画家一覧

日本画家

加納光於(かのう みつお)

1933年~ 東京都出身 日本の版画家・画家

1953年 瀧口修造を知る。銅版画の制作を始める。
1956年 タケミヤ画廊で初個展。以後内外の版画展に参加する。
1964年 版の素材として使用していた亜鉛合金をガス・バーナーで焼いて版そのものを作品とした『MIRROR 33』と『ソルダード・ブルー』の連作で新しい技法による作品を開拓する。
1966年 『半島状の!』シリーズから後期ルドンのように色彩が加わる。
1969年 函形立体のオブジェ作品を制作。版画ではコラージュやフロッタージュを援用していっそう多様な展開をみせ、画集形式で発表した。
1976年 デカルコマニーを利用したリトグラフ連作『稲妻捕り』に没頭。
1980年 油彩画のはじめての作品群を個展『胸壁にて』として発表。
1992年 『本の宇宙-詩想をはこぶ容器』、1997年には『葡萄弾-加納光於 オブジェ1968-1997』を発表。
1993年 「色彩としてのスフィンクス-加納光於」、1995年「戦後文化の奇跡 1945-1955」、1998年「瀧口修造とその周辺」等の展覧会を開催。

独学で銅版画を学び、1950年代半ばから作品を発表。1960年代にはリュブリアナ国際版画ビエンナーレ、東京国際版画ビエンナーレ等、数々の国際展で評価を高めた日本を代表する作家の一人。
加納光於の作品の特徴のひとつが「連作」であり、ある期間ひとつの手法による作品を多数制作し、ある時点でその成果を発表すると、また新たな方向を模索し始め、素材と作品の関係を探求していった。



陳逸飛(ちんいっぴ)

1946年~2005年 中国浙江省出身 中国の画家

1968年 「上海油画彫塑創作室」が成立すると、最初の専業画家となり1970年には24歳で油画室責任者になる。
1972年 大型油絵『黄河賛歌』を創作し、清新なタッチで頭角を現した。
1980年 香港を経て自費で渡米、1981年には奨学金を得てニューヨーク・ハンターカレッジに入学し、1984年修士修了、以来米国に在住。
1983年 初の個展を開催。
1995年 映画『人约黄昏』がカンヌ映画祭に入選。
2004年 59歳で死去。

厳格な写実手法による中国・西欧の人物画、印象的手法をまじえた中国の風景・少数民族を主題にした作品が多い。
現代中国でもっとも成功した画家である。
また、画家業の他、映画監督やファッション界でも注目を集めた。



マルク・シャガール

1887年~1985年 ロシア出身 フランスの画家

1907年 ペテルスブルグの美術学校で学ぶ。
1910年 パリでアカデミー・ジュリアンに通い、アンデパンダ展に出品。
1914年 ロシアに戻り、ベルリンで初の個展を開催。
1922年 最初の銅版画『わが生涯』を制作。
1923年 『死せる魂』『寓話』『聖書』等の挿画のための版画を制作。
1939年 カーネギー賞受賞。
1948年 カラー石版画『アラビアンナイト』を発表。第25回ヴェニスビエンナーレ版画賞受賞。
1956年 サーカスをテーマに石版画を制作。銅版画『バイブル』を発表。この翌々年には『デッサンバイブル』カラー石版画25点を制作。
1973年 ニースの国立シャガール聖書のメッセージ美術館が開館。
1977年 レジオン・ドヌール最高勲章受賞。
1985年 97歳で死去。

ロシア時代のシャガールはロシア・アヴァンギャルドに参加し、構成主義の影響の濃い作品やデザイン的作品を制作していたが、出国後の作品は「愛」を表現した作品が多くなる。
一生涯、妻であるベラ・ローゼンフェルトを一途に敬愛していたことや妻への愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれた。



ロイ・リキテンシュタイン

1923年~1997年 アメリカ出身 アメリカの画家

1940年 オハイオ州立大学美術学部に入学。1946年美術学士、1949年美術修士を取得。卒業後も大学にとどまり1951年まで講師を務める。
1951年 ニューヨークのカール・バック画廊で初の個展を開催
1950年代 製図工、大学講師などで生計を立てながら、最新の抽象表現主義風の作品を制作。
1961年 最初のポップ絵画を描き始める。『見て!ミッキー』『ボールと少女』などの漫画や広告のイメージを直接引用した作品を制作。
1964年 絵画に専念。回顧展が世界を巡回し多数の個展が開かれる。
1995年 第11回京都賞(精神科学・表現芸術部門 / 美術(絵画・彫刻))を受賞。また、東京現代美術館に『ヘアリボンの少女』が6億円で購入され話題になる。
1997年 73歳で死去


特徴的な漫画のコマを拡大したような作品は1960年代初頭に登場。
自分の子供にミッキーマウスの漫画を描いてあげた際に、従来のいわゆる芸術としての絵画よりも漫画の方が強烈なインパクトと表現力を持っていることに気が付き、制作を開始した。
作品は全て太い輪郭線で囲まれた平面として表現され、色は原則として三原色のベタ塗り、陰影はドットの大小や密度で表現されている。



堂本印象(どうもと いんしょう)

1891年〜1975年 京都府京都市出身 日本の日本画家

1910年 京都市立美術工芸学校卒業。
1918年 京都市立絵画専門学校入学。
1919年 第1回帝展で『深草』が入選。
1920年 西山翠嶂に師事する。青甲社に入る。
1921年 第3回帝展で『調鞠図』が特選となる。
1925年 第6回帝展で『華厳』が帝国美術院賞受賞。
1934年 画塾「東丘社」創立。
1936年 京都市立絵画専門学校教授となる。
1944年 帝室技芸員となる。
1950年 芸術院会員となる。
1963年 ローマ法王より聖シルベストロ文化第一勲章受章。
1961年 文化勲章受章。文化功労者として顕彰される。
1966年 自らのデザインにより堂本美術館を設立。
1975年 83歳で死去。

様々な賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められながら、染織・陶芸・彫刻・建築・金工も行った。
国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍し、1963年には大阪カテドラル聖マリア大聖堂 に壁画『栄光の聖母マリア』を描いた功績により当時のローマの教皇ヨハネス23世より聖シルベストロ文化第一勲章を受章した。



呉昌碩(ごしょうせき)

1844年~1927年 中国出身 中国の画家

1866年 施旭臣から詩法を受ける。
1872年 杭州詁経精舎で後期乾嘉学派の漢学を学ぶ。
1873年 潘芝畦に学び始める。
1895年 怡園内で毎月三回の「怡園画集」(書画雅集)を開催。
1912年 中華民国元年。字の「昌碩」を行う。
1913年 上海山西路吉慶里に移る。上海書画協会社長になる。
1914年 上海六三園にて中国絵画史上初の個展を開催。
1927年 84歳で死去

清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家と評価が高い。
画風は任伯年・徐渭・八大山人・揚州八怪を承け、梅、牡丹、藤花、石等を墨の濃淡で表現したり、西洋紅を中国画に使用する事は呉昌碩に始まるといわれ、呉昌碩は書を書くように、画を描くと言われた。



呉冠中(ごかんちゅう)

1919年~2010年 中国江蘇省出身 中国の画家

1942年 林風眠、潘天寿に師事する。国立芸術専科学校を卒業。
1947年 フランスの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ留学し油絵を学ぶ。
1950年 帰国し、パリで学んだ西洋絵画を基礎とし、潘天寿から国画を学んだ。
1989年 呉冠中の作品『高昌遺跡』が、香港のオークションで当時活躍中の中国人画家の作品としては最高額の187万香港ドル(日本円で約3000万円)で取引される。
1992年 古代文物以外は展示しないという大英博物館の慣例を初めて打ち破り、個展を開催。
2002年 アジア人芸術家として初のフランス学院のアカデミー会員になる。
2010年 90歳で死去。

フランスへの留学から帰国後、油絵の民族化を主に探索し、水墨による国画の現代化と東洋と西洋を結びつけた新しい作風の研究に専念した。
1970年頃から墨線と彩点を混合し、点染する表現方法で、抽象的な山水画を描く様になり、中国と西欧の芸術を融合させる代表作家であった。
林風眠が提唱した「中国と西洋芸術の調和」を出発点として、「林・呉体系」に発展させ、独特の「呉派」を作り出し、林風眠後の中国新芸術の代表画家の一人である。



黄冑(こうちゅう・梁黄冑)

1925年~1997年 中国河南省出身 中国画家

1937年 独学で画を学び、2年後に本格的に師について国画を学ぶ。
1949年 中国人民解放軍に参加し、部隊生活と新疆少数民族の生活を反映した優秀な作品を多く制作する。
1956年 第6回世界青年実用芸術展覧会金賞を受賞。
1975年 軽工業部工芸美術公司顧問・中国画研究院副院長・中国美術家協会常務理事を務める。
1997年 72歳で死去。

水墨を用いた動物画に優れ、特に驢馬の画で有名。
その作風は生き生きとしており筆墨は力強く、速度のある線で人物や羊、驢馬を描き、青・黄・赤・黒などの対照的な配色で鮮烈で豪放な画面を生んでいる。



曽国藩(そうこくはん)

1811年~1872年 中国湖南省湘郷出身 軍人・政治家

1838年 進士となる。
1851年 太平天国の乱が勃発、清国政府の命により郷勇を組織し、これを鎮圧する。
1861年 両江総督、欽差大臣となる。
1868年 直隷総督となる。
1870年 両江総督に復帰する。
1872年 61歳で死去。

曽国藩を中心とした郷勇(後の湘軍)により太平天国の乱を鎮圧する活躍をし、最終的には政府に警戒されながらも地方官としては最高位に当たる直隷総督の地位になった。
ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入する運動である洋務運動にも参加。
文人、朱子学者としても一流と評価されており、その作品は『曽文正公全集』『曽文正公手書日記』にまとめられている。



何紹基(かしょうき)

1799年~1873年 中国湖南省道州 中国の書道家

1836年 進士となる。
1852年 四川学政となったが誹謗を受けて解任された。
1873年 75歳で死去。

書を最も得意とし清代を代表する書道家として内外の評価は高く、他にも顔真卿を研究し、蘭・竹・石等の画にも巧みであった。



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