画家一覧
川﨑小虎(かわさき しょうこ)
1886年~1977年 岐阜県出身 日本画家
1910年 東京美術学校日本画科卒業。
1914年 第8回文展『つき草』初入選。
1916年 第10回文展『花合せ』特選。
1920年 第2回帝展『萌え出づる春』を出品。
1943年 東京美術大学教授。
1961年 日本芸術院恩賜賞。
1967年 武蔵野美術大学名誉教授。
1977年 91歳で死去。
祖父の川﨑千虎に大和絵を学び、祖父没後には千虎門下の小堀鞆音に師事した。
初期には大和絵を基調とした叙情的な作品を描いていたが、だんだんと人間的な色合いの濃い作風へと変わっていき、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描いた。
1944年から山梨県南アルプス市に疎開していた。
戦前・戦後を通じ文展・帝展・日展で活躍した。
川端康成(かわばた やすなり)
1899年~1972年 大阪府出身 日本の小説家・文芸評論家
1913年 小説家を志望し文芸雑誌を読みあさり、新体詩・短歌・俳句・作文などを試みる。
1920年 東京帝国大学文学部英文科入学。
1924年 横光利一、片岡鉄兵らと『文芸時代』創刊、新感覚派と称せられる。
1926年 『伊豆の踊子』発表。最初の短編集『感情装飾』刊行。
1931年 『水晶幻想』発表。
1933年 『禽獣』発表。また、武田麟太郎・小林秀雄らと『文学界』創刊。
1935年 『夕景色の鏡』を皮切りに『雪国』の断続発表始まる。
1945年 久米正雄、中山義秀、高見順らと出版社鎌倉文庫を創設。
1949年 『千羽鶴』『山の音』の発表。
1953年 芸術院会員となる。
1954年 『みづうみ』発表。
1960年 『眠れる美女』発表。
1961年 『古都』発表。また、文化勲章を受章。
1963年 『片腕』発表。
1968年 ノーベル文学賞を受賞。
1972年 72歳で死去。
昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。
代表作は『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『抒情歌』『禽獣』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』等。
初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事柄等について、多少の脚色はあるものの純然たる創作物というより実体験を元にした作品だと随想で記述している。
門下の三島由紀夫の割腹自殺等による強度の精神的動揺から、逗子マリーナの仕事場72歳でガス自殺をとげた。
川村曼舟(かわむら まんしゅう)
1880年~1942年 京都府京都市出身 日本画家
1898年 山元春挙に師事し学ぶ。
1900年 新古美術品展覧会『春風』2等褒状。
1907年 新古美術品展『寒天炎天』3等賞。
1909年 文展『山村暮靄』3等。
1916年 文展『竹生島』特選。
1927年 帝展『嶺雲揺曳』出品。
1932年 叙勲6等授瑞宝章。
1936年 京都市立絵画専門学校長兼美術工芸学校長に就任。
1942年 63歳で死去。
本名は万蔵。
文展の第2回展に『黄昏』を出品して3等に推されてから連年秀作を発表した。
特に温雅な風景画を得意とし、代表作には『比叡三題』『連峯映雪』『竹生島』『古都の春』『晃雲暁靄』『驟雨過』『伊都岐島』等がある。
春挙没後の早苗会の指導者、また、京都市立絵画専門学校長として美術界の教育指導に尽力した。
吉川霊華(きっかわ れいか)
1875年~1929年 東京都出身 日本画家
1892年 15歳のころ狩野良信について狩野派を学び、土佐派の山名貫義に師事した。
1901年 『笠置潜幸』が日本美術協会展に入選し、その後烏合会、金鈴社の運動に加わる。
1926年 第7回帝展に『離騒』を出品。
1929年 55歳で死去。
大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学んだことにより、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現を行った。
「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した人物。
木村武山(きむら ぶざん)
1876年~1942年 茨城県笠間市 日本画家
1890年 上京し開成中学に入学。川端玉章に師事する。
1891年 東京美術学校に入学。
1896年 卒業後は岡倉天心が率いる日本絵画協会に参加。
1907年 国画玉成会に評議員として参加。第1回文展で『阿房劫火』が3等賞受賞。
1914年 日本美術院再興に際し経営者同人として参加。
1934年 高野山の壁画完成。
1937年 脳溢血で倒れ、以後右手が不自由となり左手で制作する。
1942年 66歳で死去。
初期の頃の作品は歴史画が多く、25歳頃から主に花鳥画を描き、大正初期は琳派の手法を用いた壮麗な作風が特徴的。
1916年に笹川臨風と共に大和巡りをした際には観心寺の如意輪観音坐像に驚嘆したのをきっかけに後年は仏画を多く描いた。
優れた色彩感覚を持っており、日本美術院きってのカラリストと評された。
小坂芝田(こさか しでん)
1872年~1917年 長野県出身 日本画家
1888年 児玉果亭に入門し南画を学ぶ。
1912年 第6回文展で『秋爽』が2等賞。
1913年 第7回文展で『幽邃』が2等賞。
1917年 46歳で死去。
名は晴道、別号は寒松居・天恩居等。
1906年日本南宗画会の創立に参加する。
主に文展で活躍した。
小杉放庵(こすぎ ほうあん)
1881年~1964年 栃木県出身 日本の洋画家
1896年 五百城文哉の内弟子となるが、翌年、師に無断で絵画修行のため上京する。
1899年 文哉の許しを得て再上京し「不同舎」に入る。
1900年 漫画や挿絵、外国人に売る水彩画を描くようになる。
1904年 日露戦争の従軍記者として戦地の写生や記事をかく。
1911年 第5回文展に『水郷』『油彩』を出品し、2等賞1席を受賞。『水郷』は文部省買い上げ。
1912年 第6回文展において『豆の秋』で再び2等賞1席を受賞。
1914年 横山大観らとともに日本美術院を再興。(1920年に脱退)
1922年 春陽会の創立に参加。
1925年 東京大学安田講堂の壁画を描く。
1964年 82歳で死去。
本名は国太郎、別号に未醒、放菴。
国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっていた。
1905年から始まった日露戦争には、「近事画報」誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画やユーモラスな漫画的な絵などで雑誌の人気に大きく貢献した。
フランスに留学もするが、当地で池大雅の「十便図」を見たことをきっかけに日本画にも傾倒し、帰国後は墨絵も描いた。
小松均(こまつ ひとし)
1902年~1989年 山形県出身 日本画家
1920年 川端画学校に入る。
1923年 『嫁して行く村の乙女』を製作。また、中央美術展初入選。
1926年 『秋林』『夕月』を製作。国画創作協会展国画賞受賞。
1929年 第10回帝展にて『渓流』が初入賞。また、第11回帝展にて『櫟林』が特選。
1946年 『牡丹』が院展日本美術院賞受賞。
1965年 『吾が窓より(夏山)』が院展文部大臣賞受賞。
1975年 『最上川シリーズ』芸術選奨文部大臣賞受賞。
1979年 『雪の最上川』院展内閣総理大臣賞受賞。
1986年 文化功労者に選ばれる。
1989年 87歳で死去。
小学校卒業後に画家を志して上京し、川端画学校に学び、のちに京都に移り国画会の土田麦僊に師事した。
若い頃から水墨画に興味を持ち、線を強く彫り込むような独特な画法が特徴。
晩年は京都の大原に住み自給自足の生活に入ってからは世俗とは無縁の暮らしを貫いたが、雄大で力強い風景画と飄々とした生活、風貌から「大原の画仙人」と呼ばれた。
最上川を題材にした作品を多く描いた。
児玉果亭(こだま かてい)
1841年~1913年 長野県出身 文人画家
1847年 6歳で中村塾に通い手ほどきを受ける。
1856年 父を亡くすも母の命で飯山藩儒官の小野澤蕙齋に入門し経学を修め、さらに松代藩士佐久間雲窓に就いて画技を磨いた。
1859年 家に戻り隣村の興隆寺住職畔上楳仙から漢学・経学・禅を学び始める。
1876年 楳仙の勧めを受け京都に出て田能村直入に入門。また前田半田の指導を受ける。
1878年 明治天皇北陸巡幸のおり長野市展覧会場にて2作品が天覧される。
1882年 第1回内国絵画共進会に出品。褒状を得て全国的に高い評価を得る。
1886年 第1回東洋絵画共進会に出品し銀牌受賞。宮内省御用品となる。
1913年 74歳で死去。
幼少期から近隣より神童として知られ、算盤を得意とし絵や書を好んでいた。
佐久間象山に習字するところをみられ、将来有望になると賞められた。
内国絵画共進会・東洋絵画共進会等で受賞を重ね活躍し、その後、郷里で古画・山水画等を制作するかたわら、後進の指導にあたり小坂芝田・菊池契月・町田曲江等を輩出した。
児玉希望(こだま きぼう)
1898年~1971年 広島県出身 日本画家・日本芸術院会員
1918年 文展・日展に出品する。
1950年 日展運営会参事となる。
1953年 日本芸術院賞を受賞する。
1958年 日展評議員となる。
1959年 日本芸術院会員となる。
1961年 日展常務理事となる。
1970年 勲三等旭日中綬章を受章する。
1971年 73歳で死去。
本名は省三。
尾竹竹坡・川合玉堂に入門。
画塾の門下には佐藤太清、奥田元宋、船水徳雄らが在籍した。
代表的な作品としては『大楠公』『花下吟詠』『仏蘭西山水絵巻(山・海・河)』等がある。