画家一覧

日本画家

王時敏(おうじびん)

1592年~1680年 中国江蘇省太倉出身 清代初期の画家

四王呉惲【うん】の一人で字は遜之、号は烟客、西廬老人など。
王鑑、王翬、王原祁とともに婁東派四王と呼ばれ、さらに惲寿平、呉歴も加え清初六家と呼ばれた。
董其昌に師事して南宗画を学び,元末四大家ことに黄公望の画風を慕い、山水画をよく描いた。
清初画壇に多大な影響を与えた人物。
88歳で死去。



辺寿民(へんじゅみん)

1684年~1752年 中国江蘇省山陽出身 清代の画家

初名は維祺、字は頤公、号に漸僧・葦間居士等。
書画ともに秀れ、画は杜撰な水墨を用いて花鳥、蔬果、山水、没骨法による芦雁が有名で「辺の芦雁」と呼ばれる。
楊州八怪の鄭板橋・金農らと交友を持ち、個性的な花鳥画、四君子等、のちの中国画に強い影響を与えた。
北京故宮博物院蔵の蘆雁画図などが一般的に知られている。
68歳で死去。



包世臣(ほうせいしん)

1775年~1855年 中国安徽省涅県出身 中国の学者・篆刻家・書家

1780年 父に経学を学び始め8歳で詩を詠む。
1803年 28歳のとき、揚州にて旅の途次にあった鄧石如に出会い、十日間だけ書の指南を受ける。また、鄧石如の書と生き方に強く感銘を受け、生涯の範とする。
1833年 58歳の時、王羲之書法の忠実な継承作として著名な孫過庭の『書譜』を研究し「書譜弁誤」を著す。
1855年 80歳で死去。

字は慎伯、号は倦翁・倦遊閣外史など。
幼少時から詩を詠み、早くから兵法家の書を研究していた。
15歳で初めて科挙を受けるが合格できず、43歳にしてようやく郷試に合格し会試を受験するが失敗してしまい科挙での出世を諦める。
また、中年以後、碑学を推奨した阮元に追随し碑学尊重し、北碑の研究をおこなった。
このため碑学開山の祖となり、当時の書壇に大きな影響を与えたという。
著書には『藝舟双楫』『小倦游閣草書』等がある。



石涛(せきとう)

1642年~1707年 中国広西省出身 中国清初の画家

本名は朱若極。号に清湘・大滌子など。出家後は道済。
元々、明王室出身であったらしく、独特な画風は、前王朝に連なるものとしての鬱屈した抵抗精神の反映であろうといわれ、高く評価されている。
黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家として挙げられる。



于右任(うゆうじん)

1879年~1964年 陝西省西安府涇陽県 政治家・書家・教育家・詩人・ジャーナリスト

1903年 癸卯科挙人となる。
1907年 上海で「神州日報」を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。
1912年 南京で中華民国臨時政府が設立され、交通部次長に任命。
1924年 中国国民党第1期中央執行委員に選出。
1938年 国防最高委員会常務委員に任命。
1964年 85歳で死去。

字は右任、号は神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人等。
中国同盟会以来の古参の革命派で、国民政府の監察院院長として知られる。
国民政府の重鎮として活動する一方で、文化人としても有名で、書・漢詩などで優れた作品を残し、近代能書家の中でも筆頭とも呼べる人物である。



関良(かんりょう)

1900年~1986年 中国広東省出身 中国の画家

1917年 日本に留学、1923年、東京太平洋美術学校を卒業。上海美術専科学校などで教鞭をとる。上海文史館館員・中国美術家協会理事などを務める。
1927年 北伐戦争に参加し総政治部芸術部門の部長を担当。
1920年代から彩墨戯劇人物画を描き、1930年からは演劇に題材を求める様になり、水墨画の創作研究に従事した。
1986年 86歳で死去。

油画にも優れ、音楽・戯劇に精通しており多彩な才能の持ち主で、西洋画に対しても、非常に造詣が深く、広く国内外の芸術界からも、高い評価を得ている。



王雪涛 (おうせっとう)

1903年~1982年 中国河北省出身 中国の画家

1926年 前北京国立芸術学院を卒業後、学院の講師、教授を歴任する。
1953年 北京中国画研究会副主席となる。
1956年 中国文化代表団の団員として、欧州を歴訪。

字は晓封、号は迟园。
清新な花鳥画を描くことで評価が高く有名。
作品はあでやかで色彩も豊富で、独特な筆さばきで描かれる。
『王雪涛画集』『王雪涛画輯』『王雪涛画譜』『王雪涛的花鳥画』等の作品を作り上げた。



程十髪(ていじゅっぱつ)

1921年~2007年 中国上海市出身 中国の画家・書家

1941年 上海美術専門学校中国画科を卒業する。
1942年 上海大新会社で個展を開催する。
1949年 美術の復興活動に従事する。
1952年 上海人民美術出版社に入社する。
1956年 上海宮廷に絵画を納入する。
1961年 中国画院に参加する。
1980年 日本で展覧会を行う。
1984年 中国画院の院長をつとめる。
2007年 86歳で死去。

本名は程潼。
人物、山水、花鳥画に優れた才能を見せ、伝統技法を守りながらも近代的な技巧を取り入れた表現は高く評価されており、国内だけではなく海外でも高い評価を受けている。
学校に入学するまでは特別誰かから教わった事はなく、学校で絵を学び始めた時には既に絵画の基礎ができていたという。
また、この時、上海美術学校の教師に「十髪」という風変わりな号をつけてもらい、絵画制作を行うようになった。
画風は細筆を巧みに用いた趣のある画風で人物、竹石などを手掛ける一方、写実的な古典人物、仕女、鹿、鳩などを手掛けるなど独自の工夫を凝らし独特の画風を確立していき、上海中国画院にて画師として活躍するようになった。



章炳麟(しょうへいりん)

1869年~1936年 浙江省余杭出身 中国の学者・政治家・革命家

名は絳また炳麟、字は枚叔、号は太炎。
幼少より母方の祖父と父から考証学の手ほどきを受け、1890年からは杭州にある詁経精舎に入り兪樾に師事した。
辛亥革命の有力な指導者であり、清朝考証学の大家としても有名。
数度、日本に亡命した際に孫文との関係が出来た。
また、魯迅は日本時代の章炳麟の教え子のひとりである。
孫文、黄興とともに「革命三尊」の一人に挙げられる。
伝統学術を再評価し、民族意識を鼓吹、民族主義革命を主張、辛亥革命に大きな影響を与えた。
西欧思想に対峙し、帝国主義や植民地主義批判を展開した彼の哲学観は魯迅、毛沢東等に影響を与えたという。
清朝考証学最後の大家。著書に『章氏叢書』『国学概論』等がある。
68歳で死去。



査士標(さしひょう)

1615年~1698年 山東省海陽出身 中国の明末清初の画家

字は二瞻、号に梅壑散。
新安派の画家で、新安四大家の一人。
諸生に合格したが明が滅んだため仕官せず、詩書画を専念した。
山水画をよくし、書は董其昌の影響を受け、また鑑識に精通していたという。
後年は江蘇省揚州に住み、1698年84歳で死去。
作風は気韻荒寒の趣があると評された。



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