画家一覧

画家一覧

白髪 一雄(しらが かずお、1924年8月12日 - 2008年4月8日)

日本の抽象画家。

1924年 兵庫県に生まれる
1942年 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科入学(48年卒業)
1955年 具体美術協会会員となり、第1回具体美術展(小原会館、東京)出品
1958年 「The Gutai Group Exhibition」展
     (マーサ・ジャクソン画廊、ニューヨーク)出品
1959年 第11回プレミオ・リソーネ国際展出品、買上賞受賞
1962年 「SHIRAGA」展(スタドラー画廊、パリ)
     「白髪一雄個展」(グタイピナコテカ、大阪)
1963年 「現代絵画の動向―西洋と日本―」展(国立近代美術館京都分館)出品
1965年 ヌル国際展(ステデリック美術館、アムステルダム)出品
     「現代美術の動向―絵画と彫塑―」展(国立近代美術館京都分館)出品
1970年 「万国博美術展<現代の躍動の部>」(万国博美術館、大阪)出品
1971年 比叡山延暦寺で得度し、法名白髪素道と号す
1984年 「元永定正・白髪一雄展」(和歌山県立近代美術館)
1985年 「白髪一雄―抽象のダイナミズム―」(兵庫県立近代美術館)
1987年 兵庫県文化賞受賞
1989年 「肉体とマチエールの出会い 白髪一雄展」(尼崎市総合文化センター)
1997年 「白髪一雄展」(福岡市美術館)
2001年 「アクションペインター白髪一雄展」(兵庫県立近代美術館)
2008年 敗血症のため84歳で死去
2009年 「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」(尼崎市総合文化センターほか)

天井からぶら下がったロープにつかまり、足で絵を描く独特なスタイルが世界的に評価されている。
昭和四十年第八回日本国際美術展の出品作「丹赤」で優秀賞を受賞。
2013年6月にクリスティーズ・パリで行われた競売では、≪地劣星 活閃婆≫が166万5500ユーロ(約2億1650万円)という、この画家のものとしてはこれまでの最高値をつけた。
2014年6月3日からサザビーズパリで行われたイブニングセールでは、「激動する赤」(1969年、油彩、キャンバス、183×229cm)が530万米ドル(5億4,590万円)で落札され、オークション個人レコードを更新した。



嶋本 昭三(しまもと しょうぞう、1928年1月22日 - 2013年1月25日)

日本の芸術家、現代美術家。京都教育大学名誉教授、宝塚造形芸術大学教授、日本障害者芸術協会会長。現代を代表する前衛アーティスト。

1928 年  大阪に生まれる。
1947 年  関西学院大学(社会学部哲学科)入学。在学中に全関西美術展朝日賞受賞。
1950 年  関西学院大学文学部卒業。
    このころ新聞紙に複数の穴をあけた作品《穴》を発表する。
1954 年  「具体美術協会」の結成に参加、以後中心メンバーとして活躍。
1955 年  第 1 回具体美術展(小原会館・東京)で体感型作品《この上を歩いてください》を発表。
1956 年  第 2 回具体美術展で「投擲(とうてき)絵画」を発表。
1957 年  機関誌『具体』第 6 号に「絵筆処刑論」を寄稿。
1962 年  グタイピナコテカにおける会員の連続個展の第 1 弾として嶋本昭三展が開催。
1970 年  万国博覧会お祭り広場 1000 人花嫁のアートのプロデュース。関西女子学園(現・宝塚造形芸術大学)主催。
1972 年  具体美術協会解散。嶋本は解散前に退会。
     コズミック・アート、アラン・カプローと共同制作などを行う。
1975 年  アーティストユニオン(現・AU)に参加。翌年、全国合議体事務局長に就任する。
1976 年  メールアートを本格的に始め、年間 60 ヶ国のネットワーク交流を持つ。
1992 年  日本障害者芸術文化協会の会長を務め、海遊館(大阪)で日本初の障害者の大規模芸術展を企画。
1996 年  広島に投下した原爆製造の原子物理学者バーン・ポーターが来宅し、以後平和運動の推進者となる。
1997 年  アメリカ芸術大学の教科書『Art HISTORY』( ABRUM 社)に明治以降ただひとり日本人で名が掲載される。
1998 年  アメリカ MOCA「戦後の世界展」にポロック、ジョン・ケージ、フォンタナと共に世界4大アーティストの一人に選ばれる。
1999 年  紺綬褒章受章。デヴィット・ボウイ、オノ・ヨーコと共に再びヴェネツィア・ビエンナーレに招待出品。
2000 年  フランスの城でコラボレーションアート宣言(日本ユネスコ・フェリシモ美術館共催)世界の
     元旦の新聞をならべアートを発表。作品はパリ・ユネスコにて展覧会。
2005 年  世界最小の「ナノアート」を発表。ナノテクノロジーにより歯ブラシの先にアートを制作する。
2013 年  死去(享年 85 歳)。


瓶詰した絵具を画面上で炸裂させる大砲絵画パフォーマンスや、ヘリコプターよりペイントを落としての絵画制作パフォーマンスなどが有名。
主な受賞には、95年に井植記念館文化賞、99年に紫綬褒章、2000年に兵庫県文化賞(現代美術)などがある。



草間 彌生(くさま やよい、1929年(昭和4年)3月22日 - )

日本の芸術家。長野県松本市生まれ。

1957年 ニューヨークへ渡る。
1996年 国際美術評論家連盟から2年連続でベストギャラリー賞を受賞。
2000年 第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰。
2001年 朝日賞を受賞。
2002年 紺綬褒章を受賞。
2003年 リヨン・ビエンナーレに参加。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエ、長野県知事表彰を受ける。
2004年 大規模個展が日本を巡回。
2005年「草間彌生全版画集(1974年(昭和49年)~2004年(平成16年))」を阿部出版から刊行される。
2006年 旭日小綬章。ライフタイムアチーブメント賞。高松宮殿下記念世界文化賞。
2009年 10月、文化功労者に選出される。
2014年 安吾賞を受賞

少女時代より統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。
水玉をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング)。これは幼少期より彼女が経験してきた恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもあるとされる。
1957年渡米。前衛的なパフォーマンスや制作活動を展開。60年代には「前衛の女王」の異名もとった。
1968年、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞するなど小説家としての活動も行っている。
2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成開始。auのiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとのコラボレーションを発表するなど商業分野での活動も盛んに行なっている。



岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)

抽象美術、シュルレアリスム、原始美術絵画をはじめ、彫刻、陶芸、書道、写真など幅広く活動した日本の芸術家。

1911年 2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
1917年 東京・青山の青南小学校に入学
1918年 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
1929年 慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。その後、パリ大学ソルボンヌ校で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ。
1936年 油彩《傷ましき腕》(1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》とあり、パリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語タイトルが付されていたことが判明)を制作。アンドレ・ブルトンに絶賛される。1940年 パリ陥落の直前に帰国。
1942年 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
1945年 5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
1946年 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
1947年 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
1948年 花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成。
1949年 翌年の現代美術自選代表作十五人展ために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画《傷ましき腕》《露天》を再制作。
1950年 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
1951年 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
1952年 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表。
1954年 アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
1955年 ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
1956年 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に《日の壁》《月の壁》などの陶板レリーフを制作。
1964年 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
1965年 名古屋の久国寺に梵鐘《歓喜》制作。
1967年 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
1968年 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
1969年 1968年から制作が開始された《明日の神話》を完成。
1970年 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館《太陽の塔》完成。
1973年 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス。
1974年 NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。
1984年 フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
1985年 つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。
1988年 ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
1989年 フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
1992年 油彩《疾走する眼》制作。
1994年 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント《であい》制作。
1996年 1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。

フランスのソルボンヌ大学で「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、マルセル・モールのもとで絵とは関係のない哲学・社会学・精神病理学・民族学を学ぶ。
人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者には徹底的に反抗し、それが彼の作品へと注ぎ込まれた。
戦後に東京都世田谷区上野毛にアトリエを設け、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言。当時の日本美術界に挑戦状を叩きつける。
1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会で展示された「太陽の塔」はあまりにも有名。以降はテレビ番組にも多数出演し、「芸術は爆発だ」」「何だこれは」等の名言を残している。



奈良 美智(なら よしとも、1959年12月5日 - )

世界的に評価されているポップアート作家。にらみつけるような目の女の子をモチーフにしたドローイングやアクリル絵具による絵画で知られる。

1984年 初の個展 (名古屋市)
1984年 グループ展「奈良美智、三浦孝治二人展」 SPACE DENEGA 弘前市での初の展覧会
1999年1月13日 - 2月14日 個展「Walking alone」 ザ・ギンザアートスペース(現 資生堂ギャラリー。東京)
2000年3月18日 - 6月25日 個展「Walk On」 シカゴ現代美術館
2000年3月24日 - 5月20日 個展「Lullaby Supermarket」 サンタモニカ美術館

個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」(2001年8月-2002年9月)

個展「Nothing Ever Happens」(2003年9月-2005年5月) クリーブランド現代美術館、2003年9月12日 - 2004年1月4日
ペンシルベニア大学現代美術館、2004年1月24日 - 4月3日
サンノゼ美術館、2004年7月25日 - 10月31日
セントルイス現代美術館、2004年12月3日 - 2005年2月26日
ホノルル現代美術館、2005年3月25日 - 5月22日

2004年8月11日 - 10月11日 個展「From the Depth of My Drawer」 原美術館(以後、金津創作の森(福井県)、米子市美術館、吉井酒造煉瓦倉庫(下記)、ロダンギャラリー(ソウル)を巡回)
2005年4月16日 - 5月22日 個展「From the Depth of My Drawer」 吉井酒造煉瓦倉庫
2005年9月28日 - 12月18日 グループ展 奈良美智+graf「A to Z」 横浜トリエンナーレ
2005年10月8日 - 10月9日 グループ展 「とがびアートプロジェクト2005」長野県千曲市戸倉上山田中学校
2006年7月29日 - 10月22日 個展 奈良美智+graf「A to Z」 吉井酒造煉瓦倉庫
2006年9月30日 - 2007年3月21日 個展「Moonlight Serenade -月夜曲」 金沢21世紀美術館
2006年11月3日 - 2007年1月14日 グループ展「広島市現代美術館コレクションによる『この20年の、20のアート』」 札幌芸術の森美術館
2007年6月2日 - 2007年10月7日 個展 奈良美智「Yoshitomo Nara 奈良美智展」 ハーグ現代美術館
2007年9月21日 - 2008年1月6日 個展 奈良美智+graf「Torre de Malaga (Tower of Malaga)」 マラガ現代美術館
2008年6月12日 - 10月26日 個展  BALTIC現代美術センター イギリス
2012年7月14日 - 9月23日 横浜美術館 『[nara yoshitomo:a bit like you and me] 奈良美智:君や僕にちょっと似ている』
2014年10月3日 - 12月7日 「Greetings from a Place in My Heart」 Dairy Art Center ロンドン
2014年11月7日 - 11月9日 沢田マンションギャラリーroom38 『3日間の奈良美智・ドローイングショウ』
2015年3月6日 - 7月26日 「Life is Only One / 無常人生」 Asia society Hong Kong 香港


にらみつけるような目の女の子をモチーフにしたドローイングやアクリル絵具による絵画で知られる。見た目の親しみやすさからイラスト的という批判も受けるが、自身のスタイルを変えることはない姿勢で、高い評価を受けている。
自身の作品の他には著名な音楽アーティストのCDジャケットのデザインを手掛けている。
2009年国内オークション会社高額落札TOP10に2点ランクイン。3位「ASH NIGHT」2000年制作(落札額5,700万円)、6位「Winter Long」1999年制作(落札額4,025万円)。

受賞
名古屋市芸術奨励賞(1995年)
ニューヨーク国際センター賞(2010)
芸術選奨文部科学大臣賞(2013)



千住 博(せんじゅ ひろし、1958年1月7日 - )

日本の画家。

1958年1月7日 東京都杉並区に生まれ。
1964年 慶應義塾幼稚舎(小学校)に入学。
1970年 慶應義塾普通部(中学)に入学。
1974年 慶應義塾高等学校(高校)に入学。
1978年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻に入学。
1982年 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業。
1984年 東京藝術大学大学大学院修士課程修了。修了制作藝大買上。
1987年 東京藝術大学大学院博士課程単位取得満期退学。修了制作東大買上。
1988年 ガレリアフォルニ(ボローニャ・イタリア)にて個展
1989年 オーストラリア・シドニーにあるマンリー市立美術館で個展。「ジ・エンド・オブ・ザ・ドリーム」を発表。
1990年 神奈川県立近代美術館で「収蔵作品による近代日本画の歩み展」に参加。
1993年 ニューヨークの美術誌「ギャラリーガイド」の表紙に選出される。ニューヨークのマックスウェルデビッドソンギャラリーで個展。「Flatwater」を発表。
1995年 創立100周年のヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門にて名誉賞を東洋人として初めて受賞。
1996年 彫刻の森美術館で個展。「千住博 Waterfalls & Glasses」展。
1997年より大徳寺聚光院の襖絵制作にとりかかる。
1998年広島市現代美術館収蔵「八月の空と雲」に対し紺綬褒章受章。
2000年 「ライフ」に対し河北倫明賞受賞。
2002年第13回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞受賞。
2003年 大徳寺聚光院別院襖絵完成。
2005年 第44回ミラノサローネ「レクサス・Lフィネス」にコラボレーションアーティストとして参加。アートディレクションと絵画を担当。福岡アジア美術館で個展「大徳寺聚光院別院襖絵七十七枚の全て」展を開催。
2006年 フィラデルフィア松風荘襖絵(ウォーターフォールシリーズ)完成。光州ビエンナーレ出品。ジャガー・ルクルト「レベルソ」誕生75年を記念した特別限定モデルの文字盤をデザイン。
2009年 ベネッセアートサイト直島・家プロジェクト参加。
2010年 APEC2010首脳会議の会場構成担当。2011年成都ビエンナーレ出品。
2011年までに東京国際空港(羽田)第1、第2、国際線ターミナルのアート・プロデュース/ディレクションを担当。アートディレクションを担当したJR九州博多駅が完成。「軽井沢千住博美術館」開館。
2013年 大徳寺聚光院京都本院の襖絵全てが完成。
2014年 オペラ『夕鶴』の舞台美術を担当。
2016年3月1日から大徳寺聚光院創建450年を記念して、奉納した襖絵を狩野永徳の国宝障壁画、重要文化財の茶室「閑隠席」とともに2017年3月26日まで特別公開。薬師寺東院堂にて予備校時代の師・武田成功のガラス作品と「水と光の幻想」展。平成28年度外務大臣表彰受賞。


日本画の存在やその技法を世界に広めるために、絵画制作にとどまらず、講演や著述など幅広い活動を行っている。
有名な作品のひとつに「ウォーターフォール」があり、1995年ヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞を受賞。大徳寺聚光院別院の襖絵も手がける他、舞台演出にも参加。
2015年末、高野山真言宗総本山金剛峯寺の主殿2部屋の襖絵の制作を手がけることが決定。
自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。

代表作
『フラットウォーター』
『ウォーターフォール』
『クリフ』



片岡 球子(かたおか たまこ、1905年(明治38年)1月5日 - 2008年(平成20年)1月16日)

日本画家。

1905年 1月5日、 北海道札幌市に生まれる
1922年 北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)師範科を卒業。画家になることを決意。女子美術専門学校(現・女子美術大学)日本画科高等科入学
1926年 女子美術専門学校卒業。神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭に就任
1930年 日本美術院再興第17回展入選(「枇杷」)。研究会員になる
1935年 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞受賞
1938年 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞受賞
1939年 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞受賞。
1942年 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞受賞
1946年 安田靫彦に入門。第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞受賞
1948年 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞受賞
1950年 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞受賞
1951年 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞受賞。
1955年 横浜市立大岡小学校を依願退職。女子美術大学日本画科専任講師に就任。横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居
1959年 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品。以後1969年(昭和44年)第24回展まで毎回出品
1960年 女子美術大学日本画家助教授
1961年 院展出品「渇仰」が1960年度文部省買い上げ優秀美術品に。
1962年 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品。初の渡欧。フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
1965年 女子美術大学日本画科教授に就任
1966年 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任。「面構」シリーズ制作開始。このころから「富士山」シリーズを製作開始
1970年 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)。神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居
1971年 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品。面構シリーズ初の浮世絵師作品
1973年 定年により愛知県立芸術大学客員教授
1975年 自伝「情(こころ)ありて」執筆 第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞受賞。院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品
1976年 秋の叙勲で勲三等瑞宝章受章
1978年 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」出品。国際交流基金買上げ。第27回神奈川文化賞受賞
1981年 日本美術院理事に就任。NHKテレビ番組「女性手帳(球子画ばなし)」出演、放映
1982年 日本芸術院会員に就任。
1983年 第38回春の院展に「ポーズ1」出品(初めての裸婦作品)
1986年 文化功労者に選ばれる
1989年 第42回中日文化賞受賞。文化勲章受章
1990年 藤沢市名誉市民に選ばれる
1993年 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成、一般公開
1996年 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈
1998年 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品
1999年 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画制作
2000年 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催
2008年 急性心不全のため103歳で死去。叙従三位


荒々しい力強い筆致で派手な色彩が特徴で、強烈な個性を放つ。両親に勘当されながらも画家を志し,横浜市の小学校教諭として勤めながら、絵の制作に励んだ。
1930年に『枇杷』で院展に初入選。 1946年に『夏』で日本美術院賞を受賞するなど、院展ではたびたび入賞するが,帝展では一度も入賞できず、「落選の神様」と呼ばれた。
その独特なタッチから、画家としての評価は決して高くなかったが、「美しく描くことが全てではない」と自分の信念に従った創作を続けた結果、「面構(つらがまえ)」・「富士山」シリーズで高い評価を得る。



福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん、1920年11月10日 - 2012年2月21日)

日本画家。息子の福王寺一彦も日本画家。

1920年 11月10日、米沢市生まれ。
1927年 6歳のときに左眼を失明する。
1929年 上村廣成に師事し日本画を学ぶ。
1936年 画家を志して上京。
1941年 召集され、中国に出征。
1946年 復員し、院展に出展。
1949年 作品「山村風景」が日本美術院展覧会に初入選。
1953年 東京都三鷹市に転居し本格的に絵画制作に取り組む。
1960年 作品「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞。
1977年 作品「ヒマラヤ連峰」で、第27回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1984年 作品「ヒマラヤの花」で日本芸術院賞を受賞。
1994年 日本芸術院会員。
1997年 勲三等瑞宝章受章。
1998年 文化功労者顕彰受賞。
2004年 文化勲章受章。
2004年 米沢市名誉市民顕彰受賞。
2005年 山形県名誉県民顕彰受賞。
2012年 2月21日、心不全のため死去。91歳没。叙従三位

院展の中心作家として活躍。風景を得意とし、重厚な中にも素朴な趣きのある作風で知られる。多くの美術評論家は男性的な画風と批評し、豪快一辺倒ではなく、対極にある優しさと繊細さがあり、対比する二面性がありつつ、東洋的な人間味や精神性が宿る作風が特徴。
近年はヒマラヤの壮大な自然を取材したヒマラヤシリーズで、大きな評価を得ている。主な作品に作品に「山腹の石仏」「ヒマラヤの花」などがある。



東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日 - 1999年(平成11年)5月6日)

日本の画家。昭和を代表とする日本画家の一人。

1908年 7月8日 船具商東山浩介・くにの次男として横浜に生まれる
1911年 3歳 一家で神戸に転居
1921年 13歳 兵庫県立神戸中学校(現・兵庫高等学校)に入学
1926年 18歳 東京美術学校日本画科に入学
1931年 23歳 東京美術学校日本画科を卒業。結城素明に師事 雅号を「魁夷」とする
1933年 25歳 東京美術学校研究科を修了 8月渡欧
1934年 26歳 第1回日独交換学生に選ばれ,ベルリン大学哲学科美術史部に入学
1947年 39歳 第3回日展出品作「残照」が特選となり,政府買上げとなる
1950年 42歳 第6回日展に「道」を出品 風景画家として不動の地位を確立
1956年 48歳 日展出品作品「光昏」が第12回芸術院賞を受賞,政府買上げとなる
1960年 52歳 東宮御所大広間の壁画「日月四季図」を完成
1965年 57歳 日本芸術院会員に任命される。日展理事に就任
1968年 60歳 皇居新宮殿大壁画「朝明けの潮」を完成
1969年 61歳 第10回毎日芸術大賞を受賞 文化勲章を受章し,文化功労者に選ばれる
1975年 67歳 奈良唐招提寺の壁画第1期として,「山雲」「濤声」を完成
1976年 68歳 ドイツ連邦共和国大統領から功労大十字勲章を贈られる
1980年 72歳 唐招提寺壁画第2期「黄山暁雲」「揚州薫風」「桂林月宵」を完成奉納
1984年 76歳 日展顧問に就任
1985年 77歳 西ドイツの学術・学芸の最高のプール・ル・メリット勲章受賞
1988年 80歳 居住地の千葉県市川市の名誉市民に選ばれる
1990年 82歳 長野県信濃美術館に東山魁夷館が開館
1995年 87歳 8月,長野県山口村(現・岐阜県中津川市)に「東山魁夷 心の旅路館」が開館 10月,山口村名誉村民に推挙
1999年 5月6日 逝去,享年90歳 従三位勲一等瑞宝章を贈られる

幼い頃から画家を志し、東京美術学校(東京芸術大学)に進学し、結城素明から日本画を学ぶ。
1945年に徴兵され、戦争で生死の境目を経験したことは、芸術観に大きな影響を与えた。戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。清澄で深い情感をたたえた風景画で知られ、平明ながら深い精神性をそなえた作風は、幅広い支持を集めた。東宮御所や皇居宮殿の障壁画から、川端康成や井上靖、三島由紀夫の挿絵を担当するなど、日本画家の中で揺るがない評価を得た。
主な作品に「道」「光昏」「桂林月夜」など。著作に「東山魁夷画文集」など。

受賞
日展特選 1947年 残照 
日本芸術院賞 1956年 光昏
毎日芸術賞大賞 1969年 朝明けの潮



横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日)

日本の美術家、日本画家。近代日本画壇の巨匠であり、「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立。

1868年:誕生(異説あり)。初名は、酒井秀麿。
1878年:一家で上京。
1881年:東京府中学(現在の都立日比谷高校)に入学。
1883年:絵画に興味をいだいた大観は、渡辺文三郎という画家に師事した。その後、狩野派の指導をえた。狩野芳崖にも影響される。当時の日本画家は貧乏であり副業を得て生活していたことから父は画家よりは、東大進学を切望。
1888年:東京美術学校を受験。
1889年:東京美術学校1期生として入学。
1893年:東京美術学校卒業。その後は、京都で修養。古画の模写の仕事に励む。
1895年:京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)教諭。
1896年:東京美術学校助教授に就任。
1897年:滝沢文子と結婚。
1899年:長女誕生。
1903年:妻・文子死亡。インドを訪問
1904年:天心の勧めでニューヨークへ
1905年:ロンドンへ。長女死亡のため帰国。
1906年:遠藤直子と再婚。天心が住んでいた茨城県の五浦へ転居。
1907年:父死亡。国が主催となって、官営の「文展」(文部省美術展覧会)が開催。
1910年:中国へ出発。ロバを買って帰る。第4回文展。審査員。作品「楚水の巻」。
1912年:第6回文展。
1913年:妻・直子死亡。第7回文展。最後の審査員。作品「松並木」。9月、天心逝去。門人代表の弔辞。
1928年:ベニート・ムッソリーニに「立葵」が献呈された。
1931年:6月30日:帝室技芸員
1938年:アドルフ・ヒトラーに献呈するため作品「旭日霊峰」を完成させる。
1958年:死去。


東京美術学校(現東京藝術大学)の第一期生。岡倉天心や橋本雅邦に学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。
美術院での活動の中、大観は西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表した。しかし、その先進的な画風は当時の画壇の守旧派から、「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」と猛烈な批判を浴びた。
保守的な意見が強い国内での活動に見切りをつけて海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。ヨーロッパでも次々と高い評価を得たことで、日本国内でもその画風が再び評価され始め、1913年(大正2年)には守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となり、,近代日本画の中心作家として活躍した。1937年(昭和12年)にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となった。
なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されている。
主な作品に『無我』『屈原』『 霊峰飛鶴(天長地久)』『蕭湘八景』など。

受賞
朝日文化賞 1934年
文化勲章 1937年
文化功労者 1951年
勲一等旭日大綬章 1958年



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