画家一覧

画家一覧

林風眠(りんふうみん)

1900年~1991年 広東省出身 中国の画家

祖父は石工、父は画家の家に生まれ、19歳にはフランスへ留学してパリ国立高等美術学校で油画を学ぶ。
1925年に帰国後、国立北京芸術専門学校校長兼教授に就任し、真芸術運動を提唱した。
その後、国民政府の大学院芸術教育委員会の主任に就任。
1928年には杭州国立芸術院を創立して、校長兼教授を務め、中国美術家協会の上海分会の副主席も歴任した後、主席へ就任した。
上海中国宮廷に絵画を納め、今後の芸術界に大きく貢献した。
作風は西洋画が中心で特にマティス風の人物や裸女、静物を描いていたが、晩年は重厚な色調で花鳥や人物、風景を描いた。
91歳で死去。



酒井抱一(さかい ほういつ)

1761年~1829年 東京都 日本の画家・俳人

本名は忠因、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真、号はほかに屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居など。
俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)、狂歌名は、尻焼猿人。
「江戸琳派」の創始者で、俵屋宗達、尾形光琳に続く琳派の代表的な絵師として有名。
酒井家では文芸を愛する家風があり、兄・酒井忠以も多趣味な大名茶人で、抱一も若い頃から風雅文芸の道に親しみ生活をし、兄が没すると出家し、武家の身分から開放され文芸の道に専念、谷文晁ら文人とも広く交遊した。
絵ははじめ狩野派を学び、南蘋派、浮世絵、土佐派、円山派等さまざまな流派の画風と技法を習得、特に尾形光琳に私淑し、後年は「光琳百回忌」を営むほど強く傾倒、伝統的な大和絵をベースに雅で装飾性に富んだ琳派表現に、江戸文化らしい粋で瀟洒な美意識を融合させた独自の世界である「江戸琳派」を確立した。
代表的な作品としては『夏秋草図屏風』『十二ヶ月花鳥図』『月に秋草図屏風』『四季花鳥図屏風』等。
俳諧を好み、俳画も得意とした。
67歳で死去。



前田常作(まえだ じょうさく)

1926年~2007年 富山県出身 日本の画家

1949年 武蔵野美術学校西洋画科入学、4年後卒業。
1955年 東京のタケミヤ画廊にて初の個展を開催。
1957年 第1回アジア青年美術家展出品、大賞、パリ留学賞、国際美術家賞受賞、
奨学金を得てフランスに留学。
1961年 第6回日本国際美術展で東京国立近代美術館賞を受賞。
1979年 日本の全国各地で巡回個展を開催し、京都市立芸術大学教授に就任。第11回日本芸術大賞を受賞する。
1983年 武蔵野美術大学教授。
1989年 仏教伝道文化賞を受賞。
1992年 紫綬褒章を受章し、翌年安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。
2000年 勲三等瑞宝章受章、武蔵野美術大学の理事長に就任。
2007年 81歳で死去。

美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受け、本格的に画家を志して武蔵野美術学校入学した。
入学後、自由美術家協会展に出品し、第13回展で「水蓮」などが初入選。卒業後は滝口修造の推薦により初個展を開催した。
パリ留学中には、批評家ジャレンスキーに「マンダラ的」な作風であると指摘され、記号化した人体細胞のエネルギッシュな集積からなる『曼荼羅シリーズ』に着手する。
その後『人間風景』『秘儀の空間』シリーズへと展開した。



横尾忠則(よこお ただのり)

1936年~ 兵庫県西脇市 日本の美術家・グラフィックデザイナー

1943年 西脇市立西脇小学校に入学し、漫画を描くようになり「漫画少年」誌に投稿を始める。
1954年 武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展等に相次ぎ入賞。
1956年 神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社する。
1962年 大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。
1981年 渋谷西武で大規模な個展。
2001年 紫綬褒章受章。
2004年 故郷のそばを走るJR加古川線電化開業にあわせ、ラッピング電車のデザインをする。
2011年 旭日小綬章受章。
2015年 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。
2016年 『言葉を離れる』で第32回講談社エッセイ賞受賞。

幼少期より絵本の模写をしており、5歳で講談社の絵本、石井滴水の「宮本武蔵」の巌流島の決闘を模写し画才を現した。
1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたピカソ展にて衝撃を受け、その後、画家宣言、以来、美術家としてさまざまな作品制作に携わり、国際的に評価されるようになる。
著作も多く、またメディアへの露出も積極的、自身のブログやツイッターなどのSNSで現在も頻繁に発信している。
代表的な作品は、『腰巻お仙』『万博太陽』『葬列 II』『眼のある電車』等



三木富雄(みき とみお)

1938~1978年 東京都出身 日本の彫刻家

1954年 窪田理容美容専門学校卒業後、中央美術学園通信教育部入学、後に中退。
1958年 第10回読売アンデパンダン展に出品、以降第12回から15回まで出品。
1959年 初個展、以降1960、1963、1965年と個展開催。
1967年 第5回パリ青年ビエンナーレ展に出品、アンドレ・シュス賞受賞。
1978年 40歳で死去。

中央美術学園通信教育部に入学するが、基礎的な学習はされず、作品制作はほぼ独学によるもので、「耳が私を選んだ」と述べ、人間の耳をモチーフにした彫刻を多く制作したことで知られている。
粘土や新聞紙で成形したうえに石膏を塗布した最初の耳の作品『バラの耳』に次いで、1963年の最後の読売アンデパンダン展においてアルミニウムの合金で鋳造された耳の作品を発表した。
以後、素材はアルミニウム合金を中心に、複数の耳が規則的に配列されたレリーフ状の作品、拡大された巨大な耳、直線的に切断し分割された耳、シルクスクリーンで刷った耳、強化プラスチック製で素材の違う耳、蛍光色を塗布された色彩のある耳、と様々で、そのほとんどが左耳の作品であった。



清宮質文(せいみや なおぶみ)

1917~1991年 東京都出身 日本の版画家

1937年 東京藝術大学美術学部油画科に入学。
1953年 本格的に創作活動に専念し、木版画を中心に水彩画・ガラス絵を制作する。
1954年 年春陽会に初出品し、初入選。以後1974年まで出品。
1960年~ 個展を中心に新作を発表。
1991年 73歳で死亡。

版画としては多い8~10刷を重ね、色合いに深みを出し、さらに透明感の高い水彩絵具を使うことで儚い印象を与えている。
杉並区高井戸に今も残る清宮のアトリエは、生前のままの状態で残されている。
机の上には、版画の道具や水彩画の画材の他に、小さなラジカセや鉄アレイなどもあり、アトリエから一歩も出ずに構想から鍛錬、制作まですべてを行っていたことを窺わせる。



菊畑茂久馬(きくはた もくま)

1935年~ 長崎県出身 日本の美術家

1953年 第24回独立展に立体派的な油彩画『二人』を出品し入選。
1957年 個展(岩田屋百貨店、福岡)を開催。
1961年 初期の代表作『奴隷系図』シリーズを開始。
1964年 『ルーレット』シリーズ、続いて『植物図鑑』シリーズを開始。
1974年 1960年代後半より大小のオブジェ制作に集中し、それを写真に撮りシルクスクリーンで版画化した作品集『天動説』を出版。
1983年以降 油彩を中心とした大画面の連作絵画『天動説』や『月光』『海道』等のシリーズを制作。
1996年 『天河(てんかわ)』を発表。
2015年 『春の唄』を発表。

1957年頃、地域の生活や文化に密着した美術表現活動を目指す前衛美術家集団「九州派」に参加し、読売アンデパンダン展等に出品を続け次第に頭角を顕した。
1990年代頃の作品等の大作連作は、事物性とイリュージョン、また平面性とイリュージョンとの関係を絵画の画面で総合させたものであった。
オブジェを平面に飲み込み、絵肌に吸収させるというオリジナルな手法で高い評価を得ている。



坂本繁二郎(さかもと はんじろう)

1882年~1969年 福岡県久留米市出身 日本の洋画家

1892年 地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学ぶ。
1907年 第1回文展にて『北茂安村』が入選。
1912年 第6回文展に出品した『うすれ日』が夏目漱石に高く評価された。
1914年 二科会創立に参加。
1921年 フランスに渡り、シャルル・ゲランに師事する。
1931年 友人の梅野満雄の援助で、福岡県八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
1954年 毎日美術賞受賞。
1956年 文化勲章を受章。
1969年 87歳で死去。

同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁とは親友でありライバルであった。
坂本が上京を決意したのは1902年のことで、帰省中の青木から作品を見せられた時であり、幼い時から神童と持てはやされていた為、青木の画技の上達ぶりに驚嘆し、絵の面で青木に追い抜かれてなるものかというライバル意識から上京を決意したという。
そして、第二次大戦後には梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようにまでなった。
『放水路の雲』という作品は、フランスで学び、身につけた手法で地元の風景を描いたものであり、また、馬の絵を描くことが多く『水より上がる馬』は坂本繁二郎の代表作である。



山本鼎(やまもと かなえ)

1882年~1946年 愛知県岡崎市出身 日本の版画家・洋画家・教育者

1901年 木版工房で9年間の年季奉公を終えたが、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、翌年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学。
1907年 創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として、石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。
1911年 東京版画倶楽部を開設し、坂本繁二郎との共作の「草画舞台姿」シリーズを開始。
1912年 石井光子との縁談を周囲から反対されたフランスへ渡る。
1919年 農民美術練習所を開講。
1946年 65歳で死去。

東京美術学校西洋画科選科予科在学中の1904年、与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」に刀画『漁夫』を発表した。
海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さがあり、新進気鋭の版画家として注目され、絵師・彫師・摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。
フランスへ渡った時から借金に苦しんでいたが、帰国後は農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかったという。
代表作としては、『漁夫』『デッキの一隅』『野鶏(ヤーチー)』『ブルトンヌ』等がある。



木田金次郎(きだ きんじろう)

1893年~1962年 北海道出身 日本の画家

1910年 学校を中退し札幌市郊外で絵を描き続ける日々を送る。
1945年 後志美術協会や全道美術協会の創立に参加するが、出品はしなかった。
1953年 札幌市にて初個展を開催。
1954年 洞爺丸台風による岩内大火により作品の大多数が焼失する。
1957年 北海道新聞文化賞。
1962年 69歳で死去。

岩内尋常高等小学校高等科卒業後、上京し開成中学、京北中学に通い、京北中学時代から絵を描き始め、また上野の展覧会に通うようになる。
札幌で開催されていた展覧会では有島武郎の絵と出会い感銘を受け、スケッチを携えて訪問し交友するが、その後、岩内に帰郷し漁業に従事する。
しかし、1923年に有島武郎が死去して以降、漁業を離れ画業に専念する決意を固め、個展を開く。
翌年には、岩内大火で約1500点の作品を焼失してしまうが、その後も精力的に制作を続け、各地を巡回する展覧会を開催した。
故郷の自然を描き続けた作家である。



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