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白雪石(はくせつせき)
1915年~2011年 中国北京出身
幼いころより絵画を学び、若い頃は趙夢朱、その後は梁樹年に師事した。
1937年~1948年には個展を何度も開き、また湖社画会、中国画研究会にも参加した。
後に北京師範学院、北京芸術学院で教鞭をとり、中央工芸美術院教員、北京山水画研究会会長にも従事した。
多数にわたり中南海、人民大会堂等の大作を製作し、海外でも展覧会を開いた。
桂林を題材とした青緑山水画(青色,緑色のほか各種の顔料や金泥を用いて描いた山水画)は白雪石の作風を最大に体現したものである。
呉湖帆(ごこはん)
1894年~1968年 中国江蘇省蘇州出身 中国の画家・書家・鑑定家
初名翼燕、のち萬、字は橘逡または東荘、呉大澂の孫。
両祖父から受け継いだ古書画や古銅器を守りながら絵画を学んだ。
陸恢に学び山水をよくし、二十五歳で生業と、のちに上海に出て、正社書画会を経営し、梅景書屋で画法を教授した。
花卉、墨竹もたまに描き、俊逸淡雅と評された。
また、書画の鑑定に明るかったという。
沈周(しんしゅう)
1427年~1509年 中国の書画家
沈周は、幼少の頃から人並み外れて聡明で一度読んだ書物はすぐに覚えてしまうほど記憶力が良く、幼い頃から陳寛に師事し、成長してからは経伝子史百家を幅広く学び、医術や占術、民間の通俗史書や伝奇物語まで読んだという。
そして、最終的には中国の明代中期の文人にして画家で、文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。
また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をと残し、書家としても活躍。
詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高く、沈周・文徴明・唐寅・仇英の四人で、「明四大家」と称された。
乾隆帝(けんりゅうてい)
1711年~1799年 清の第6代皇帝
清の皇帝に25歳で即位すると、その後はジュンガル、四川の金川、グルカに2回ずつ、回部及びバダフシャーン、台湾、緬甸、越南に1回ずつの計10回の遠征(十全武功)を行い、領土の拡大を行った。
内政として、古今の優れた書物を書き写し、四庫全書を残した。
また、本人も数多くの漢詩を作成した。
88歳で死去。
黄公望(こうこうぼう)
1269年~1354年 中国江蘇省出身 中国の水墨画家
倪瓚・呉鎮・王蒙と並び「元末四大家」と賞されるが、その中でも最も広い作風で、後代に多大な影響も与えた。
元代は士大夫の登竜門であった科挙が不定期にしか実施されず、行われたとしても旧南宋領域の住人には著しく不利であったため長らく官に就くことができず、40歳を過ぎて初めて蘇州の属吏となった。
しかし、程なく黄自身は無関係の徴税不正事件により失職する。
その後黄は官途に就かず占い師や戯曲家、道士などの遍歴を重ねるが、趙孟頫の知己を得て絵画を志し、50歳を過ぎて本格的な画家活動に入り『九峰雪霽図』等の作品を生み出した。
また、晩年に制作された『富春山居図』は水墨画の代表的な傑作として知られている。
藍瑛(らんえい)
1585年~1664年(没年に異説あり) 中国浙江省出身 中国(明)の画家
藍瑛は、初めは地元で画を学びますが、その後は江南の各地に遊学し、当時の江南随一の文人であった董其昌や陳継儒の知遇を得て、彼らの収蔵する様々な古画と文人画の理念を学んだ。
晩年に杭州に帰り多くの弟子を育てた。
杭州の伝統的な画派である浙派の雄大な構図法に、当時の江南の地で流行していた清雅な文人画法を取り入れ、新しい画風を確立。
その画風は家族や弟子に受け継がれ、武林派と呼ばれる為、「浙派の殿将」や「武林派の始祖」と呼ばれる。
日本でも池大雅をはじめ、江戸時代の南画家たちにも大きな影響を与えた。
劉旦宅(りゅうたんたく)
1931~2011年 中国浙江省出身 中国の画家
1950年から上海に住み、出版社の本の挿絵の制作を行った。
のちに『紅楼夢』という連環画を作成した。
上海人民美術出版社専業画家や上海師範大学美術系主任教授を務めた。
賀天健(がてんけん)
1891年~1977年 江蘇省無錫出身 中国の画家
8歳より書画を学ぶ。
1915年に無錫高等学校美術教員となるが、2、3年後上海に移り作画に専念した。
中央美術学院民族美術研究所研究員・中国美術家協会理事・上海市文学芸術界聯合会委員等を歴任した。
山水画・人物・花卉を得意とする。
羅聘(らへい)
1733年~1799年 中国の画家
清代中期の画家であり揚州八怪(金農・黄慎・李鱓・汪士慎・高翔・鄭燮・李方膺・羅聘)の一人で、金農の最晩年の弟子にあたり、師の没後その遺稿を出版した。
人物や墨梅、墨竹、花卉等をよくし、白昼に鬼がみえると自称して『鬼趣図』という作品を描いていた。
66歳で死去。
董其昌(とうきしょう)
1555年~1636年 中国出身 中国の文人画家
幼少時 高級官僚にして書家で名を残した莫如忠の書生となり、その子是龍に兄事した。
1568年 科挙の童試に合格し諸生となる。
1589年 35歳にして殿試に及第し進士となり翰林院庶吉士となり、次いで編修、光宗が皇太子の頃の教育係等を歴任し高級官僚の道を歩む。
1599年 政争に巻き込まれて左遷され、病気を理由に職を辞して帰郷。
1621年 光宗が即位しその招聘を受け、太常寺少卿に任命され『神宗実録』の編纂に携わる。また、ほぼひとりで『光宗実録』を編纂した。その功績を評価され要職を歴任し南京礼部尚書になる。
1636年 83歳で死去。
没後 太子太傅を授与。
字を玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いた。禅に帰依していたため香光居士とも言った。
明代末期に活躍した文人で、特に書画に優れた業績を残した。
清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことが有名で、その影響で清朝において正統の書とされた。
また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくり、後世へ及ぼした影響も大きいことから芸林百世の師と尊ばれた。