画家一覧

日本の洋画家

松田正平(まつだ しょうへい)

1913~2004年 島根県出身 日本の洋画家

1937年 東京美術学校西洋画科卒業し、パリへ留学するが、第二次世界大戦が始まった為、1939年に帰国。
1951年 国画会会員となり、銀座フォルム画廊で初めての個展を開催。(以後定例化)。
1984年 第16回日本芸術大賞受賞。
2000年 地域文化功労者文部大臣表彰。
2002年 平成14年度文化庁長官表彰。
2004年 91歳で死去。

その名が知られるようになったのは晩年になってから。
戦前から戦後にかけて少しずつ厚塗りになっていくが、その後、徐々に作品は薄くなり、80年代には透明感のある水彩のような表現に変わっていくのが特徴。
瀬戸内海の西の端にあたるこの海を描いた『周防灘』シリーズは代表的な作品の一つ。



村山槐多(むらやま かいた)

1896年~1919年 京都府京都市出身 日本の洋画家

1914年 京都府立第一中学校を卒業し上京し、日本美術院の研究生となる 第1回二科展に『庭園の少女』が入賞。
1915年 第2回日本美術院展覧会で『カンナと少女』が院賞受賞。
1917年 第4回日本美術院展覧会で『乞食と女』が院賞受賞。
1918年 第4回日本美術院試作展覧会に『樹木』『自画像』『九十九里の浜』『男の習作』他2点を出品し、奨励賞受賞。
1919年 第5回日本美術院試作展覧会に『松と榎』『雪の次の日』『松の郡』『自画像』『松と家』『大島風景』『某侯爵邸遠望』『代々木の一部』を出品し、美術院賞乙賞受賞。
1919年 24歳で死去。

画家の山本鼎は従兄である。
画家自身のほとばしる情念や不安を反映した村山槐多の絵は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残す。
また、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ないことから、現在残されている作品にはかなりの高値が付く。
過去に「なんでも鑑定団」に村山槐多の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある。



岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)

1869年~1939年 佐賀県出身 日本の洋画家

1887年 岡田家の養子になり洋画家・曽山幸彦の画塾に入門、曽山の逝去後は堀江正章に学んだ。
1892年 洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受ける。
1893年 大幸館規定の科目を卒業。卒業制作は『矢調べ』。
1896年 白馬会の創立に参加する。
1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランに師事する。
1902年 帰国し、東京美術学校の教授に就任する。
1907年 東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受ける。文展の審査員に選出。
1912年 藤島武二と本郷洋画研究所を設立。
1919年 高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成に加わる。帝国芸術院会員となる。
1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術院会員となる。
1939年 70歳で死去。

父親は佐賀藩主に使える藩士で、小さな時に百武兼行の油絵を見る機会があり、画家を志すことを始めた。
久米桂一郎の紹介で黒田清輝に師事し、それまでの伝統的な技法だけだはなく、西洋の技法も学び、さらに、フランスへ留学時にはラファエル・コランに師事し、画技を磨いた。
外光派の画風を基本とした写実風景画を得意とし、作品は女性を描いたものが多い。



坂本繁二郎(さかもと はんじろう)

1882年~1969年 福岡県久留米市出身 日本の洋画家

1892年 地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学ぶ。
1907年 第1回文展にて『北茂安村』が入選。
1912年 第6回文展に出品した『うすれ日』が夏目漱石に高く評価された。
1914年 二科会創立に参加。
1921年 フランスに渡り、シャルル・ゲランに師事する。
1931年 友人の梅野満雄の援助で、福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
1954年 毎日美術賞受賞。
1956年 文化勲章を受章。
1969年 87歳で死去。

同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁とは親友でありライバルであった。
坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であり、幼い時から神童と持てはやされていた為、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から上京を決意したという。
そして、第二次大戦後には梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようにまでなった。
『放水路の雲』という作品は、フランスで学び、身につけた手法で地元の風景を描いたものであり、また、馬の絵を描くことが多く『水より上がる馬』は坂本繁二郎の代表作である。



山本鼎(やまもと かなえ)

1882年~1946年 愛知県岡崎市出身 日本の版画家・洋画家・教育者

1901年 木版工房で9年間の年季奉公を終えたが、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、翌年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学。
1907年 創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として、石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。
1911年 東京版画倶楽部を開設し、坂本繁二郎との共作の「草画舞台姿」シリーズを開始。
1912年 石井光子との縁談を周囲から反対されたフランスへ渡る。
1919年 農民美術練習所を開講。
1946年 65歳で死去。

東京美術学校西洋画科選科予科在学中の1904年、与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」に刀画『漁夫』を発表した。
海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さがあり、新進気鋭の版画家として注目され、絵師・彫師・摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。
フランスへ渡った時から借金に苦しんでいたが、帰国後は農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかったという。
代表作としては、『漁夫』『デッキの一隅』『野鶏(ヤーチー)』『ブルトンヌ』等がある。



小杉放庵(こすぎ ほうあん)

1881年~1964年 栃木県出身 日本の洋画家

1896年 五百城文哉の内弟子となるが、翌年、師に無断で絵画修行のため上京する。
1899年 文哉の許しを得て再上京し「不同舎」に入る。
1900年 漫画や挿絵、外国人に売る水彩画を描くようになる。
1904年 日露戦争の従軍記者として戦地の写生や記事をかく。
1911年 第5回文展に『水郷』『油彩』を出品し、2等賞1席を受賞。『水郷』は文部省買い上げ。
1912年 第6回文展において『豆の秋』で再び2等賞1席を受賞。
1914年 横山大観らとともに日本美術院を再興。(1920年に脱退)
1922年 春陽会の創立に参加。
1925年 東京大学安田講堂の壁画を描く。
1964年 82歳で死去。

本名は国太郎、別号に未醒、放菴。
国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっていた。
1905年から始まった日露戦争には、「近事画報」誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画やユーモラスな漫画的な絵などで雑誌の人気に大きく貢献した。
フランスに留学もするが、当地で池大雅の「十便図」を見たことをきっかけに日本画にも傾倒し、帰国後は墨絵も描いた。



森田恒友(もりたつねとも)

1881年~1933年 埼玉県出身 洋画家

1901年 画家を志して上京し、小山正太郎の主宰する画塾「不同舎」に学び、また、中村不折に師事した。
1902年 東京芸術大学西洋画選科に入学。
1906年 東京美術学校を卒業して研究科に進むが、翌年退学し。石井柏亭、山本鼎らと美術誌『方寸』を創刊して、同誌に挿絵や芸術論を発表した。
1907年 第1回文展に『湖畔』を出品して、入選を果たす。
1914年 絵の勉強のため欧州に渡り、印象派を学ぶ。
1915年 帰国して二科会会員となるが1917年には退会。
1922年 杉放菴、倉田白羊、梅原龍三郎らとともに「春陽会」創設に加わる。
1929年 帝国美術学校の創設とともに洋画科主任教授に就任。
1933年 51歳で死去。

大正・昭和時代の洋画家で、南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人。
ヨーロッパで得たリアリズムを基本に西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自らを平野人と号し、関東平野の利根川沿いの自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた。
代表的な作品としては『梳髪』『湖畔』等がある。



中村 研一(なかむら けんいち)

1895年~1967年 福岡県出身 洋画家、日本芸術院会員 ※洋画家の中村豚二は実弟

1909年 福岡県立中学修猷館に入学
1914年 京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる
1915年 上京し本郷絵画研究所に入所 同年、東京美術学校西洋画科に入学
1919年 第8回光風会展に、『お茶の水風景』を出品し初入選
1920年 東京美術学校を卒業。『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選
『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞
1921年 『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞
1923年 パリに留学、モーリス・アランに影響を受ける
1928年 滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞
1929年 『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞
1930年 『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞
1931年 36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)日本美術展覧会
    (日展)などと改名した官展の審査員を歴任
1937年 ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足柄に乗艦して渡英している
1942年 『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞
作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が1回大東亜戦争美術展に
展示、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞
中村が描いたと確認できる戦争画は17点、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている
1945年 戦後は、小金井市中町に転居し永住。日展光風会展を中心に作品を発表
1950年 日本芸術院会員に推挙される
1958年 日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な
画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった
妻をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作する
1967年 逝去。
1989年 中村の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと
    「中村研一記念美術館」を独力で開館
2006年 小金井市へ寄贈され改修などを経て、「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」として開館

主な作品 サイゴンの夢(1947)



中村 彝(なかむら つね)

1887年~1924年 茨城県出身 洋画家

1907年 彝自身結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した
1905年 18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、この地で水彩スケッチを始めた
    翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をする。その間にも千葉県など
    へ転地療養を繰り返している
1909年 第3回文展に初入選
1910年 第4回文展で『海辺の村』が3等賞
1911年 新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫
    妻は、彫刻家・荻原碌山(ぎわらろくざん)中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援
1913年~1914年 彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関
    係が伺われるが、俊子に求婚するが反対され、この失恋が元で煩悶する
1920年 ルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を
    受ける。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影
    響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 - 1952年)はアジア各地を放浪していた
    ロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた
1921年 病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を
    残していない
1923年~1924年 死の直前に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の彝の自画像とは別人のよ
     うに頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄み
     きった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完成)
1924年 逝去。
2013年 新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」開館する。


主な作品 エロシェンコ像(1920)
     帽子を被る自画像(1910)
     少女裸像(1914)
     帽子を被る少女(1915)
     裸体(1916)
     カルピスの包み紙のある静物(1923)
     頭蓋骨を持てる自画像(1923)



中村 不折(なかむら ふせつ)

1866年~1943年 東京出身 日本洋画家・書家

1870年 幼少より絵を好み、物の形を写すことを楽しみとした。19歳の時、北原安定に漢籍、真壁雲卿  
    に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。西高遠学校授業生(代用教員)となり、21歳の時、西伊那部学校
    の助教となる。22歳では、飯田小学校で図画・数学の教師となり担任生徒に後の菱田春草、樋口
    龍峡がいた。夏期休暇を利用して河野次郎に洋画の初歩を学ぶ
1887年 高橋是清の館に住み込みながら,画塾『不同舎』に入門、小山正太郎に師事し絵を学ぶ。25歳の
    時、第2回明治美術会展覧会へ水彩画3点出品
1891年 油彩画を始め、現存する最初の作例『自画像』を制作。28歳の時、第5回明治美術展覧会に『憐
    れむべし自宅の写生』ほかを出品
1894年 正岡子規に出会い、新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当。新聞『小日本』
    126号に俳句が掲載、初めて〈不折〉の名を使用
    32歳~33歳の時、島崎藤村『若菜集』『一葉舟』挿絵を担当。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」出品。「紅葉村」は翌年にパリ万国博で褒賞を受賞
1901年 ラファエル・コランに師事。島崎藤村『落梅集』挿絵を担当。37歳の時、アカデミー・ジュリアンに転じジャン=ポール・ローランスから絵の指導を受け39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。沼田一雅、岡精一と共にムードンにオーギュスト・ロダンを訪問、署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見る
1905年 明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属、主に歴史画の分野で活躍。また森鷗外や夏目漱石等とも親しく、『吾輩は猫である』『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書く。43歳、『龍眠帖』刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。『蘭亭序』刊行。49歳、東京大正博覧会に「廓然無聖」他出品。「永寿二年三月瓶」入手。50歳、『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。51歳、『不折山人丙辰潑墨』第1集と第2集刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」出品。55歳の時、森鴎外没。遺言にて不折が墓碑銘を書く。64歳、太平洋美術学校が開校その初代校長に就任。67歳、書道博物館の建設に着手し、翌年完成。70歳、帝国美術院改組、帝国美術院会員となり、この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳、書道博物館開館式。72歳、帝国芸術院入会。
1943年 逝去。


主な作品 裸婦立像
     本と帽子のある静物
     ランプ写生
     吾輩ハ猫デアルの挿絵 など



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