画家一覧

日本画家

木田金次郎(きだ きんじろう)

1893年~1962年 北海道出身 日本の画家

1910年 学校を中退し札幌市郊外で絵を描き続ける日々を送る。
1945年 後志美術協会や全道美術協会の創立に参加するが、出品はしなかった。
1953年 札幌市にて初個展を開催。
1954年 洞爺丸台風による岩内大火により作品の大多数が焼失する。
1957年 北海道新聞文化賞。
1962年 69歳で死去。

岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京し開成中学、京北中学に通い、京北中学時代から絵を描き始め、また上野の展覧会に通うようになる。
札幌で開催されていた展覧会では有島武郎の絵と出会い感銘を受け、スケッチを携えて訪問し交友するが、その後、岩内に帰郷し漁業に従事する。
しかし、1923年に有島武郎が死去して以降、漁業を離れ画業に専念する決意を固め、個展を開く。
翌年には、岩内大火で約1500点の作品を焼失してしまうが、その後も精力的に制作を続け、各地を巡回する展覧会を開催した。
故郷の自然を描き続けた作家である。



会津八一(あいづ やいち)

1881年~1956年 新潟県新潟市出身 日本の歌人・美術史家・書家・新潟市名誉市民

中学時代 「万葉集」や良寛の歌に親しむ。
1906年 新潟県立有恒高等学校の英語教員となり新潟へ戻り、多くの俳句・俳論を残す。
1908年 最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけとなる。
1924年 初の歌集『南京新唱』を刊行。
1933年 仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で翌年に文学博士の学位を受ける。
1940年 歌集『鹿鳴集』を刊行、翌年に書画図録『渾齋近墨』、さらに翌年、随筆集『渾齋随筆』、1944年には歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
1948年 早稲田大学名誉教授就任。
1951年 新潟市名誉市民に選ばれ、また『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞受賞。
1956年 75歳で死去。

雅号は、秋艸道人、渾斎。
学生時代から俳句に堪能で「東北日報」の俳句選者であった。
また、当時、北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手を務めたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりしたという。
また、奈良旅行がきっかけで短歌に興味を持ち、作るようになる。
1914年に東京小石川区高田豊川町に転居し「秋艸堂」と名付け住み、1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し「秋艸堂」と名付け住んでいたが、戦争の空襲により全焼する。
最終的には、伊藤文吉別邸(現、北方文化博物館新潟分館)内の洋館を「南浜・秋艸堂」と呼び、永眠するその時まで暮らした。



加藤 栄三(かとう えいぞう)

1906年~1972年。岐阜県出身。日本画家。

1929年 第10回帝展「夏日小景」初入選。
1931年 東京美術学校卒業。結城素明に師事。
1936年 文展に出品した「薄暮」で文部大臣賞を受賞。
1939年 第3回新文展で『月夜』が特選を受賞。
1958年 第1回新日展「空」出品。
1959年 前年の日展出品作「空」で日本芸術院賞受賞。
1969年 日展理事となる。
1971年 第3回改組日展「流離の灯」出品。日展出品作としては絶筆となる。
1972年 逝去。

昭和を代表する日本画家の1人。
弟・東一と共に、故郷である岐阜県の風景を多く描き上げた。
豊かな自然を、繊細に柔らかく描く作風が特徴的である。
描かれた多くの美しい作品群は、人々の心を魅了する。



青木大乗(あおき だいじょう)

1894年~1979年 大阪府出身 日本画家

1900年代 西美術院で洋画を学び、また京都絵画専門学校で日本画を学ぶ。
1924年 新燈社洋画研究所を開設し、展覧会を開催。
1937年 結城素明、川崎小虎と大日美術院を創立、新日本画の創造につとめ公募展を開催。
1969年 東京、大高島屋にて回顧展を開催。
1978年 朝日新聞社主催にて米寿展を開催。
1979年 87歳で死去。

初号は宏峰。
写実を基本にした深沈たる趣の画面は独自の画情を漂わせた作品を描いた。
代表作には『香心』『焚火』、『古代土器』『鯛」『大鯛」『大自然の微笑』等がある。



秋野不矩(あきの ふく)

1908~ 2001年 静岡県磐田郡出身 日本画家

1927年 千葉県の石井林響に師事。
1929年 京都の西山翠嶂塾「青甲社」に入門。
1948年 同志と共に創画会を結成。
1949年 京都市立芸術大学助教授となる。
1966年 京都市立芸術大学教授となる。
1991年 文化功労者顕彰。
1999年 文化勲章受章。
2001年 93歳で死去。

日本画壇をリードし続けました人物。
画風においては、初期の頃は自身の子どもをモチーフにするなど、主に人物画を中心に描いた。
また50歳を過ぎてからインドに渡ったことをきっかけに、インドの広大な自然やそこでたくましく生きる人々を描いたダイナミックな画風へと変化を遂げた。



池上秀畝(いけがみ しゅうほ)

1874年~1944年 長野県上伊那市 日本画家

1889年 15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。
1906年 詩画堂塾と称して活動していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられ、その中心人物となる。
1907年 正派同志会第1回展で二等銀牌、翌年の文展では初入選する。
1916年 この年から3年連続で文展特選に選ばれる。
1933年 帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力する。
1944年 70歳で死去。

祖父の池上休柳や父の池上秀華も俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味を持っていた為、絵の描き方を自然に覚えたと語った。
晩年になっても次々と作品を発表したが、第二次世界大戦中に狭心症によって70歳で没した。
代表的な作品は『初冬』『四季花鳥』『国之華』等。



池大雅(いけの たいが)

1723年~1776年 京都出身 日本の江戸時代の文人画家・書家

幼名は又次郎など、諱は勤、無名、字は公敏、貨成。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。
雅号は数多く名乗り大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵などで知られる。
7歳から本格的に唐様の書を学び始め、習い始めたばかりの頃には萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから神童と絶賛されたという。
柳沢淇園に才能を見出され、文人画を伝えられた。
中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品等作風は変化に富み、中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に従った為、旅と登山を好んで行ったというエピソードもある。
代表的な作品に『陸奥奇勝図』『倣王摩詰漁楽図』『十便十宜図(十便図の方)』等がある。



池田遥邨(いけだ ようそん)

1895年~1988年 岡山県倉敷市出身 日本画家

1910年 大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ。
1914年 第8回文展に水彩画『みなとの曇り日』が入選。
1919年 京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向。また、第1回帝展に『南郷の八月』が入選。
1926年 京都市立芸術大学を卒業。
1928年 第9回帝展にて『雪の大阪』、2年後の1930年には第11回帝展で『烏城』がそれぞれ特選となる。
1960年 『波』で日本芸術院賞を受賞。
1976年 日本芸術院会員に選任される。
1984年 文化功労者として表彰される。
1987年 文化勲章を受章。
1988年 92歳で死去。

歌川広重に傾倒し、法被姿で歌川広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅した。
また、生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。
晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をしたという。



今尾景年(いまお けいねん)

1845年~1924年 京都出身 日本画家

1855年 11歳の時浮世絵師梅川東居に弟子入りする。
1875年 京都博覧会で洋画の田村宗立と共に受賞。
1877年 第6回京都博覧会でも『牧童図』で銀賞を受ける。
1882年 第一回内国絵画共進会で『鯉魚図』が銅賞を受ける。
1885年 奈良博覧会に出品した『余物百種の図』が一等金牌を受賞。
1919年 帝国美術院会員。
1924年 79歳で死去。

幼名は猪三郎、のち永観、字は子裕、景年は画号で、別号に三養、聊自楽、養素斎。
景年という画号は画家の鈴木百年の年と父の敬愛する松村景文の景を合わせたものである。
浮世絵師や画家に学びながら、一方で三国香眠に詩文を学んだ。
色彩豊かな花鳥画を得意とし、「綺麗濃褥」と評された。
代表的な作品としては『春山花鳥図』『蟠龍図天井画』『錦軟障』等がある。



今尾景祥(いまお けいしょう)

1902年~1993年 京都出身 日本画家

日本画家の今尾景年の養嗣子で、その画法は養父・景年に学び、その為、景年の影響を多分に受けている。
家督を継ぐ養子となった景祥は景年の画風を十分に継承していると言える。
代表的な作品としては『旭日映浪図』『松月図』『松の図』『墨絵松図』等である。



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