画家一覧

画家一覧

何紹基(かしょうき)

1799年~1873年 中国湖南省道州 中国の書道家

1836年 進士となる。
1852年 四川学政となったが誹謗を受けて解任された。
1873年 75歳で死去。

書を最も得意とし清代を代表する書道家として内外の評価は高く、他にも顔真卿を研究し、蘭・竹・石等の画にも巧みであった。



陸厳少(りくげんしょう)

1909年~1993年 中国上海市出身 中国の画家

・無錫美術専門学校にて、王同愈から詩文を学び、馮超然から絵を学ぶ。
・呉湖帆と知り合い、南北の景勝地に遍歴する。
・上海中国画院画師、浙江美術学院教授、中国美術家協会理事など歴任。

山水画を得意とし、柔と剛を巧みに操り、雲や水の動きは変化が尽きることがなく、余白や墨の塊を使い方の表現は非常に優れている。
また、人物・花鳥・書も書き、画業以外にも中国美術家協会理事など歴任した。



蒲作英(ほさくえい)

1832年~1911年 中国浙江省嘉興出身 中国の画家


1911年 79歳で死去。

清代末期頃の海上画派の画家で、書も良く書いた。
作風は洗練された筆墨と天然情緒に富んでおり、山水・草書・花卉を得意とした。



黄永玉(こうえいぎょく)

1924年~ 中国湖南省出身 

1939年 独学で学び、木版画の制作を始め、小学校教員、文芸工作団員、新聞社編集員、映画製作などを歴任した。
1940年代と1950年代、1980年代に香港で個展を開催。
2008年 五輪芸術賞を受賞

豪放で独特の存在感を持っており、現代国画壇において特異な存在である。
また、現代詩文にも優れている。



羅振玉(らしんぎょく)

1866年~1940年 中国浙江省上虞出身 考古学者・教育者

1891年 劉鶚と知り合い、劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得る。羅振玉はそのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷墟書契考釈』を発表。
1896年 上海に東文学社を設立し、日本語を翻訳できる人材を育成、沈肱・樊少泉・王国維らを輩出した。
1911年 辛亥革命時には、日本に亡命し京都で内藤湖南、狩野直喜らと交流。
1930年代 満州国の成立とともに溥儀に仕え、晩年は満州国で参議府参議、日満文化協会会長などを歴任した。
1940年 74歳で死去。

劉鶚の持つ亀甲獣骨文字の拓本を目にする機会を得えることにより、そのあとを継いで甲骨文字の研究に打ち込み、『殷墟書契考釈』を発表した。そのため王国維・董作賓・郭沫若とともに「甲骨四堂」と称されている。
甲骨文字研究以外では敦煌学の分野にも大きな役割を果たしている。1900年代、敦煌文献を獲得したポール・ペリオと会い、まだ残されているものがあると知ると、敦煌から残りのものを北京に運ばせて、京師図書館に収蔵させた。
紫禁城に保存されていた明清時代の档案(行政文書)が古紙として処分されそうになっているのを知り、古紙業者から買い戻し、貴重な歴史資料が失われるのを防いだ。



銭松嵒(せんしょうがん)

1899年~1985年 中国の画家

幼少時 父親に古文・詩・書道・絵画を学ぶ。
1918年 江蘇第三師範に入学し胡汀鷺に学び、卒業後は蘇州で小中学校教員をし、1927年からは無錫美術専科学校教員をする。
1957年 国画制作に専念。
1985年 86歳で死去。

山水画の優れた伝統と現代山水画の新しい作風を融合させて、色彩豊富な独待の風格を持った新しい山水画を制作した。



顔輝(がんき)

生没年不詳 中国出身 中国(南宋末から元代)の画像

南宋末にすでに山水、人物、鬼神を描いていたことで広く知られていた。
また、肖像画や猿猴図の名手としても知られていたという。
道釈人物画をよくし「筆法奇絶」と評され、大徳年間 (1297~1307) 吉州の道観輔順宮の修復の際に壁画を描いたという記録もある。



張善孖(ちょうぜんし)

1882年~1940年 中国四川省出身 中国の動物画家

またの名を張沢。字は善孖、善子、善之、号は虎痴。
上海美術専科学校教授を歴任した。
山水・花鳥・魚・虫・走獣、中でも虎の画を得意とした。
抗日戦争後渡米、チャリティー画展を開いた。
59歳で死去。
長年虎を飼いながら観察や写生をして、独自の画風を完成させ、その虎画は切手にもなっている。



林良(りんりょう)

生没年不詳 中国広東南海出身 中国(明)中期の画家

成化年間(1450年~1487年)の宮廷画家で同郷の顔宗に山水画、何寅于に人物画を学ぶ。
北京にて天順中内廷供奉、工部営繕所丞に推薦され、後に仁智殿に入り錦衣衞鎮撫となった。
その作品は、前期の写実的な着色花鳥画、後期の草書のような筆使いと没骨の墨面を駆使した水墨写意花鳥画は高く評価された。
作詩もよくした。



徐渭(じょい)

1521年~1593年 

字は文長、号は天池、晩年は青藤老人と号した。
書・画・詩・詞・戯曲・散文など多才で、その画風で一派をなし、山水、人物、花虫、竹石全てよいが特に花卉画で知られ、牧谿など宋・元の花卉図を学び、後の八大山人、石濤、鄭板橋、李鱓、趙之謙、斉白石、呉昌碩、潘天寿などに強い影響を与えた。
書は蘇軾・米芾・黄庭堅に行書・草書を学んだ。
72歳で死去。



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