画家一覧

画家一覧

高田 博厚(たかた ひろあつ)

1900年~1987年。石川県出身。彫刻家、文筆家。

1921年 「ミケランジェロの書簡」を訳し「白樺」にて掲載。
1927年 武者小路実篤主唱の大調和展に作品を出展。
1929年 梅原龍三郎の国展に参加。
1934年 フランスより国展に十点ほど出品。
1938年 ベルネーム・ジューヌ画廊で第一回展「女のトルソ(カテドラル)」出品。
1939年 シャルパンティエ画廊でパリ日本美術協会第二回展。
1959年 高村光太郎賞選考委員会「高村光太郎」制作。
1960年 「ガンディーⅠ」制作。
1962年 「海」制作。
1963年 「女のトルソ」制作。
1967年 「梅原龍三郎」制作。
1968年 「西田幾多郎」制作。
1970年 「高橋元吉」制作。
1971年 「宮澤賢治」制作。
1972年 「富岡鉄斎」制作。
1973年 「横たわる女」制作。
1974年 「ジョルジュ・ルオー」「イザベル・ルオー」制作。
1976年 「岸田劉生」制作。
1978年 「空」「地」制作。
1981年 「遠望」制作。
1982年 「礼拝」制作。
1983年 「中野重治」制作。
1985年 「大地へ」制作。
1987年 逝去。

早くから文学・芸術に目覚め、彫刻家としてのみならず、文筆家としても活躍した。
多くの知識人と親交を深め、彼らをモデルとした肖像作品を多く制作しています。
「自分はまだ小僧だ」とよく語っており、探究心を生涯絶やす事なく制作活動を続けました。



高村 光雲(たかむら こううん)

1852年~1934年。東京都出身。仏師、彫刻家。

1863年 仏師の高村東雲に入門。
1874年 師に認められて高村光雲を名乗る。
1877年 第1回国内観業博覧会に「白衣観音像」を出品、龍紋賞受賞。
1886年 東京彫工会設立。
1887年 皇居造営の「葡萄に栗鼠像」を制作。
1890年 東京美術学校(現・東京藝大)教授。帝室技芸員拝命。
1892年 上野公園に「西郷隆盛像」を制作。
1893年 シカゴ万博博覧会に「老猿像」を出品。
1897年 古社寺保存委員。
1907年 文展審査員。
1919年 帝国美術院会員。
1929年 国宝保存会委員。
1934年 逝去。

江戸の木彫技術に新たな西洋風の技術を加味することで、
木彫技術の伝統を近代に継承するうえで非常に重要な役割を果たした人物。
代表作は国の重要文化財に認定されている「老猿」や、上野公園に建っている西郷隆盛像などが挙げられる。



平櫛 田中(ひらくし(又は ひらぐし) でんちゅう)

1872年~1979年。岡山県出身。彫刻家。

1901年 日本美術協会美術展で銀牌を受賞。
1907年 文展で入選。
1908年 日本彫刻会第1回展に出品。
1914年 日本美術院再興記念展覧会で出品。
1930年 第17回院展に出品。
1937年 帝国芸術院会員となる。
1949年 東京藝術大学教授となる。
1962年 文化勲章を受章。
1965年 東京藝術大学名誉教授となる。
1972年 井原市主催で平櫛田中賞を設立。
1979年 逝去。

仏教説話や中国故事などを題材にした作品を制作し、
また、大正期には、モデルを使用した塑像の研究に励みます。
昭和初期には採色の使用を試みるなど、伝統と近代の間に表現の可能性を求め続けた。
代表作には、22年かけて作られた大作「鏡獅子」などが挙げられる。



山崎 朝雲(やまざき ちょううん)

1867年~1954年。福岡県出身。彫刻家。

1884年 仏師・高田又四郎に師事。
1894年 第4回内国勧業博覧会に出品、宮内省買い上げ。
1895年 上京。高村光雲に師事する。
1900年 日本美術協会幹事。
1907年 同門の平櫛田中・米原雲海らとともに日本彫刻会を結成。
1927年 帝国美術院会員。
1934年 帝室技芸員。
1937年 帝国芸術院会員。
1952年 文化功労者。
1954年 逝去。

西洋彫刻の技法を木彫に応用し、旧来の木彫の近代化を実現させた人物の一人。
それにより、旧来の木彫にはなかった写実性が実現し、衰退しつつあった木彫界に
新しい風を呼び、多くの若手木彫作家と共に積極的に研究活動を行った。
代表作は、「大葉子」や「聖観音」などが挙げられる。



福井 良之助(ふくい りょうのすけ)

1923年~1986年。東京都出身。洋画家、版画家。

1946年 太平洋画会展で『みちのくの冬』が初入選し、一等賞を受賞。
1954年 第18回自由美術協会店で『窓』が佳作賞。
1959年 孔版による初めての個展を開く。その後国際版画展等に出品。
1961年 第6回日本国際美術展に出品。ニューヨークで個展 。
1962年 第5回現代日本美術展に出品。
1963年 第7回日本国際美術展に出品。リュブアナ国際版画ビエンナーレ展に参加。
1964年 アメリカで個展開催。
1967年 国際形象展に招待出品。
1985年 第9回長谷川仁記念賞を受賞。
1986年 逝去。

情緒的に彩られるセピア調に、独特のタッチの繊細さが混合した画風が特徴。
横顔の画家として知られており、特に女性を描く作品には彼の良さが大きく表れています。
海外にも多くの作品を出品しており、国内外共に大きな評価を得ています。



福沢 一郎(ふくざわ いちろう)

1898年~1992年。群馬県出身。洋画家。

1931年 第一回独立美術協会展(東京府美術館)に滞欧作が特別陳列。
1939年 独立美術協会を脱会し、美術文化協会を結成。
1941年 治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、世田谷署に拘置される。
     以後終戦まで、前衛的な絵画活動を厳しく制限され、戦争協力画制作などに従事。
1952年 文化自由委員会の日本代表として国際フェスティバルに参加するため渡仏。
1957年 第4回日本国際美術展に[埋葬]を出品、日本部の最高賞を受ける。
1976年 「福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催。
1978年 文化功労者に選ばれる。
1988年 「福沢一郎展」が、群馬県立近代美術館と世田谷美術館で開催。
1991年 文化勲章受章。
1992年 逝去。
「文化勲章受章記念 福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催。

パリ留学中にシュルレアリスム絵画の影響を受け、その画風を日本にも紹介した画家。
また、社会風刺や文明批判を盛り込んだ作風で大作や連作を発表し続けた。
戦後は原色を用いた力強く鮮烈な画風を確立し、宗教的なテーマに取り組んだ。



吉原治良(よしはらじろう)

1905年~1972年 大阪府大阪市出身
抽象画家・前衛美術の先駆者・実業家・具体美術協会の創設者

中学時代から絵を描き始め、藤田嗣治らの指導をうけて1934年二科展に出品し初入選。
当初は魚を題材に描き「魚の画家」として大きな注目を集めていた。敬愛する藤田嗣治らに作品を見てもらう機会を得るが自身の作品が他者からの影響を受けているということを厳しく指摘され、オリジナリティの重要性を強く認識、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。
1938年 山口長男、斎藤義重の二科会の前衛作家らとともに九室会を結成。
1941年 二科会会員となり、戦後の二科会再建に参加する。また、吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を行い、同時に、住んでいた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っていた。
1954年 若い作家を結集して具体美術協会を結成し、リーダーとして活動。結成時のメンバーは、嶋本昭三、山崎つる子、正延正俊、吉原通雄、上前智祐、吉田稔郎、東貞美ら15人。
1955年 第1回具体美術展を皮切りに『作品A』等の様々な実験的な作品を発表、さらにニューヨークやパリなどでも具体展を開催し、アンフォルメルの主導者であったフランスの美術評論家ミシェル・タピエらの注目を集めた。
晩年は黒地に大きく白い円を描くなど円形を題材にした『作品』等、多くの作品を描いた。
67歳没後、従五位勲四等旭日小綬賞が追贈。

吉原治良の死後、具体美術協会は解散したが、その先駆性は今でも国内外で高く評価されている。



村上三郎(むらかみ さぶろう)

1925年~1996年 兵庫県神戸市出身 芸術家

1943年 関西学院大学予科に入学、絵画部「弦月会」に入り、神原浩に師事し油絵を始める。
1952年 第5回芦屋市展(仏教会館、芦屋)を1994年の第47回展まで毎回参加する。また、この頃、金山明、白髪一雄、田中敦子ら新制作派協会における先鋭的メンバーによるグループ「0会」に参加。
1955年 白髪一雄、田中敦子、金山明らと共に吉原治良をリーダーとする「具体美術協会」に参加。1972年の解散時まで具体美術協会の主要メンバーのひとりとして活動。
1990年 神戸松陰女子短期大学教授となり、児童画教育にも携わった。
1996年 芦屋市立美術博物館での個展目前に70歳で死去。

木枠に張った多数の紙を突き破って走り抜ける紙破りのパフォーマンスで知られる。
また、野外具体美術展で発表された『あらゆる風景』は木枠だけを木にぶらさげて風景を見せる作品等観念的なものやキャンバスや石膏を貼り付けたり、絵具の流れ落ちる跡を定着させた物質的ものまで様々な絵画を制作した。



山口長男(やまぐちたけお)

1902年~1983年 韓国京城府(現ソウル) 洋画家

1921年 本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
1927年 東京美術学校を卒業後、フランスに留学。パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、オシップ・ザッキンらに大きな刺激を受ける。
1931年 1962年まで二科展へ出品、抽象的な作風の作品制作を開始。
1938年 吉原治良ら二科会の前衛作家とともに九室会を結成。
1953年 日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
1954年 毎日現代美術展最優秀賞を受賞。
1962年 芸術選奨文部大臣賞を受賞
1955年 第3回サンパウロ・ビエンナーレ、1956年に第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として出品、その後、グッゲンハイム賞美術展、チューリッヒ市立美術館の「現代日本の絵画展」など、国外での出品も広がる。
1961年 芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1982年 武蔵野美術学園長就任。
1983年 80歳で死去

日本の抽象美術の開拓者。
「ハード・エッジ」の抽象絵画とは違い、黒系の地に黄土色または赤茶色系の大きな色面を配し、温かみを感じさせる作品を多く制作。
幾何学的な形の組み合わせと色数の限定が特徴的で、晩年ではより単純化された抽象画を確立した。



河原温(かわら おん)

1932年(1933年)~2014年 愛知県出身
美術家・コンセプチュアル・アートの第一人者

1950年代 日本で活躍し、不気味な印象をもたらす「浴室」シリーズ、「物置小屋の出来事」等の鉛筆素描の連作は現在でも高い評価を得た。
1960年代半ば この頃からニューヨークを拠点とし、作風もよりコンセプチュアルになる。
1966年 この年から描き続けられていたTodayシリーズはキャンバスにその「絵」が制作された日の日付だけを筆触を全く残さない職人技で描いた連作が世界的に有名。
また、その他にも過去と未来それぞれ百万年の年号をタイプした「One Million Years」、常に同じ「I am still alive.」という文面の電報を世界各地から発信するシリーズ、絵葉書にその日河原が起床した時刻だけを記して特定の相手に郵送する「I Got Up」等、いくつかのシリーズがある。
2014年 81歳で死去

河原温本人は1966年以降、カタログ等にも一切経歴を明かさず、公式の場に姿を見せず、作品について自己の言葉で語らず、本人の写真やインタビュー等も存在しないなど、その実像は謎に包まれている。また、1951年に上京するまでの間も資料も無い為、不明である。
しかし、世界中の美術館で展覧会が開かれるなど非常に評価が高く、日本出身の現代美術家のなかで世界的にもっとも著名な1人である。



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