画家一覧

縺昴・莉・

康煕帝(こうきてい)

1654年~1722年 清の第4代皇帝

1661年 順治帝は同年に崩御した為、8歳で皇帝に即位。
1673年 三藩の乱(呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の3人の藩王の反乱)が起こる。1683年に反清勢力を完全に滅ぼした。
1722年 68歳で死去。

諱は玄燁。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝、在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに中国歴代最高の名君とされる。
文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた。



金延標(きんていひょう)

生没年不詳 中国の宮廷画家

字は士揆。
18世紀の清朝の画家で乾隆帝の南巡が行われた際に献上した自作の『白描羅漢冊』が皇帝の目にとまり、宮廷画家として召抱えられることとなった。
果物や花卉、人物画を得意とした。



徽宗皇帝(きそうこうてい)

1082年~1135年 北宋の八代皇帝

北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)
1100年に兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御した為、弟である徽宗が皇帝に即位。
文人、画人としてその才能が高く評価され、芸術面では北宋最高の一人と言われる。
痩金体(「痩金」は徽宗の号)と称される独特の書体を創出し、絵画では写実的な院体画を完成させ「風流天子」と称された。
今現在は、徽宗の真筆は極めて貴重な文化財となっており、日本にある『桃鳩図』は国宝に指定されている。また、『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。



八大山人(はちだいさんじん)

1626年~1705年 中国出身 画家・書家・詩人

本名は朱耷、または朱由桵、字は雪個。
江西省南昌に在した明朝の宗室のひとつ石城王の一族出身。
官吏を目指し、科挙試験を受ける為民籍に降り、初頭段階を経て応試の資格を得るが、1644年に明朝そのものが滅亡したことにより、その夢は断たれてしまう。
その後、清軍の侵攻を避けて臨川県・進賢に逃げ、1648年に出家し、その地の禅寺である耕香庵に入り、仏道修業に励み、数年後には宗師となった。
仏門に入ってから20年後、100人近い弟子を持ち、寺の外にも評判が聞こえていたため警戒され、県令の胡亦堂の命により官舎に軟禁されたが、僧服を焼き捨てて南昌へ奔走した。
仏曹界から離れてからは、王羲之・王献之・顔真卿・董其昌を範として画作を始める。「流暢秀健」の風格を有する八大山人の書法は、その後の「揚州八怪」、趙之謙、呉昌碩、任伯年、斉白石などの大家に極めて大きな影響をも与えたといわれる。
画風は、水墨花鳥画の形式を基本とし、花卉や山水、鳥や魚などを多く題材にしつつ、伝統に固執しない大胆な描写を得意とした。



王時敏(おうじびん)

1592年~1680年 中国江蘇省太倉出身 清代初期の画家

四王呉惲【うん】の一人で字は遜之、号は烟客、西廬老人など。
王鑑、王翬、王原祁とともに婁東派四王と呼ばれ、さらに惲寿平、呉歴も加え清初六家と呼ばれた。
董其昌に師事して南宗画を学び,元末四大家ことに黄公望の画風を慕い、山水画をよく描いた。
清初画壇に多大な影響を与えた人物。
88歳で死去。



辺寿民(へんじゅみん)

1684年~1752年 中国江蘇省山陽出身 清代の画家

初名は維祺、字は頤公、号に漸僧・葦間居士等。
書画ともに秀れ、画は杜撰な水墨を用いて花鳥、蔬果、山水、没骨法による芦雁が有名で「辺の芦雁」と呼ばれる。
楊州八怪の鄭板橋・金農らと交友を持ち、個性的な花鳥画、四君子等、のちの中国画に強い影響を与えた。
北京故宮博物院蔵の蘆雁画図などが一般的に知られている。
68歳で死去。



包世臣(ほうせいしん)

1775年~1855年 中国安徽省涅県出身 中国の学者・篆刻家・書家

1780年 父に経学を学び始め8歳で詩を詠む。
1803年 28歳のとき、揚州にて旅の途次にあった鄧石如に出会い、十日間だけ書の指南を受ける。また、鄧石如の書と生き方に強く感銘を受け、生涯の範とする。
1833年 58歳の時、王羲之書法の忠実な継承作として著名な孫過庭の『書譜』を研究し「書譜弁誤」を著す。
1855年 80歳で死去。

字は慎伯、号は倦翁・倦遊閣外史など。
幼少時から詩を詠み、早くから兵法家の書を研究していた。
15歳で初めて科挙を受けるが合格できず、43歳にしてようやく郷試に合格し会試を受験するが失敗してしまい科挙での出世を諦める。
また、中年以後、碑学を推奨した阮元に追随し碑学尊重し、北碑の研究をおこなった。
このため碑学開山の祖となり、当時の書壇に大きな影響を与えたという。
著書には『藝舟双楫』『小倦游閣草書』等がある。



石涛(せきとう)

1642年~1707年 中国広西省出身 中国清初の画家

本名は朱若極。号に清湘・大滌子など。出家後は道済。
元々、明王室出身であったらしく、独特な画風は、前王朝に連なるものとしての鬱屈した抵抗精神の反映であろうといわれ、高く評価されている。
黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家として挙げられる。



于右任(うゆうじん)

1879年~1964年 陝西省西安府涇陽県 政治家・書家・教育家・詩人・ジャーナリスト

1903年 癸卯科挙人となる。
1907年 上海で「神州日報」を創業し、社長となる。この他にも、『民呼日報』、『民立報』などを創始し、革命派の言論・思想を発信した。
1912年 南京で中華民国臨時政府が設立され、交通部次長に任命。
1924年 中国国民党第1期中央執行委員に選出。
1938年 国防最高委員会常務委員に任命。
1964年 85歳で死去。

字は右任、号は神州旧主、騒心、大風、剥果、太平老人等。
中国同盟会以来の古参の革命派で、国民政府の監察院院長として知られる。
国民政府の重鎮として活動する一方で、文化人としても有名で、書・漢詩などで優れた作品を残し、近代能書家の中でも筆頭とも呼べる人物である。



関良(かんりょう)

1900年~1986年 中国広東省出身 中国の画家

1917年 日本に留学、1923年、東京太平洋美術学校を卒業。上海美術専科学校などで教鞭をとる。上海文史館館員・中国美術家協会理事などを務める。
1927年 北伐戦争に参加し総政治部芸術部門の部長を担当。
1920年代から彩墨戯劇人物画を描き、1930年からは演劇に題材を求める様になり、水墨画の創作研究に従事した。
1986年 86歳で死去。

油画にも優れ、音楽・戯劇に精通しており多彩な才能の持ち主で、西洋画に対しても、非常に造詣が深く、広く国内外の芸術界からも、高い評価を得ている。



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