画家一覧
関良(かんりょう)
1900年~1986年 中国広東省出身 中国の画家
1917年 日本に留学、1923年、東京太平洋美術学校を卒業。上海美術専科学校などで教鞭をとる。上海文史館館員・中国美術家協会理事などを務める。
1927年 北伐戦争に参加し総政治部芸術部門の部長を担当。
1920年代から彩墨戯劇人物画を描き、1930年からは演劇に題材を求める様になり、水墨画の創作研究に従事した。
1986年 86歳で死去。
油画にも優れ、音楽・戯劇に精通しており多彩な才能の持ち主で、西洋画に対しても、非常に造詣が深く、広く国内外の芸術界からも、高い評価を得ている。
王雪涛 (おうせっとう)
1903年~1982年 中国河北省出身 中国の画家
1926年 前北京国立芸術学院を卒業後、学院の講師、教授を歴任する。
1953年 北京中国画研究会副主席となる。
1956年 中国文化代表団の団員として、欧州を歴訪。
字は晓封、号は迟园。
清新な花鳥画を描くことで評価が高く有名。
作品はあでやかで色彩も豊富で、独特な筆さばきで描かれる。
『王雪涛画集』『王雪涛画輯』『王雪涛画譜』『王雪涛的花鳥画』等の作品を作り上げた。
程十髪(ていじゅっぱつ)
1921年~2007年 中国上海市出身 中国の画家・書家
1941年 上海美術専門学校中国画科を卒業する。
1942年 上海大新会社で個展を開催する。
1949年 美術の復興活動に従事する。
1952年 上海人民美術出版社に入社する。
1956年 上海宮廷に絵画を納入する。
1961年 中国画院に参加する。
1980年 日本で展覧会を行う。
1984年 中国画院の院長をつとめる。
2007年 86歳で死去。
本名は程潼。
人物、山水、花鳥画に優れた才能を見せ、伝統技法を守りながらも近代的な技巧を取り入れた表現は高く評価されており、国内だけではなく海外でも高い評価を受けている。
学校に入学するまでは特別誰かから教わった事はなく、学校で絵を学び始めた時には既に絵画の基礎ができていたという。
また、この時、上海美術学校の教師に「十髪」という風変わりな号をつけてもらい、絵画制作を行うようになった。
画風は細筆を巧みに用いた趣のある画風で人物、竹石などを手掛ける一方、写実的な古典人物、仕女、鹿、鳩などを手掛けるなど独自の工夫を凝らし独特の画風を確立していき、上海中国画院にて画師として活躍するようになった。
章炳麟(しょうへいりん)
1869年~1936年 浙江省余杭出身 中国の学者・政治家・革命家
名は絳また炳麟、字は枚叔、号は太炎。
幼少より母方の祖父と父から考証学の手ほどきを受け、1890年からは杭州にある詁経精舎に入り兪樾に師事した。
辛亥革命の有力な指導者であり、清朝考証学の大家としても有名。
数度、日本に亡命した際に孫文との関係が出来た。
また、魯迅は日本時代の章炳麟の教え子のひとりである。
孫文、黄興とともに「革命三尊」の一人に挙げられる。
伝統学術を再評価し、民族意識を鼓吹、民族主義革命を主張、辛亥革命に大きな影響を与えた。
西欧思想に対峙し、帝国主義や植民地主義批判を展開した彼の哲学観は魯迅、毛沢東等に影響を与えたという。
清朝考証学最後の大家。著書に『章氏叢書』『国学概論』等がある。
68歳で死去。
査士標(さしひょう)
1615年~1698年 山東省海陽出身 中国の明末清初の画家
字は二瞻、号に梅壑散。
新安派の画家で、新安四大家の一人。
諸生に合格したが明が滅んだため仕官せず、詩書画を専念した。
山水画をよくし、書は董其昌の影響を受け、また鑑識に精通していたという。
後年は江蘇省揚州に住み、1698年84歳で死去。
作風は気韻荒寒の趣があると評された。
虚谷(きょこく)
1821年~1896年 中国出身 中国の書画家
姓は朱、名は虚白、号の虚谷。
太平天国の乱で清軍に属して活躍しましたが、後に心に感じるところあり、九華山にて出家し僧侶となり、詩・書・画・に通じた。
揚州に住み、上海に遊行するたびに盛名のあった徐三庚・任頤・胡遠・呉昌碩らと親交を結び、ともに上海で名声を博したと伝えられる。
淡墨を基調にした個性的な色調で山水・花卉・蔬果・禽虫を描き、書もまた風趣に富み独創的な画風。
郭沫若(かくまつじゃく)
1892年~1978年 四川省嘉定府楽山県出身 政治家・文学者・詩人・歴史家・書家
1914年 日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業。
1921年 郁達夫や成仿吾、張資平、鄭伯奇などと文学団体「創造社」の設立に参加する。
この間に処女詩集『女神』を発表。
1927年 蒋介石と対立後に南昌蜂起に参加する。また、翌年、蒋介石に追われ日本へ亡命する。日本では、中国史の研究に没頭し、『中国古代社会研究』『両周金文辞大系考釈』『我的幼年』などを執筆した。
1942年 重慶で戯曲『屈原』を発表。
1954年 全人代常務副委員長に就任。
1978年 86歳で死去。
原名は郭開貞、字は鼎堂、開貞は諱、号は沫若。
日本に亡命し、日本語と医学を学んだ後、中国に戻り上海で国民党に参加した。
中国の近代文学・歴史学の先駆者で、文学の代表作としては詩『女神』、戯曲『屈原』などがある。
三国志関連では、論文「替曹操翻案」を発表したことにより当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論の契機となった。
その際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。
趙之謙(ちょうしけん)
1829年~1884年 浙江省紹興出身 中国清末の画家・書家・篆刻家
幼少期 代々富商であった為、蔵書がたくさんあり勉学をすることが出来た。また15歳頃より金石学を好んで学んだ。
1849年 20歳に秀才になるが翌年、太平天国の乱に巻き込まれ、科挙の受験は中断された。
1859年に挙人となり、何度か科挙を受験し落第、科挙による出世を諦めるが、北京で潘祖蔭と知遇を得て43歳の時、江西省の知県候補となる。劉坤一の委嘱を受けて『江西省史』の総編集に従事。
1884年 55歳で死去。
字は益甫または撝叔、号は冷君、悲盦、梅庵、无悶、憨寮など。
文人画は10代で学び始め、徐渭や陳淳、石濤、李鱓らに師事して独自の画風を確立した。
書は金石学から書の古法を学び篆書・隷書に優れそこに草書法を加えて斬新な書を作り上げ、さらに深く研究することで、秦・漢の篆書以外にも範囲を広げ魏晋南北朝の時代までも取り入れ、硬直化した篆刻芸術に新様式を樹立した。
また水墨画の伝統を踏まえ画と書を一体と見做した。篆刻は、浙派の丁敬・黄易・蒋仁・陳鴻寿、徽派の鄧石如・巴慰祖・胡唐と両派の区別なく優れたところを学んだ。
彼の一派は新浙派(趙派)と呼ばれ、誰にでも印を売ることをしなかったので作品数は少ない。
孫文(そんぶん)
1866年~1995年 中国出身 中国の政治家・革命家
譜名は徳明、字は載之、号は日新、逸仙または中山。初代中華民国臨時大総統。
中華民国の国父と讃えられる、近代中国の民主革命家である。
三民主義を唱え、辛亥革命を導いて清朝を倒し、中華民国を建国した。
孫文の書は、思想による博愛、天下為公などを書し、日本でも革命活動していた時に、政治家や縁の人達に送られている。
肖像画は中国、台湾で紙幣や貨幣、切手になっている。
国民党では現在も、孫文は党総理であると党則第15章で定めている。
59歳で死去。
傅抱石(ふほうせき)
1904年~1965年 江西省出身 中国の画家・篆刻家
名は長生・瑞麟。号には抱石斎主人。
手工業者の子として生まれ、江西省立第一師範学校卒業後、小中学校で工芸・美術・音楽の教師として務めたのち、徐悲鴻のすすめで日本の帝国美術学校に留学し、横山大観や竹内栖鳳の画を研究してその技法習得に努めた。
帰国後は徐悲鴻の推薦で中央大学美術史教育学科教授に就任。
1947年には上海で個展を開き、北京の斎白石と共に「北石南石」の称を得た。
中華人民共和国建国後、南京師範学院美術家の教授に就任し、のちに江蘇省中国画院院長の任命を受け、関山月と共に人民大会堂にて巨幅山水画の「江水如此多嬌」を製作した。
画は山水を得意としたが、陳洪綬を学んで人物画にも優れ、その画風は宋元を学んだ入念な筆法のものから、海上派らしい荒い筆致のものまで多様である。
また絵画史の研究者としても優れ、数多くの著作をのこした。
61歳で死去。