの首」が初入選したが、本格的な製作活動は戦後まで延期される。昭和22年第11回新制作派展に「刑務官吏の像」が初入選し、以来20年近く新制作に終始所属し、27年には会員に推挙されたが、戦後の混乱期のなかでのスタートは、清新な感受性が好評で、むしろ順調な進展ぶりをみせた。彼が会員に推された頃からは、戦後学校を出た新人たちが活躍しはじめ、先輩も含めて彼の周囲からは抽象彫刻が現われ出し、更に彫刻に対するものの考え方がはげしくゆれ動いた時期であったが、彼はそうした動きに強い関心を寄せながら、質実な写実的作風を頑強に固執するところがみられた。加えて、第18回展(昭29)「ボス」、第20回展「貯金箱」、第22回展「敗け鬼」「捕われた鬼」などには諷刺的で彼独特の自虐内攻型の製作態度がうかがわれ、第25回展(昭36)「真夜中の椅子」になると、意識的に一種のシュールレアリズムヘの志向をみせた。そのように基本的にはマッシヴな量塊の構築にありながら心理的な陰影をこめた作品に特色を示した。晩年の39年、第6回現代日本美術展でコンクール賞を獲得した「留学生M」(ブロンズ)や第7回現代展(41年)出品の「Jの首」(木彫)など、従来の堅実な写実から一歩進めて確信にみちた彼独自のフォルムを示し始めながら、中絶してしまったことは誠に惜しまれる。
作品年譜
昭和17年 現代彫塑院「胸像」努力賞。第29回二科展「Nの首」入選。
昭和22年 第11回新制作派展「刑務官吏の像」初出品東京駅大レリーフ制作。
昭和23年 八王子市立第5中学校奉職。第12回新制作派展「Mさんの肖像」出品。
昭和24年 5月、第3回美術団体連合展<毎日新聞社>「男の首」出品。7月、八王子第5中学校退職。第13回新制作派展「Uの顔」新作家賞受賞。
昭和25年 サロン・ド・プランタン出品佳作賞。第14回新制作派展出品。
昭和26年 第15回新制作展「少女の首」「O君の胸像」出品。
昭和27年 第16回新制作展「俘囚習作」「彫刻家N」「農夫H」出品、会員に推挙さる。
昭和28年 第17回新制作展「首」「坐像」出品。「牧野富太郎博士像」。
昭和29年 新制作協会会員展「上林さん」出品。第18回新制作展「ボス」出品。「野上豊一郎博士像」「大内隼人氏母堂像」。
昭和30年 第19回新制作展「N氏の像」「私の像」出品。「永戸久四郎氏像」。
昭和31年 中央公論社画廊個展(少女像、関取、桃太郎と鬼、他)。第2回現代日本美術展「Sの像」出品。新鋭15人展出品。第20回新制作展「貯金箱」出品。「渡辺氏母堂大黒像」「上林暁氏像」「府中市立プール・少女像(セメント)」。
昭和32年 第4回国際美術展「四股」出品。第21回新制作展「歓喜天」「顔」出品。「大西氏像」。
昭和33年 木内岬と二人展(於・村松画廊)。第22回新制作展「敗け鬼」「捕はれた鬼」出品。「林譲治氏像」「仙波繁雄氏像」「林国蔵氏像」。
昭和34年 第5回国際展「鬼」。木内岬と二人展(かがむ裸婦、他)。第23回新制作展「Aの像」「時代」出品。
昭和35年 木内岬と二人展。第4回現代展「腕組む男」「顔」出品。第24回新制作展「Jの像」「O像」「トルソ」出品。
昭和36年 第25回新制作展「真夜中の椅子」「女の像」出品。「船堀鍛工所社長像」「夏苅伸光氏像」。
昭和37年 2月、扇儔彫塑展(於・新宿第一画廊、戦中世代の彫刻家11名、中村伝三郎協力)「女」「生存のための秩序A」「生存のための秩序B」出品。春の野外彫刻展(於・日比谷公園)「母子(セメント)」出品。第26回新制作展「Uの像」「力士T」出品。「菅礼之助氏像」「朝汐像」「栃光像」。欧州旅行。
昭和38年 第27回新制作展「Yの像」「将軍と兵1・2・3」出品。「田辺尚雄氏像」。
昭和39年 第6回現代展「留学生M」コンクール賞受賞。第28回新制作展「稽古」「Oの像」出品。「小川氏像」「本田弘敏氏像」。
昭和40年 3月、第2回扇儔展(新宿・さくらぎギャラリー)「Iの像」「Mの像」出品。第8回国際展「壁(セメント)」出品。第29回新制作展「トルソ」<静岡県農業会館蔵>「Iの胸像」「Tの像」出品。
昭和41年 第7回現代展「Rの像」「Jの像(木彫)」出品。第30回新制作展「女立像」「Sの像」出品。10月、国際造形芸術連盟展「留学生M」「Jの像」招待出品。
昭和42年 2月入院、3月12日逝去。「水戸清雄氏家族レリーフ」、「女の立像(絶作)」。

・倉田三郎
東京市牛込区出身。葵橋洋画研究所で黒田清輝らの指導を受ける。1922年東京府師範学校卒、1926年東京美術学校師範科卒。光風会、二科会、春陽会に出品。1932年春陽会賞受賞、36年同会会員。1949年東京学芸大学教授、66年定年退官、名誉教授。1966年国際美術教育学会会長。1994年多摩総合美術展の洋画部に倉田三郎賞が設けられた。作品に「粟ノ須風景」など。

・小島善太郎
小島鎌太郎の六男として新宿に生まれる。16歳で画家を志し、安井曾太郎の弟子となる。1920年、東京府主催巽画会展で『やわらかき光』で賞を受賞。野村徳七(野村證券社長)の後援により、1922年にフランス・パリに留学。現地の画家に教わり、サロン・ド・ドーンヌ展で『パリ郊外』が入選した。そのほか、二科展出品作『林中小春日』が二科展賞を受賞したほか、二科展出品作『初夏の緑』で会友推挙となる。『ヴァイオリンを弾く男』は東京国立近代美術館に保存された。八王子市では「多摩の風土に生きて50年 小島善太郎展」を開催。1984年、心不全で没した(91歳)。

2000年代、八王子市夢美術館や日野市民会館などでは、「小島善太郎展」が開かれている。また2013年には、日野市百草に、「小島善太郎記念館」が開館した。

・斎藤義重
1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将)であり、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。義重は7人兄弟姉妹の次男(兄1人・姉2人・妹2人・弟1人)だった。

4歳だった1908年には父親の陸軍第14師団転属に従って栃木県宇都宮市に転居し、栃木県尋常師範学校附属幼稚園(現・宇都宮大学共同教育学部附属幼稚園)に通った。この頃の父親の書斎にはヨーロッパ建築やヨーロッパ絵画の絵葉書などがあり、斎藤は幼い頃から美術に興味を示した。1911年には父親の異動にともなって東京市(現・東京都)新宿区市谷加賀町に転居、その後かつて島村抱月が住んでいた新宿区市谷薬王寺町の家に移り、東京市牛込尋常小学校(現・新宿区立牛込仲之小学校)に入学した。小学校高学年から中学時代には、たびたび『アントニオとクレオパトラ』や『クオ・ヴァディス』などのイタリア映画、『ジゴマ』などのフランス映画、黎明期のハリウッドの連続映画などを鑑賞している。青年期の1920年代にはチャールズ・チャップリンよりもバスター・キートンを好んだが、尾上松之助などの人気が高かった邦画には関心を示さず、映画に関しては友人たちと会話にならなかったという。

1917年には日本主義思想家の杉浦重剛が設立した東京府(現・東京都)松沢村(現・世田谷区)松原の日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)に入学し、先輩に中西利雄(後に水彩画家)などがいた美術クラブに入部。厳格な父親が死去してから油彩用の画材を手に入れ、日本中学時代には油彩の風景画や人物画を制作した。ポール・セザンヌを模倣した絵画を制作し、フィンセント・ファン・ゴッホのように写生をしていたという。学生時代にはロマン・ロラン、フョードル・ドストエフスキー、アントン・チェーホフなどの外国文学を読みあさり、日本の近代文学では佐藤春夫や芥川龍之介や武者小路実篤などを読破している。

1920年秋には京橋の星製薬会社で開催された「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を鑑賞し、ロシア未来派のダヴィド・ブルリュークやヴィクトール・パリモフらの絵画制作手法に強い刺激を受け、この経験は後のちまで創作活動に影響を与えた。先輩の中西は東京美術学校西洋画科卒業後にフランスに留学する洋画家として王道のコースをたどるが、斎藤は伝統的な教養主義にもどかしさを感じ、写実的な絵画制作に行き詰って絵画から遠ざかった。当時は大正デモクラシーの下で前衛芸術運動が活発化しており、未来派、ロシア構成主義、絶対主義、ダダイスムなどの美術思想が、アナーキズム、社会主義などの政治思想、ニヒリズムなどの哲学思想と融合する過程にあった。「意識的構成主義」を掲げて展覧会を開催していた村山知義によって京橋区(現・中央区)築地の築地小劇場で開催されたゲオルグ・カイザーの演劇公演『朝から夜中まで』などの影響で斎藤は文学に傾注し、1925年頃には絵画制作よりも文学活動の比重が高まっていった。1928年には小石川区(現・文京区)小石川にある喫茶店に立体作品を展示させてもらっている。

1929年頃に触れた構成主義やダダイスムの影響で再び美術に戻り、1930年頃にはふたたび文学よりも造形活動に比重を置くようになった。27歳だった1931年には二科展にレリーフ状の作品を出品しようと試みたが、この作品は絵画とも彫刻とも判然としなかったために失敗。1933年には駿河台で東郷青児、阿部金剛、古賀春江、峯岸義一らが主宰するアヴァンギャルド洋画研究所に入所。斎藤は洋画ではなく抽象的傾向の作品や立体的コラージュなどを制作し、ここでは桂ユキ子(桂ゆき)や山本蘭村と知り合っている。1935年にはアヴァンガルド洋画研究所を離席し、詩人の瀧口修造や北園克衛と出会った。

1936年には第23回二科展で「出立」と「アブストラクト」が初入選。同年には第14回黒色洋画展にも出品し、1937年には第24回二科展で再び入選した。「カラカラ」と呼ばれる構成主義的な連作レリーフを制作し出したのは1936年頃であり、37年を経た1973年には記憶と写真を元に再制作している。1938年には山元敬輔や高橋迪章らと絶対象派協会を結成して第1回展を開催。また同年には二科会内の前衛画家による九室会に入会し、1939年には第1回九室展に出品した。九室会は分科会ながら吉原治良や山口長男など41人が参加する大所帯であり、シュルレアリスム的な作品を制作する作家が多数を占め、抽象的傾向の作家は斎藤や吉原ら数えるほどだった。斎藤は次第に構成主義に対して批判的となり、斎藤自身が後に「トロウッド」と名付ける合板レリーフのシリーズの制作を開始したのはこの頃である。いわゆる抽象絵画を制作した時期は吉原や長谷川三郎らと同時期だったが、たがいに影響されることはなかったという。

1939年には美術文化協会の創立同人に名を連ねたが、1953年には美術文化協会を退会し、以後はどのような団体にも所属していない。戦争前は瀧口などシュルレアリスムを志向する人物が検挙された時代であり、1941年には斎藤のアパートに特高警察の官憲が踏み込んできたこともあった。30代後半までは一度も定職に就くことなく暮らしていた斎藤だが、太平洋戦争中には出版社や軍用石鹸工場などで初めて勤め人としての暮らしを経験した。

1942年頃には経済誌「ダイヤモンド」の刊行に関わり、東京・日本橋にある軍用石鹸工場の事務所で終戦を迎えた。軍用石鹸工場で働いていたことで、徴用、召集、在郷軍人の教練などの一切を回避している。戦時中はほとんど制作活動を行えず、また終戦直前に作品群、ノート、書類などを空襲で焼失した。1946年からは婦人雑誌「家庭文化」の刊行に携わっていたが、1947年から1949年には写真家大辻清司の家に居候して作品の制作に取り組んだ。

1949年には結婚し、1950年には長男が、1952年には次男が生まれたが、経済的な困窮によって1954年には離婚。当時は漁村にすぎなかった千葉県東葛飾郡浦安町にあった佐久節直の家に居候し、6畳のアトリエで作品を制作。ペンキ屋の仕事を手伝いながら、ペンキ屋から入手したベニヤ板で7、8点を制作したが、作品を預けていたペンキ屋が転居したためにこの頃の作品は行方知らずとなった。

1956年には国立近代美術館が主宰した「抽象と幻想」展に出品。1957年には第4回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)でK氏賞を受賞し、同年には朝日新聞社が主催する今日の新人57年展新人賞を小野忠弘とともに受賞したが、この時の斎藤はすでに53歳だったため、「日本画壇の奇跡」として騒がれた。

1958年には瀧口の紹介によって、東京・銀座の東京画廊で初の個展を開催し、13作品が完売したのを皮切りに、1960年、1962年、1963年、1973年、1976年、1980年、1991年、1994年、1999年にも同画廊で個展を開催している。斎藤は東京画廊と専属契約を結んで生活を安定させ、売上は東京画廊と斎藤とで配分した。国内外の展覧会には必ず東京画廊から出品し、特に画廊主の山本孝はヨーロッパで斎藤を売り込んで成功した。

1963年にスイス・ローザンヌで開催された第1回ローザンヌ国際前衛画商展では、世界各国の全17画廊がそれぞれ複数の前衛作家の作品を持ち寄ったが、東京画廊だけは斎藤ひとりに賭け、美術館主催の展覧会としては異例の1/3もの作品が売れた。なお、1960年代前半当時の斎藤の作品の売価は、4号で約12万円、よく制作する120号で96万円、国外では発送料や保険料などが加算されて120号が102-103万円になったという。当初は1号あたり2000円から始めたが、わずか数年間で1号あたりの価格は数倍になったという。斎藤の作品は日本で4割、日本国外で6割と、日本国外での販売数の方が多く、アメリカやフランスにもコレクターが存在した。ローザンヌでの展示後にはドイツ・ミュンヘンのフリードリッヒ・ダーレム画廊に持ち込まれたが、ローザンヌでもミュンヘンでも斎藤の作品は変わらず歓待された。

1957年の日本国際美術展K氏賞と今日の新人57年展新人賞に始まり、1963年の7年間には国内外で異例とも言える9個もの賞を受賞した。1958年には現代日本絵画ヨーロッパ巡回展、オーストラリア巡回展、ニュージーランド巡回展、カーネギ―国際美術展などに出品。1959年には第5回日本国際美術展で国立近代美術館賞を受賞し、「ペインティングE」で国際美術評論家連盟賞を受賞。また1959年の第5回サンパウロ・ビエンナーレには電気ドリルで合板に線や穴を描いた連作を出品している。1960年5月から8月には第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加するためにはじめてヨーロッパに渡り、ルーチョ・フォンタナのアトリエやパリを訪れた。ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館には斎藤の他に浜口陽三(版画)、佐藤敬(洋画)、今井俊満(洋画)、豊福知徳(彫刻)、小野忠弘(洋画・彫刻)などが出品し、アンフォルメルを定義したフランス人美術評論家のミシェル・タピエは斎藤の作品を「私にとって新しい発見」と語っている。

日本帰国後の1960年8月には浦安から東京都港区青山に移ったが、青山で暮したのは短期間であり、1961年3月には横浜市磯子区屏風ヶ浦に転居して再婚した。1961年には再び日本国際美術展に出品し、第6回サンパウロ・ビエンナーレでは国際絵画賞を受賞している。同年にはグッゲンハイム国際美術展にも出品して優秀賞を受賞した。1960年代前半には世界各国の画廊から個展の開催依頼が殺到し、1963年から1965年にはフランスにおける前衛芸術の拠点とも言えるギャラリー・ド・フランス(パリ)、フリードリッヒ・ダーレム画廊(ミュンヘン)、イタリア・ミラノの第一級画廊であるナヴィリオ画廊(ミラノ)、などで個展を開催している。

1963年には晩年まで長く住む横浜市南区六ツ川に転居。この場所は大辻清司曰く「横浜市で2番目に高い丘の上」であり、斎藤曰く「晴れぐあいがいいと、海と房総の山並みが見える」場所にある。アトリエながら南側にも大きなガラス戸があり、その外壁には訪れた人によるサインや落書きが描かれている。1964年には多摩美術大学教授に就任し、斎藤義重教室からは関根伸夫、吉田克朗、本田眞吾、成田克彦、小清水漸、菅木志雄など、「もの派」の美術家が数多く生まれた。二村裕子によると多摩美のほとんどの学生が斎藤教室を選択したという。関根は東京藝術大学受験に失敗して入学した多摩美で表現主義的抽象を追い求めていたが、3年時に教授に就任した斎藤と出会ってスタイルを覆された。

1964年には長岡現代美術館のために壁面レリーフと前庭を制作している。アメリカ合衆国の美術館を「新しい日本の絵画と彫刻展」が巡回した関係で、1965年から1966年には半年間ニューヨークに暮らし、ジャスパー・ジョーンズ、草間彌生、荒川修作、河原温などと出会った。アメリカでは実験音楽家ジョン・ケージの音楽会を鑑賞したり、前衛芸術運動団体フルクサスの公演を鑑賞している。「ドリルの時代」以後には、合板にラッカー塗料を塗った明快な作品が特徴であり、「クレーン」シリーズや「ペンチ」シリーズなどを制作した。

1969年には多摩美紛争で大学理事会と対立し、1970年以降は同大学で一切の講義を持つことはなかった。1971年には磯崎新が設計した福岡相互銀行本店の応接室Aのインテリアデザインを手がけ、1972年には京都ロイヤルホテルのロビーにあるレリーフ彫刻を制作した。1973年に多摩美術大学を退職。同1973年にはエジプトを旅行し、ピラミッドの造形に刺激を受けた。1974年には針生一郎や中原佑介などとともに現代文化センター(CCC)を設立。1978年には東京国立近代美術館で初期からの作品108点を回顧する「斎藤義重展」が開催された。

1980年代には立体と平面を組み合わせた「反対称」シリーズや「反比例」シリーズを制作。1982年には飯塚八朗とともに斎藤の教育哲学を反映させた東京芸術専門学校(TSA)を設立し、当初は講師として、1985年からは校長として若い芸術家の育成に当たった。1983年にはジュネーブ歴史美術館などで「今日の日本美術展」が開催されたのを機にヨーロッパを旅行し、イギリスではストーンヘンジに興味を抱いた。

1984年には東京都美術館など5館で「斎藤義重展」を開催。1985年には第18回サンパウロ・ビエンナーレに出品。実験的手法による現代美術への貢献が評価されて、1985年には昭和59年度朝日賞を受賞した。1980年代末には平面と立体の区別を付けないインスタレーション作品「複合体」シリーズを開始した。1993年には横浜美術館ほか2館で「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木」を開催、1999年には神奈川県立近代美術館で「斎藤義重展」を開催した。1996年にはT&Sギャラリーを開館させている。

2001年6月13日、心不全によって横浜市内の病院で死去した。97歳だった。死後の2003年1月から2004年3月には、岩手県立美術館など5館で回顧展が開催された。

・斎藤素巌
東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科卒業。

1913年、英国へ渡り、ロイヤル・アカデミーで彫塑を学んで1916年に帰国、東京・本郷菊坂町に落ち着き、のちに田端文士村に転居。1918年、第12回文展で「敗残」が特選。1926年、日名子実三とともに彫刻と建築の総合をめざして構造社を結成。1943年、現在の小平市学園東町に転居。

1935年、帝国美術院会員、1937年、帝国芸術院会員。1949年、日展運営会理事、1952年、国立近代美術館評議員、1958年、日展常務理事、1969年、日展顧問。1965年、勲三等瑞宝章受章。

・菅野圭介
1909年東京府(現在の東京都新宿区)に四人兄弟の末っ子として生まれる。父は早稲田大学で英語文学を教えていた。17歳ごろから油絵を描き始め、京都帝国大学(現在の京都大学)に入学するも、ほとんど授業には出席せずに下宿で絵を描いていた。1933年京都大学を除籍になると、本格的に絵描きとして活動を開始。1935年からは欧州を巡遊しながら作品制作を行う。

同じく画家の三岸節子は1948年から「別居結婚」と銘打ち事実上の婚約関係にあったが、1953年に破局。翌年、最後の妻となる須藤美玲子と結婚する。

晩年に「ワンパターン」との悪評が立つ。画商で自身の作品の取り扱いがされなくなると、自身の手で直接作品販売を行うようになるが、それにより画商との関係が修復不能なまでに悪化。1963年、慶應病院にて食道がんのため死去。病室では天井に白い紙を貼り、そこにイメージで絵を画いていたという。死後は一時、美術業界から忘れ去られた作家となる。
複数の美術コレクターが中心となり、菅野圭介の再評価に向けた活動が行われた。没後27年経った1990年に大川美術館にて展覧会が開催される。その後、平塚美術館、東御市梅野記念絵画館・ふれあい館、北九州市門司税関などで企画展が開催される。

・清宮質文
1917年(大正6年) - 東京府豊多摩郡内藤新宿北裏町(現在の東京都新宿区)に生まれる。
1935年(昭和10年) - 麻布中学校卒業。
1937年(昭和12年) - 東京美術学校油画科(現在の東京芸術大学)に入学。藤島武二教室に入り、4年からは田辺至教室で学ぶ。
1942年(昭和17年) - 東京美術学校を卒業。長野県上田中学校の美術教師となる(翌年辞職)。
1944年(昭和19年) - 慶応義塾工業学校の美術教師となるが、同年中に応召される。
1945年(昭和20年) - 東京大空襲で実家が被災し、これまでに制作した作品が焼失。慶応義塾工業学校に復職(1949年辞職)。
1954年(昭和29年) - 春陽会第31回展(東京美術館)に『巫女』を初出品、初入選する。岡鹿之助の激励を受ける。以降、1974年の第51回展まで毎回出品する。
1959年(昭和34年) - 松井亮子と結婚。
1960年(昭和35年) - 自身初の個展、清宮質文木版画展が東京・南天子画廊にて開催される。『キリコ』、『はるかなるもの』、『火を運ぶ女』など20点余りを出品する。
1974年(昭和49年)- 春陽会第51回展(東京美術館)に『告別』を出品、春陽会展における最後の出品となる。
1991年(平成3年) - 心筋梗塞のため西荻窪の山中病院で死去。

・中堀慎治
1956 3月15日東京に生まれる
1974 多摩美術大学絵画科(日本画専攻)入学
1975 神奈川県展('85)
渡米(ニューヨーク・アート・ステューデント・リーグに在籍)
1978 多摩美術大学(絵画科)卒業
インド取材旅行
1984 三人展('85,'86)
1985 第1回川端龍子賞展
1990 個展('91,'92 Gallery.A.P.)
東京セントラル美術館日本画大賞展招待出品
1991 "NO.11クリエイション"亀倉雄策(編)リクルート刊特集掲載
1992 豊穣の会展(東京、夏目美術展 以降毎年)
1993 第2回管楯彦大賞展
1995 個展(日本橋三越本店)(高知大丸)
求龍堂より画集刊行
風靡の回(東京、夏目美術展 以降毎年)
1997 二人展(G・スペース・アンタイトル ニューヨーク・東急本店)
1999 個展(日本橋三越本店、高松三越)
2002 徳島県安楽寺 天井・襖絵製作開始
月刊「Voice」(PHP出版)表紙絵担当('02~'03)
2003 個展(東京美術倶楽部)
2004 個展(画廊アート豊翔)
2005 中国国際画廊博覧会出品(ギャラリー野田)
アートフェア東京出品(ギャラリー野田)

・馬場彬
1955年東京芸術大学美術学部洋画科を卒業。美術団体に属すことなく、1955年に開設されたサトウ画廊の相談役をつとめ、1956年の初個展から同画廊で多くの個展を開催した。 1960年第4回シェル美術賞展に油彩画の「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」「作品No.4」を出品し3席となる。 1984年に当時の西ドイツに渡り、1986年までケルンに滞在する。帰国の年、東京のMギャラリーで個展を開催して滞欧作を発表。 初期から、平板な色面の幾何学的形体をモチーフに色と形が画面に作り出す調和、均衡、動きを模索し、吉仲太造、深沢幸雄らとともに戦後の抽象絵画の主要な作家の一人として活躍した。

・藤田喬平
東京美術学校で彫金を学ぶが、途中でガラス工芸に転向する。その後、イタリアで学んだ色ガラスと金箔を混ぜた飾筥(かざりばこ)で独自のガラス工芸分野を確立した。
1989年(平成元年)日本芸術院会員、1997年(平成9年)文化功労者、1999年(平成11年)、市川市名誉市民、2002年(平成14年)文化勲章受章。

宮城県宮城郡松島町(日本三景・松島)に、藤田喬平ガラス美術館がある。

・藤田嗣治
藤田嗣治は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(L?onard Tsugouharu Foujita、レオナール・フジタとも)。
第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。

・藤本能道
東京府・南豊島郡大久保村(後の東京市淀橋区、現・東京都新宿区)出身。麹町小学校、府立一中を経て、1931年に東京美術学校工芸科図案部卒業後、文部省技術講習所に入所する。翌1932年、加藤土師萌に師事。1938年には富本憲吉の助手を務めながら、九谷焼系の色絵磁器の技法を習得する。一時は輸出陶磁器のデザインや窯業技術指導を行うなど、陶器の制作を主にしていたが、再び色絵に着手し、1968年第31回光風会展で「礎器色絵花瓶」が光風工芸賞を受賞する。以後は釉薬や描画法の研究に励んだ。

1946年には日展、国展に初入選。1956年日本陶磁協会賞、1965年日本工芸会東京支部展受賞、同年ジュネーブ国際陶芸展で銀賞(「赤絵大壷」)。その後も日本伝統工芸展等で作品を発表した。

1963年、 東京都青梅市に築窯する。着彩を白磁焼成の本焼工程前に行う独自の描画方法を確立。その技術が評価され、1986年4月28日に重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定される。

東京芸術大学教授を経て、1985年から5年間は学長を務めた。

1991年、勲二等旭日重光章受章。

1992年5月16日、東京都葛飾区で逝去。

・山本豊市
戸張孤雁に師事。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。

1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。

1899年-東京新宿で生まれる
1917年-戸張孤雁に師事する
1923年-日本美術院院友に推挙される
1924年-フランスへ留学
1925年-アリスティド・マイヨールのアトリエを訪ね、師事を許される
1928年- シベリヤ経由で清水多嘉示と帰国
1939年-『マイヨール』論著作 アトリエ社刊『西洋美術文庫』16巻
1950年-新樹会に木内克、清水多嘉示らとともに迎えられる
1951年-第1回サンパウロ・ビエンナーレに出品
1953年-4月、東京藝術大学教授となる 第五回毎日美術賞受賞
1955年-第一回個展(ブリヂストン美術館)
1956年-第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品
1957年-第二回個展(ブリヂストン美術館)
1960年-大船観音修復制作完成
1961年-日本美術院彫塑部解散。彫刻集団S.A.S結成
1963年-S.A.S、国画会と合同。国画会会員となる
1966年-『山本豊市彫刻回個展』 (東京藝大陳列館)
1967年-愛知県立芸術大学教授となる
1968年-東京藝術大学名誉教授の称号を受く
1970年-『彫刻50年-山本豊市作品展』(日本橋髙島屋・名古屋松坂屋・大阪阪神)
1972年-勲三等瑞宝章受く
1983年-文化功労者に顕彰される
1987年-東京にて没

・横地康国
華道相阿弥流十九世家元でもあり、華名を宗象円。明治44(1911)年8月31日東京都新宿区に生まれ、海城中学校を経て昭和12年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科を首席で卒業した。美術学校在学中の同9年、JAN(青年美術家集団)を結成、同11年には第6回独立展に出品する。同14年美術文化協会創立に会員として参画したが同16年に退会した。戦中、長野県で教壇に立ったが戦後の同24年神奈川県大磯に移り、独立展に復帰し同24年第17回独立展に「砂丘の船」「蛸壷と魚と海草」で独立賞を受賞、同26年独立美術協会会員となり、同年武蔵野美術学校講師(同37年武蔵野美術大学教授)に就任した。同31年以降、現代日本美術展、日本国際美術展へも出品した。同39年第32回独立展に「光をもとむなかれ」「あまかけるむれ」でG賞を受賞。翌40年には、父宗庭から華道相阿弥流十九世を継承した。国際形象展(同40~46年)、日本現代の裸婦展(同43、44年)などに出品した他、個展もしばしば開催し、同49、50年の両年には、東京・日本橋東急で「日本神話シリーズ」を開催した。同56年武蔵野美術大学図書館で回顧展が開催され、同58年同大学を退職、武蔵野美術大学名誉教授の称号を受けた。翌59年、東京セントラル美術館で「横地康国回顧展」を開催、同年『横地康国作品集』(美術出版社)を刊行した。この間、日本いけばな芸術家協会評議員、同理事を歴任した。
1990年6月24日呼吸不全のため東京都新宿区の国立病院医療センターで死去した。享年78。

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