画家一覧

画家一覧

ロッカクアヤコ


1982年〜 千葉県出身 日本の現代芸術家

2001年 独学の絵を描き始め、アーティストである村上隆が主催する「GEISAI」で注目を集める。
2006年 スイスでのアートバーゼル出展時に行ったライブペインティングで100枚以上を描き完売。現在では人気・評価ともに日本よりもヨーロッパで高く、海外での活動が中心。
2007年 国内初となる大規模な個展を開催

筆など一般的な道具を一切使わず、アクリル絵の具を使い、手で直接キャンパスや段ボールに描く独特のスタイルで行われるライブペインティングや色彩豊かな作品が特徴。
女の子をモチーフにカラフルでポップな作品が多い。



児玉幸雄(こだま ゆきお)

1916年~1992年 大阪府大阪市出身 洋画家

1936年 中学1年の時から絵を描いていたが、関西学院大学経済学部に進学。在学中に関西美術展に入選し、この頃より田村孝之介に師事。
1937年 二科展に『赤い背景の人形』が初入選。
1938年 全関西美術展にて全関賞受賞。
1947年 二紀会に参加し二紀会委員となる。
1950年 第4回ニ紀展同人賞受賞。
1952年 第6回ニ紀展同人優賞受賞。ニ紀会委員に就任。
1957年 渡欧。パリの下町に1年間滞在。最初の渡欧以来ほとんど毎年訪欧し、ヨーロッパ庶民の生の姿を主題に描き続ける。
1959年 日本橋三越、梅田阪急で滞欧作品展開催。
1981年 石版画集『フランスの四季』『パリ――12ヶ月』を出版。
1986年 師匠であった田村孝之介の死去に伴いニ紀会退会。
1992年 75歳で死去。

40年代以降たびたび渡欧し、広場や市場に集う市井の人々を描いた。



後藤純男(ごとう すみお)

1930年~2016年 千葉県野田市出身 日本画の画家

1946年 山本丘人に師事。
1947年 この年より5年間、埼玉県内の小・中学校で教職に就きながら創作を続ける。
1949年 山本丘人の紹介で田中青坪に師事、日本画を修業。
1952年 再興第37回院展で『風景』が初入選。 この年に5年間の教員生活を終える。
1954年 日本美術院院友に推挙される。
1955年 この頃から1963年頃まで関西、四国の真言宗の寺を巡り、スケッチ旅行をする。
1960年 この頃から1969年頃まで、北海道各地を取材。
1965年 再興第50回日本美術院展覧会で日本美術院賞と大観賞を受賞。日本美術院特待にも推挙される。
1969年 再興第54回日本美術院展覧会で日本美術院賞を受賞。
1974年 日本美術院の経営責任者の地位である同人に推挙される。
1976年 再興第61回日本美術院展覧会で『仲秋』が文部大臣賞を受賞。
1986年 再興第71回院展で『江南水路の朝』が内閣総理大臣賞受賞。
1997年 北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
2006年 旭日小綬章を受章。
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞
2016年 86歳で死去

日本美術院の中心的な画家として活躍。1988年(昭和63)から1997年(平成9)まで東京芸術大学の教授として後進の指導を行った。
四季折々の情趣の中に、奈良・京都など日本の都の風物を情感と宗教的な荘厳さで描き、さらに、雄大な中国の自然やそこに生きる人々を優しく、厳しい眼差しのもとに描いた。



澁澤卿(しぶさわ けい)

1949年~2012年 群馬県伊勢崎市 日蓮宗僧侶・日本画家

1967年 大伯父にあたる和田三造の進めにより東京藝術大学工芸科デザイン専攻を受験、洋画家の大藪雅孝に師事し有元利夫らと共にデッサン等基礎を学ぶ。
1974年 東京芸術大学美術学部工芸科デザイン専攻を卒業し日本橋高島屋宣伝部にデザイナーとして勤務する。
1977年 出家得度して日蓮宗僧侶となる。
1982年 東京芸術大学非常勤講師に就任。
1989年 バーゼル・アートフェア(スイス)に出品 、1990年には現代日本の屏風絵展(ドイツ・アイルランド・日本)に出品、1991-2000年は現代作家美術展(東京・京都・富山・金沢・名古屋美術倶楽部)に出品、現代日本絵画展(北京故宮博物院)に出品。
2001年 身延山大学客員教授に就任。
2012年 63歳で死去

繊細なタッチで日本の四季を描き、やさしい画風で多くの絵画ファンに愛されている。
僧侶としての独自の世界観を絵画に表現し、「描く坊主」としても有名。



加山又造(かやま またぞう)

1927~2004年 京都府京都市出身 日本画家・版画家

1927年 父が西陣織の衣装図案師、祖父は京都四條派・円山派に学んだ絵師と芸術家系に生まれる。
1949年 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画家を卒業し、山本丘人に師事。
1950年 第2回創造美術春季展『動物園』『自画像』で研究会賞受賞。
1961年 ニューヨークのジャネット・ネスラー画廊で個展。
1973年 第5回日本芸術大賞受賞。
1978年 東京国立近代美術館から依頼された紙本壁画『「雪」「月」「花」』を作成。
1980年 『月光波濤』で第30回芸術選奨文部大臣賞受賞。
1982年 第1回美術文化振興協会賞受賞。
1988年 東京芸術大学教授に就任。
1997年 京都の天竜寺法堂の『雲龍図』が完成し、文化功労者として顕彰。
2003年 文化勲章を受章。
2004年 76歳で死去。

日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した。
身延山久遠寺本堂や天龍寺法堂には巨大な天井画を残し、BMWの車体全体を日本の伝統技能で施したり、日航ボーイングLR機の機内壁面画を描いたりと日本画の革新を目指して意欲的な活動を展開した。
1997年に文化功労者に選ばれ、2003年に文化勲章を受章。



速水御舟(はやみ ぎょしゅう)

1894年~1935年 東京都台東区 日本画家

1908年 4歳の時に自宅近くの松本楓湖の安雅堂画塾に入門。
1910年 巽画会展にて作品『小春』が初入選。
1911年 巽画会展にて作品『室寿の讌』が一等褒状を受賞。また、今村紫紅を知り紅児会に入会。
1914年 東京目黒に移住し、日本美術院院友となり、紫紅を中心に青樹、富取風堂らと共に赤曜会を結成する。
1917年 再び京都に移り、第4回院展に『洛外六題』を出品、横山大観・下村観山らの激賞を受け、最年少で日本美術院の同人に推挙される。
1925年 『炎舞』(重要文化財)を完成させる。
1929年 第16回院展に『名樹散椿』(重要文化財)を出品。
1935年 40歳で死去。

従来の日本画にはなかったリアルさや細密描写を徹底して描き、やがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。
長くはない生涯に多くの名作を残し『名樹散椿』は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。



村上華岳(むらかみ かがく)

1888年~1939年 大阪府北区 大正~昭和期の日本画家

1903年 1907年まで京都市立美術工芸学校で芸術を学ぶ。1909年からは上級学校である京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。
1911年 1908年から文展に出品を始め、第2回文展で『驢馬に夏草』が初入選、京都市立絵画専門学校の卒業制作『早春』(のち『二月の頃』と改題)が第5回文展で褒状を受ける。
1916年 華岳にとって初の仏画である『阿弥陀之図』が第10回文展特選に選ばれる。
1918年 京都市立絵画専門学校の同窓であった華岳、土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花の若手日本画家5人で国画創作協会を設立。文展の審査のあり方に疑問を抱き、西洋美術と東洋美術の融合による新たな絵画の創造を目指した。
1920年 第三回国展に『裸婦図』を出品する。
1928年 国画創作協会が解散する。その会員を中心として新樹社が設立され、村上華岳は麦僊、竹喬らと共に賛助員となるが、画壇から離れる。
1939年 51歳で死去。

山水と仏画を主題とした作品を多く描き、宗教的な観点や東洋・西洋の様式を独自に解釈し様々な作品を残した。
昭和期に入ってからの作品は体が弱っていた為もあり小品が多く、色彩もモノクロームに近いものが多かった。



安田靫彦(やすだ ゆきひこ)

1884年~1978年 東京都出身 大正~昭和期の日本画家・能書家

1897年 帝室博物館で法隆寺金堂壁画等の模写を見、絵画共進会にて横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し画業を決意。
1898年 小堀鞆音に師事。磯田長秋、前田青邨らと紫紅会を結成。第5回絵画共進会に『家貞』を出品し初入選。
1899年 第7回絵画共進会において『粟津のわかれ』で二等褒状。
1900年 第8回絵画共進会において『遣唐使』で褒状二等状。今村紫紅を知り、意気投合して紫紅会に迎え、会名を紅兒会と改める。
1907年 岡倉天心らの国画玉成会創立に参加。第1回文展で『豊公』が三等賞受賞。
1912年 第6回文展で『夢殿』が二等賞受賞。
1914年 日本美術院再興に同人として参加、院展の中心として活躍。第1回展に『御産の祷』を出品し、初入選以来院展に出品をつづける。肺病を患いながらも晩年まで制作を続け、1974年の『鞍馬寺参籠の牛若』が院展出品の最後となる。
1934年 帝室技芸員となり帝室からの栄誉を称えられる。
1944年 東京美術学校の教授に就任。
1948年 文化勲章を受章。
1951年 文化功労者に選ばれる。
1958年 財団法人となった日本美術院の初代理事長に就任。
1978年 94歳で死去。

博物館や、共進会ですぐれた美術品に接する機会も多く、その感動が画家への志を決心させることになった。
作品は一貫として日本や中国の歴史や古典に題材を得て着想した歴史画が多い。
芸術の関係者に選任されることも多く東京国立博物館評議員会評議員、文化財審議会専門委員、国立近代美術館設立準備員も歴任した。



上村松篁(うえむら しょうこう)

1902年~2001年 京都府京都市出身 日本画家

1902年 京都府に生まれ、母は閨秀画家上村松園、息子も同じく日本画家の上村淳之。
1920年 京都市立美術工芸学校絵画科卒業後、京都市立絵画専門学校に入学、同時に西山翠嶂に師事し画塾青甲社に入塾。
1921年 第3回帝展に『閑庭迎秋』を初出品し初入選。
1928年 第9回帝展に『蓮池群鴦図』し特選となる。
1948年 奥村厚一、秋野不矩、山本丘人らと日本画の団体『創造美術』を結成。
1959年 芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1967年 日本芸術院賞を受賞。
1968年 京都市立芸術大学名誉教授。
1973年 勲三等瑞宝章を受章。
1981年 日本芸術院会員となる。
1983年 文化功労者に選ばれる。
1984年 文化勲章を受章。
2001年 98歳で死去。

伝統的な円山四条派の写生を活かしながら、近代的な構成を持つ新しい花鳥画を描いた。
鳥の写生には強いこだわりを持ち、鳥小屋を設けるなどして1,000羽を超える鳥を飼い生涯観察を続けていた。
母校の京都市立絵画専門学校で後進の指導にあたっていた。
近現代の京都画壇において格調高い花鳥画を描き続け、母子二代で文化勲章を受章した。



小野竹喬(おの ちっきょう)

1889年~1979年 岡山県笠岡市出身 大正・昭和期の日本画家

1903年 京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。
1916年 第10回文展に『島二作』特選に選ばれる。
1918年 土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花らと共に国画創作協会を結成。第1回展に代表作の『波切村』出品。
1921年 翌年まで土田麦僊らとともに渡欧。
1928年 第7回国展に『冬日帖』を出品。この年、国画創作協会解散になる。
1947年 京都市美術専門学校教授に就任。
1976年 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、文化勲章を受章。
1979年 89歳で死去。

京都で発足した国画創作協会の設立メンバーの一人として、日本画の新しい表現を模索していた。
そして、国画創作協会が解散してからは帝展に復帰し、南画や大和絵を新たに独自の解釈をし、穏やかで詩情豊かな風景画の世界を確立しました。



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