画家一覧

日本画家

黄公望(こうこうぼう)

1269年~1354年 中国江蘇省出身 中国の水墨画家

倪瓚・呉鎮・王蒙と並び「元末四大家」と賞されるが、その中でも最も広い作風で、後代に多大な影響も与えた。
元代は士大夫の登竜門であった科挙が不定期にしか実施されず、行われたとしても旧南宋領域の住人には著しく不利であったため長らく官に就くことができず、40歳を過ぎて初めて蘇州の属吏となった。
しかし、程なく黄自身は無関係の徴税不正事件により失職する。
その後黄は官途に就かず占い師や戯曲家、道士などの遍歴を重ねるが、趙孟頫の知己を得て絵画を志し、50歳を過ぎて本格的な画家活動に入り『九峰雪霽図』等の作品を生み出した。
また、晩年に制作された『富春山居図』は水墨画の代表的な傑作として知られている。



藍瑛(らんえい)

1585年~1664年(没年に異説あり) 中国浙江省出身 中国(明)の画家

藍瑛は、初めは地元で画を学びますが、その後は江南の各地に遊学し、当時の江南随一の文人であった董其昌や陳継儒の知遇を得て、彼らの収蔵する様々な古画と文人画の理念を学んだ。
晩年に杭州に帰り多くの弟子を育てた。
杭州の伝統的な画派である浙派の雄大な構図法に、当時の江南の地で流行していた清雅な文人画法を取り入れ、新しい画風を確立。
その画風は家族や弟子に受け継がれ、武林派と呼ばれる為、「浙派の殿将」や「武林派の始祖」と呼ばれる。
日本でも池大雅をはじめ、江戸時代の南画家たちにも大きな影響を与えた。



劉旦宅(りゅうたんたく)

1931~2011年 中国浙江省出身 中国の画家

1950年から上海に住み、出版社の本の挿絵の制作を行った。
のちに『紅楼夢』という連環画を作成した。
上海人民美術出版社専業画家や上海師範大学美術系主任教授を務めた。



賀天健(がてんけん)

1891年~1977年 江蘇省無錫出身 中国の画家

8歳より書画を学ぶ。
1915年に無錫高等学校美術教員となるが、2、3年後上海に移り作画に専念した。
中央美術学院民族美術研究所研究員・中国美術家協会理事・上海市文学芸術界聯合会委員等を歴任した。
山水画・人物・花卉を得意とする。



羅聘(らへい)

1733年~1799年 中国の画家

清代中期の画家であり揚州八怪(金農・黄慎・李鱓・汪士慎・高翔・鄭燮・李方膺・羅聘)の一人で、金農の最晩年の弟子にあたり、師の没後その遺稿を出版した。
人物や墨梅、墨竹、花卉等をよくし、白昼に鬼がみえると自称して『鬼趣図』という作品を描いていた。
66歳で死去。



董其昌(とうきしょう)

1555年~1636年 中国出身 中国の文人画家

幼少時 高級官僚にして書家で名を残した莫如忠の書生となり、その子是龍に兄事した。
1568年 科挙の童試に合格し諸生となる。
1589年 35歳にして殿試に及第し進士となり翰林院庶吉士となり、次いで編修、光宗が皇太子の頃の教育係等を歴任し高級官僚の道を歩む。
1599年 政争に巻き込まれて左遷され、病気を理由に職を辞して帰郷。
1621年 光宗が即位しその招聘を受け、太常寺少卿に任命され『神宗実録』の編纂に携わる。また、ほぼひとりで『光宗実録』を編纂した。その功績を評価され要職を歴任し南京礼部尚書になる。
1636年 83歳で死去。
没後 太子太傅を授与。

字を玄宰。号は思白・思翁・香光と称し、斎室の戯鴻堂・玄賞斎・画禅室も号として用いた。禅に帰依していたため香光居士とも言った。
明代末期に活躍した文人で、特に書画に優れた業績を残した。
清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことが有名で、その影響で清朝において正統の書とされた。
また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくり、後世へ及ぼした影響も大きいことから芸林百世の師と尊ばれた。



康煕帝(こうきてい)

1654年~1722年 清の第4代皇帝

1661年 順治帝は同年に崩御した為、8歳で皇帝に即位。
1673年 三藩の乱(呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の3人の藩王の反乱)が起こる。1683年に反清勢力を完全に滅ぼした。
1722年 68歳で死去。

諱は玄燁。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝、在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに中国歴代最高の名君とされる。
文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた。



金延標(きんていひょう)

生没年不詳 中国の宮廷画家

字は士揆。
18世紀の清朝の画家で乾隆帝の南巡が行われた際に献上した自作の『白描羅漢冊』が皇帝の目にとまり、宮廷画家として召抱えられることとなった。
果物や花卉、人物画を得意とした。



徽宗皇帝(きそうこうてい)

1082年~1135年 北宋の八代皇帝

北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)
1100年に兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御した為、弟である徽宗が皇帝に即位。
文人、画人としてその才能が高く評価され、芸術面では北宋最高の一人と言われる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成させ「風流天子」と称された。
今現在は、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。また、『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。



八大山人(はちだいさんじん)

1626年~1705年 中国出身 画家・書家・詩人

本名は朱耷、または朱由桵、字は雪個。
江西省南昌に在した明朝の宗室のひとつ石城王の一族出身。
官吏を目指し、科挙試験を受ける為民籍に降り、初頭段階を経て応試の資格を得るが、1644年に明朝そのものが滅亡したことにより、その夢は断たれてしまう。
その後、清軍の侵攻を避けて臨川県・進賢に逃げ、1648年に出家し、その地の禅寺である耕香庵に入り、仏道修業に励み、数年後には宗師となった。
仏門に入ってから20年後、100人近い弟子を持ち、寺の外にも評判が聞こえていたため警戒され、県令の胡亦堂の命により官舎に軟禁されたが、僧服を焼き捨てて南昌へ奔走した。
仏曹界から離れてからは、王羲之・王献之・顔真卿・董其昌を範として画作を始める。「流暢秀健」の風格を有する八大山人の書法は、その後の「揚州八怪」、趙之謙、呉昌碩、任伯年、斉白石などの大家に極めて大きな影響をも与えたといわれる。
画風は、水墨花鳥画の形式を基本とし、花卉や山水、鳥や魚などを多く題材にしつつ、伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。



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