画家一覧

その他

羅振玉(らしんぎょく)

1866年~1940年 中国浙江省上虞出身 考古学者・教育者

1891年 劉鶚と知り合い、劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得る。羅振玉はそのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷墟書契考釈』を発表。
1896年 上海に東文学社を設立し、日本語を翻訳できる人材を育成、沈肱・樊少泉・王国維らを輩出した。
1911年 辛亥革命時には、日本に亡命し京都で内藤湖南、狩野直喜らと交流。
1930年代 満州国の成立とともに溥儀に仕え、晩年は満州国で参議府参議、日満文化協会会長などを歴任した。
1940年 74歳で死去。

劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得えることにより、そのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷墟書契考釈』を発表した。そのため王国維・董作賓・郭沫若とともに「甲骨四堂」と称されている。
甲骨文字研究以外では敦煌学の分野にも大きな役割を果たしている。1900年代、敦煌文献を獲得したポール・ペリオと会い、まだ残されているものがあると知ると、敦煌から残りのものを北京に運ばせて、京師図書館に収蔵させた。
紫禁城に保存されていた明清時代の档案(行政文書)が古紙として処分されそうになっているのを知り、古紙業者から買い戻し、貴重な歴史資料が失われるのを防いだ。



乾隆帝(けんりゅうてい)

1711年~1799年 清の第6代皇帝

清の皇帝に25歳で即位すると、その後はジュンガル、四川の金川、グルカに2回ずつ、回部及びバダフシャーン、台湾、緬甸、越南に1回ずつの計10回の遠征(十全武功)を行い、領土の拡大を行った。
内政として、古今の優れた書物を書き写し、四庫全書を残した。
また、本人も数多くの漢詩を作成した。
88歳で死去。



康煕帝(こうきてい)

1654年~1722年 清の第4代皇帝

1661年 順治帝は同年に崩御した為、8歳で皇帝に即位。
1673年 三藩の乱(呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の3人の藩王の反乱)が起こる。1683年に反清勢力を完全に滅ぼした。
1722年 68歳で死去。

諱は玄燁。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝、在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに中国歴代最高の名君とされる。
文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた。



徽宗皇帝(きそうこうてい)

1082年~1135年 北宋の八代皇帝

北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)
1100年に兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御した為、弟である徽宗が皇帝に即位。
文人、画人としてその才能が高く評価され、芸術面では北宋最高の一人と言われる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成させ「風流天子」と称された。
今現在は、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。また、『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。



包世臣(ほうせいしん)

1775年~1855年 中国安徽省涅県出身 中国の学者・篆刻家・書家

1780年 父に経学を学び始め8歳で詩を詠む。
1803年 28歳のとき、揚州にて旅の途次にあった鄧石如に出会い、十日間だけ書の指南を受ける。また、鄧石如の書と生き方に強く感銘を受け、生涯の範とする。
1833年 58歳の時、王羲之書法の忠実な継承作として著名な孫過庭の『書譜』を研究し「書譜弁誤」を著す。
1855年 80歳で死去。

字は慎伯、号は倦翁・倦遊閣外史など。
幼少時から詩を詠み、早くから兵法家の書を研究していた。
15歳で初めて科挙を受けるが合格できず、43歳にしてようやく郷試に合格し会試を受験するが失敗してしまい科挙での出世を諦める。
また、中年以後、碑学を推奨した阮元に追随し碑学尊重し、北碑の研究をおこなった。
このため碑学開山の祖となり、当時の書壇に大きな影響を与えたという。
著書には『藝舟双楫』『小倦游閣草書』等がある。



于右任(うゆうじん)

1879年~1964年 陝西省西安府涇陽県 政治家・書家・教育家・詩人・ジャーナリスト

1903年 癸卯科挙人となる。
1907年 上海で「神州日報」を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。
1912年 南京で中華民国臨時政府が設立され、交通部次長に任命。
1924年 中国国民党第1期中央執行委員に選出。
1938年 国防最高委員会常務委員に任命。
1964年 85歳で死去。

字は右任、号は神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人等。
中国同盟会以来の古参の革命派で、国民政府の監察院院長として知られる。
国民政府の重鎮として活動する一方で、文化人としても有名で、書・漢詩などで優れた作品を残し、近代能書家の中でも筆頭とも呼べる人物である。



章炳麟(しょうへいりん)

1869年~1936年 浙江省余杭出身 中国の学者・政治家・革命家

名は絳また炳麟、字は枚叔、号は太炎。
幼少より母方の祖父と父から考証学の手ほどきを受け、1890年からは杭州にある詁経精舎に入り兪樾に師事した。
辛亥革命の有力な指導者であり、清朝考証学の大家としても有名。
数度、日本に亡命した際に孫文との関係が出来た。
また、魯迅は日本時代の章炳麟の教え子のひとりである。
孫文、黄興とともに「革命三尊」の一人に挙げられる。
伝統学術を再評価し、民族意識を鼓吹、民族主義革命を主張、辛亥革命に大きな影響を与えた。
西欧思想に対峙し、帝国主義や植民地主義批判を展開した彼の哲学観は魯迅、毛沢東等に影響を与えたという。
清朝考証学最後の大家。著書に『章氏叢書』『国学概論』等がある。
68歳で死去。



郭沫若(かくまつじゃく)

1892年~1978年 四川省嘉定府楽山県出身 政治家・文学者・詩人・歴史家・書家

1914年 日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。
1921年 郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などと文学団体「創造社」の設立に参加する。
この間に処女詩集『女神』を発表。
1927年 蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加する。また、翌年、蒋介石に追われ日本へ亡命する。日本では、中国史の研究に没頭し、『中国古代社会研究』『両周金文辞大系考釈』『我的幼年』などを執筆した。
1942年 重慶で戯曲『屈原』を発表。
1954年 全人代常務副委員長に就任。
1978年 86歳で死去。


原名は郭開貞、字は鼎堂、開貞は諱、号は沫若。
日本に亡命し、日本語と医学を学んだ後、中国に戻り上海で国民党に参加した。
中国の近代文学・歴史学の先駆者で、文学の代表作としては詩『女神』、戯曲『屈原』などがある。
三国志関連では、論文「替曹操翻案」を発表したことにより当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論の契機となった。
その際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。



孫文(そんぶん)

1866年~1995年 中国出身 中国の政治家・革命家

譜名は徳明、字は載之、号は日新、逸仙または中山。初代中華民国臨時大総統。
中華民国の国父と讃えられる、近代中国の民主革命家である。
三民主義を唱え、辛亥革命を導いて清朝を倒し、中華民国を建国した。
孫文の書は、思想による博愛、天下為公などを書し、日本でも革命活動していた時に、政治家や縁の人達に送られている。
肖像画は中国、台湾で紙幣や貨幣、切手になっている。
国民党では現在も、孫文は党総理であると党則第15章で定めている。
59歳で死去。



会津八一(あいづ やいち)

1881年~1956年 新潟県新潟市出身 日本の歌人・美術史家・書家・新潟市名誉市民

中学時代 「万葉集」や良寛の歌に親しむ。
1906年 新潟県立有恒高等学校の英語教員となり新潟へ戻り、多くの俳句・俳論を残す。
1908年 最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけとなる。
1924年 初の歌集『南京新唱』を刊行。
1933年 仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で翌年に文学博士の学位を受ける。
1940年 歌集『鹿鳴集』を刊行、翌年に書画図録『渾齋近墨』、さらに翌年、随筆集『渾齋随筆』、1944年には歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
1948年 早稲田大学名誉教授就任。
1951年 新潟市名誉市民に選ばれ、また『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞受賞。
1956年 75歳で死去。

雅号は、秋艸道人、渾斎。
学生時代から俳句に堪能で「東北日報」の俳句選者であった。
また、当時、北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手を務めたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりしたという。
また、奈良旅行がきっかけで短歌に興味を持ち、作るようになる。
1914年に東京小石川区高田豊川町に転居し「秋艸堂」と名付け住み、1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し「秋艸堂」と名付け住んでいたが、戦争の空襲により全焼する。
最終的には、伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館)内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼び、永眠するその時まで暮らした。



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