画家一覧

洋画家

斎藤三郎(さいとう さぶろう)

1917年~1996年 埼玉県熊谷市 日本の洋画・浦和画家

1937年 内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
1940年 東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数のデッサンを描く。
1946年 第31回二科展に初入選。
1948年 第33回二科展にて『敗戦の自画像』が特待賞受賞。
1949年 サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
1950年 『信仰の女』で第35回二科展二科賞受賞。
1954年 二科会会員推挙。
1961年 第46回二科展にてパリ賞を受賞。
1972年 第57回二科展に出品し、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。また、二科会委員となる。
1996年 78歳で死去。

23歳で太平洋戦争に召集され、戦地にて生きて帰国できれば画家になると決意し、生死の狭間で約3000枚のスケッチを残した。
その後、絵を独学で学び、二科会で活躍するようになり、特に美人画では二科会随一のヨーロッパ美人画と言われた。



津高和一(つたか わいち)

1911年~1995年 兵庫県西宮市出身 日本の洋画家

1946年 行動美術協会会員となり作品を発表する。
1952年 サンパウロ・ビエンナーレ展に出品。
1958年 現代日本美術展優秀賞。
1960年 ニューヨーク・グッゲンハイム賞美術展出品。
1985年 大阪芸術大学名誉教授。
1995年 阪神淡路大震災によって84歳で死去。

中之島洋画研究所で学び、その後は行動美術展を中心に作品を発表した。
また、若くから詩作に励んでおり、絵画でも線描による独特の詩情を称えた表現が高く評価され、サンパウロ・ビエンナーレやグッゲンハイム賞美術展にも参加するなど、日本を代表する抽象画家として活躍した。



鴨居玲(かもい れい)

1928年~1985年 石川県金沢市 日本の洋画家

1946年 金沢市立金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)に入学し、宮本三郎に師事する。
1950年 二紀会同人に推挙される。
1952年 芦屋・田中千代服装学園の講師となる。
1964年 創作に行き詰まり、南米・パリ・ローマを渡り歩き、翌年帰国。
1968年 初の個展を開催し、下着デザイナーの姉・鴨居羊子を通じて知り合った小説家・司馬遼太郎と親交をもつ。
1969年 昭和会賞と安井賞を受賞。
1971年 スペイン・ラ・マンチャ地方のバルデペーニャスにアトリエを構え制作に没頭。
1984年 金沢美術工芸大学の非常勤講師として講義。
1985年 57歳で死去。

人生に絶望するのではなく、ここで人生の幕を下ろした方が自分という人間にとって格好いいと思っており「死の美学」を持っていた。
しかし、その一方で生きることへの未練も抱えており、生涯に何度も自殺未遂を繰り返してしまった。
画風としては社会や人間の闇を描いくことが多い画家だった。



松田正平(まつだ しょうへい)

1913~2004年 島根県出身 日本の洋画家

1937年 東京美術学校西洋画科卒業し、パリへ留学するが、第二次世界大戦が始まった為、1939年に帰国。
1951年 国画会会員となり、銀座フォルム画廊で初めての個展を開催。(以後定例化)。
1984年 第16回日本芸術大賞受賞。
2000年 地域文化功労者文部大臣表彰。
2002年 平成14年度文化庁長官表彰。
2004年 91歳で死去。

その名が知られるようになったのは晩年になってから。
戦前から戦後にかけて少しずつ厚塗りになっていくが、その後、徐々に作品は薄くなり、80年代には透明感のある水彩のような表現に変わっていくのが特徴。
瀬戸内海の西の端にあたるこの海を描いた『周防灘』シリーズは代表的な作品の一つ。



村山槐多(むらやま かいた)

1896年~1919年 京都府京都市出身 日本の洋画家

1914年 京都府立第一中学校を卒業し上京し、日本美術院の研究生となる 第1回二科展に『庭園の少女』が入賞。
1915年 第2回日本美術院展覧会で『カンナと少女』が院賞受賞。
1917年 第4回日本美術院展覧会で『乞食と女』が院賞受賞。
1918年 第4回日本美術院試作展覧会に『樹木』『自画像』『九十九里の浜』『男の習作』他2点を出品し、奨励賞受賞。
1919年 第5回日本美術院試作展覧会に『松と榎』『雪の次の日』『松の郡』『自画像』『松と家』『大島風景』『某侯爵邸遠望』『代々木の一部』を出品し、美術院賞乙賞受賞。
1919年 24歳で死去。

画家の山本鼎は従兄である。
画家自身のほとばしる情念や不安を反映した村山槐多の絵は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残す。
また、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ないことから、現在残されている作品にはかなりの高値が付く。
過去に「なんでも鑑定団」に村山槐多の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある。



岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)

1869年~1939年 佐賀県出身 日本の洋画家

1887年 岡田家の養子になり洋画家・曽山幸彦の画塾に入門、曽山の逝去後は堀江正章に学んだ。
1892年 洋風絵画専修のため大幸館に入学し、堀江正章の指導を受ける。
1893年 大幸館規定の科目を卒業。卒業制作は『矢調べ』。
1896年 白馬会の創立に参加する。
1897年 第1回の文部省留学生としてフランスに留学し、ラファエル・コランに師事する。
1902年 帰国し、東京美術学校の教授に就任する。
1907年 東京勧業博覧会出品の『婦人像(某婦人の肖像)』が1等賞を受ける。文展の審査員に選出。
1912年 藤島武二と本郷洋画研究所を設立。
1919年 高村豊周、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会の結成に加わる。帝国芸術院会員となる。
1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術院会員となる。
1939年 70歳で死去。

父親は佐賀藩主に使える藩士で、小さな時に百武兼行の油絵を見る機会があり、画家を志すことを始めた。
久米桂一郎の紹介で黒田清輝に師事し、それまでの伝統的な技法だけだはなく、西洋の技法も学び、さらに、フランスへ留学時にはラファエル・コランに師事し、画技を磨いた。
外光派の画風を基本とした写実風景画を得意とし、作品は女性を描いたものが多い。



坂本繁二郎(さかもと はんじろう)

1882年~1969年 福岡県久留米市出身 日本の洋画家

1892年 地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学ぶ。
1907年 第1回文展にて『北茂安村』が入選。
1912年 第6回文展に出品した『うすれ日』が夏目漱石に高く評価された。
1914年 二科会創立に参加。
1921年 フランスに渡り、シャルル・ゲランに師事する。
1931年 友人の梅野満雄の援助で、福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
1954年 毎日美術賞受賞。
1956年 文化勲章を受章。
1969年 87歳で死去。

同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁とは親友でありライバルであった。
坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であり、幼い時から神童と持てはやされていた為、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から上京を決意したという。
そして、第二次大戦後には梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようにまでなった。
『放水路の雲』という作品は、フランスで学び、身につけた手法で地元の風景を描いたものであり、また、馬の絵を描くことが多く『水より上がる馬』は坂本繁二郎の代表作である。



山本鼎(やまもと かなえ)

1882年~1946年 愛知県岡崎市出身 日本の版画家・洋画家・教育者

1901年 木版工房で9年間の年季奉公を終えたが、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、翌年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学。
1907年 創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として、石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。
1911年 東京版画倶楽部を開設し、坂本繁二郎との共作の「草画舞台姿」シリーズを開始。
1912年 石井光子との縁談を周囲から反対されたフランスへ渡る。
1919年 農民美術練習所を開講。
1946年 65歳で死去。

東京美術学校西洋画科選科予科在学中の1904年、与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」に刀画『漁夫』を発表した。
海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さがあり、新進気鋭の版画家として注目され、絵師・彫師・摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。
フランスへ渡った時から借金に苦しんでいたが、帰国後は農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかったという。
代表作としては、『漁夫』『デッキの一隅』『野鶏(ヤーチー)』『ブルトンヌ』等がある。



小杉放庵(こすぎ ほうあん)

1881年~1964年 栃木県出身 日本の洋画家

1896年 五百城文哉の内弟子となるが、翌年、師に無断で絵画修行のため上京する。
1899年 文哉の許しを得て再上京し「不同舎」に入る。
1900年 漫画や挿絵、外国人に売る水彩画を描くようになる。
1904年 日露戦争の従軍記者として戦地の写生や記事をかく。
1911年 第5回文展に『水郷』『油彩』を出品し、2等賞1席を受賞。『水郷』は文部省買い上げ。
1912年 第6回文展において『豆の秋』で再び2等賞1席を受賞。
1914年 横山大観らとともに日本美術院を再興。(1920年に脱退)
1922年 春陽会の創立に参加。
1925年 東京大学安田講堂の壁画を描く。
1964年 82歳で死去。

本名は国太郎、別号に未醒、放菴。
国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっていた。
1905年から始まった日露戦争には、「近事画報」誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画やユーモラスな漫画的な絵などで雑誌の人気に大きく貢献した。
フランスに留学もするが、当地で池大雅の「十便図」を見たことをきっかけに日本画にも傾倒し、帰国後は墨絵も描いた。



森田恒友(もりたつねとも)

1881年~1933年 埼玉県出身 洋画家

1901年 画家を志して上京し、小山正太郎の主宰する画塾「不同舎」に学び、また、中村不折に師事した。
1902年 東京芸術大学西洋画選科に入学。
1906年 東京美術学校を卒業して研究科に進むが、翌年退学し。石井柏亭、山本鼎らと美術誌『方寸』を創刊して、同誌に挿絵や芸術論を発表した。
1907年 第1回文展に『湖畔』を出品して、入選を果たす。
1914年 絵の勉強のため欧州に渡り、印象派を学ぶ。
1915年 帰国して二科会会員となるが1917年には退会。
1922年 杉放菴、倉田白羊、梅原龍三郎らとともに「春陽会」創設に加わる。
1929年 帝国美術学校の創設とともに洋画科主任教授に就任。
1933年 51歳で死去。

大正・昭和時代の洋画家で、南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人。
ヨーロッパで得たリアリズムを基本に西洋画の写生を水墨画の上に生かし、自らを平野人と号し、関東平野の利根川沿いの自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた。
代表的な作品としては『梳髪』『湖畔』等がある。



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