画家一覧

日本画家

虚谷(きょこく)

1821年~1896年 中国出身 中国の書画家

姓は朱、名は虚白、号の虚谷。
太平天国の乱で清軍に属して活躍しましたが、後に心に感じるところあり、九華山にて出家し僧侶となり、詩・書・画・に通じた。
揚州に住み、上海に遊行するたびに盛名のあった徐三庚・任頤・胡遠・呉昌碩らと親交を結び、ともに上海で名声を博したと伝えられる。
淡墨を基調にした個性的な色調で山水・花卉・蔬果・禽虫を描き、書もまた風趣に富み独創的な画風。



郭沫若(かくまつじゃく)

1892年~1978年 四川省嘉定府楽山県出身 政治家・文学者・詩人・歴史家・書家

1914年 日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。
1921年 郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などと文学団体「創造社」の設立に参加する。
この間に処女詩集『女神』を発表。
1927年 蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加する。また、翌年、蒋介石に追われ日本へ亡命する。日本では、中国史の研究に没頭し、『中国古代社会研究』『両周金文辞大系考釈』『我的幼年』などを執筆した。
1942年 重慶で戯曲『屈原』を発表。
1954年 全人代常務副委員長に就任。
1978年 86歳で死去。


原名は郭開貞、字は鼎堂、開貞は諱、号は沫若。
日本に亡命し、日本語と医学を学んだ後、中国に戻り上海で国民党に参加した。
中国の近代文学・歴史学の先駆者で、文学の代表作としては詩『女神』、戯曲『屈原』などがある。
三国志関連では、論文「替曹操翻案」を発表したことにより当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論の契機となった。
その際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。



趙之謙(ちょうしけん)

1829年~1884年 浙江省紹興出身 中国清末の画家・書家・篆刻家

幼少期 代々富商であった為、蔵書がたくさんあり勉学をすることが出来た。また15歳頃より金石学を好んで学んだ。
1849年 20歳に秀才になるが翌年、太平天国の乱に巻き込まれ、科挙の受験は中断された。
1859年に挙人となり、何度か科挙を受験し落第、科挙による出世を諦めるが、北京で潘祖蔭と知遇を得て43歳の時、江西省の知県候補となる。劉坤一の委嘱を受けて『江西省史』の総編集に従事。
1884年 55歳で死去。

字は益甫または撝叔、号は冷君、悲盦、梅庵、无悶、憨寮など。
文人画は10代で学び始め、徐渭や陳淳、石濤、李鱓らに師事して独自の画風を確立した。
書は金石学から書の古法を学び篆書・隷書に優れそこに草書法を加えて斬新な書を作り上げ、さらに深く研究することで、秦・漢の篆書以外にも範囲を広げ魏晋南北朝の時代までも取り入れ、硬直化した篆刻芸術に新様式を樹立した。
また水墨画の伝統を踏まえ画と書を一体と見做した。篆刻は、浙派の丁敬・黄易・蒋仁・陳鴻寿、徽派の鄧石如・巴慰祖・胡唐と両派の区別なく優れたところを学んだ。
彼の一派は新浙派(趙派)と呼ばれ、誰にでも印を売ることをしなかったので作品数は少ない。



孫文(そんぶん)

1866年~1995年 中国出身 中国の政治家・革命家

譜名は徳明、字は載之、号は日新、逸仙または中山。初代中華民国臨時大総統。
中華民国の国父と讃えられる、近代中国の民主革命家である。
三民主義を唱え、辛亥革命を導いて清朝を倒し、中華民国を建国した。
孫文の書は、思想による博愛、天下為公などを書し、日本でも革命活動していた時に、政治家や縁の人達に送られている。
肖像画は中国、台湾で紙幣や貨幣、切手になっている。
国民党では現在も、孫文は党総理であると党則第15章で定めている。
59歳で死去。



傅抱石(ふほうせき)

1904年~1965年 江西省出身 中国の画家・篆刻家

名は長生・瑞麟。号には抱石斎主人。
手工業者の子として生まれ、江西省立第一師範学校卒業後、小中学校で工芸・美術・音楽の教師として務めたのち、徐悲鴻のすすめで日本の帝国美術学校に留学し、横山大観や竹内栖鳳の画を研究してその技法習得に努めた。
帰国後は徐悲鴻の推薦で中央大学美術史教育学科教授に就任。
1947年には上海で個展を開き、北京の斎白石と共に「北石南石」の称を得た。
中華人民共和国建国後、南京師範学院美術家の教授に就任し、のちに江蘇省中国画院院長の任命を受け、関山月と共に人民大会堂にて巨幅山水画の「江水如此多嬌」を製作した。
画は山水を得意としたが、陳洪綬を学んで人物画にも優れ、その画風は宋元を学んだ入念な筆法のものから、海上派らしい荒い筆致のものまで多様である。
また絵画史の研究者としても優れ、数多くの著作をのこした。
61歳で死去。



林風眠(りんふうみん)

1900年~1991年 広東省出身 中国の画家

祖父は石工、父は画家の家に生まれ、19歳にはフランスへ留学してパリ国立高等美術学校で油画を学ぶ。
1925年に帰国後、国立北京芸術専門学校校長兼教授に就任し、真芸術運動を提唱した。
その後、国民政府の大学院芸術教育委員会の主任に就任。
1928年には杭州国立芸術院を創立して、校長兼教授を務め、中国美術家協会の上海分会の副主席も歴任した後、主席へ就任した。
上海中国宮廷に絵画を納め、今後の芸術界に大きく貢献した。
作風は西洋画が中心で特にマティス風の人物や裸女、静物を描いていたが、晩年は重厚な色調で花鳥や人物、風景を描いた。
91歳で死去。



酒井抱一(さかい ほういつ)

1761年~1829年 東京都 日本の画家・俳人

本名は忠因、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真、号はほかに屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居など。
俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)、狂歌名は、尻焼猿人。
「江戸琳派」の創始者で、俵屋宗達、尾形光琳に続く琳派の代表的な絵師として有名。
酒井家では文芸を愛する家風があり、兄・酒井忠以も多趣味な大名茶人で、抱一も若い頃から風雅文芸の道に親しみ生活をし、兄が没すると出家し、武家の身分から開放され文芸の道に専念、谷文晁ら文人とも広く交遊した。
絵ははじめ狩野派を学び、南蘋派、浮世絵、土佐派、円山派等さまざまな流派の画風と技法を習得、特に尾形光琳に私淑し、後年は「光琳百回忌」を営むほど強く傾倒、伝統的な大和絵をベースに雅で装飾性に富んだ琳派表現に、江戸文化らしい粋で瀟洒な美意識を融合させた独自の世界である「江戸琳派」を確立した。
代表的な作品としては『夏秋草図屏風』『十二ヶ月花鳥図』『月に秋草図屏風』『四季花鳥図屏風』等。
俳諧を好み、俳画も得意とした。
67歳で死去。



前田常作(まえだ じょうさく)

1926年~2007年 富山県出身 日本の画家

1949年 武蔵野美術学校西洋画科入学、4年後卒業。
1955年 東京のタケミヤ画廊にて初の個展を開催。
1957年 第1回アジア青年美術家展出品、大賞、パリ留学賞、国際美術家賞受賞、
奨学金を得てフランスに留学。
1961年 第6回日本国際美術展で東京国立近代美術館賞を受賞。
1979年 日本の全国各地で巡回個展を開催し、京都市立芸術大学教授に就任。第11回日本芸術大賞を受賞する。
1983年 武蔵野美術大学教授。
1989年 仏教伝道文化賞を受賞。
1992年 紫綬褒章を受章し、翌年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。
2000年 勲三等瑞宝章受章、武蔵野美術大学の理事長に就任。
2007年 81歳で死去。

美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受け、本格的に画家を志して武蔵野美術学校入学した。
入学後、自由美術家協会展に出品し、第13回展で「水蓮」などが初入選。卒業後は滝口修造の推薦により初個展を開催した。
パリ留学中には、批評家ジャレンスキーに「マンダラ的」な作風であると指摘され、記号化した人体細胞のエネルギッシュな集積からなる『曼荼羅シリーズ』に着手する。
その後『人間風景』『秘儀の空間』シリーズへと展開した。



坂本繁二郎(さかもと はんじろう)

1882年~1969年 福岡県久留米市出身 日本の洋画家

1892年 地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学ぶ。
1907年 第1回文展にて『北茂安村』が入選。
1912年 第6回文展に出品した『うすれ日』が夏目漱石に高く評価された。
1914年 二科会創立に参加。
1921年 フランスに渡り、シャルル・ゲランに師事する。
1931年 友人の梅野満雄の援助で、福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
1954年 毎日美術賞受賞。
1956年 文化勲章を受章。
1969年 87歳で死去。

同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁とは親友でありライバルであった。
坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であり、幼い時から神童と持てはやされていた為、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から上京を決意したという。
そして、第二次大戦後には梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようにまでなった。
『放水路の雲』という作品は、フランスで学び、身につけた手法で地元の風景を描いたものであり、また、馬の絵を描くことが多く『水より上がる馬』は坂本繁二郎の代表作である。



山本鼎(やまもと かなえ)

1882年~1946年 愛知県岡崎市出身 日本の版画家・洋画家・教育者

1901年 木版工房で9年間の年季奉公を終えたが、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、翌年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学。
1907年 創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として、石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。
1911年 東京版画倶楽部を開設し、坂本繁二郎との共作の「草画舞台姿」シリーズを開始。
1912年 石井光子との縁談を周囲から反対されたフランスへ渡る。
1919年 農民美術練習所を開講。
1946年 65歳で死去。

東京美術学校西洋画科選科予科在学中の1904年、与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」に刀画『漁夫』を発表した。
海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さがあり、新進気鋭の版画家として注目され、絵師・彫師・摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。
フランスへ渡った時から借金に苦しんでいたが、帰国後は農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかったという。
代表作としては、『漁夫』『デッキの一隅』『野鶏(ヤーチー)』『ブルトンヌ』等がある。



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