画家一覧

中国の画家

斉白石(1864年1月1日~1957年9月16日)

中国の画家 ・書家・篆刻家。

1864年 - 湖南省湘潭県杏子塢星斗塘に生まれる。
1876年 - 木工の傍ら表具師出身の蕭薌陔について肖像画を習い後に美人画も描いた。
1891年 - 文人画家の胡沁園に就いて花鳥画・鳥獣画を学んだ。
1894年 - 同郷の詩友と「龍山詩社」・「羅山詩社」を結び、書法や篆刻も独学
1919年 - 北京に移り住んで絵を売って生計を立てる。
しかし絵は全く売れず、人物画の依頼を受けては糊口を凌ぐ
1922年 -日中共同絵画展に作品を出典した。これをきっかけに国際的な評価が高まった。
1957年 - 死去

生まれつき体の弱かった白石は幼い頃から絵に興味を持ち、特に海老を描かせたら右に出るものはいないと言われたほど魚介類・昆虫の絵が得意だった。
海老特有の透き通った体の内部まで墨の濃淡で表現することができ、水墨画での新たな可能性を発展させた偉大な人物の一人でもある。
日中共同絵画展は東京で開催されて、当時の恩師に紹介してもらったきっかけで世の中に出ることになった斉白石は90を超えても死ぬまで1年に600作品も作るという非常にエネルギッシュな人物であった。



呉作人(1908年~1997年)

中国の画家。中央美術学院院長。

1908年 - 江蘇省に生まれた。
1930年 -ブリュッセル王立のパステン研究室に移り、油絵・彫刻を学んだ。
1935年 - 帰国、中央大学芸術系講師となる。
1946年 - 徐悲鴻に招かれて国立北平芸術専科学校油画系教授となる
1949年 - 中央美術学院の成立とともに油画系主任教授になる
1958年 - 中央美術学院院長に就いた。

水墨でパンダやラクダ、ツル等を好んで描く画家。
パンダは白と黒がメインカラーの動物だからこそ水墨画で単調な絵にならないように
パンダのフォルムそのものを濃淡で上手くデフォルメさせて紙の上に収めている。
ラクダも見たことない人にも実際の雄大さと色合いが伝わるような作品に仕上げている。
主に掛け軸として飾られることが多い呉作人の絵は今も骨董品として高額で取引されている。



徐悲鴻(1895年7月19日~1953年9月26日)

中国の洋画家、中国画家。

1895年 -中国の宜興市に生まれる
1919年 - フランスに留学,帰国後,北京国立芸術学院院長,南京国立中央大学教授を歴任。1949年 - 人民共和国成立とともに中央美術学院院長となる
1953年 – 死去

徐悲鴻の作品は国画と称され、馬の絵は切手にもなり、北京に徐悲鴻記念館が建設されるほど。留学中に欧州各国で多くの展覧会を開催し好評を博した人物でもある。
躍動感のある水墨画で主に馬などの動物を描く。洋画では写実性の高い絵を描き
中国画では今にも掛け軸から飛び出してきそうな力強さを持つ馬の絵を描くことが出来る力を持った画家である。馬の絵は年賀状や切手にもなるほど今でも愛されている。



董寿平(とうじゅへい)(1904年~1997年)

中国の画家・書家。

1904年 - 山西省に生まれる。書画の鑑定学を学ぶ。
1926年 - 北京東方大学卒業、書画を学ぶ。
1928年 - 北京に引っ越す。
1938年 - 戦争のため成都に引越し、そこで初めての個展を開く。
1952年 - 所蔵図書をすべて山西省博物館に寄付。
1979年 - 東京芸術大学で講義、作画模範し、東京で個人水墨画展。
1997年 – 死去
四川省の山水の地を写生し、画風が変わり始めて才能を開花するようになった。
特に山々に萌える樹や葉っぱの絵は生命力の強さとその寛大さが伝わってくる
魅力が詰まっている。氏の描く黄山は独自の風格を成し「黄山画派」と称され、
中国美術界にて山の表現がまた新たに確立された瞬間であった。
東京で開催された「栄宝斉展覧」に出品、併せて代表団顧問として初めて訪日。
北京市人民対外友好協会副会長、北京中国画研究会名誉会長、栄宝斎顧問、三晋文化研究会名誉会長などを務めた。



宋文治(1919年~1999年)

中国の画家。山水画を得意とする。
1919年 - 蘇省生まれ。
1935年 - 上海秀堂広告社に就職、そこでデザインを学ぶ。
1936年 - 光明眼鏡社に転職し、設計を担当する。
1938年 - 遇太倉城で小学校の担任となる。
1941年 - 学習西洋透視学、デッサン、水彩などの技法を学ぶ。
1946年 - 任太倉民教館館長に就任。
1955年 - 安徽省委員会の宣伝部に配属、そこで梅山ダム、黄山などのスケッチ。創作「桐江を筏」、「黄山松雲』が選ばれ全国中国画展示。
1999年 – 死去

連なる山々の表現は唯一無二の巨大さを象徴する国画とも言える。
中国では贋作が多い中、宋文治の画風は真似できないものとして確立されているので
見分ける方法は容易である。宋文治は日本と交流があり、度々海外で個展を開いている。特有の力強いタッチと中国ならではの色鮮やかさを支持する者は国内外問わず多い。



王一亭(1867年12月4日~1938年11月13日)

中国の書画家・実業家・政治家。

1867年 - 中国で生まれる。
1880年 - 13歳で海運業務の商店・天余号で経理担当になる
1906年 - 上海予備立憲公会会董になる。
1912年 - 南京で拓殖学校を創設した。
1938年 - 上海で死去。享年72(満70歳)。

仏教徒として学徒になった頃、書画熱が高じ、この頃に任伯年に就いて絵を学ぶ。山水画は呉鎮に師法した。人物画、花鳥画、仏画に優れ晩年にはほとんど毎日仏像を画いた。呉昌碩とは師友となって親しく交わった。仏画の作風は儒学に関しているものが多くあり
絵のとなりに文字が並び、教訓や哲学などが記されている。
また吉祥画と呼ばれる縁起の良い鶴などが描かれた作品も数多く存在し日本でも度々個展が開かれることがある。自分の絵を売って慈善事業に寄付したこともあり、日本が関東大震災に見舞われた時はいち早く支援したのは有名な話である。本も書いており、著書に『白龍山人詩稿』・『王一亭書画集』がある。



高剣父(1879年10月12日~1951年)

中国の画家。

1879年 - 中国の広東省で生まれる。
1906年 - 日本の東京美術学院に留学
1924年 - 広州に春睡画院を創設
1951年 - マカオで死去

中国画と日本洋画の融合を試みた嶺南画派の第一人者。作風としては花鳥・風景画がメインで春や秋がはっきりとわかるような色使いと情景をノスタルジックに描く。
特に1935年に描いた漁港雨色という作品は雨の空気感が漂う漁港の絵で、線描を主体とする伝統的国画の描法ではなく墨や絵の具の濃淡によって対象や画面の奥行きを構築している。また竹内栖鳳、山元春挙の影響を大きく受けている。



関山月(1912年~2000年)

中国の画家。

1912年 - 広東省で生まれる。
1950年 - 南、西北の少数民族地区で写生をするようになる。
1974年 - 「緑色長城」を発表。
2000年 – 死去
高剣父の次の世代を担う嶺南画派の画家。代表作の「緑色長城」は日本画的抒情を基礎にしながら、画面には西洋画の構図と中国画との融合という嶺南派の伝統が息づいている。
構図にはかなりの雄大さを感じさせるタッチで連なる山を中国画特有の迫力ある筆使いと
墨の濃淡で表現している。若い頃に写生した積み重ねが往年の関山月の絵柄を確立させた。



馬遠(1160年~1225年)

中国の画家。

浙江省で生まれる。画家の一族で、曽祖父馬賁、祖父馬興祖、伯父馬公顕、父馬世栄、兄馬逵、子馬麟、みな画院の画家だったことから「馬一族は五代に渡ってみな画手である」と記されており、山水・人物・花鳥画どれも画院中第一と評されるほどの家族であった。
光宗・寧宗(ねいそう)両朝の画院画家で、院体山水画様式の完成者。
景色を片寄せたり、特定の視点に立って大自然の一角に構図を与える独特の画風を打ち立て、「馬一角」と称された。



江寒汀(こうかんてい 1903年~1963年)

中国の画家。

江寒汀は花鳥画が得意で作風としてはリアリティのある絵柄が特徴。見事な花と鳥を
花鳥画のお手本のように仕上げる画家である。上海中国画院画師や上海美専国画系教師も務めていた。代表作の孔雀图轴は画面に収まりきらない程の美しい羽の細やかさを独自の筆使いで仕上げている。



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