画家一覧

洋画家

川口軌外(1892年~1966年)

日本の洋画家。

1892年 - 和歌山県有田郡有田川町に生まれる。本名は孫太郎。
1909年 - 和歌山県師範学校に入学。
1911年 - 洋画夏期講習会に参加し油絵を始める。
1912年 - 上京し太平洋画会研究所に学ぶ。
1913年 - 和歌山県師範学校を放校となる。
1914年 - 日本美術院洋画部に学ぶ。
1917年 - 第4回二科展に初入選。安井曾太郎に学ぶ。
1918年 - 長男、京村が生まれる。
1919年 - フランスに渡り、パリで学ぶ。
1929年 - 帰国。第16回二科展で二科賞を受賞。
1930年 - 協会会員となる。その後、独立美術協会の結成に加わる。
1931年 - 第1回独立美術協会展。以後、独立展を中心に盛んに発表を行う。
1947年 - 国画会会員となる。
1950年 - 上京し、国画会展を中心に発表を行う。
1956年 - 雅号を「軌厓」とする。
1963年 - 国画会を脱退。川口軌外展。
1964年 - 第1回和歌山県民文化賞を受賞。
1966年 - 死去。

幼少期から絵を描くのが好きで本格的にアクリル水彩を学ぶようになった。
里見勝蔵・前田寛治・小島善太郎・佐伯祐三と親交を結びあの有名なマルク・シャガールにも教えを受けた。シャガールからの影響は作風に顕著に現れている。
渡欧してからアンドレ・ロートやフェルナン・レジェに師事。帰国後は二科展・独立展・国画会展に積極的に参加していた。幻想的で絵本のような世界観を持つ川口の絵には存在感が凄まじいものだった。太平洋画会研究所と日本美術院洋画部に学んだ後、安井曾太郎に個人的な指導を受ける。和歌山市で南紀洋画展を開催、翌年第4回二科展に「静物」が初入選。フランスに渡った後、一時帰国して妻子を連れて再度渡仏する。
第二次世界大戦後は、抽象的な作風を開拓し、戦後再編されたエコール・ド・パリやアンフォルメルなど、新しい表現も積極的に取り入れて、常に実験的な姿勢で制作を続けた。日本とヨーロッパの文化に対する深い理解を根底に持ちながら、常に新たな表現を取り入れ制作に打ち込む努力・才能共に優れた画家であった。



鬼頭鍋三郎(きとう なべさぶろう1899年~1982年)

日本の洋画家。

1915年 - 岡田三郎助、辻永に師事。帝展に出品。
1923年 - 松下春雄と美術グループ「サンサシオン」結成。
1931年 - 光風会会員。
1934年 - 帝展特選。
1943年 - 陸軍大臣賞受賞。(戦後は日展に出品)
1952年 - 日展運営会参事。
1953年 - 中部日本新聞社文化賞受賞。
1956年 - 日本芸術院賞受賞。
1958年 - 日展評議員。
1963年 - 日本芸術院会員、日展理事。
1969年 - 日展常務理事。
1970年 - 勲三等瑞宝章受章。
1975年 - 日展顧問。
1982年 – 死去

日本芸術院賞受賞。光風会会員・日展顧問・日本芸術院会員。
上岡田三郎助と辻永に師事する。戦時中は従軍画家として勤しんでいた。戦後は光風会展・日展に積極的に参加し、バレリーナシリーズで飛躍の転機をつかんだ。その後、鬼頭の絵画作品の集大成的な作品である「舞妓」シリーズを展開した。作風は艶やかで女性特有の美しい曲線が見事で定評がある。舞妓の肌の白さを絶妙な明暗で表現している。
洋画タッチで日本独特の舞妓を描くということは当時としてかなり斬新であったため
鬼頭の海外からの評価も高かった。



木村荘八(きむらしょうはち1893年~1958年)

日本の洋画家、随筆家、版画家。

1893年 - 東京都で生まれる
1911年 - 葵橋洋画研究所に入る
1912年 - ヒュウザン会の結成に参加する
1915年 - 草土社を結成する
1918年 - 二科展、院展に出品する
1922年 - 春陽会創設客員として参加する
1924年 - 春陽会会員となる
1928年 - パンの会を発表する
1937年 - 永井荷風、大佛次郎の挿絵を担当する
1958年 - 死去
1959年 - 日本芸術院恩賜賞を追贈される

東京日本橋いろは牛肉店第八支店に生まれ、中学卒業後は第十支店の帳場として銀行員をしていた。幼少期より洋書・文書を読むのが好きで表現を中心とする芸術家になりたいと思うようになった。その影響を与えた長兄の承諾を得て、葵橋洋画研究所に入ったという。そこでは岸田劉生や高村光太郎などの後々活躍する画家と知り合い、ヒュウザン会を結成した。同時に、春陽会にも参加し後に事務所を引き継ぎ運営を支えるようになったという。ある時、盟友の岸田劉生が亡くなった。それからというもの、木村は挿絵画家に転向し、永井荷風の新聞連載「濹東奇譚』の挿絵を担当した。独特のタッチで情緒深く描かれた下町風俗が大衆の人気を集め名声を獲得した。美術の洋書・文書に関する翻訳や執筆をなど多忙な日々が続き脳腫瘍の発見が遅れ、脳腫瘍が原因で亡くなった。
没後に遺著『東京繁昌記(はんじょうき)』の文と絵に対して日本芸術院恩賜賞が贈られ、演劇や映画の時代考証、小唄や邦楽の権威でもあり、書籍の装丁にも優れていた。



木村忠太(きむらちゅうた  1917年~1987年)

日本の洋画家。

香川県高松市に生まれ香川県立工芸学校に入学するが病気のためこれを中退。画家を志して上京し洋画研究所に通うようになった。独立展に初入選し、独立賞受賞。高畠達四郎の推薦により帝国美術学校の本科に入学した。独立美術協会会員も認定。その後は渡仏し、以後パリに移り住んだ。具象画の先駆者としてフランスの画界にデビューを飾る。鮮やかな色彩と即興的な筆致で東洋的油彩画として注目を浴びた。日本で初めての個展を開き高い評価を獲得した。サロン・ドートンヌ出品作「ル・クロ・サンピエールの家」がパリ国立近代美術館買上げとなった時、サロン・ドートンヌ会員となる。パリの他にもニューヨーク、スイスの主要都市、東京などで個展を開催した。『木村忠太画集』が出版された。フランス政府よりシュヴァリエ・ド・ロルドル・デ・アール・エ・デ・レトル勲章というものが贈られた。



国吉康雄(くによしやすお 1889年~1953年)

日本の洋画家。

1889年 - 岡山に生まれる。
1906年 - 岡山県立工業学校染繊科で染織を学び、渡米する。
1907年 - 働きながらロサンゼルス美術学校夜間部に通う。
1910年 - ニューヨークに移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに学ぶ。
1917年 - 独立美術家協会展に出品。
1922年 - ニューヨーク、ダニエル画廊にて初個展開催。パスキンと交友。
1931年 - 一時帰国。東京と大阪で個展開催。
1939年 - 金門橋博覧会アメリカ部門一等賞。
1944年 - カーネギー・インスティテュートの合衆国絵画1994展で一等賞。
1948年 - ホイットニー美術館で回顧展開催。
1952年 - 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカ代表として出品する。
1953年 - 死去。

国吉自身は渡米の理由について父の助言だったと言っている。しかし実のところ、語学留学を目的とした一少年の冒険とも評されており、また当時は日本人のアメリカ移民が流行していた事も背景にあるといわれる。しかし同年はアメリカが帰化法を改正して、日本人移民1世のアメリカ国籍取得を事実上不可能にした年でもあった。
キャサリンとアメリカで結婚するが、アメリカ国籍を持たない国吉と結婚したため、当時のアメリカ法によりキャサリンもアメリカ国籍を剥奪されてしまう。
国吉のアメリカ生活はシアトルから始まり、鉄道工夫、農業労働者、ホテルの雑役夫をしながら生活をしていた。その後画学生となり国吉がダニエル画廊で開いた個展がアメリカメディアに大きく注目されて彼の作品の素朴さや独自性、モダニズムの繊細性と人間性が評価されていた。ダニエル画廊での個展は毎年続き、国吉は独特な「素朴派画家」として売り出していったという。当時の国吉について、ヨーロッパとも日本とも違うアメリカのモダニズムを生み出したという評価もあり、国吉はヨーロッパの模倣ではないアメリカ画家としてアメリカに受け入れられていった。



小出楢重(こいで ならしげ1887年~1931年)

日本の洋画家。

1887年 - 大阪に生まれる。
1907年 - 東京藝術大学日本画科に入学する。
1914年 - 東京美術学校卒業。
1915年 - 第2回院展にて「山の初夏」が初入選。
1917年 - 第8回日本産業博覧会で「静物」が特選受賞。
1919年 - 第6回二科展にて「Nの家族」が樗牛賞受賞。
1920年 - 「少女於梅之像」が二科賞受賞。
1921年 - 風国美術協会第2回展に初めてガラス絵を出品。
1921年 - 渡欧する。
1923年 - 二科会会員となる。
1924年 - 鍋井克之らと信濃橋洋画研究所創設。大阪市美術協会展に出品。
1925年 - 雑誌「マロニエ」の編集に携わる。谷崎潤一郎の「蓼喰う蟲」等の装丁。
1931年 - 死去。

東京藝術大学日本画科に入学したが、西洋画科希望で受験していた。
しかし不合格だったため、日本画科に編入することを許され入学した。
渡辺祥益に日本画を師事。下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向する。
「少女於梅之像」が二科賞を受賞。この頃より挿絵等の仕事を手がけ始め、ガラス絵の制作にも着手し始めていた。裸婦像の作品が多く、評価も高い。西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。以降小出の裸婦像に影響を受けた日本の洋画家も存在した。



小絲源太郎(こいと げんたろう 1887年~1978年)

日本の洋画家、版画家。

1887年 - 東京上野に生まれる。本名は小糸源太郎。
1905年 - 東京美術学校金工科に入学。白馬会菊坂研究所で学ぶ。
1910年 - 第4回文展で初入選。
1914年 - 東京大正博覧会で「人ごみ」が銅牌三等賞受賞。第8回文展で「曇り日」が褒状。
1915年 - 第9回文展で「雨のあと」が褒状。
1930年 - 第11回帝展で「暮春閑情」が特選受賞。
1931年 - 第12回帝展で「獺祭図」が特選受賞。帝展無鑑査となる。
1933年 - 帝展審査員となる。
1934年 - 光風会評議員となる。
1947年 - 多摩造形芸術専門学校教授に就任。
1950年 - 金沢美術工芸短期大学教授に就任。
1954年 - 日本芸術院賞受賞。
1959年 - 日本芸術院会員となる。
1965年 - 文化勲章受章。
1978年 - 死去。

洋画家を志し翌年藤島武二の指導する白馬会駒込研究所に入り素描を学ぶ側ら、海野美盛に塑像の手ほどきを受けた。明治末期には、印象派風の作風を確立させており、大正末機構は細密な写実描写、戦後は力強く骨太なタッチが特徴の独自の画風を確立した洋画家である。印象派時代は冬の景色を描くことが多く、作品も数多く残されている。
東京美術学校西洋画科を志望したが金工科に入学、第4回文展に「魚河岸」が初入選し黒田清輝に認められ西洋画科への転科を勧められる。大正期の後半に一時展覧会出品を中止し再度大正末年復帰してからは、細密な写実描写に転じた。そして戦後には力強い筆触、色彩の強いコントラスト、簡潔なフォルムによる独自な画風を展開していくというその劇的な変化すら美しい画家であった。



古賀春江(こが はるえ 1895年~1933年)

日本の洋画家。

1895年 - 福岡県で生まれる。
1912年 - 太平洋画会研究所に入る。
1913年 - 日本水彩画研究所に入り、石井柏亭に師事。
1915年 - 帰省して僧籍になり名前を良昌と改め、呼び名を春江とした。
1916年 - 日本水彩画会会員となる。
1917年 - 第4回二科展で初入選する。
1922年 - 第9回二科展で二科賞を受賞する。前衛美術団体アクションを結成する
1926年 - 協会に参加するが二科会会友に推挙され退会する
1927年 - 第14回二科展に出品する
1929年 - 二科会展覧会委員として監査に加わり、第16回二科展に出品する
1930年 - 二科会会員となる
1931年 - 古賀春江画集を出版する
1932年 - 強迫観念に襲われるようになり精神的に病む
1933年 – 死去

浄土宗善福寺の住職・古賀正順の長男として生まれるが画家を志して中学を中退し、上京して太平洋画研究所、日本水彩画研究所に入る。一時的に僧籍に入り実家へ帰り、良昌と名乗るようになり通称を春江と呼ぶようになった。主に二科展で作品を発表し、画風も変化が多い画家と呼ばれていた。はじめの頃は水彩画を描いていたが、油彩画へと移り古賀独特の世界観を作り上げた。しかし精神的に病み、病弱だったため38歳に亡くなる。
過去に同居していた友人の藤田謙一が猫いらずで自殺したことに衝撃を受けて精神が不安定になったことが原因でそれからずっと心を病ませていたという。心配した父親が古賀を帰郷させたが 帰郷中も精神不安定な状態で、家を抜け出し阿蘇山で投身自殺をおこしかけ、 地元の人に止められたと言われている。父親を亡くした後は父の後を継ぐために宗教大学の聴講生になり、 学業の傍ら絵の制作に励んだという。同年には日本水彩画会員に推された。



児島虎次郎(こじま とらじろう 1881年~1929年)

日本の洋画家。

1881年 - 岡山県に生まれる。
1902年 - 東京美術学校西洋画科選科に入学。
1908年 – 渡仏
1919年 – 日本で個展を開く
1921年 – 帰国。収集作品による「第1回 現代フランス名画家作品展覧会」を開く。
1927年 - 明治神宮絵画館の壁画制作を始める。
1928年 - 「大原コレクション泰西名画とエジプト、ペルシャ古美術展覧会」を開催。
1929年 – 死去。

倉敷の実業家大原家の奨学生となって東京美術学校に通っていた。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けたという。
奨学金を得た虎次郎は、熱心に学び、山本鼎、青木繁、熊谷守一らといった多くの秀才が在籍する中、 虎次郎は二度の飛び級により、わずか二年で美術学校を卒業という快挙を達成。更に大学院生の時に東京府勧業博覧会の美術展に応募し、「なさけの庭」が一等賞宮内省買い上げられた。これを喜んだ孫三郎は、虎次郎にヨーロッパへの留学を勧める。虎次郎は、フランスのパリへ渡り、その後ベルギーのゲントへ移り、同地の美術アカデミーに学んだ。そこで、校長ジャン・デルヴァンやエミール・クラウスなど、良き師に恵まれた虎次郎は、首席で卒業。滞在中は多くの美術品をコレクションしていた。それを日本へ持ち帰り、展覧会にしてしまうほど数が多かったという。
ヨーロッパの作品のみならず、中国旅行で手に入れた作品も数多い。自身も絵を描いており、印象派の作品が多い。特に色彩と明暗が特徴的で、原色の使い方の評価が高い。
亡き後は岡山にて「故児島虎次郎画伯遺作展覧会」が開催され、多くの遺作が発表された。



小林萬吾(こばやし まんご 1870年~1947年)

日本の洋画家。

1870年 – 香川県三豊市に生まれる。
1889年 - 内国勧業博覧会に「芝東照宮図」が入選。
1895年 - 黒田清輝に入門。
1898年 - 東京美術学校西洋画科選科卒。
1903年 - 内国勧業博覧会三等賞。
1904年 - 東京美術学校助教授
1907年 - 文展三等賞
1930年 - 東京高等師範学校教授
1932年 - 東京美術学校教授
1934年 - 帝展審査委員
1941年 - 帝国芸術院会員
1944年 - 正四位勲三等瑞宝章受章。
1947年 – 死去
原田直次郎、安藤仲太郎等に就き西洋画の手ほどきを受うけ、次で天真道場に入り黒田清輝の指導をうけた。第3、4回内国勧業博覧会には油絵作品で発表各褒賞を得ている。東京美術学校に西洋画科が設置されてすぐに西洋画科選科に入学。この年創立された白馬会の最初の会員となり、第1回展に油絵4点を出品。以後同会展覧会に出品を続けた。美術学校選科を卒業し翌年同校雇となり、更に翌年には西洋画科助手となり、37年には助教授に就任する。第1回文展に「物思」、第3回文展に「渡船」を出品し、3等賞を授けられた。文部省から独仏伊に留学を命ぜられて渡欧、1914年に帰朝、その年の文展には滞欧作品を発表した。以後文展には毎年出品、終始穏健な作風をしたものであつた。1916年には東京高等師範学校教授を兼任、又光風会々員となり、後に東京美術学校教授となった。1920年帝展審査員、1921年帝国美術院改組により帝院参与となり、引続き官展の展覧会委員、審査員として毎回作品も出品した。帝国芸術院会員に任ぜられ東京美術学校教授を依願免官となり勲3等瑞宝章、正4位に叙せられた。官展系作家として晩年迄活躍したが、1947年12月6日午後3時鎌倉市の自宅で逝去した。



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